神は此処にありて 2
結論から言おう。心底不本意ではあるが、麗奈はこの『現象』を受け入れることにした。
『幽霊も超能力も宇宙人も人類の科学力が足りないから観測できていないだけで存在しないことの証明はできないんでやんすよ獅子王っち!』と早口で滝が熱弁していたのを思い出す。
幽霊も超能力も宇宙人も観測されてないだけで存在するかもしれないのなら、ストレスで頭の中に別人格が発生することなんて世界中で観測されているのだ。だから麗奈がそうなっても別におかしくはないのだ。
ただし、あくまで受け入れたのはこの『現象』だけだ。麗奈は心の中で言い訳する。頭の中の声が神であるとか、その妄言までもを受け入れるわけではない。
《ツンデレか?》
《感想:マスター、言動にはお気を付けください。2000年時点ではその言葉は存在しません》
《ふふふ、だがそんなツンデレ悪役令嬢でも俺の名を知れば態度を改めるに違いない》
《感想:だから使うなって。聞いてませんねこれ》
《やぁやぁ遠からんものは音に聞け! 近くば寄って目にも見よ!!》
あいにくと耳で聞こえることもないし、目で見ることも出来ない。
《俺こそが獅子王家の祖、獅子王マリアその人である!!!》
はぁ、と特に感慨なく麗奈は思った。
《おいなんだお前もうちょっと感動しろよ感動。伝説的なご先祖様だぞ俺は》
するものか、と麗奈は思う。
獅子王マリア。それは確かに獅子王家を興した先祖の名であり、確かに伝説的な偉人の名である。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と合わせ、日本でも屈指の知名度を誇る四大戦国武将。
彼女は様々な偉業を成した。その全てを記そうとすると、それだけで本が一冊作れてしまう程には。
その中でも特に一つ、獅子王マリアが為した最も大きな功績を挙げるとするならば、当時ヨーロッパにのみ存在した巨大人型兵器を、アメリカ、そして日本へと広めたことだろう。
そして、これが今の麗奈にとって最も重要なことなのだが、
―――獅子王マリアは、女性である。
麗奈の頭の中に直接聞こえてくる声は、どう聴いても男性の声である。
偽物間違いなしだった。
《ま、待て! 俺は確かに体は女だったが、精神的には男だったんだよ!! 本当だ! 信じてくれ!! 異世界転生だとこういうことはよくあるんだ!》
はいはい。よくあることよくあること。
《クッソ、俺が思ってた反応と違う! 一体どうやったら信じるんだお前!?》
そうですわねぇ、と麗奈は律義に考えてやった。
麗奈がマリアの名を出されても特に驚きが無かったのは、それが麗奈の中に存在する知識だからだ。
逆に言えば、麗奈が知りえないことを知っていれば、頭の中の別人格は少なくとも麗奈の自我から分離したものではない。そういえるのではないかと麗奈は考えた。
とくにそれが『今後起きること』であれば、特に『決して起きるとは思えないようなこと』であれば、少しくらい信じてやってもいいだろうと麗奈は思う。
《つまり予言ってことか。……それはちょっと困ったな》
《感想:本来の歴史はマスターが好き勝手やりすぎて、予測不可能なほどに滅茶苦茶になっていますしね》
《いや俺のせいだけじゃねえし。複数の世界を混ぜこぜにしたどっかの馬鹿のせいだし。―――にしてもさすがは本物だな。俺みたいな悪役令嬢に異世界転生しただけのやつとはえげつなさが違う。人の嫌がることをさせたら右に出る者がいない。そこに痺れる憧れるゥ!》
そんなことは一部の例外を除いてやっていないんですけれど、と麗奈は心の中で反論した。
《いや待てよ……。なぁ麗奈、高校の入学式ってまだだよな?》
4日後の予定だった。
《よぉ~しよしよし、そういうことなら一個残ってるぜ。特大のネタがよぉ……。いいですか、獅子王麗奈。よく聞きなさい……。4日後の、……えーっと、なんて名前の学校だったっけ?》
花山院学園。
《そうだったそうだった。4日後の入学式の日に、花山院学園はテロリストに襲われることになるでしょう》
―――そうだ、精神病院に行こう。
《なんでそうなる!?》
ストレスの原因には、心当たりがありすぎた。
