獅子王麗奈の憂鬱 その2
大人たちは大荷物だった。普段は置きっぱなしの防具もついに持ち帰ることになったし、数年、あるいは数十年にわたり蓄積され続けた私物もある。私物はたまに麗奈がドッカンして持ち帰らせていたのだが、それを学習した男たちは、麗奈が立ち入らない男子更衣室に私物を隠すようになった。悪事も年貢の納め時である。
私物の一部を紹介しよう。エントリーナンバー一番、ヨボヨボ爺さんの宅間。両脇に抱えているのは将棋盤と囲碁盤だ。エントリーナンバー二番、巨漢の木村。ダンベル片手に筋トレしながら、もう片方の手にはエキスパンダーをどういうわけか5つも持っている。エントリーナンバー三番、天然パーマの福原。中学高校とボクシングに取り組んでいたからか、ボクシンググローブとパンチングボール。無論、どれもこれも機介剣術とは何の関係も無かった。身軽なのは、引き続きこの道場を使う麗奈と五十鈴だけだ。着替えやタオルが入ったバッグしか持っていなかった。
鍛錬の後は獅子王家本宅の大浴場で汗を流すのがいつもの習慣なので、誰しもが道着からはまだ着替えていない。獅子王家は馬鹿でかい武家屋敷である。奥多摩の山奥という立地もあって、住み込みで働く家政婦や警備員だって多い。大浴場の一つや二つ、当然のように存在する。……一応、言うまでもないことだが、麗奈は大浴場に突撃混浴ラブハートなどせず、使用するのは個人用の風呂である。
大人たちが風呂とその後のお楽しみのために獅子王家本宅へと向かう後ろ姿を、麗奈と五十鈴は見送っていた。ちなみにだが、五十鈴の頭は島の可愛がりのせいでボッサボサのままだ。
途中、その島がちらりと振り返った。麗奈からは見えない角度、五十鈴からは見える角度でのサムズアップ。と思えば指が形を変える。親指が人差し指と中指で挟まれていた。それを見て、五十鈴は「だからそういうんじゃねえっつうの」という視線を返す。けれども島はその視線に気付かぬまま、他の大人たちと共に姿が見えなくなった。
「では五十鈴、わたくしたちも行きましょうか」
「あいよー」
そうして二人は、獅子王家本宅とは逆方向へと歩き出した。
「……花見にゃ、ちっと遅かったな」
≪Heyドライコイン。満開日っていつ?≫
≪報告:西暦2000年の東京満開日は4月6日と当機のライブラリには記録されています≫
本日は西暦2000年4月16日。ガーランやライナスたちが転校してきてから、初めて迎える日曜日だった。二人が歩く通路横に植えられた桜並木は、すでにその大部分を散らせており、新芽の勢力拡大著しい。
「今年は慌ただしくなりましたからね」
入学式や始業式の後に花見というのが例年の慣習だったのだが、今年の入学式はテロリストに乱入され、事後処理で一週間がまるっと潰れた。ようやく休校が明けたかと思えばその日の放課後には銀行強盗を撃退し、さらに翌日には聖女と友人の妹が誘拐されたので解決に走った。それ以降の放課後は全部、最初の一週間が休校になった影響で身体測定を組み込まれた。
そうしてようやくの花見、兼、送別会である。昼間から酒をかっ込んで、そして夜まで続くだろう。それが毎回のことだからだ。
麗奈と五十鈴が逆方向へと向かうのは、彼らのどんちゃん騒ぎからの二人っきりでの逃走劇―――などではなく、機介剣術とは別の鍛錬が目的だ。
ちなみにこの宴会、昼食も兼ねている。朝から八戦も試合をした高校生男子にとって、昼飯を後回しにして鍛錬に向かうというのは欠食児童化まっしぐら。とはいえ宴会を中座するというのも決まりが悪いし、弁当をがっつり食っては宴会で入るものも入らなくなる。
というわけで、五十鈴が取り出したものは、カロリーメイトだった。
≪軍曹かよ≫
「麗奈も食う?」
麗奈は箱ごと残りを渡された。存在こそ知ってはいるものの、実は実物を見るのは始めてだ。とりあえずパッケージを確認し、成分表示表を確認し、
「一本あたり、100キロカロリー……!」
「お前食った分すーぐ身体に出るから、なっ!」
顔面目掛けて裏拳。ダッキングで回避された。
農林水産省が推奨する多活動型成人女性の一日当たりの摂取カロリーは2000プラスマイナス200キロカロリー。プラマイ抜きで考えるにしても5パーセント相当。これを多いとみるか少ないとみるかは人それぞれだが、麗奈は前者だった。
