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真夏のテロリスト

作者: 夜辻 進慈

 目を開いた。それは、唐突に。何で目が覚めた、という訳でもない。目が覚めることに常に理由があるとは限らない。或いは、理由を全て理解できるとは限らない。それでも強いて理由付けをするならば、寝るのに飽きたからだ。昨晩は確か夜の九時頃には床に着いていただろう。今は早朝五時、八時間も眠っていた様だ。

 数ヶ月前の私からすれば考えられない様な生活だった。が、数ヶ月前に仕事を辞めた私には関係のないことだ。過去の自分など、現在の自分とは本質的に無関係なものだ。所詮、過去は過去。過ぎ去ったものを悔いても、恨んでも、縋っても意味などない。

 人間には連続的に、こんこんと溢れる水が如く流れてゆく“現在”しか無い。それ以前の記憶も、脳が見せる幻想に過ぎず、それ以降の予測も、脳が見せる理想に過ぎない。つまり、人間には“現在”以外に存在を証明できるものはない。同様に、人間は“現在”存在していると知覚している物事以外に存在を証明できるものは無い。

 と、私はそこで上体を起こす。脳内なら幾らでも長話できる……してしまう。これは小説家を志す者の(さが)か、それとも私に限ったことか。

 寝起きとは思えぬ程はっきりとした意識、思考。両手の指を組んで、上に伸びれば肩の骨がバキバキと音を鳴らす。もう、歳だな。ついこの前までは大学生、その次はエリートエンジニアだったはずが、どうしてこんなにも己が年寄りに見えてしまうのだろうか。伸びたまま息を吸い、肺を空気で満たす。そして、組んだ指を離しながら、一気に肺の中身を空っぽにする。自分の魂まで一緒に吐き出してしまった様な気分だった。

 今日も、絶望ばかりの一日が始まる。退屈と、焦燥とを併せ持つ、砂漠の様にざらざらとした世界。それが、現代社会というものだ……私にとっては、そうだった。

 薄い掛け布団を雑に払い除けて、敷布団の上に立ち上がる。さっきよりもずっと身体が重たく感じられた。窓に近づけば、遠くから(かす)かに、しかし元気な蝉の鳴き声が聞こえて来る。軽く息を吸えば、夏の香りがする。暑さを具現化した様な、重苦しい、じめじめとした空気の香りだ。朝方や夕方は特にこの匂いが酷くて困る。クーラーのないこの狭い和室の中は、風が無ければ人を簡単に殺せる全自動密室殺人装置だ。だから、贅沢を言っている暇はなく、窓は開け放っておく必要がある。風があれば、まだしもマシだ。

 半開きの窓を、重たく軋む窓を、全開にした。この窓を無理に力でこじ開けるだけでも疲れてしまうのは、この世界に生じるバグか何かか? 窓に背を向けて、部屋を見渡す。

 ……狭え、汚ねえ、ゴミ溜じゃねぇか。昔から母親に整理整頓を心掛けよと言われてきたが、面倒がってあまり掃除をしなかったことを、今になって恨む。だがそういう思考が、この世で最も無意味で無価値だ。

 六畳程度だったかな。キッチンはない、風呂もない、トイレは外で共同が二つ。八部屋で構成されるこのアパートでは割りに合わない量だ。部屋の隅にはゴミ袋。一つは開いたままで、昨日食ったコンビニ弁当の容器と割り箸が乱雑に放り込まれていた。それが異臭を放っている様だが、慣れた私にはよく分からない。夏の香りとやらの方が私にとっては不快な匂いに感ぜられた。

 兎も角、仕事をしなぇとな。私はちゃぶ台の上に置かれた家具、この部屋の中で最も似合わない家具、ノートパソコンを起動した。と、私は仕事をするふりをして、趣味を始めようとしている。私は今、某サイトの中で小説家を気取っている。昔から、小説家の真似事はしていたが、数ヶ月前にとうとう会社を辞めて、真似事を辞めて、気取ることを始めた。読者とか、生活とか、そんなことはどうでも良かった。兎に角私は、自分の夢であった小説家を気取ることに、価値を感じていた。