中等部の三年間。女子DMMA部が誇る4人のマッドサイエンティスト。
部活を作って3日後、部室を爆破させて全員出禁になった。この日から、獅子王麗奈の苦難の日々が始まったのだ。
しかし、と麗奈は思う。彼女たちは全員、花山院とは別の高校に進学したのに。ストレスの原因からはもう解放されたはずなのに。
……念のため、彼女たちの名誉のために補足しておこう。素行不良で高等部に進学できなかったわけではなく、全員が自分の意思で、自らの手でドール・マキナを作り出すために、防衛高校を進学先に選んだというだけだ。
なのに、まさか蠍杯の儀を控えた今日この日に、ドール・マキナの幻覚を見て、体が動かせなくなり、精神が分離し、しかもその分離した精神が神を名乗り、挙句の果てに学園がテロリストに襲われることを願うとは。
いや、あるいは逆なのかもしれない。ストレスの原因から解放されたからこそ、今この瞬間にこうして問題が顕在化したのではないか。
《いや、だから俺はお前から分離した人格じゃなくって、先祖のマリア張本人だって言っとるじゃろがい》
《感想:神と言ったり先祖と言ったり、設定が安定しない人ですね》
《いや、お前は俺の味方をしろよ》
《報告:ところでミス麗奈、お待たせいたしました。脳機能の拡張処理が無事完了しました。もう体を動かせるかと思います》
ぴくりと、麗奈の指が動いた。顔が痛みに歪む。ドライコインが言った通り、身体が動かせることを自覚する。
小さくうめき声を漏らしながら、麗奈はようやく体を起こした。
《なぁおいちょっと落ち着けって。まさかマジで病院行く気じゃねえよな?》
奇妙な感じだった。つい先ほどまで困惑していたのはマリアではなく麗奈なのに、今は立場が逆転していた。
《考え直せってマジで。せめて入学式まで待とうぜ。な?》
「うわ……」
思わず声が漏れていた。
麗奈の一番のお気に入りの和服は土で汚れ、おまけに所々がほつれている。ものすごくテンションが下がった。生理二日目でもここまで気分が落ち込んだりはしまい。
もう何もやる気が起きない。
が、そう言う訳にもいかなかった。
特にふらついたりもせず、麗奈は立ち上がった。頭の中は問題だらけだが、身体の方には問題はなさそうだった。
何もやる気が起きないのは確かだが、それでも有栖や緋蜂が帰ってくる前に着替えておかねばならない。
顔を上げれば、再び土蔵の中が視界に入った。がらんどうだ。虫の死骸も、動物のフンすらも落ちていない。
その何もない空間の中で、何かがキラリと輝いていた。窓から入った光を、何かが反射しているのだ。
赤い宝珠の簪に、一筋の光が差し込んでいた。
●
世間一般では奥多摩が終点だと思われている青梅線だが、実はさらに西にもう一つ駅が存在する。
ただし、この真の終点駅が青梅線であるかは疑いの余地があった。奥多摩駅で乗り換えなければならないし、その際には政府発行の専用通行証が必要な通路を通る必要もあるからだ。
そして真の、あるいは偽の終点駅は、その名を花山院学園前駅と言う。その名の通り、麗奈たちが通う学園の最寄駅である。
到着したばかりの電車が、大勢の利用者を吐き出していた。春休みに帰省していた寮生たちだ。
一人で歩いている者もいれば、電車の中で見つけた友人と歓談しながら歩く者もいる。親と一緒に歩く初等部の子供もいれば、どう見ても家族ではなく召使いにしか見えない者たちを引き連れて歩く者もいる。
誰も彼もがキャリーバッグをガラガラゴロゴロと転がすせいで、この時期になるとこの駅はひどくやかましい。
そして、その様子を一望できる場所に、喫茶店『ばるばすばう』は建っている。
店の中には、サラリーマンが脱サラしたら経営したい喫茶店のイメージをそのまま実現するのに成功した空間が広がっていた。
客の入り具合は騒がしくもなく、さりとて閑散としているわけでもない。
店に趣を合わせた壁時計が指すのは4時32分。
カウンターでは髭面の大男がグラスを丁寧に磨いている。彼こそが『ばるばすばう』の店長で、具現化能力者の清原総一郎46歳。前職は不明であるが、花山院学園の学生たちはとある理由で日本国防軍海兵隊員に間違いないと噂している。