結局、封を開けることなくカロリーメイトを五十鈴に返し、
「ところで五十鈴」
「あいよ」
「さっき、島さんから何を受け取っていましたの?」
五十鈴が思いっきりむせた。カロリーメイトの破片が口から飛び出るのをパンテーラでばっちり視認する。そして五十鈴が思わず懐を手で押さえた瞬間、麗奈は五十鈴へと飛び掛かった。
「コソコソと何をやっておりましたの!? ほら、見せなさいな!」
「うおぁああっ、おい止めろバカ! 中に手を突っ込むな脱がそうとするな! 財閥のお嬢様に見せるようなもんじゃねえ!」
「それを決めるのはわたくしですわよ!」
≪あらやだ奥さんこの子痴女ですわよ。人の目が無くなった瞬間にやーね発情期ね若い娘はそうでなくっちゃね。抱けーっ! 抱けーっ!≫
麗奈はマリアの声を無視した。
男からは絶対にしないような、滅茶苦茶いい匂いが五十鈴の鼻腔をくすぐる。五十鈴が汗を流していないのだから、麗奈だって当然同じだ。オマケに身体をムニムニと押し付けてくるせいで、麗奈相手だというのにどうにも変な気分になりそうになる。
五十鈴の脳裏に、ニヤニヤ笑いの島がサムズアップしている姿が浮かんだ。
そちらも問題ではあるが、それ以上に問題なのが、今現在、五十鈴の懐には、0.02mmで、極薄で、手のひらサイズの不発弾が入っているという事態である。
絶対に勘違いされる。いや、勘違いされる程度で済むのならまだマシだ。もしこのことが有栖の耳に入れば一体どうなってしまうのか、想像するだに恐ろしい。
まぁ死ぬんじゃね? 学校社会的に。
「あった! これですわね!?」
そう叫んだ麗奈の指が摘まんだのは、五十鈴の右乳首だった。
「あふぅん♡ って何してんだお前ェー!?」
「あら、間違えたかしら……?」
「待て待て! 言う! 言うから落ち着け! 体をまさぐるな!? おふぅん♡」
今度こそと麗奈の指が摘まんだのは、五十鈴の左乳首だった。
ようやく麗奈の指が五十鈴の乳首から離れ、しぶしぶと麗奈の身体が五十鈴の身体から離れる。
「で、何なんですの?」
「…………」
胸を両手で庇った体勢のまま、すまない、と五十鈴は思う。だが、これは仕方が無い犠牲なのだ。五十鈴は実に気まずげに麗奈から視線を逸らし、
「AVだ」
「……は?」
≪AVィ? VHSにしちゃ小さかったな。Cか8ミリか?≫
ぽかん、とした麗奈の表情が、みるみるうちに嫌悪感に染まっていく。
そう、仕方が無い犠牲なのだ。
「だからAVだよ。アダルトビデオ。秘蔵のAVが嫁さんに見つかって捨てられそうになったんで、ほとぼりが冷めるまで俺に預かってて欲しいって無理矢理押し付けられた。だから言っただろ、獅子王のオジョウサマの目に入れるようなもんじゃあねえって」
五十鈴の名誉を守るため、島の名誉には犠牲になってもらう。
「……はぁ」
心の底からどうでもよくなったような顔と声だった。麗奈は背を向けて歩き出す。しばらくすると思い出したかのように立ち止まり、後ろに顔を向け、
「何突っ立ってますの、五十鈴。さっさと行きますわよ」
「いや理不尽じゃねえ!? 俺乳首二回も捻られたんだけどぉ!?」
不満を叫びながらも、五十鈴は麗奈の後を追った。隣に並び、
≪秘蔵とまで言われたAVか……。こいつの今日のオカズはこれで決まりだな≫
しかしすぐに麗奈が立ち止まったせいで、今度は五十鈴が後ろを振り返ることになった。
「……今度は何?」
麗奈は左腕で胸を支え、右手を口元に当てている。五十鈴は知っている。これは麗奈が何かを考えこんでいる時の癖だ。
「五十鈴」
「はいはい。なんざんしょ」
麗奈はものすごく深刻そうな顔で、
「……観ますの? その、……ソレを」
五十鈴はものすごく深刻そうな顔で、
「……お前、見たいのか?」
「んな訳ないでしょう!? あなた、わたくしを何だと思ってますの!?」
≪いきなり男を乳首攻めする痴女≫
「ぶっ殺しますわ!!」
「まだ何も言ってねぇー!!?」
訳も分からず五十鈴は逃げ出した。顔を怒りで真っ赤に染めた麗奈が後を追いかける。しかして流石に男女では純粋な身体能力に差があり、五十鈴は見事に次の目的地、道場に隣接する建物の入り口まで逃げきった。そうして勢いよくドアノブを回し、
