竜獅相搏 その3
「あの、獅子王さん。……サイン、ください!!」
教室に到着した六華は、随分と緊張した様子で顔を真っ赤にして、麗奈へと頼み込んだ。
「……サイン、ですか? 別に構いませんけど、わたくしのサインなんて学園では何の効力も持ちませんわよ」
了承こそしたが、麗奈は同時に首をかしげる。
一週間近く続いた書類仕事と、つい先ほどまでの五十鈴との会話、加えて先ほどまで読んでいたライトノベルの内容が謎の部活ものだったことも合わさり、六華は創部届か何かに麗奈の署名が欲しいのだろうと考えた。
六華がビニール袋から色紙を取り出し麗奈に手渡す。麗奈は素直に受け取り、それが見出しも無ければ部活動の名前も、入部希望者の名前を書く場所も、担任と顧問の印鑑を押す場所も無い、真っ新な色紙であることにようやく気付いて固まり、
「…………」
「あー、麗奈さん? 野亜さんが言ってるのは芸能人がファンに書くようなやつのサインのことで、書類とかに書く署名のことじゃないからね」
六華と一緒に教室に入ってきていた春光が状況を察し、助け舟を出した。ついでに油性ペンを手渡す。
(……これ、どちらが表でしょうか?)
麗奈はツルツルした白い面と、ザラザラした薄茶色の面のどちらに書くべきかで悩む。
《返答:白い方が表です》
《あれ、そうだっけ? なんかで茶色い方が表だって聞いた気がするんだが》
《補足:そちらは勘違いが広まったことによる、誤った情報ですね》
麗奈はドライコインを信じた。手慣れた手付きですらすらと、筆記体を適度に崩した、まさしく芸能人が書くような形状のサインを書いて、
《あ、こういう時は日付も書いてやれよ。今日は2000年の4月10日な》
マリアの言葉の通りに日付も書いて、
《あと『野亜六華さんへ』っても》
マリアの言葉の通りに六華の名前も書いて返した。
「ありがとう、獅子王さん!」
「……麗奈さん、こういうサイン、練習してたの?」
「え? ……あっ」
言われて気付く。昨日までの延長線上で、つい手癖でサインを書いてしまったことに。ついでにマリアの誘導に素直に乗ってしまっていたことに。
「いえ、これはわたくしではなく有栖が考えたもので……。ほら、わたくしの名前って、漢字で書くと字数が多いでしょう? ですが、ちょっと大量に署名をする必要がありまして、先週からずっとこの署名をし続けていたもので、つい。ええっと、野亜さん。漢字の方が良かったかしら?」
「いやいや、こういうのでいいんだよこういうので! 部屋に飾って家宝にするね!」
「そんな大層なものではないんですけれど。……というか、なぜ急にサイン?」
「そりゃもちろん、獅子王さんがあのローズ・スティンガーの操縦者だって聞いたからだよ!」
目をキラキラと輝かせながら六華が言う。が、麗奈はそう言われても困惑しか浮かばない。
「珍しい反応ですわね……」
「だよねぇ。この学園だと、ローズ・スティンガーも麗奈さんも、基本的に畏怖の象徴だからね」
「そうなの!? なんで!?」
「なんでなんでしょうね?」
「平和学習が原因じゃないかな。虐殺の原因になった人の子孫なわけだし」
「その条件だと、春光さんも同じなんですけれどね……」
麗奈は基本的に学園中の生徒たちから遠巻きにされるが、春光は逆に人気者の一人だ。麗奈の近くにいる時を除けば、大抵は人に囲まれている。
当の春光からしてみれば、自分の周りに人が群がるのは、自分の父親の立場が理由だと考えていた。彼ら彼女らは春光を見ているのではない。その背後、警察庁長官という権力を見ているのだ。
例外と思えているのは五十鈴くらいなもので、最近知り合った六華の評価は未だ宙に浮いている状態だ。
「あ、そうだ。麗奈さん。悪いんだけど、席を一個前にずらしてもらっていいかな?」