その清原が最後に注文の品を運んだテーブルには、麗奈と有栖が向かい合って座っていて、麗奈は珈琲の苦さに顔を盛大にしかめていた。有栖はそんな麗奈の様子を見ながらニコニコと笑っていた。
麗奈の装いは、普段より少しだけ違っていた。
間違い探し。彼女のことを普段からよく観察していれば、すぐに気付くことができるでしょう。
正解は、前髪で隠すように貼られた絆創膏。
開かずの蔵で倒れた時の傷だった。有栖たちにはこの傷が原因で倒れたことが露呈したが、蠍杯の儀は無事に開催された。
蠍杯。それは単に、元服儀式に用いるだけの道具ではない。
世界最強と謳われるローズ・スティンガーを操るためには、いくつかの条件を満たす必要がある。
条件その1。ローズ・スティンガーを生み出した獅子王マリアの血を継いでいること。
条件その2。生体情報登録装置、蠍杯によって操縦者に登録されていること。
そして条件その3は、最後の操縦者が後継者に伝える前に、テロで殺されたことで失伝してしまった。非公式情報だ。条件そのものも、その方法が失われたという状況も。
そもそも獅子王家が絶大な権力を有してこれたのは、ローズ・スティンガーという化け物を操れる唯一の一族だったからだ。人の技術では到底届かぬ世界最強の存在を調査し、研究し、ドール・マキナの発展に、国力の増強に寄与し続けてきたからだ。
だが、その状況はすでに失われて久しい。生きた災厄を安全に制御できない状況で調査するくらいなら、有人ロケットに乗って月目掛けて飛んでいく方がまだマシだった。なにせ有人ロケットは失敗しても、死ぬのは乗組員くらいで済むからだ。
ローズ・スティンガーが調査中にまた暴走でもしたら、どれだけ大勢の人間が殺されるか分かったものではなかった。
全て、非公開情報だ。知っているのはごく一部の人間のみ。
表向きには、ローズ・スティンガーが起こした不祥事の責任を取るために自粛していることになっている。実に50年以上にわたって。
だからこそ、少し気分がすぐれない程度の理由では蠍杯の儀が中止になることはない。単なる成人の儀以上の重要な役割があるからだ。
もしかしたら、失われた条件が再び見つかるかも知れないのだから。そうすれば、再び繁栄の日々が戻ってくるのだから。
麗奈がマリアたちの声が聞こえるようになってからは、既に丸一日が経過していた。結局、麗奈はまだ精神病院には行っていない。
「やっぱ麗奈ちゃんに珈琲はまだ早かったね~。ボクのと交換しよっか。ミルク入れる?」
有栖の言葉に、麗奈は顔をしかめたまま、無言で数回頷いた。有栖は手元の紅茶にミルクを入れた。
「お砂糖は2つ?」
無言のまま立てられた指は3本。有栖は苦笑し、手元の紅茶に角砂糖を3つ入れた。
有栖に渡された紅茶を口に含んで、麗奈はようやく人心地付いた。
有栖は、麗奈とは対照的な少女だ。
170を超える長身の麗奈に対し、140に届かない有栖。
長い金髪の麗奈に対し、黒のボブカットの有栖。
本日は空色の涼しげな和服に身を包む麗奈に対し、赤いチェックのワンピースの有栖。
ついでに友人が全然いない麗奈に対し、多数の友人を持つ有栖。―――もっともこれは、有栖が麗奈の『窓口』の役割を果たしているのも影響しているだろう。
そして麗奈が砂糖たっぷりの紅茶を飲んでいるのに対し、有栖は砂糖もミルクも入れずに珈琲を飲んでいた。
「3年前もそうだったよね。中学生になったからってここに珈琲を飲みに来て、それで結局飲めなかったの」
麗奈も苦笑した。
「ええ、覚えておりますわ。それであの時も、有栖と紅茶を交換してもらいましたわね」
「あ、でもあの時からお砂糖は1個減ったね」
「次はまた3年後に挑戦しますわ……!」
《全然懲りてないなこいつ》
麗奈は拳を握り締める。
「あ、麗奈ちゃん見て見て! 外!」
有栖の言う通り外を見れば、ぞろぞろガラゴロと学生たちが歩いているところだった。
しかし、すぐにその姿が見えなくなっていく。屋外での光度が急速に下がったことで、店内と外を隔てるガラスが鏡のように、麗奈の姿を映すようになったからだ。