 なんて、建前だ。勉強が嫌いだ、仕事が嫌いだ、社会が嫌いだ。どうしてそんなにも、()のことを縛りつけたいんだ? 若い頃の私は、そんなことばかり考えていた。が、考えていただけだ。結局ある程度勉強はして、第二志望の私立の大学に入って、そのままエンジニアになった。だが、そんな飯事は、()には無価値だった、なんの生産性もなかった。

 そうして、会社を流行病の所為にして辞めて、今まで必死こいて集めてきた、生産性のない行為の副産物、金でパソコンの電源用の電気と、必要最低限の水と飯だけ買って、生活の真似事をしている。親には……伝えていない。伝えるより先に死ぬか、小説家として本を出版するかの二択だと考えていたからだ。が、それももう、やめた。一択だ。先に、死ぬんだ。

 小説を一つ、書いてわかったことがある。私に小説家など、無理だったのだ。才能なんて、無かったのだ。周囲の人間が私の小説家の真似事をお世辞にも評価してくれて、勘違いしていたのだ。が、彼らを恨むのはお門違いというものだ。そうだとしても、恨んでしまうのが私という、どうしようも無い人間のなり損ないなわけだが。

 今の私の中にあるのは、ただ一つ。死ぬよりも先に一つでも多くこのサイトの中に作品を残すことだ。死ぬのが怖くないわけがない、可能ならば、死にたくない。だが、それ以上に、私は冷静だった。私には、小説を書く資格などない。だから、その罰として、死を受け入れることとしたのだ。代わりに、最期まで小説の様なものを描かせてくれ、だなんて虫がいいだろうか。

 ノートパソコンが、ようやく起動した。ゴミみたいな環境の中に置いているせいか、高性能だったはずのこのパソコンも性能がどんどんと下がっていった。だが、このゴミ袋の中では一番優秀なゴミだ。一番劣等なゴミは、言うまでもなく、私だ。

 八桁のパスワードを打ち込んで、また暫く待つ。因みに、このパスワードは私にとって大切な日だ。私のくだらん趣味に興味があるなら試してみるといい。貪り食ったゲームや、動画や、或いは小説の情報が大量にあるはずだ。

 また暫くして、デスクトップが表示される。慣れた手つきでサイトを開き、また違うパスワードを入力する。今度は割とすぐに読み込んで、そのままサイト内の、自分のページが表示された。よくもまあ、こんなにも沢山のゴミを作り出せるものだ……生まれ変わったらゴミにでもなれそうだ。

 羅列するゴミの(もと)のうちの一つをクリックして、だらだらと文が続くページに入る。私の小説の特徴は、文が長いことだ。近代文豪を思わせる様なと評価されたことがあったが、残念なことに私には彼らの様な面白い文や惹きつけられる構成は無い。

 が、変えるつもりはなかった。私は、キーボードを叩き始める。タイピングの速度だけは、自信があった。無論、上には上がいたが。


 描き続けて数刻、ふと画面の隅に視線を寄せれば、時間が目に入った。もう昼前だ……そこで私はかつての同僚との約束を思い出す。そうだ、今日の昼、私達は中華街にでも行って飯を食おうと言っていたのだ。約束の時間までは十分に時間があることを確認して、しかし私はすぐに家を出た。朝起きてから、というよりも数週間着替えていない服のままだ。

 金は持っていない。小説の執筆以外に、金をかけるつもりは無かった。相手がどうしても飯が食いたいと言って取り付けた約束だ。私に飯が食わせたいならお前が払えと言ってある。あいつが金を出さなければ、何も食わなくても別にいい。二日に一度ある程度飯が食えれば、ずっと部屋の中にいる私には十分だ。

