マリアの子 その3
六華は呆れていた。この学校、本当に何でも置いてあるよな、と思いながら。
自分の髪からは普段と違う香りがする。学園のシャワールーム備え付けのシャンプーの香りだ。六華の先を進む麗奈や有栖からも同じ残り香がしていて、そのことに違和感を覚えながら歩いていると、唐突に恐怖が六華を襲った。
あのシャンプーってもしかして、滅茶苦茶お高いやつなのではないの、と。
何の気も無しにしたツープッシュ。もしかしてだが、ワンプッシュするだけで六華が普段から使っている詰め替え用シャンプー税抜き398円の10倍以上のお値段くらいは軽くするのではないか。
ドツボにはまる前に、六華は深く考えるのを辞めることにした。国民の皆さん、ごめんなさい。そしてありがとう。将来、税金だけはしっかりと納めるようにします。と、罪悪感を誤魔化すために、それだけを心に刻みながら。
結局、六華は馬に乗ることは出来なかった。
王子様が白馬に乗って馬場を走り回りキャアキャア言われていた頃、春光が連れてきた小柄な馬を相手にキャアキャア言いながら人参を食べさせたくらいのことしかしていない。こんなことで本当に乗馬出来るようになるのだろうか。というか、
「……ねぇ、もしかしてこの学園、馬に乗れなくて留年とかないよね?」
「今のご時世でそりゃねえだろ。乗馬出来ないけど進級してるやつ知ってるぜ?」
隣を歩く五十鈴に話しかけ、その返事に六華は安堵した。そこへパタパタと、廊下を走る音が聞こえてきた。中学時代、三年に渡り風紀委員を務めていたせいで染み付いた癖だ。誰かが廊下を走っていると、つい気になってしまう。
珍しいな、と六華は思う。さすがは天下の花山院学園というべきか、中学までは日常的にいたはずの廊下を走る生徒を、ここではほとんど見ることが無い。ライナスに関する騒動を除いて、という条件付きではあるが。恋とイケメンは少女を暴走させるのだ。
そして、「ハーイ! レイナ~~~!」という聞き覚えのない声の直後、前を歩く麗奈が体勢を崩して、六華の方へと倒れ込んできた。
六華は見た。麗奈が誰かに飛びつかれるのを。
六華は見た。麗奈を押し倒した少女の顔を。
想定外のことに反応が遅れ、六華は二人に巻き込まれ、三人そろって廊下へと転がる羽目になった。
困惑したまま天井を見上げる。蛍光灯が一回だけバツンと明滅したのが見える。蛍光灯へと焦点を焦点を合わせながら、六華はつい先ほどの光景を脳内で反復する。
麗奈を押し倒した少女は、麗奈の顔をしていた。
そんな訳の分からない情報が突然飛び込んできたせいで、自分の方へと倒れ込んできた麗奈たちを、受け止めることも避けることも出来ずに巻き込まれてしまったのだ。
麗奈が呻きながら起き上がる声が聞こえる。
麗奈と同じ顔をした少女が英語で謝りながら、起き上がる声が聞こえる。
だけれども六華だけは、先ほどの光景を消化しきれずに床に転がったままで、すぐに起き上がらない六華を心配したのか上から覗き込んできた五十鈴へと目の焦点が合い、
「獅子王さんが分裂した!?」
「うおっ!?」
ようやく脳が情報を消化して、勢いよく起き上がった。
「お、落ち着け、野亜。同じ金髪で乳がデカいってだけの別人だ」
「別人?」
よく見た。二人は床に座り込んだまま、六華の方へと顔を向けてくれている。
片やきっちりと制服を着て、髪をストレートにしている、今は六華と同じシャンプーの香りをさせている麗奈。
片や制服を激しく着崩し―――いわゆる『アメスク』と呼ばれる格好だ―――露出が激しく、髪はツインテールに結ばれている謎の少女。
物凄く、よく似た顔立ちをしていた。よくよく見れば微妙に顔のパーツが違うのだが、パッと見ると麗奈にしか見えないくらいによく似ている。姉妹か、あるいは見る人によっては双子とも思われるだろう。
「……間違い探し?」
「いや、どう見ても別人だろ」
「五十鈴ちゃんは麗奈ちゃんを見慣れてるからねー。けど本当よく似てるよね。姉妹って言われても納得しちゃうかも」
