獅子王麗奈の憂鬱 その3
ぷかり、ぷかり、と。
麗奈はプールに浮いていた。全身を弛緩させた、仰向けの体勢だ。しかしながら、脱力だけで浮いているわけではない。実は人体と言うものは息を吸った状態では、身体の2%は水上に浮くように出来ている。ところが、だ。麗奈の場合、胸があまりに大き過ぎた。仰向けになればどうやっても、顔より先に胸が水上に飛び出る。顔が水上に出る前に、2%の猶予など余裕で越えてしまうのだ。にも関わらず麗奈が脱力していられるのは、麗奈の隣に五十鈴が立ち、その身体を下から支えているおかげだった。
これは『浮装』と呼ばれる、獅子王流機介水泳術の基礎にあたる工程だ。
水に浮くことが目的ではない。重要なのは五十鈴の補助の方だ。
ドール・マキナが滞空する時、人が水に浮かぶ際に全身で浮力を得るのとは異なり、特定の部位にある推進装置を用いて、無理矢理に質量との均衡を取る。この推進装置を、補助者の支えで代替とするのだ。
つまり麗奈が水に浮く目的は五十鈴の行動を補助するためであり、麗奈が意識しなければならないのは水に浮いていることではなく、五十鈴の手が体を支えているという点である。ゆえに浮装―――浮遊装置、というわけだ。
麗奈が五十鈴をこの場に連れてきたのも、これが理由だ。獅子王流機介水泳術に限らず、プールを用いた空中代替訓練の大半は補助者が必要で、単独での鍛錬は行えないのだ。
……もっとも、ローズ・スティンガーは飛ぶときに全身を反重量フィールドで覆うため、水の浮力のみで浮かぶ方が感覚的には近かったりするのだが。
三年のブランクがあるのは麗奈もだ。なので基礎中の基礎である浮装から始めようと麗奈が提案し、五十鈴も了承し、麗奈の身体を支えながら、
ぷかり、ぷかり、と、水面に浮かぶ双子島を凝視していた。
麗奈が集中するために目を閉じているのをいいことに、目覚めよ透視能力よ今がその時だと言わんばかりに遠慮なしだった。
ちなみにだが、麗奈は五十鈴の視線にとっくに気付いている。というのも、
≪おいおいこのモブお前の爆乳めっちゃ見てんぞ。まぁしょうがねえよな男子高校生なんだから。今日の礼に胸の一つでも揉ませてやったらどうだ? AVと合わせて今夜はハッスルハッスルゥ!≫
と、マリアがチクっているせいだった。マリアは麗奈に取り憑いているものの、五感を共有しているわけではない。麗奈が苦手なコーヒーを飲んでもマリアにはその味や香りや風味を感じ取れないように、麗奈が目を閉じたところで、マリアの視界が閉ざされるわけではないのだ。
麗奈は麗奈で鍛錬に集中するためにマリアの言葉を無視しようと努めてはいるのだが、とはいえ15の乙女である。同級生男子に胸を窃視されていると言われては、流石に思うことはある。あるのだが、いちいち気にしていては鍛錬に支障が出ると、ついでに他の男ならともかく五十鈴であればまぁ構わないかなと、どうにか表に出さないように努力してい
「ガボッ!? ゴボボボボッ!!」
「あ」
胸を凝視するあまり、集中力を欠いた五十鈴の腕が下がってしまっていた。麗奈の手足が暴れて水を叩いており、五十鈴は慌てて麗奈の身体を水中から引き上げた。
「だ、大丈夫か?」
五十鈴は麗奈の身体を支えながら、えずくのが収まるのを待つ。身体が密着したことで感じる胸の柔らかさを必死で頭の中から追い出しながら背中をさすっていると、しばらくして麗奈が落ち着いた。
「悪い。俺のミスだ」
こりゃあ殴られても仕方がないと五十鈴は思う。今のは明らかに自分が悪い。麗奈は五十鈴を信じて補助役を頼んだというに、当の五十鈴はプールに浮かぶ天然双子島に見とれてしまっていたのだ。
だが、
「……いえ、わたくしも集中できておりませんでしたわ。それに五十鈴も補助に回るのは初めてですし、不問といたしましょう」
五十鈴は耳を疑った。もしかして自分は麗奈にプールに蹴り落とされた瞬間に意識を失っており、今は夢を見ているのではないかとすら思う。
快音。五十鈴が、自分で自分の頬を張ったのだ。ジンジンと両方の頬が痛む。夢ではない。
「な、なにをしておりますの……?」
「いや、なんでもない」