「? 構いませんけれど、何かあるんですの?」
「うん。後ろを開けておかないと、あとで困ることになると思うから」
よく分からないが、麗奈は言われたとおりにした。自分の鞄と、加えて隣に残された有栖の鞄も手に持つ。春光は麗奈の前の席に置かれた五十鈴の鞄を持ち、一つ前の席に自身の鞄とまとめて置いた。
改めて着席し、
「ところで、どうしてそんな話に?」
「あ、うん。春光くんと電車で一緒になって。先週の騒ぎの時、私トイレ行ってる間に全部終わっちゃってたから。だから何が起きたのか聞いてたの。そこでローズ・スティンガーの話が出てきて」
「電車で?」
一ヶ所、気になった部分があった。というのも麗奈の記憶にある限り、春光は五十鈴と同じで寮暮らしだったはずだ。
「そういえば五十鈴も言っていましたわね。寮生は全員、一度親元に戻されたと」
「いや、僕はそっちとは無関係だよ。今日、電車だったのは、昨日まで僕、本庁にいたから。例の部隊設立の件で」
「ああ、例の。それにしても、野亜さんがローズ・スティンガーに興味があるとは意外でしたわね」
「そりゃそうだよ! 圧倒的な力で悪をばったばったとなぎ倒す! そんな正義の味方がすぐそばにいるんだよ! これが興奮しないわけないよ! あぁ~あの時気付いてたらもっとじっくり見てたのに!」
「……わたくしもローズ・スティンガーも、正義の味方というわけではないのですが」
麗奈は呆れてそう言うが、悪い気持ちはしなかった。
●
予鈴が鳴り、黒板横の扉が開き、しかして姿を現したのは一年一組担任教師の村木和正ではなく、理事長代行の梅崎勝治郎であった。
誰も彼もが首をかしげる。最前列に座る女生徒が、
「理事長代行? その、村木先生はどうされたのでしょうか?」
梅崎はものすごく不機嫌そうな顔になった。
「あのクソッタレは……逃げおった! 敵前逃亡は銃殺刑だ銃殺刑!」
あぁ~……、と、生徒たちの間に理解が広まる。さもありなん、と誰もが思う。
テロリストを麗奈が撃退した後、そこに残されたのは脱糞した上にコケて転がったことで人間うんこ爆弾と化した村木の姿であったからだ。
麗奈だって知っている。ついさっき、戻ってきた有栖からその話を聞いたから。
正確に言えば村木が脱糞したのはテロリストが原因ではなく、そのテロリストを撃退するために現れたローズ・スティンガーが咆哮を上げたことによるものなのだが、そんなことは皆にとってどうでもいいことだった。重要なことではない。
気絶したままの村木には誰も彼もがエンガチョして近寄らず、そして気付けば、いつの間にか姿が消えていた。
今では村木が気絶していた場所、すなわち人間うんこ爆弾の爆心地周辺四ヶ所に三角コーンが置かれ、三角コーンにはコーン用のポールが取り付けられ、人が踏み込まぬように結界が作られていた。ご丁寧にポールには紙垂まで取り付けられている。
「傾注っ!! ワシは忙しい! あのクソッタレのせいで余計にな! 共通連絡は他のクラスの連中から聞け! このクラスに関係のあることだけ伝達する!!」
梅崎が連絡したのは、一週間の緊急休校に伴うスケジュール調整についてだった。これからしばらくの間、放課後は初等部から順に身体測定と健康診断を行うという話だ。
「それと、転校生を紹介する」
途端に教室中が騒がしくなった。花山院学園は転入生が多いという自覚が生徒たちにもあるが、それにしても奇妙に過ぎるタイミングだからだ。入学式からはまだ一週間しか経っていない。相当なワケアリだと、
「喧しいっ! ワシは忙しいと言っとるだろうが! 静かにしろッ!」
梅崎は黒板横の扉まで移動し、再び扉を開け、
「お前たちも入って自己紹介しろ! 石川ァ! こいつらの面倒みてやれ!」
