閑話:ステータスオープン!
読み終えた文庫本を静かに閉じ、机の上に置いた。マリアが『ライトノベルの金字塔』と紹介した一冊だ。
時計の針は午後10時を回り、家政婦たちが廊下を歩く音も絶えて久しい。
普段であれば、夜は有栖が漫画や携帯ゲーム機を手に遊びに来ることが多い。が、今日は小説を十冊も買ったせいだろう、部屋を訪れる気配はなかった。
閉じた本を裏返し、再び表紙を見る。面白かった。満足感のある吐息が漏れる。
夏目漱石がこの本を読んだら、こんなもんが小説と呼べるかとキレ散らかすか、どうして俺はこの書き方を思いつかなかったんだと怒り狂うかのどちらかだろうと麗奈は思う。
他の人たちはこの本を読んで、どう思うだろうか。
有栖は麗奈が頼めば読んでくれるだろう。そして読んでる途中で眠ってしまうことは想像がついた。
五十鈴は小説を読みたがらない。
春光は探偵小説以外だと腰が重い。
遠い目になる。改めて考えるまでもなく、小説を読んだ感想を言い合えるような相手が麗奈にはいなかった。
これで文学部にでも入っていたならば話は別だっただろうが、麗奈が3年間打ち込んだのはDMMAである。
最終手段。寮に足を運んで文学部の部員に声をかける。……いや、明日は新入寮生の入寮予定日だったはずだ。案内や世話で忙しいだろう。流石に私用で邪魔をする気にはなれない。
さて、どうしたものか。
―――否。いるではないか。うってつけの話し相手が。
《……俺さぁ、仕事柄さ、特殊能力に目覚めた少年少女がその能力使って何するのかっつーのはそれなりに読んできたと思うんだけどさ、》
読書中は全く話しかけてこなかったマリアが、久々に言葉を発した。
《初めてラノベ読んだ感想のために、初めて自発的にチート能力を使おうとするっていうのは、さすがの俺も初めての経験だわ……》
《感想:やりましたね、ミス麗奈。マスターの鼻を明かしてやりましたよ》
全く嬉しくない。
麗奈が欲しいのは自我が分裂した相手からの勝ち星ではなく、本を読んだ感想なのだ。
《まぁお前からすりゃ新鮮なんだろうけどさ、俺から見れば20年以上前のことだし、特に目新しさはないかなって。いや、久々に読んでみてもやっぱ面白いなとは思うけどさ。そういや今更だけど、異世界、っつーかこの場合は並行世界って言うべきか? 並行世界でもラノベの内容は同じだったりするんだな》
《感想:将来何が流行するのかも分かってますからね。次はミス麗奈に先取りゴーストライターでもさせますか?》
《バッカ野郎!!! 俺がそんなことさせるわけねえだろ!!!》
《感想:えぇ……?》
《俺だって一端のクリエイターだぞ。人様の作品をオマージュやリスペクトならともかく、パクリなんてするわけねーだろ。ちやほやされたいだけなら女装オナニー動画でも投稿してりゃ承認欲求は満たされらぁ!!》
《感想:中世ヨーロッパ時代にトランジスタとかレールガンとかを作らせた人の言葉とは思えませんね》
《それはそれ、これはこれ》
結局、自分の相手はしてもらえるのだろうか。そう麗奈が少し疎外感を覚え始めた頃、
《おっ、いいよ。付き合っちゃう付き合っちゃう。この時代オタクは肩身狭ぇからなぁ。同好の士を見つけるだけでも死線を超えなきゃならん……。だけど麗奈くらい美形だとそれも許されるんだろうな。り、理不尽……! クソッ、これだから美形は得だよなぁ!?》
マリアが勝手に憐れみ始め、勝手に憤り始めたのに麗奈は困惑する。
《感想:気にすることはありません、ミス麗奈。マスターは年齢が年齢なんで情緒不安定……》
《否定:いえ、あまり関係ないですね。昔からこんな感じでした》
《おっし、じゃあやろうかぁ! ネタバレしたらごめんだけど、まぁでもこれ出版したの確か1990年とかだったはずだし、俺じゃなくても起こりうる事態だから、その辺はなんとか折り合い付けてくれな》
●
第一回ライトノベル読後脳内感想会が一段落つき、麗奈たちが親睦を深めた頃、
《あ、》
と、何かを思い出したかのようにマリアが言った。なんだろう、と麗奈は思うが、
《あぁ~、いや、大したことじゃないんだけど、一応確認しておいた方がいいか的な?》
《感想:妙に言葉を濁しますね。絶対にろくでもないことを思いついたやつですよこれ》
《うぅ~ん、今回ばかりは否定できん。いや、でもまぁ確かめておきたいことではあるんだよな。というわけで麗奈》
一体何をさせるつもりなのか、麗奈は身構えた。
《ちょっと『ステータス・オープン』って声に出してくんない?》
麗奈の頭の中が疑問符で埋められた。言っている意味が分からなかったし、その行動の意味も分からなかった。