 街に出て、照りつける太陽に顔を顰める。そういえば、蝉の鳴き声が大きく、近くなっていた。煩い。これだから夏は嫌いなのだ。

 中華街に向かいながら、私は今日会う予定の同僚のことを思い浮かべる。ハシモト……だったかな。下の名前は覚えていない。会社を辞めて早々に、(ほとん)どの人間の名前は忘れた。彼も、例外ではなかった。

 例外に当たるのは、高嶺の花扱いをされていた……サツキ、だったかな。いや、ミツキだ。あとはトラブルメーカーのニシダ、直属上司のハタノ先輩くらいだ。社長の名前は、思い出せない。断片も、だ。

 それくらい、私にとって社会というものはどうでもいいものだったのだ。しかし、その一方でこうとも思う。社会には意味などない。だがしかし、社会に縛られなければ生きていけない。

 太古から人間は関係というものを持ち、やがて社会を作り、規則を作り、互いに互いを監視し縛り付ける社会の仕組みを確立した。その社会がもともと存在する時代に生まれれば、当然それに従う他に生きていく術はない。社会という仕組みから外れた人間には、生きていく資格はない。社会では、囚人にも飯が配給されるが、社会に囚われるのも、鉄の檻に囚われるのも拒む者には死が与えられる。

 さて、だらだら歩いているうちに、目的地に着いた。横浜開港記念会館。赤煉瓦造の、当時の景観をそのまま保ったまま、時を超えて横浜に現れた様な美しい建物だ。建築にはさして興味はないが、そんな私にでも、この建物が美しいものであることは理解できる。

 この街が好きだ。子供の頃から、この街に住むことが夢だった。ゲームクリエイターになって、横浜に住んで、海の見える部屋で、小説を執筆する。そんな、文字通りの理想を思い描いていた。結果は先ほど語った通りだ。現実は理想とは乖離し、空虚なものとなった。

 この街が好きだ。けれど、この街は私に絶望を与える。美しい街並みも、活気ある中華街も、全て私にとっては理想と現実のギャップを象徴する、社会からはみ出しているという絶望を象徴する、魔物だった。その魔物は、ゲームに出てくる邪悪なオーラをまとったものではなくて、暗闇の中で煌めく、まさしく美しきこの街の夜景の様なものだった。

 さて、ハシモトはまだ来ないのか? 時計を持っていない私には、ノートパソコンで確認して以来、時間を確認する方法がほぼない。記念会館の中に入れば時計があるのかもしれないが、面倒なのでやめておいた。適当に待って、来ない様ならもう帰って……それは本末転倒か。やはり中に入って時間を確認しようか。

「おい。」

 記念会館の方に足を進めようとしていた私を、低い男の声が呼び止めた。聞き覚えのある声だった。

「待たせて、ないよな?」

 振り向けば、髭面で長身の男がポケットに手を突っ込んで立っていた。黒いズボンに白いシャツ、ラフな姿に見えたが、少なくとも私よりはきちんとした格好だ。何より、私よりも清潔であることは間違いない。

「あぁ、今来たところだ。」

「相変わらず汚ねぇ格好してんな。」

「要件を早く言え。」

 ハシモトは溜息を吐いた。私にもよく見える様に、見えやすい様に。が、私はまったくもって悪いと思わなかった。所詮ただのパフォーマンスだ。

「飯、食いに行くぞ。」

「払わんぞ。」

 中華街の方に振り返ったハシモトに声をかけると、こちらに顔だけを振り向かせた。

「元より奢ってやるつもりだ。」

 ハシモトという人間は、一般的に見れば“いい奴”、というものだ。どんな人間にでも、たとえそれがゴミでも、対等に接する。口は悪いし、嫌味な性格でもあるが、決して相手によって対応を変えない。営業には向かないが、実力とその人格を認められ、社では引っ張りだこだったな。