春光に後のことを任せて、教室を出ていってしまった。嵐のような男であった。が、惜しむ声はない。転校生の方がはるかに重要だからだ。
開いたままの扉から、男子生徒が入ってくる。白人系だ。彼は教卓の隣に並んで立つ。
長身に紫色の長髪。赤いフレームの眼鏡。にっこりと微笑みを浮かべると、それだけで多くの女生徒が熱いため息を漏らした。
《……美、美形だッッッ!!!》
胸を射抜かれた女生徒たちは、彼の周囲がキラキラと輝き、無数の花が周囲に咲いているのを幻視している。
生き残りは数少ない。生存者の女生徒は同じテーブルに座るわずか三名のみだ。麗奈と、有栖と、六華だった。
生存者の一人である六華は、ついさっき無事の再会を喜んだ新しい友人たちが次々と撃墜されていく姿、その一部始終を目撃していた。六華が無事だったのは、単に自分には縁遠い相手だと思ったからだ。だから生き延びることが出来た。あるいは、これも一種の主人公補正と言えるのかも知れない。
《あぁ~生きてて良かったぁ~! いやもう死んでるわ俺》
ついでに、マリアも見事にハートを撃ち抜かれていた。
「はじめまして、皆さん」
―――後にも先にも、声を聞いただけで妊娠したと思ったのはあの瞬間だけです。
女生徒の一人、柴真美子はのちにそう述懐している。ちなみにそう思った生徒は彼女一人だけではない。
「私はライナス・ロンゴミニアド。ブリテンより来日しました。かねてより日本に来ることが夢でしたので、こうして留学できたことをうれしく思います」
教室が再び騒々しくなった。
「おいおいマジかよ。ロンゴミニアドって、確かイギリスの王族だろ?」
五十鈴も思わず呟いていた。ライナスは一つ頷く。それだけでも恐ろしい程に絵になっている。
「ロンゴミニアドの名の通り、私はブリテンの王族です。けれども王位継承権は下から数えた方が早いですし、ここは遠く離れた異国の地。わたしが王族だということは気になさらないでください。それが理由で距離を取られるのは悲しいですしね。皆さん、よろしくお願いします」
気負った様子はない。ライナスに夢中な女生徒たちは、さらに熱を上げようとして、
「おう、終わったかライ」
扉から上半身を覗かせたもう一人の転校生の姿に、一瞬で凍結させられていた。
短く刈り上げられた金髪。青みがかった反射光のスポーツサングラス。
だが、凍結した理由はそれらではない。その転校生は、あまりに巨体過ぎた。彼は上枠を掴んで身を屈め、狭い出入り口をひどく億劫そうに通過する。
「でっか……」
《いや、デカすぎね?》
誰かが呟いた。マリアも呟いた。教室に踏み込んだ男が立ち上がると、改めてその巨体がよく分かる。
彼が入ってきた扉は、高さ2メートル程はあるのだが、その男は首の位置ですら扉の上枠を余裕で超えていた。
もし、この巨漢が勢いよくジャンプでもしようものなら、その頭は天井に突き刺さること間違いないだろう。
ズシンズシンと歩く。どう考えても人間の出していい足音ではない。ライナスの隣に並ぶ。長身のはずのライナスが、まるで幼い子供のような錯覚を抱きそうになる。
縦だけではなく横にもデカい。腕なんてその辺の女生徒の胴回りよりも太いし、肩幅はライナスを横に三人並べてもなお足りない。
サングラスを外す。顔は、顔だけは、ライナスに負けずとも劣らない美形であった。
《ぼ、ボディビルダーに乙女ゲームの攻略キャラの顔を貼り付けたような雑コラ感……!》
男はニンマリと笑い、外したままのサングラスを隣のライナスに預けた。
「オレサマは、」
一歩前へ出て、両腕をゆっくりと上へ伸ばす。
「天才の、」
息を大きく吸って止めた。腕を勢いよく下ろして、
「ガーラン様だ!!!」
ダブルバイセップス!!