気合を入れる。しゃんとしろ。己は今、麗奈の命を預かっているのだ。水に浮くクソデカ脂肪島が何だというのだ。真の日本男児はそんなものに心揺らされたりはしないのだ。
「……ふぅ。では、再開と行きましょうか」
「おう」
五十鈴は心を入れ替えた。二人だけしかいない空間。今度こそ集中し、身体を動かさないように、腕が下がらないように注意する。
ところで、五十鈴は体脂肪率が余裕で一桁台の隠れ細マッチョである。
「へっくしょん」
「ゴボボボボ」
「どわぁーっ! すまーん!!!」
●
「……なぁ、今更だけど、やっぱやめない?」
浮装を終え、次に進もうとする前に、五十鈴が躊躇いがちにそう言った。
「はい? ここにきて何を言っておりますの」
「いや、だってよ……。つーか他の人じゃダメなのかよ。有栖……は、足がつかねえか」
五十鈴の身長は169センチメートル。つい二日前の金曜に測定したばかりなのだから間違いない。そして水面は五十鈴の顎の付近までの高さがあり、五十鈴の胸元程度の背丈しかない有栖では、どう考えても足がつかない。かといってより浅いプールを使うと、浮装以降の鍛錬に支障が出てしまう。
ところで、両手両足が義肢であるにも関わらず、有栖が低身長なのにはもちろん理由がある。人の生体電流に感応する特異金属、オモイカネの特性が原因だ。
このオモイカネによって人類は2000年近く昔から土の巨人を生み出し、土は鋼鉄の外装に代わり、人形機械が発展するに至った。
だが、このオモイカネにはとある制約があった。オモイカネを用いた仮想人体は、実在人体の比率を大きく逸脱できないのだ。人体比率差が大きい部位は、なぜか動かなくなってしまう。体格に対して腕だけが極端に大きかったりする、いわゆる異形が作れない理由でもあった。これはドール・マキナだけでなく義肢に組み込んだ場合も同様で、だから有栖は自身の体格から逆算した、150センチメートルに満たない低身長にならざるを得ないのだ。
ちなみに有栖本人は、麗奈に正面から抱き着いたら胸の中に顔が埋まるので、低身長であることを全く苦に思っていなかったりする。
「そもそも、有栖は泳げませんわよ」
「あれ、そうなの? オモイカネ式義肢は泳げるって聞いたことあったけど」
「有栖の手足の義肢は戦闘用の特注品ですからね。普通のものよりも遥かに重いんですの」
「それは知ってる。ドチャクソ重かった。腰をイワすかと思った」
「フライハイトを組み込んでいるので多少なら浮けるでしょうが、その分電力消費量も多くなりますし、突然の電池切れと同時に沈みますわ」
「フツーのやつに交換したらどう?」
「その場合は泳げるでしょうけど、義肢の付け外しには神経接続がありますからね」
「あー、あの見ていて滅茶苦茶痛そうなやつか。……うん、そりゃ無理だな」
「それに昨日から山を下りておりますわ。昨日は新しい義肢の微調整で、今日は予定していたモデルの仕事がありますし」
「それ先に言えよ」
モデルの仕事、というのはもちろん、普通のモデルなどではない。義肢のモデルだ。手足を欠損した子供を見世物にすることに強い抵抗を覚える親は多く、子供用の義肢のモデルは万年不足している。
そこで有栖の出番である。低身長なうえに童顔なので、小学生の代役としては事欠かない。加えてオモイカネ式義肢は、麗奈が総帥を務めるレムナント財閥の主力事業の一つだ。有栖の両親からストップが入る可能性も限りなく低い。
……ちなみに、美少女に義肢という組み合わせのせいか、有栖は一部界隈からは女神のごとく崇め奉られていたりもするのだが、それはまた別の話である。
「じゃあオバサンたちは?」
五十鈴のいうオバサンというのは、有栖の母親の紫苑と、春光の母親の夏凛のことだ。麗奈と五十鈴は初等部の頃、この二人から獅子王流機介水泳術を指導してもらったのだ。
麗奈は首を横に振り、
「引き継ぎのごたごたで、有栖の両親はまだ忙しくしておりますからね。休日出勤を頼むのは気が引けます。それに有栖とは久しぶりの親子水入らずです。邪魔したくはありません」
「春光のオバサンは?」