 小走りでハシモトに追いつき、右隣を半歩遅れて歩いた。ハシモトは、振り向きもしなかったが、やや歩く速度が遅くなった様な気もした。

「それで、何を食うんだ?」

「……ラーメンだ。」

「観光かよ。」

「でも、好きだろ?」

 初めて、ほんの一瞬だったが、ハシモトがこちらに首から上を向けた。どちらの意味だろう。

 ラーメンが。そうだな。ラーメンは好きだ。麺は啜れないが、好きだ。ついでに言えば、関西出身の私は薄味のやつしか食べない。関東圏(こっち)の醤油ラーメンなんかは()()()()()()、とても食べられたものじゃない。贅沢だが、生まれ育った環境が人間を作るのだ。

 次に、この街が。あぁ、この街が、好きだ。けれど、この街は絶望の象徴であり、同時に私を戒める呪いの具現化でもある。それでもやはり、この街に対する憧れは今でも尽きない。心の底では未だに観光客の気分なのだ。

「なんだよ、ラーメン嫌いだったか?」

 少し驚いたのか、今度は足を止めて、上半身を全てこちらに向けた。その行動に私もまた、驚かされた。無意識下で足を止めて、機能停止した脳を動かす。

「……いや、味が薄ければな。」

「今更そんなヘマはしねぇよ。何回お前と飯食いに行ったと思ってんだ?」

 再び彼が歩き出すので、それに倣って私も歩き始める。心なしか、先ほどよりも少し歩く速度が速い気がする。何か機嫌を損ねる様なことを言ってしまっただろうか。

 そういえば、何回目だろうか、彼と食事をするのは。一度だけ、彼の家に上がらせてもらったこともある。その時は彼が関西風うどんとか言って何の出汁の味もしない、酷いうどんを作って、二人で食って吐きかけた。フォローが大変だったのを覚えているが、確か最後には彼のうどんを救うことは諦めてしまった気がする。追い討ちをかけるが、その時のうどんを関西人に提供すれば、彼を十回は死刑にできる自信がある。それくらい、実に酷い料理だった。

 さて、ハシモトの料理音痴は置いておいて、私達は中華街に赴き、過去数度入ったことのある中華料理店に入った。確かに、この店のラーメンは悪くない。何より、この店の餃子は美味い。餃子を食べにしたという方がこの店には似合う。ついでにラーメンを食う感覚だ。

「それで、最近はどうだ?」

「どうって…何が?」

 ラーメンと餃子と炒飯を適当に注文して、私達は赤い机を挟んで向かい合っていた。

「金は? 飯は? 仕事は? あれ以来、お前の小説を書店で見かけた覚えはないぞ。」

「ああ、そういう話か。」

「それ以外に何がある。」

 いや、よく分かっていた。ただ、そういう話はしたくなかった。私は自らを、過去の自らを恥じている。私はあの時、過去の夢を追い小説家になると言って会社を辞めた。その末路がこのゴミ溜の生活だ。恥ずかしくてとても目を合わせられない。私は天井を見つめた。

「正直、お前が生ていること自体が不思議でならない。」

「……俺もだ。」

 そうだ。俺も、自分が生きている事が不思議でならない。ハシモトの言うことは尤もだ。けれど、私はそれを否定しなければならなかった。だのに、出来なかった。自分が生きている事を積極的に肯定できない人間は、死んでしまっているのと同義だからだ。

