マリアの子 その2
「すみません、そちらのお方。お時間よろしいですか?」
突如、背中の方から投げられたその声に、優美はぎくりと身体を強張らせた。
覚えのない駅で電車を降りて、覚えのない道を歩いて、覚えのない制服を着た学生たちの視線をやり過ごした。そして、人通りのない場所に出たところだった。
周りには、優美以外に人の姿は見当たらなかった。
それはつまり、自分に向けてへの言葉に違いなかった。
最後に時計を見たのはいつだったか。正確な時間は分からないが、どう考えても今はもう授業が始まっているであろう時間のはずだった。そんな時間に制服姿で一人外を出歩く学生へと声を掛けるなんて人間は、優美には警官以外には思い浮かばなかった。
逃避行もこれで終わりか。優美はそう思う。考えてみれば当然だ。この場所は花山院学園からも離れていて、天下の花山院学園の制服を着ていたとしても、その意味を知らない警官なんてこの辺りにはごまんといるはずなのだ。
きっと補導されるのだ。補導というのがどういうことをされるのかをよく理解してはいないが、きっと警察署に連れていかれて、狭い部屋でライトを顔に当てられながらカツ丼を出されて、どうしてこんなことをしたんだ親が鳴いているぞと詰問されて、そして親と学校に連絡が行くのだ。そうに違いなかった。
(―――逃げる?)
一瞬、その考えが頭に浮かぶ。若い女の声だった。もし婦警であるとすれば、履いているのはタイトスカートだろう。あんなスカートで速く走れるとは思えない。このまま振り返らずに走り出せば、追いつかれることは無いだろう。
逃げれば罪が重くなるぞ、という善なる心の中の声。
逃げきってしまえば罪も罰も無いんだぞ、という悪なる心の中の声。
一瞬だけ葛藤する。
ふと思う。もし姉なら、こんな時どうするだろうか、と。……どうもこうも、あの生真面目で正義感の強い姉が学校をサボるとは思えないのだが、それはさておき。
だが、『姉ならどうするか』と考えた時点で、既に結論は出ていたのだ。
脱力した。強張っていた肩がすとんと落ちる。逃避行の終わりだった。
「はいはーい、一体何の用ですかー?」
そうしてようやく振り返り、後ろから声を掛けてきた相手の姿をその目に捉えた。
警官ではなかった。予想だにしていない姿があった。目を数度瞬かせ、手で擦り、なおも眼前の状況に変化がないことでどうやら幻覚を見ているわけではないようだと受け入れた。
「お……お姫様?」
童話か何かから出てきたのだろうか。そうとしか思えない出で立ちの少女が、たった一人立っていた。
きめ細かな金髪。その上にはティアラが乗っている。ティアラからは透明感のあるヴェールが延びていて、きらきらと光を反射している。
身長は優美と同じ程度だ。だが服装が明らかにおかしい。まるで舞踏会でしか使わないような、豪奢な純白のドレスなのだ。
少女の背景に目をやる。色褪せたコンクリートブロック塀。場違い感が凄まじい。どうやら自分が変な場所に迷い込んだわけではなく、変な人が自分たちの日常に迷い込んだのだ。
「花山院学園の中等部の方とお見受けいたしますわ。わたくし、ラセリハ・マリウスと申します」
そして何より厄介なことに、優美は完全にロックオンされていた。
昨日も感じたのだ。住んでいる世界が違う人間に話しかけられると、まるで蛇に睨まれた蛙のような気分になるのだと。何故あの姉は、あんなに綺麗な先輩相手に、全く物怖じせずに話しかけれるのだろうか。我が姉ながら危険を感知するセンサーがぶっ壊れているんじゃないかと優美は思う。
お姫様、ラセリハが柔らかに微笑む。
「少々お時間、よろしくて?」
いやだと言えるはずがあろうか。いや、あるまい。反語。
今決めた。中学校三年間の目標。
ノーと言える日本人になりたい。
眼前、微笑んだままのラセリハが、「返事はどうした?」と言わんばかりに小さく首を傾げた。
……とりあえず、明日から頑張ることにしようと思う。
●