「夏凛さんに話を持っていくと、おそらく紫苑さんに伝わって休日を返上されるでしょうから、伝えてすらおりませんわ」
「あー、鬼婆」
「御婆様は今日もワイドショーに出演なさっております。ついでに義娘と会ってくるとも言っておりましたわね」
「つーことは師匠たち、鬼婆の居ぬ間に宴会かよ」
「桜の代わりに、御婆様を肴に飲んでいるでしょうね……」
なおもあー、うー、と唸りながら逃げ道を探そうとする五十鈴に、麗奈が苛立たしげに、同時にどことなく照れくささを隠すように、
「もうっ、いいからやりなさいな! わたくしが良いと言っておりますのよ!?」
「あー、クッソ、分かったよ! そこまで言うんなら後で怒んなよ!?」
言い終わるやいなや、五十鈴は体を水中に沈めた。水の中で目を開け、片腕を麗奈の股の下に潜らせる。
「んっ……!」
そして水から顔を出した五十鈴の耳に、真っ先に麗奈の声が飛び込んできた。
「変な声だすなよ……!?」
「へ、変な声なんて出しておりませんわよ!? いいから補助をしてくださいまし!」
「わぁってるよ!」
さらに五十鈴はもう片方の腕を、麗奈の腹、みぞおちのラインに合わせて身体を支える。空中で前身しながらの動き方を身に着けるための体勢。機介水泳術の前傾立位、『運前浮然』である。
本来は、みぞおちではなくもっと上、つまり胸を支えるのが正しい。正しいのだが、いくらなんでもそこまでの度胸は五十鈴には無かった。鍛錬の前、麗奈が来る前に三回くらいなら胸を揉んでも許されるんじゃないかと悪巧みしていた気概はすっかり霧散している。
体を持ち上げられ、腰から上を水上に出した麗奈は、目を合わせようともしない五十鈴の頭頂部をジトっとした目で見る。五十鈴は上を見ないまま、
「……なんだよ。なんか文句あんのかよ」
「……いえ、なんでもありませんわ。では、振っていきますわね」
そう言うと、麗奈は水上に浮かべていた、遠く離れないように手首のストラップと繋がった棒を手に取った。特別な道具ではない。プールでチャンバラごっこが出来るオモチャだ。
なんでこんなものがここにあるのかと言えば、言うまでもなく素振りをするためである。
なんで五十鈴が麗奈を抱き上げているのかと言えば、言うまでもなく素振りをさせるためである。
麗奈が剣を振れば、その上半身を支える五十鈴の腕に、その下半身を支える五十鈴の腕に、女の柔らかい部分が容赦なく押し付けられる。
そして五十鈴にとって、天国とも地獄ともいえる時間が始まった。
●
(た、耐えきった……!)
五十鈴は疲労困憊だった。模造剣を振るい、身体を動かしていたのは麗奈だけであるにも関わらず。五十鈴はその傍らで麗奈の身体を支えていただけなのに。
それもこれも麗奈の動きが原因だ。袈裟斬り、逆袈裟、縦に横。剣の振り方一つで五十鈴の腕にかかる体重のバランスが頻繫に変わるせいで、ちっとも気が休まらない。失敗したら胸をわし掴みしかねないのだ。
最後のころになると、「では次は五十鈴の番ですわね」と言われないことを祈るばかりだった。なにせ五十鈴の下半身はすっかり臨戦態勢のデフコン1。ウェイクアップ・男状態。むき身の暗器、よもや海パン一枚で隠せるはずがあろうか、いやあるまい。
一通りの動作を終え、麗奈が時計を見上げると、2時間程度が経過していた。その後、「そろそろ終わりにしましょうか」と言った時には、五十鈴は思わず安堵の息を漏らしたものだった。残る問題は、プールから出る前にブツの憤りが治まるか否かである。
鋼のごとく精神を集中させてどうにか落ち着かせる。こういう時はババァだ。あの鬼婆の顔を思い浮かべるのだ。そして一足先にプールから出た麗奈の尻に水着が食い込んだのを見た瞬間、ステイ、ステーイ……!とか考えながら、どうにか平穏な状態で、プールサイドに戻ることに成功した。
麗奈は指を組み、身体を上方向に伸ばす。
「ふぅっ……んっ。久々にやると、思ったより疲れますわね」
そして、唐突に水着が限界を迎えた。胸元の生地が乳の上を滑り、中央へと寄り、たわわに実った果実を余すところなく五十鈴の眼前にさらけ出したのだ。
「ふぇ?」
「…………」