「シマイ? ……Is it end?」
「あー、えーっと、シスターズ? で、いいんだっけ?」
「Oh,Sisters!」
少女が破顔し、麗奈へと抱き着いた。二人の巨乳が重なり合い、アメスク少女の谷間が柔らかく変形する。絶景かな、と五十鈴は腕を組んでガン見し、
「これで麗奈が裸で走り回るっていう噂の正体も判明しッ!!!」
最後まで言い切る前に、麗奈の裏拳が五十鈴の脛に叩き込まれた。ぴょんこぴょんこと五十鈴が飛び跳ねる。
「……何してんのよ、アンタたち」
「Oh、エレーン!」
そこへ新たに、もう一人が現れた。声からも表情からも不機嫌さを隠しもしていない、銀髪をボブカットにした少女だ。エレンと呼ばれた少女が近付く間に、未だに床にいたままだった麗奈たちは、ようやく立ち上がる。
「アンタ、挨拶は終わったの?」
「ノン。これからデース」
「チッ、本当になにやってんだか」
銀髪の少女は周囲を見回した。麗奈を見て、有栖を見て、六華を見て、今だに跳ねる五十鈴を見て、春光を見て、ライナスを見ても過剰反応を起こさず、そしてガーランを見たところでなんか変なのがいるなと目を逸らし、
「アンタよね、獅子王麗奈っての」
「オイ、何で今オレサマから目を逸らした」
「まぁまぁ、ガル、落ち着いて」
怒りのモストマスキュラー!! というガーランの声と後ろから飛んできたボタンを無視し、麗奈は女子に下から睨み付けられるという稀有な経験を味わっていた。麗奈は普段、大抵の生徒から恐れられていて、目すら合わないように顔を伏せられることも珍しくないからだ。
「ええ、そうですわ。それで、あなたがたは?」
「エレオノーラ。エレオノーラ・ペトロフよ。出身はロシア。父親は軍人。言っとくけど、他の連中と違って、私はアンタらとよろしくするつもりはないから」
「じゃあ、何で、来たんだよ……!」
ガーランがモストマスキュラーを維持したまま問う。身体に力を入れているせいで顔面には血管が浮き出た力んだ表情になっている。
「うっさいわね。アタシだってやりたくてやってるわけじゃないわよ。こっちにも事情があんの。……で、そこの露出魔が」
「ハイ! エーリカ・レムナントデース! ……ロシュツマ、って何デス?」
「レムナントって、獅子王さんの会社だよね? 関係者なの?」
「申し上げにくいのですが、わたくしはエーリカさんを存じ上げませんわ」
「アメリカの方じゃね? 軍事産業、レムナント・インダストリアルの」
「Yes,That's right!」
脛をさすりながら五十鈴が言い、エーリカも肯定した。六華の表情に疑問が浮かんだままなのを見て、五十鈴はさらに補足する。
「大本は同じ組織なんだよ。アメリカ大陸を開拓したレムナント傭兵団な。で、日本に渡った連中が興したのがレムナント財閥で、アメリカに残った連中が興したのがレムナント・インダストリアル」
「完全に無関係とまでは言いませんが、財閥が軍事産業から撤退した今となっては、ほとんど交流もありませんわね」
「法事の時くらいにしか会わない親戚みたいな感じ?」
「た、多分? え、そんなことってあるの? 親族って隠し子とかでもない限り、全員把握してるもんじゃねえの?」
「え? どうなんだろ。おじいちゃんおばあちゃんのお葬式の時とか、初めて会う親戚が何人かいたりしたからさ」
初等部から花山院学園に通う五十鈴と、庶民として生きてきた六華の間で、微妙な常識のすれ違いが起きていた。
「アンタたちの事情なんてどうだっていいのよ。エーリカ、戻るわよ」
「What's? エレン、ワタシまだまだ話し足りないデース」
「後がつかえてんのよ」
エレオノーラは親指で背中側を指差した。その方向、多数の生徒が遠巻きに麗奈たちを見る中に、明らかに異質な四人がいる。
一人目。黒髪を三つ編みに纏め、制服の袖口を広く改造し、袖の中に手を入れている黄色人種の男。