「……あれ?」
ガチャリと、無慈悲な固い感触が返ってきた。右にも左にも回らない。そう、五十鈴はすっかり忘れていたのだ。
「ふふふ……、残念でしたわね、五十鈴。ここの鍵は、わたくしが管理しておりますのよ……!」
結局、五十鈴は自ら袋小路に入り込んだのだ。そうして息を切らせた麗奈に捕まって、理不尽な一発を受けることになった。
●
周りを見渡すが、麗奈の姿はまだ見えない。予想はしていた。女の支度は時間がかかる。
およそ三年ぶりに足を踏み入れた空間を、五十鈴は懐かしい気持ちで見まわした。温水プールだ。人の姿は、五十鈴以外に誰もいない。
五十鈴が三年間この場所に立ち入ることが無かったのは、花山院学園に水泳の授業が無いからだ。けれども水泳部は存在するから、この温水プールは水泳部が使っているはずだった。他に人の姿が無いのは、今日が日曜日なせいだろうか、あるいは水泳部の活動時間ではないからか。あいにく五十鈴はそこまで把握していない。
そして水泳の授業がないにも関わらず、五十鈴が初等部の間この場所に足を運んでいた理由は、水泳を学ぶためだ。無論、ただの水泳ではない。
獅子王流機介水泳術。
機介剣術同様、ドール・マキナに搭乗した状態を前提とする戦闘術である。とはいえ読んで字のごとく、ドール・マキナで泳ぐための技術などではない。もちろん水場を使う都合上、生身で泳ぐ術を教えはするのだが、目的は泳ぐことではない。
その本質は、空だ。
人の体に翼は無く、反重力装置は無く、ジェットエンジンなんてもちろん搭載されていない。人に空を飛ぶ能力は無い。だが、ドール・マキナの中には飛行能力を有する機体は、少なからず存在するのだ。
では、空を飛べない人間が、生身で空中での身体操作能力を養う際に、何をもって大気の代替とするか。
その答えは大量の水。つまり、このプールの出番というわけである。
プールを用いた訓練は、世界中で似たようなことが行われている。日本では機介剣術こそ衰退したものの、陸海空軍のいずれにおいても、プールによる飛行体勢制御の代替訓練が組み込まれる程度には活用されているのだ。このプールが道場に隣接されているのも、ドール・マキナの操縦鍛錬に用いることを前提にしているからだった。
ちなみに五十鈴の水着はレンタルである。今日、水泳術の鍛錬を行うというのは麗奈が急に提案した話だったので、用意が間に合わなかったのだ。おそらくだが、提案者本人たる麗奈も同じだろう。
五十鈴は思う。麗奈とプールで二人きり。こりゃあますますコンドームの存在を知られるわけにはいかないな、と。今すぐゴミ箱に叩き込んでやりたい。やりたいのだが、ゴミ捨ての際に発見されるリスクを侵すのも、それはそれで恐ろしい。寮の自室まで持ち帰るしかないだろう。
(……しっかし麗奈の奴、遠慮なしに殴りやがって)
仕返しに乳の一つでも揉んでやろうか。いや、乳首を二回摘ままれた分も加えて、三回は揉み返しても許されるのではないだろうか。
そんな馬鹿なことを考えていた五十鈴は、ぶるりと身体を震わせた。
施設内は水温含め、快適な気温に保たれている。だが五十鈴は汗を流したかったこともあって、既にシャワーを浴びていた。じっとしていて身体が冷えたのだ。麗奈がいつまでかかるか分からないしと、五十鈴はその場でストレッチを始めた。もう10年近く続けているのですっかり流れを覚えている。何も考えなくても体が勝手に動く。
……一週目が終わった。麗奈はまだ来ない。
…………二週目が終わった。麗奈はまだ来ない。
三週目が半分ほど進み、次にまだ麗奈が来なかったらデッキブラシでも探して素振りでもするか、と五十鈴が考え始めた頃になって、麗奈がようやく姿を現した。
「おっせえよ麗奈、どんだけ時間かかって―――」
ところで、五十鈴が三年振りにプールに来たという事は、つまりは麗奈の水着姿を見るのも三年振りになるということである。
麗奈は金髪を頭の上でまとめるために両腕を上げていた。わきの下まで丸見えで、ひどく煽情的なポーズを取っているようにも見える。紺の競泳水着を着た肢体を惜しげもなくさらけ出している。
そして五十鈴はあまりにも無警戒に、麗奈の姿を視界に納め、
でっっっっっっっっっか!!!!!