五十鈴は腕を組み、無言でその様を凝視した。麗奈がプールサイドに姿を現した時のように、目を逸らすことはしなかった。
なにせもう丸出しの丸見えなのである。殴り飛ばされることは確定的に明らか。どうせ殴られる未来が確立しているのであれば、せめてその原因たる状況を目に焼き付けなければ損である。
五十鈴の視界で、何が起きたのか理解できていない様子だった麗奈が、何が起きたのか理解できたのだろう、顔を一瞬で赤くさせた。更にじわりとその両目が潤んだのを見て、ようやく五十鈴は、あれ、これはさしもの麗奈でも泣くのでは、と遅まきながら気付いた。いかん、何かフォローをしなければ。そうだ、最初の感想をもう一回言おう。ほら、やっぱり水着小さかったんじゃないか―――
「お前けっこう乳輪でけえな」
顔に横から衝撃が走る。宙を飛び、麗奈の体勢を見て、蹴り飛ばされたのだ、と理解した。
そして五十鈴は、再びプールの中へと落下した。水中で腕を組み、足も組み、これでいいのだ、と五十鈴は思う。身体が沈み、プールの底に頭がぶつかった。あとはこのまま、麗奈がプールサイドから立ち去るまで潜水を続けるだけだ。肺活量には自信がある。このまま身動きを取らないのであれば、5分程度は耐えれるだろう。どうせ再びのウェイクアップ・男状態。すぐには戻ることが出来ないのだし。
そんなことを目論みながら水面を見上げていた五十鈴は、底から見える光景が変化したことに気付いた。
「ブッッッッッッッッッコロですわぁーーー!!!!!」
麗奈が、水底にいる五十鈴へ追い打ちをかけたのだ。
「どわぁーっ!!? 馬鹿おまえ、隠せ隠せ!!」
丸見えになった胸元を戻しもせずに。
「五十鈴を殺してわたくしも死にますわ!! そうすれば知る者はいなくてよ!!!」
「そうはならんだろ、ウブッ! ごぼぼぼぼ!!」
水の中を大気に見立て、半裸の男女二人による水中戦。獅子王流機介水泳術には剣術はもちろん、空中での格闘戦も織り込まれている。奇しくも三年振りの復習となった。麗奈の頭の中ではマリアが煽って囃し立てている。まるで小学生のプール遊びのように、派手に水飛沫が上がり続けることしばらく。取っ組み合いの中、五十鈴は三回では済まない程に胸を鷲掴みにしたりもした。そのたびに麗奈の艶声が洩れるのだが、同時に動きも止まるので積極的に狙わざるを得ない。断じてスケベ心が理由ではない。麗奈も五十鈴の乳首を狙う。摘まむたびに五十鈴の嬌声が飛び出る。同時に動きも止まるので積極的に狙わざるを得ない。断じてスケベ心が理由ではない。
最終的に、麗奈の体力が先に尽きた。
その隙に五十鈴はプールから脱出する。プールサイドを全力逃走する。うっかり滑らないようにだけ気を付けて、更衣室へと飛び込んだ。
プールサイドには、息も絶え絶えになった麗奈が転がっている。五十鈴が遁走する前に、担ぎ上げて水の中から引っ張り出したのだ。
胸は、丸出しのままだった。
≪まぁ気にすんなよ。こういう時は円盤じゃなければ謎の光が隠してくれるもんだからさ≫
麗奈はマリアの慰めの言葉を無視し、残る気力体力を振り絞り顔を上げ、
「い、いつか殺しますわ……!」
そして、今度こそ力尽きた。
●
……後日、春光の母、つまり麗奈の叔母から麗奈へと電話があった。
『まーくんから聞いたわよ~。いっちゃんと水泳術やったって~。おっぱい揉まれたりした~? あはは~、怒んないで~。だって本来はね~、補助具を装着して~、補助の人は補助具の方を握るのよ~。ほら~、結構デリケートなところを~掴まなきゃいけないからね~。普通は大人になってからやるものだから~、小学生のれいちゃんたちには~合うサイズが無くって~。だから私たちは~ああしたのよ~。水場での訓練だから~、補助具に手を入れて調整するのは~、かえって危ないし~。というわけで~、補助具を送るわね~。あ~それと~、水着のサイズは大丈夫だった~? 分かるわよ~、義姉さんも~高校生の頃には~探すのに苦労してたから~。義姉さんが~使ってた~メーカーのカタログも~一緒に送るね~』
電話を切った後、麗奈は、それはそれは深いため息を吐いたという。