二人目。ツンツン頭の金髪には一房だけ赤のメッシュが入っている、目の周りに隈取りを入れた褐色肌の男。
三人目。長い黒髪に一房だけ青のメッシュが入った、左目に泣きぼくろがある褐色肌の男。
四人目。二人の褐色肌の男の背後に控えるように佇む、眉間に赤の宗教的装飾を入れた褐色肌の少女。
「なんだ、あいつらかよ。んじゃオレサマも先に戻ってるぜ」
「そうですね、私もそうしますか」
ガーランとライナスがそう言うのを聞いた五十鈴は、
「知ってんの?」
「御同輩さ。昨晩に顔合わせしてんだよ」
「それに、私一人だけで戻ったら質問攻めにあうじゃない。アンタも半分請け負いなさい。獅子王麗奈の親類縁者だってんなら、アンタにはその義務があるわ」
そう言うと、エレオノーラはエーリカの首根っこを掴んで引っ張った。その拍子に、
ボロン、と。
胸の前で結んでいた裾が解けて、ついでにブラジャーまでズレて、エーリカの胸が丸出しになった。
「Oh」
春光とライナスとガーランは咄嗟に目を逸らす。麗奈は咄嗟に五十鈴に目潰しを敢行する。
「ちょっ、隠せ隠せ! アンタ何してんのよ!?」
「ノ~。やったのはエレンねー」
「う~ん、麗奈ちゃんに勝るとも劣らない大きさ……」
「獅子王さん割とナチュラルに手が出るよね」
「あ、あれは五十鈴限定ですわよ!?」
「てか何でこんな脱げやすい格好してんのよアンタは!?」
「ComicsだとAmerican Girls、こんな格好してマース」
「それは漫画の中だけよ! ってこれ小さくない? サイズ合ってないんじゃないの?」
「South Islandにある中では、一番大きいSizeデスよー?」
五十鈴の悲鳴が廊下に響くのを背景音に、女子四人でギャアギャア騒ぎながら、エーリカの周りに壁を作って服を整えさせる。そして壁が撤去された後には、元通りの姿になったエーリカと、首根っこではなく手を掴んだエレオノーラの姿があった。
「じゃ、そういうことで」
二人が麗奈たちの元を離れていく。途中、順番待ちをしていた四人のうち、褐色肌の三人がエーリカを凝視しているのにエレオノーラは気付いた。
(……こいつの格好、インド人には刺激が強いのかしら? いや、こいつらが本当にインド人かは知らないんだけど)
まぁいいや、とエーリカが話しかけてくるのに適当な相槌を打ちながら、四人とは挨拶もせずにすれ違う。背中越しに感じる視線の気配は、自分たちの教室に入るまで消えることは無かった。
「すこし時間を貰おう。オレは中国人民解放空軍、丁詩虞特務大尉。詩虞が名だ。よろしく頼む。……ところで、」
他の三人がエーリカを注視している隙に、黒髪の東洋人は距離を詰め、麗奈たちに声を掛けた。横を通り去るガーランとライナスに一瞬だけ視線を向け、次いで目を抑えて呻く五十鈴を見て、
「彼はその、大丈夫なのだろうか?」
「ご存知かとは思われますが、獅子王麗奈ですわ。この男についてはお気になさらず。いつものことですので」
「そ、そうか。日本の文化には明るいわけではないが、こういう風俗もあるのだな」
「風俗でもこんなプレイはねえよ! こいつが暴力女なだけだ!!」
「五十鈴。丁大尉の言った風俗って、しきたりとか風習って意味の方だと思うよ」
五十鈴の突っ込みに春光が突っ込んだ。詩虞はうむ、と頷き、
「奴隷の折檻は主の勤めだが、公の場で諫めるというのは中国では見られるものではないな」
「奴隷でもねぇー!!!」
ようやく目が開けるようになった五十鈴は、詩虞の姿を認識した。
「あ、お前ってもしかして、昨日超機臣で戦ってたりした?」
「チョウキジン……? 啊、超機臣のことか。確かに昨日、市街で何機か拼接を屠りはしたが」
拼接というのは、中国語でパッチワーカーを指す言葉だ。詩虞の言葉を聞いた五十鈴は「おぉー!」と声を上げ、
「いいよな、超機臣。三大新兵器とドール・マキナの融合……!」
「ほう、分かるか! 我が国が生んだ超機臣の素晴らしさが!」