「いやー、確かに上流階級特有の、私じゃ理解が及ばない風習はまだあるんだろうなーって思ってたけどさー」
今は2時間目の休み時間。3時間目の体育に向けて、六華は麗奈と有栖の案内の元、校舎の外を歩いていた。
体育なので着替えているのだが、来ている服は体操服ではない。ジャージでもない。
上はワイシャツで下は厚手のズボン。靴はやはり厚手のブーツ。そして上には追加の上着で、
「いやおかしいでしょこの服! 何これ! 燕尾服!?」
前を歩く麗奈が振り向く。六華の姿を上から下までざっと見て、
「大丈夫ですわ。どこもおかしくなどありません。よく似合っておりますわ」
「ありがと。……じゃなくて! なんで体育で燕尾服!? 先週受け取った体操服とジャージは!? 体育でする格好じゃないでしょ!? 執事になる授業でもあるの!?」
「体操服使う授業はもう少し先になるかなー。執事になる授業はないかなー」
「落ち着きなさいな。すぐにわかりますわ」
そう言った麗奈たちは足を進めていく。建物の角を曲がり、二人の後ろ姿が見えなくなったので、六華は慌ててその後を追って、
べろん、と。
生暖かい、湿ったもので顔を舐められた。中学校の文化祭、見回りで入ったお化け屋敷を思い出した。あの時はコンニャクだった。昼間に常温で放置したせいで、妙に生ぬるい感触だったことを覚えている。
今回のものはコンニャクではない。ざらざらとした感触だったからだ。強い摩擦を生み出して、頬が引っ張られて首が傾く。
ついでに、とても獣臭かった。
「ヒヒン」
馬だ。
「って馬ーーー!?」
叫び飛び跳ね、倒れて尻もちをつき、
「ブルッヒヒン!!」
六華の声に馬は嘶き、飛び跳ね、後ろ足で立ち上がった。
「おおっと、どうどう! どうどう!」
やはり燕尾服のライナスが、慣れた風に手綱を引いて馬を落ち着かせようとする。
「ツラ舐められたくれえでデケエ声出すんじゃねえよ。馬が怯えるだろうが」
燕尾服と、服に全く合わないサングラスのガーランが六華を見下し、
「大丈夫か、野亜?」
一人だけ燕尾服の似合っていない五十鈴が六華へと手を伸ばした。
「な、なんで馬がこんなところに……」
「なんでも何も、なぁ?」
五十鈴に話を振られ、麗奈が頷く。いつの間にやら乗馬鞭を手にしており、掌に当てて音を鳴らした。
なんでこの人こんなに鞭が似合ってるんだろう。若干遠い目になった六華は、現実逃避ぎみにそう思った。
「本日の授業は、乗馬ですもの」
「乗馬……乗馬ぁ!?」
五十鈴に手を引かれて立ち上がった六華は、そのまま五十鈴を盾にして馬から身を隠した。ようやく落ち着いて周りを見回せば、他のクラスメイト達は麗奈たち同様、いくつかのグループを作り、馬小屋から馬を連れ出して奥へと向かっていくのが見える。
「いやいやいや……」
「なんだ、乗馬苦手なのか? それとも馬の方が苦手とか?」
「苦手も何も初体験だよ……! 馬を見るのも初めてだよ!」
「……もしかして、普通の学校って、乗馬ねえの?」
「あるわけないでしょ!?」
「たしかに、私も不思議に思ってたんですよね」
ライナスが先に行く女生徒たちの黄色い歓声に手を振って返しながら、
「学校が舞台のマンガやラノベを読んでも、馬が全く出てこないんですよ。当たり前すぎてわざわざ出すほどでもないのだろうかと思っていたんですが、まさか乗馬の授業自体が存在しないとは……」
「イギリスには乗馬の授業あったの!?」
「私の通っていた小中学校にはありましたね」
「ガーランはどうだ? 乗れるのか?」
「乗れるに決まってんだろ。オレサマは天才のガーラン様だぞ」
「……むしろガーラン殿下を乗せてくれる馬がいるかを心配すべきですわね」
「あー、じゃあ今日は、野亜が馬に乗れるようにサポートって感じにするか?」
「そうだね。じゃあ先生に伝えてくるよ。ポニーの許可も貰ってくる」
春光が一人、他の生徒たちが向かっている馬場へ向かって走っていく。