「……けれど、思うことがある。あの時の私は、死んでいた。親につけられた偽物の名前で、偽物の知識で、偽物の(なり)で、生ている真似事をしていたんだ。」

 ハシモトの視線は痛かった。またくだらん戯言を話し始めたとでも思っているのだろうか。私も、自らのことをくだらんと思いつつも、しかし本心を語っているつもりだった。

「あの日、社を去り私は生き返った。本当の自分を見つけて、本当の自分として生きていく様になった……それが、ゴミ溜の中の生活だとしても、だ。」

 ハシモトは、憐れむ様な目を向けてきた。その目をまっすぐに見つめ返したら、彼は目を閉じた。

「……本当の自分、か。」

 何か彼にも思うところがあったのだろうか。彼はしばらく黙ったままだった。

 そこへ、アルバイトと思しき若い女性が盆の上にラーメンを二つ乗せてやってきた。元気な声と共にラーメンを二つ並べ、一度厨房に戻って行ったかと思うと、続け様に餃子を一皿、チャーハンを二皿並べて、注文した品は以上かと尋ねてきた。私は肯定しようとしたが、ハシモトがその声を遮って、追加で胡麻団子を一つ、注文した。

 女性が笑顔で厨房に戻っていってから、私は挨拶もせずに箸に手をつけてラーメンを啜った。うん、やはり美味い。ハシモトも、ようやく箸に手をつけた。

「お前は、もっと賢い人間だと思っていた。いや……お前が操るコンピュータの様に、優秀すぎて、機械的な……人間ではない存在の様に感じていた。」

 これは褒められているのか、貶されているのか。私は急いで、口の中の麺を胃の中に流し込んだ。が、私が口を開くより先に、彼は続けた。

「お前が、馬鹿でよかった。」

 数刻、時が止まったのかと勘違いしてしまった。本当は、ハシモトがラーメンを口に含み啜るまでのほんの数秒のことだった。だが、私にはそれが数刻の様に感ぜられた。

「馬鹿、ねぇ。」

「夢を追う人間を、俺たちは敬意をもって、そう呼ぶのさ。」

「お前は、馬鹿にはならないのか?」

「俺は結構だ。俺まで馬鹿になったら、誰がこの飯の金を払うんだ?」

「違いねぇ。」

 ハシモトは、賢かった。


 飯を食って、帰り際に胡麻団子を持ち帰らされ、私達は街を歩いていた。帰路から少し外れた方向だが、駅までは奴の話に付き合ってやることにした。と言っても、絶えず話し続けていたわけではなかった。

 あれから話した会話は、誰も他愛もない四方山話(よもやまばなし)ばかりだった。あれからの会社のことだとか、世間で流行っている小説のことだとか、また飯を食いに行こうだとか。普段話す相手がいない私からすれば、一生分話した様な気分だった。駅が近づくにつれて、私はようやく一人になれるという妙な安心感と、もう少しだけ話していたいという妙な喪失感の葛藤に襲われた。

「……夏祭りか。」

 無意識か、それとも意識的にか。私は気付けば、電信柱に貼り付けられたチラシを見つめていた。

「お前には縁遠そうな話だな。」

 ハシモトが鼻で笑った。私は、そのチラシに吸い付けられる様に見入っていた。だが、信号が青になったとハシモトが言えば、何事もなかったかの様にまた歩き始めた。心の中では、気になっていたが、妻子を持つ彼を男だけとは言えど夏祭りに誘う気にはならなかった。

「……また、飯でも食いに行こう。」

「ああ、そうだな。次は美味えパスタでも奢ってくれ。」

「奢る前提なのかよ。次までに小説の一つでも売っとけっての……じゃあな。」

 簡単に言ってくれる。一瞬だけ、あいつが馬鹿に見えた。私は目を伏せて、鼻で笑った。

「ああ、じゃあな。」

 手も振らず、振り返りもせず、同僚だった頃とは全然違った挨拶で、私達はそれぞれの帰路についた。しかし私は、どうにも夏祭りのことが気になってしまって、迷った挙句、夕方にはとうとう家からそう遠くない神社に出向いた。

 夏祭りに浮かれる群衆によって神社は盛況で、普段の厳かな雰囲気とは打って変わっていた。すぐ側を赤い着物と黄色の着物に身を包んだ少女が駆け抜けていき、その後ろから半袖半パン姿の少年が追いかけていく。私は、その後ろ姿を目を細めて見つめていた。