《いや多分何も起きないと思うんだよ。多分ね。でも万が一の可能性が無きにしも非ずというかね。あー、でももしかしたらキーワード違うかもしんね。『ステータス・オープン』じゃなくて『プッシュ・スタート』とか。まぁとりあえずテンプレな『ステータス・オープン』を試すのでいいと思う》
やはり意味が分からない。が、大したことではなさそうで、それくらいならやってもいいかと麗奈は思う。
静かに座布団から立ち上がる。体を反転させ、ふすま戸を身体が通る程度に開く。
上半身だけを差し込んで右を見た。灯りのついていない廊下はすっかり暗く、人の気配は感じられない。
左も見た。長い廊下は闇夜のせいで、どこまで伸びているか想像もつかない。
部屋に誰も近付いてこないことをしっかりと確かめ、身体を戻して静かに戸を閉めた。
部屋を横断して押し入れに手をかける。今朝に布団を収納した時にはきっちりと閉めたはずのふすまは何故か10センチばかり空いていた。構わず手をかけ一気に開く。と、
「にゃ~ん」
麗奈たちが出かけている間に潜り込んだんだろう。布団の上で丸くなっていたペコが一鳴きする。
関係ない。気にせず畳まれた布団に腕を差し込み、猫ごと持ち上げて布団生地に挟まれた空間を作る。そこにすかさず頭を突っ込んだ。
後頭部にペコの重みを感じる。
顔を布団に押し付ける。
叫んだ。
「ステータス・オープン!」
1カメ。布団に頭を突っ込む麗奈の尻を映していた。
2カメ。布団に頭を突っ込む麗奈の尻を映していた。
3カメ。布団に頭を突っ込む麗奈の尻を映していた。
何事も起きない時間が経過したのち、後頭部の重みが変化した。麗奈の尻を映すカメラの一つが捉えたのは、布団の上で体を伸ばすペコの姿だった。
続けてペコは背中に移り、腰に移り、そのまま尻を蹴って地面に降り立った。
5秒後にはふすま戸が開かれる音。
続けて爪が廊下に当たりながら歩く音。音は少しずつ遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。猫は無音で歩くと言うが、あれは嘘なのだと麗奈は知っている。
ずぼり。
無言で、布団から身体を引っこ抜いた。
「……なんなんですの?」
思わず呟いていた。髪が少し乱れている気がするが、直す気も起らなかった。
《なんか周りに変化とかない? 色々文字が書かれた板みたいなのが浮いてたりとか》
周囲を見渡すが、特に変化はない。見慣れた自分の部屋だった。
《なんも起きてないなら別にいいよ》
何なんですの、と今度は頭の中でそう思う。
《言ったでしょ、多分何も起きないはずだって。本当に何も起きなくてよかったと思うよいやマジで。何も起きなかった。起きなかったんだよ、麗奈。だから、この話はここでお終いなんだ》
微妙に納得がいかない。が、よく考えてみれば神を詐称する存在の戯言なのだ。これ以上真面目に考える必要があるとは思えなかった。
「……」
頭を布団から引っこ抜いたまま、腕を布団に突っ込んだまま、麗奈は思った。
寝よう。
●
夜は更けていく。
どこか遠くで、締め方が甘い蛇口から水滴が落ちた。
奥多摩の森にフクロウの鳴き声が消えていく。
カツカツカツとテンポよく、硬質な何か同士が当たる音。独りでにふすま戸がわずかに開き、白い影が音もなく室内に入り込む。まっすぐ進んで麗奈の布団に潜り込んだ。
再び水滴が落ち、フクロウが鳴き、腹の上に乗った重みで一人の少女は眉根を寄せる。
獅子王家本宅の最奥、当主以外の立ち入りが禁じられた部屋で保管されている蠍杯からは、儀式で麗奈たちの血を落とした痕跡はすっかり失われ、金色の輝きを取り戻していた。
有栖は布団を蹴り飛ばしたところだった。夢の中では両足が蹴り砕かれた五十鈴をナース服の麗奈が甲斐甲斐しくお世話しており、夢の中での有栖は哺乳瓶に口をつけて、自らの喉でちょうどいい温度かどうかを確認中だった。そのまま一気に飲み干すと、夢の中の麗奈はあらあら仕方のない子ですわねと笑い、自ら服をはだけてその豊満な胸を五十鈴の口元に近付け、
ある夜間警備員は眠気覚ましに珈琲を飲み、別の者は敷地を見回り、ある者は学園側と定期連絡のため通信機を手に取った。
学生寮の中では、消灯時間などとっくの昔に過ぎ去っているにも関わらず、谷口と杉谷と釜原が五十鈴の部屋に集まって、深夜お色気番組ミニスカナースお注射しちゃうぞを45インチの大画面でかぶりつくように視聴している。
遠くアメリカの大地では合衆国大統領が昼飯の4つ目のハンバーガーにかぶりついて、遠くヨーロッパの大地ではマリウス教最高司祭が書類にサインを書いた。
神と神が復活したことなど誰も気付きもしないまま、実に平和に、4月1日が終わろうとしていた。
―――ただ一匹、闇夜に満ちた奥多摩の森の中を音もなく移動する、ローズ・スティンガーを除いては。