「知ってた? この喫茶店のガラスって、日食の時はマジックミラーになるんだって」
日食というのは本来、そう何度も起きるものではない。しかしこの世界のこの日本に関して言えば、その常識は誤りと言えた。
この世界には、日本上空に浮かぶ第二衛星が存在するからだ。名を『天照』という。
ふと、麗奈は何かで読んだ内容を思い出した。
「……海外だと、日食は不吉の象徴とか、悪いことが起きる前触れとか言われているらしいですわね」
「そうなの? でも何日かに1回は起きてるよね?」
「それどころか、1日に数回起きることだってありますわね」
麗奈は窓から空を見上げる。その天照は、今は鏡と化したガラスによって姿を見ることはできない。
《実は天照とかいうものが何で存在してるのか、俺も知らんのよね。日本に着いた当時、さらに別の世界に転移したんじゃないかってマジで疑ったからな》
どうやらマリアは神を名乗っているにもかかわらず、天照については知らなかったらしい。疑惑はさらに深まった。
《お、俺は悪くねえ! 俺が作った世界に別の世界を混ぜたやつがいやがるんだ! そいつのせいだ! 俺は悪くねえ! 俺は悪くねえ!》
相変わらず、言い訳だけは一丁前だった。
《くっそぉー! 本当のことなのにぃー!!》
麗奈はこっそりとため息をついた。昨日からずっとこうなのだ。麗奈の頭の中へと、こうやってマリアが頻繁に話しかけてくる。うっかり口で会話しそうになるのを抑えるのも大変だった。
ついでにだが、もう一つ思い出したことがあった。
鏡には、不思議なものを映す力があるという。
もしかして今こうしてマジックミラーに映っているのは麗奈本人の肉体ではなく、実はマリアが映っているのではないか。
鏡に映る姿を注視する。が、残念なことに時間切れだ。日食が終わろうとしているのだ。鏡に映る麗奈の姿は薄れていき、
ばっちりと目が合った。
五十鈴だった。
本日の装いは革ジャンにジーンズ。荷物はボディバッグだけと、里帰りからの帰り道という訳ではないようだ。
突然に目が合った麗奈と五十鈴であるが、お互いに目を離そうとはしない。とはいえ、これは別に大好きダーリンラブラブちゅっちゅ超愛してるとか、そんな甘々しい理由ではない。
―――先に目を離した方が負けだ。
口に出したわけでもなく、事前に打ち合わせたわけでもない。二人は自然とそう思っていた。
まるきりヤンキーの習性である。どう考えても名門校―――花山院学園の生徒に相応しくない振る舞いだった。
だが残念なことに、この2人はいつもこんなことをやっていたりする。
剣術道場では互いに遠慮なくしこたま竹刀で打ち合うし、
試験ではどちらが高得点を取ったかで一喜一憂するし、
廊下でばったり正対すると互いに道を譲らずに、傍から見るとキスでもしているんじゃないかと勘違いしそうな距離でガンを付け合い手四つを組む始末である。
だから、
「やだもう麗奈ちゃんったら。ボクがいるのも忘れて、愛しの五十鈴ちゃんと見つめあっちゃって」
「はぁ!? そんなんじゃありませんわよ!」
麗奈は反射的に有栖の方を向いていた。しまった、と思ったときにはもう遅い。再び窓の外を見る。そこには「いぇーい俺の勝ちぃ~!」と顔に張り付けた五十鈴がいた。
そして気分よく立ち去ろうとした五十鈴が次に見たものは、己を手招きする有栖の姿であった。見なかったことにしたい。だが次に会った時が怖い。
どうにかしてくれと五十鈴は麗奈を見た。再び目が合い、麗奈は五十鈴からの救援要請を受信した。
この瞬間、二人の気持ちは通じ合っていた。
なんとなくだけど、このまま同席するのは気恥ずかしい、と。
「有栖、五十鈴はもう帰るところみたいですし、」
「善因善果だよ、麗奈ちゃん?」
被せるように言われた。
―――善因善果。善因には善果あれかし。
その言葉は、獅子王家に伝わる家訓。その片割れである。
つまり有栖はこう言っているのだ。「今日は麗奈ちゃんのお買い物にも付き合ってあげたし、珈琲が飲めないのを助けても上げたんだから、次はボクにいいことがあってもいいよね」と。
応援に来た味方が裏切る瞬間を五十鈴が見ることになるのは、この直後のことだった。