 周囲の人達からすれば異端者だったろうが、夏祭りを楽しむ群衆は異端者などどうでも良かったらしい。私は人目を気にすることなく、出店が軒を連ねる一夜限りの商店街を練り歩くことが許された。

 たこ焼き、焼きそば、金魚掬い。反対はヨーヨー釣り、射的、りんご飴にベビーカステラ。十数年前の記憶が刺激される。私と、私の姉は特にベビーカステラが好きだった。あとは、スーパーボール掬いは得意種目で、店を潰す勢いで入手しては、親に怒られ、笑われたのを覚えている。あの頃にも、私は夏祭りを題材にした小説を書いた様な気がする。どんなものだったかは最早思い出せないが、あの頃から……いや、あの頃は、小説のことしか考えていなかった。

 勉強をするときも、趣味をするときも、ゲームをするときも、影響を受ければすぐさま小説の題材として落とし込んだ。無理に書いて、足りない知識を指摘されたこともあった。そんな時は、誰にも負けないくらい勉強したものだ。

 これは、単なる言い訳に過ぎないのかもしれないが、勉強は、誰かに強要されてやるものではない。自分が知りたいと思うから、勉強をするのである。興味のある分野を学んで、自分の作りたいものを作る。それが、本来の勉強というものである。

 しかし、それでは世界はうまく回らない。社会というものには、したくないことをする人間が必要で、その為に興味のない勉強を強要し、その実力でその人間の価値を測ろうとする。と、言うが、結局のところそれより他にこの世界を上手に回す術はないだろうと、私は思う。

 そうしている間にも日は傾き、夕陽のオレンジは次第に夜の青へと変わっていく。全ての屋台を眺めては、何も買わずに去っていく。そんな無価値なことを繰り返して、私は空全体が真っ暗になるまで神社に止まっていた。石造の、灰色の鳥居から鳥居までの短い間を、そんなにも時間をかけて歩いていたのだ。

 些か追憶に耽り過ぎた。私は、反省もほどほどに来た道を帰ろうかと振り向いた。そこには、先程までにはなかった景色が広がっていた。暗い空の下、屋台は皆キラキラと輝いていて、子供達が、若いカップルが、年寄りの老夫婦が、笑っていた。

 私は恍惚と、その景色を眺めていた。子供達の、楽しそうな声が聞こえる。自由で、仲間と共に楽しそうに話す彼らの声が、私の脳内に響いた。

 と、大きな爆発音が聞こえて、私ははっとした。顔を少し持ち上げれば、赤色の花が夜空に咲いていて、人々はその花を指差して、写真を撮って、笑っていた。

 嗚呼、美しい。私の全てを否定するこの景色が、私にとっては、とても美しい世界に一つだけの絵画の様に見えた。目頭が熱くなるのを感じて、いけないと思った私は、足早に神社を後にした。

 ゆっくりと練り歩いた鳥居から鳥居までの間を大股で歩いて、屋台には目も向けず、笑い声には耳を塞いで、俯いたまま、混雑した道を通り抜けた。そうして、最後に鳥居を抜けてから彼らの方を振り向いて、私は神社を後にした。

 花火の打ち上がる音を聞きながら、私はだらだらと、帰路を歩いていた。特に理由はない。強いて言うならば、あの名画をもう一度だけ見てみたいと思っていたが、叶わぬ願いだと割り切っていた。私に、あの様な美しいものは似合わない。どんなに美しい絵画でも、ゴミ捨て場に置いてあれば価値は下がってしまうからだ。

 その一方で、早く帰ってこの気持ちを、あの情景を小説にしたいという気持ちもあった。懐かしい、いつしかの私の様な、小説のことばかりを考えている私の様な、純粋な好奇心と衝動だった。食欲、性欲、睡眠欲、それに並んで私に必要不可欠な、性衝動。それが、私にとっての小説だった。ハシモトには感謝している。こんな気持ちになれたのは、きっと彼のおかげだからだ。