「ポニーに乗せるより先に、まず馬に慣れさせる方が重要ではなくって?」
「そうだねー。というわけで六華ちゃん、はいこれ」
麗奈の言葉に賛同した有栖が、六華の手を取り棒状のものを握らせた。鞭かな、と思った六華は手元を確認する。
人参だった。
人参の上半分を馬が齧った。
「ほわあああああーーー!!? 今バクンって! バクンってー!?」
「あらあら、随分とお腹を空かせていたようですわね。それとも食いしん坊さんなだけかしら?」
「お腹を空かせていたようですわねじゃないよ! 腕ごと食われるかと思ったよ!?」
「うるせえぞ、いちいち喚くな。馬はそこらのアホな人間どもよりかよっぽど頭いいんだから、腕ごと一緒に食うわけねえだろ」
「これは慣れるまで時間かかりそうだねぇ」
「ひいい~舐められてる! 顔舐められてる! てか髪食べてない!?」
「馬はアホだから髪と枯れ草の区別出来ねえぞ」
「一体どっちなのガーラン君!? 私は何を信じたらいいの!?」
●
「……ねえ、ラセリハ。私は何を信じたらいいと思う?」
途方に暮れた優美は、手をつないで隣を歩く少女に向かって問いかけた。そのラセリハは柔らかに笑い、
「それはもちろん、天におられるわたくしたちの偉大なる主を」
「いやウチ仏教なんで。そういうのいいんで」
ため息をつく。人気のない狭い十字路に対し、どれが駅に続いているだろうかと優美は考える。
絶賛、迷子であった。
さもありなん。名前も聞いた覚えがない駅で降り、覚えのない道を何とはなしに歩いて回ったのだ。帰り道なんて分かるはずがなかった。
……いや、もしかしたら、一人だけであれば、うっすらとした記憶に頼って来た道を戻ることは出来たのかも知れない。
だが、それも後の祭りだ。ラセリハの面倒を見るうちに、僅かな記憶はかすんでいった。その後も、自分たちが一体どこを通ってきたか覚える余裕も無かった。
だって仕方がないじゃないか。目を離すとラセリハがいなくなるのだ。
塀の上を歩く猫を見つけたらその後を追いかけるし、犬の鳴き声がすればそちらに向かうし、水路を葉っぱが流れていれば並行する。園児の面倒でも見ている気分だった。だから迷子にさせないように、恥ずかしさを押し殺して手をつないで歩いているのだ。
案内の者たちとはぐれてしまった、とラセリハは言う。はぐれたんじゃないだろ、と優美は思う。絶対に、その案内の人たちとやらは、ふらふらと歩くラセリハを見失っただけに違いなかった。
まさか放っておくわけにもいくまい。なんでもラセリハは花山院学園へと留学に来たらしく、優美と同じ歳の中学生という話だった。だから遠慮も無しにタメ口を使うことにした。明日のためへの小さな一歩。
だが、優美に出来ることなどたかが知れていた。花山院学園にまで連れていくということしか思いつかず、花山院学園に行くためには電車を使わねばならず、そしてそのために駅を求めて見知らぬ道を歩いている真っ最中である。
誰か人と会えれば道を尋ねることも出来るだろうが、こんな時に限って人の姿は見えず、店の姿も見えなかった。適当に歩けばコンビニの一軒くらいはあるだろうと思っていたのだが、今のところ、コンビニの看板すらも見つかっていない。
その辺の民家のインターホンを押すという手段もあるにはあるが、あいにく優美にはそこまでの度胸は備わっていなかった。
「ていうかさ、その主とやらは、迷子に駅までの道を案内してくれるの?」
「主は、乗り越えられない試練をお与えになることはありません」
「そうじゃねぇ~……。私の言いたいことはそういう意味じゃねぇ~……」
携帯電話を持ってこなかったのは失敗だった。絶対に姉から電話が来ると思っていたから、わざと家に置きっぱなしにしてきたのだ。こんなことになると分かっていたなら、電源だけ切って持ってきていたのに。
下手な考え何とやらだ。こうしていても仕方がないと、優美は正面の道を選んだ。しっかりとラセリハの手を引いて、再び二人は歩き始めた。