上着の布地が一瞬で悲鳴を上げる。銃声のような音と共にボタンが二つ即死し発射された。
六華の顔面へと直撃コースを取るボタンを、麗奈は指先で挟んで止めた。
自分の顔面へと飛んできたボタンを、五十鈴は手のひらで受け止めた。
《脳筋系色物キャラ、かぁ》
「チッ、脆いな」
ガーランは呟く。ライナスから返されたサングラスをかけながら、教室の中をのっしのっしと移動する。
ガーランの後ろ姿を見ながら、残されたライナスはため息をついた。更にそのライナスの姿を見て、三人を除く女生徒たちは熱の篭ったため息をついた。
「言葉足らずなので、私からも補足しておきます。彼はガーラン・リントヴルム。私とも古くから交流があるドイツ帝族です。現ドイツ皇帝の孫ですね」
《リントヴルム家? 懐かしい名前だな。400年ぶりに聞いたぜ。つーかこの世界でのドイツって、皇帝生きてるんだな》
《補足:マスターが元いた世界でも、ドイツ皇帝の一族は存命ですよ。家名は異なりますが》
ガーランは麗奈たちの近くで立ち止まって、巨大な手を差し出した。握手を求めているわけではない。掌を上に向けているからだ。
五十鈴が掌の上にボタンを置いた。そういうことか、と麗奈も遅れて理解する。麗奈もボタンを掌に乗せようとする。
と、その手をガーランに掴まれた。
「いよう、お前がレイナ・シシオウだな?」
ガーランが腕を引けば麗奈の腰がソファーから浮く。サングラス越しに目が合ったように麗奈は思うが、色が濃過ぎてガーランの目は見えなかった。
「感謝してほしいもんだぜ。こんな東の果ての島国に」
瞬間、鈍い音と共にガーランがのけぞった。麗奈の手を掴む力が緩み、勢いのまま一歩後ろに下がれば、階段状になっている床を踏み外す。床に転がり、さらには柔らかい絨毯が悪戯をして、数段続けて滑り落ちていく。
麗奈が視線を横に流すと、デコピンしたままガーランを見送る有栖の姿があった。
《やだこの子……! 他国のとは言え王族相手に容赦ない》
《感想:時代が時代なら処刑されてますね》
《いやいや、ここは乙女ゲームの世界だぜ? これは『おもしれ―女』コースでしょ》
ガーランの落下がようやく止まる。上半身だけを起こしてズレたサングラス越しに下手人を睨みつけた。
「て、テメエこのチビ女! いきなり何しやがる!?」
「いやぁ、いつまで握ってんのって思ってやったんだけど、漫才みたいに転げていったなぁって」
「ガルはこんな体格ですが、中身は精密機械よりも繊細なんですよ。ところでシュンコウ、私たちはどこに座ればいいんです?」
「この学園、席は自由ですよ。特に決まってません。あー、ガーラン殿下は一番後ろの席でお願いします。黒板、後ろの人から見えなくなっちゃうので」
「漫画や小説とは違いますね。転校生用に新しく用意するものと思っていたんですけれど」
なお花山院学園の机は固定されている。転校によって席が増えたり減ったりすることはない。
「春光君、知り合い?」
「立場上ね。昨日、顔合わせしたから」
「警察の一番偉い人の息子だから?」
「そう。警察庁長官の息子だから」
ライナスは春光の隣に座った。振り返り、麗奈へと身体を向ける。
「よろしくお願いしますね、レイナさん。そしてありがとう。あなたがローズ・スティンガーを使ったおかげで、私たちは日本に来ることが出来たんです」
麗奈は溜め息をついた。
「やっぱり、そういうことでしたのね」
「いや、そういうことってどういうことだよ?」
五十鈴が追及する。
「殿下、麗奈さんも。人がいるからその話は」
「それもそうですわね」
「そうですね。……ガル、いつまでそうしてるんです? この机、前に板があるからそうしていても女性の生足は見えませんよ?」
「余計なこと言うんじゃねえよ」
ガーランはようやく立ち上がり、山のような体を動かし、麗奈たちの後ろの席にどっかりと座った。三人掛けのソファーがギシギシと鳴る。ガーラン一人が座るだけで満席状態だ。
「……いや、そういうことって、どういうことだよ?」
五十鈴が再び追及する。が、その声に答えてくれる者はいなかった。
麗奈のサイン。持っているとステージ開始時の気力が+5されそう。
そして約束のボタン射出シーンです。お納めください。