 だが、足りない。私はまるで、常識という楔に縛り付けられたままであった。私の半端な覚悟では、未熟な技術では、無価値な才能では、この情景を描けないのだと分かっていた。私の脳はよくやってくれる。いつもそうだ。私が馬鹿になりすぎた時には、現実を見ろよとクールダウンを促してくれる。しかしそれが、これ程までに歯痒いものだとは思ったことがなかった。

 あぁ……家が近づく。花火の音が遠ざかっていく。背中に寂寥を背負い、衝動に手を引かれて、私はとうとう、家を眼中に捉えた。

 しかし、ふわりと香ってきた鼻を突く甘酸っぱい香りに足を止めた。その香りのする方へと目を向けると、道沿いに小さな八百屋を見つけた。暗い雰囲気の、ごくごく普通の、小さな八百屋だ。店の奥で、初老の女性が立っている。が、私の目は一点に釘付けになっていた。

 檸檬だ。

 嗚呼……良い、良い香りだ……私の心を爆破する、爆弾の様な香りだ。美しい、美しい。私は吸い付けられるように檸檬の一つに手を伸ばした。つるりとした、しかし若干のざらりとした皮の感触が伝わってくる。

 そしてそれをゆっくりと顔に近づけ、鼻先で再びその香りを嗅ぐ。その酸味が私の脳内のつまらない常識を爆破した。今日は色々なことがあった。そして今、その全てのことに意味があったと、改めて思い知らされている。そう、これはテロリズム。私の過去も、今日の感動も、全てを破壊するテロリズム。差し詰め檸檬はテロリスト、今日の、私の、真夏のテロリストだ。

 私は、かの有名な文豪の妄想に倣って、檸檬を(わざ)と、一つ上の林檎の山の上に乗せてやる。林檎は嫌いではないが、西洋では罪の象徴ともなるらしい。もっとも、これは私の妄想に過ぎないが。

 私は、店主の女性の一瞥もやらず、そのまま何事も無かったかのように帰路に戻った。


 “女性からの視線が痛い。が、私が数メートル離れたところで、その八百屋は爆発した。人通りは無く、悲鳴も(どよ)めきも、そして()()も、無い。残ったのは、儚くも力強い、檸檬の酸味と苦味だけ。”


 私は、ふと、振り返る。先程の八百屋が、私には少し光って見えた。その光の中心には、先程の檸檬がある。その檸檬を見て、私は軽く手を握る。すると檸檬の重みが、紡錘形が、香りが、私の脳に電撃のように、そして波のように引き戻される。

 ……つまりは、この重さなんだよなぁ。

 今ならばその言葉の()()というやつが分かる。所詮、この檸檬程度の重み。されどこの檸檬程度の重み。単純な重さ、軽さの話だけではない。この檸檬は重たい。少なくともこの世界の常識よりは、重たい。

 私は自らを鼻で笑った。嘲笑だ。重みなど無い私という存在が檸檬ほどの重みを持つ常識を馬鹿にするだなんて。しかし、私の鼻腔の中には、まだ檸檬の香りが強く残っている。それは、私の唯一の価値を示すように。私に与えられた天命を、示すように。

 私は三度、帰路を歩き始める。その顔には微かな笑み。うすら笑いを浮かべた男が歩いていれば……想像すれば、笑みはすぐさま消えた。

 私の役割は、檸檬の香り。酸味の中に、微かな苦味を持つ香り。世界への叛逆、警鐘。正しい常識(理不尽)を爆破する、テロリスト。私もまた、真夏のテロリストなわけだ。さあ、帰って早くこの想いを小説にしよう。そして、いつしかこの世界の全てを爆破し尽くしてやろう。

 俺は再び、笑いを溢す。嘲笑だ。昔から、小説の事と、自分の美化しか考えていないな、俺という人間は。

 俺は、やっぱり馬鹿だった。

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