という爆弾を、爆発寸前で飲み込んだ。回転中の首が急停止、嫌な音を立てて即座に反転。明後日の方に視線が向く。ああ、今日も空が青い。首に違和感を覚えながら五十鈴はそう思う。窓の外、第二の月である天照が今日も変わらず浮かんでいる。
デカい、とは普段から五十鈴も思っていた。だって仕方が無いじゃないか。制服の上からでもはっきりと、他の女子とは格が違うとまで分かるのだ。普通の女生徒が丘だとすれば、麗奈のは富士山かエベレストか。そこにお山があるから登るんだよ五十鈴ちゃん、と、いもしない有栖の声が聞こえた気がした。
そして麗奈の肉体は、五十鈴の想像をはるかに超えていた。
そもそも、初等部の頃から麗奈は早熟だった。身長はたいてい女子の中でも一番高かったし、五年生の頃にもなると、水着に着替えれば胸に谷間が出来ていたことを五十鈴はしっかりと覚えている。当時は鼠径部際どい競泳水着ではなくスクール水着だったので大した色気もなかったのだが、麗奈の今の格好はもう凄い。パッツンパツンのブッルンブルンである。グラビアアイドルも裸足で逃げ出すボディラインが丸わかりで、凝視すれば水着の上から乳首のふくらみすらも分かるのではないだろうかと思わずにはいられない。ヘソのところにあるひし形の穴にはいったい何の意味があるのか。もしかしてビームか? あそこからビームが出たりするのか?
一方、麗奈の胸に視線が吸い寄せられるのを避けるために五十鈴が顔ごと逸らしているのをいいことに、麗奈は五十鈴の裸体を凝視していた。
綺麗に割れたシックスパック。どこにでもいそうな凡庸な顔つきで中肉中背の少年が、服を脱げば見事な細マッチョなのである。
≪……いや、この筋肉でモブは無理でしょ。顔とのギャップがエグすぎるぞオイ≫
マリアだってこう言っている。
とはいえ、麗奈は別に五十鈴の肉体美に見とれているわけではない。五十鈴のくせに生意気な、と思っているのだ。
体質のせいか麗奈は脂肪質で、どれだけ鍛えても女性的な丸みが失われない。触ってみれば筋肉があると分かるのだが、外から見ると筋肉が付いているように全く見えないのが密かな悩みだ。
ダイエットをすれば胸から痩せる。中等部のある日、その言葉を聞いた麗奈はその日のうちにダイエットを始めた。そして麗奈がダイエットをやめたのは、ダイエット前に比べてバストサイズが2カップ大きくなったことが発覚した日であった。悲しき過去である。
ところでこれは余談なのだが、麗奈がダイエットをやめてから、ダイエットしていた期間と同じ程度が過ぎた頃、バストサイズはさらに3カップ大きくなっていた。もしかしたら、多少なりとも効果はあったのかも知れない。ちなみに今もなお成長中である。
そんな体質の麗奈からしてみれば、五十鈴の体躯は非常に羨ましいものであった。凝視するのも致し方あるまい。あえて繰り返すが、別に五十鈴の身体だから目に焼き付けているわけでは、決してない。
ところでもう一つ余談なのだが、先述した通り、花山院学園には水泳の授業が無い。すなわち麗奈は五十鈴が細マッチョであることを知る唯一の女生徒であったりする。とはいえ本人にそれを指摘したところで「……で、それが一体なんなんですの?」と呆れた視線を向けられるだけに終わるだろうが。
ぶるり、と、二人同時に身体を震わせた。
「こんなことしている場合ではありませんでしたわね」
「おう、そうだな。麗奈も身体ほぐしちまいな」
「そうですわね」
その瞬間、麗奈の中に悪戯心がわいた。
「……ところで五十鈴。女性の水着姿を見て、なにか感想はありませんの?」
「は?」
五十鈴は麗奈の身体をちらりと見た。続けて麗奈と目を合わせる。決して視線が下がらないように全力で意思を振り絞る。そして一体どんな言葉が返ってくるのかと、ほくそ笑むのを隠しもしない麗奈に対し、至極真面目な顔になり、言った。
「……水着、小さくねぇ?」
ミドルキックが五十鈴の脇腹に突き刺さった。思わず発動した怒りのパンテーラによる神速の蹴りに、五十鈴の身体がくの字に折れる。麗奈の尻に水着が食い込む。そのまま麗奈は足を蹴り抜き、15歳隠れ細マッチョ男子が落下したに等しい水量の水柱が上がった。
食い込んだ水着を指で引っ張りながら、麗奈は思う。五十鈴の言う通りだったかもしれない、と。だけれど仕方が無いじゃないか。レンタルにはこれより大きいサイズが無かったのだ。
水着が尻に当たったパチンという音が、施設内に響いて消えていった。