「おうよ。馬鹿にする連中も多いけどさ、可能性の塊っつーの? 日本も追従すりゃいいのに。車だけじゃなくってさ」
「そうは言うがな、……啊、名前を聞いてなかったな」
「あ、鷹谷五十鈴な」
「そうか、そうは言うがな、五十鈴。我が国が危惧しているのはまさにそこだ。他国が我が国の後塵を拝すというのは素晴らしいことだが、それは同時に他国も優れた兵器を手に入れるという事と同義なのだ。そう素直に頷ける意見ではない」
詩虞は挨拶をしに来たはずの麗奈そっちのけで、五十鈴との意見交換に熱中していく。
駄目だこりゃ、と有栖は肩を竦めた。五十鈴はこうなると周りが見えなくなる。会ったばかりゆえに詩虞なる人物がどうかは分からないが、この様子を見る限り、五十鈴の御同輩だろう。
「はい、次の人たち、どーぞー」
と、有栖は順番待ちをしていた残りの三人に声を掛けた。これまでの者たちはネクタイやリボンが一年生を表す青色だったのと違い、三人ともネクタイの色は緑。つまり二年生だ。
「お初にお目にかかる。私はインド陸軍将軍、クリシュナが子、アージュン・マハーラージャ」
「同じく、ルドラ・マハーラージャ」
黒髪青メッシュ泣きぼくろが、続いて金髪赤メッシュ隈取りが名乗り、お互いがお互いを親指で指し、
「「こいつの兄だ」」
直後に手四つを組んで額を突き合わせ、
「「キサマは弟だ!!」」
麗奈たちそっちのけで、取っ組み合いをおっぱじめた。突如始まった先輩二人の醜態に対し、皆でどうしたものかと顔を見合わせ、最後の一人にどうすんのこれ、という視線を向ける。
「……申し訳ありません。放っておけば収まりますから。わたくし、アージュン様とルドラ様の従者、ハリシャと申します」
「これはこれはご丁寧に。麗奈ちゃんのお姉ちゃん兼秘書兼護衛兼その他もろもろ、在須有栖です」
「そこは獅子王さんじゃなくて有栖ちゃんが対応するんだ……」
「まぁ、お互いの立場的にもねー」
「ふふ、そうですね。お二方にご用向きがあられましたら、わたくしにご連絡いただければと思います。……という訳で、携帯電話の番号交換を、お願いしてもよろしいでしょうか」
ハリシャは少し照れた様子で、最新の折り畳み式携帯電話を取り出した。
「あ、ボクからもお願いしたかったんだ。こっちの方も麗奈ちゃんはケータイ持ってないから、連絡があったらボクに繋げてね」
六華も自分の携帯電話を取り出し、連絡先の新規登録画面を開く。
「それにしても、これだけ人と会ったのに連絡先交換するのが一人だけって……」
「あ、僕、ペトロフさん以外とは連絡付くよ」
「え、なにそれ。一人だけ仲間外れ?」
「いや、そうじゃなくって。ロシアからは戦力提供されてないからさ、僕たち、というかラプソディ・ガーディアンズとは連携してないんだよね。レムナントさんについては米軍空母と協力関係にあるから、そっち経由して連絡出来るはずってくらいだけど」
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皆が連絡先を交換するのを聞きながら、麗奈は今も名前が出てきたエーリカのことを思う。
超高速思考能力、マリアに『パンテーラ』と名付けられた能力を持つ麗奈にとって、エーリカが飛びついて来ても、それをいなすなり避けるなりするのは、本来であれば造作もない。
だが、あの瞬間は例外だった。だからまともに突進を食らい、六華まで巻き込むことになってしまったのだ。
―――俺がいる。
エーリカ・レムナントを見た瞬間の、マリアの言葉だった。短くも、異常ともいえるその言葉に気を取られて、麗奈はエーリカに対応し損ねたのだ。
それ以降、マリアは沈黙を続けている。普段であれば頼んでもいないのに感想やら解説やら薀蓄やらを垂れ流す迷惑な脳内限定騒音問題男は、先ほどの言葉がどういうことなのかと麗奈が頭の中で問いかけても、未だに返事の一つも返してこない。
周りには人がいるのに、麗奈の胸の中には、奇妙な静けさが広がっていた。




