神は此処にありて 5
《教室に着いたぞ!》
《感想:わざわざ言う必要はありますか?》
《こんな不自然極まりない説明台詞、俺以外に適任いねえだろ》
ここに来るまでの間、六華が小中学校9年間の生活で培った常識は何一つとして通用しなかった。
例えば、クラス分けの掲示板は存在しないこと。麗奈たちに、所属クラスは事前に配られている生徒手帳で確認すると教えてもらった。
例えば、下駄箱は存在しないこと。麗奈たちに、この学園は基本的に土足であると教えてもらった。
例えば、入学式には保護者は来れないこと。麗奈たちに、警備員や護衛で人が溢れ過ぎるし、学園内で商談が始まったり、あるいは企業戦争が勃発したりと入学式どころではなくなるからだと教えてもらった。
せめてそれだけでも事前に教えておいて欲しかった。知ってさえいれば麗奈を先輩と勘違いすることも無かったのにと、六華は父親と政府の人へ心の中で恨み節を繰り返している。
そして今度はこれだ。自分が案内されたのは果たして本当に教室なのか。実は視聴覚室とか会議室とかの間違いなのではないか。そう思わずにはいられない。
例えば机。麗奈の知る教室の机や椅子というのは、高さ調節出来る機能が付いているせいで小学生が運ぶにはやたらと重いやつとか、軽い代わりに高さを調節できなくなったやつとかだ。少なくともやたらと装飾過多な長机ではないし、校長室にしか置いてないようなえらく高そうなソファーでもない。
例えば床。一体どこに、教室の床一面に絨毯を敷く学校があるというのか。ついでに床は階段状になっている。教卓がある場所が一番低く、廊下と繋がる出入り口側が一番高い。
例えば教室の左右の壁。六華の知る教室とは、片方は外に面していて、もう片方は廊下に面している。しかし、この教室は廊下と垂直になっているからか、外と面しているのは黒板の左右にあるガラス扉だけで、左右の壁にはガラス窓の代わりに絵画や壺が飾られている。
六華は思うのだ。普通、学校に飾る絵というのは、卒業生が何かのコンクールで入賞した絵画であり、間違っても教科書に乗っているような、六華でも知っている有名絵画を飾ったりするものではないだろうと。
六華は思うのだ。あの物凄く高そうな壺はもしかしなくても花を飾るための花瓶なんかではなくて、壺そのものが飾られてるのではないのかと。
そして、六華は思うのだ。それでも、と。それでも、黒板と30人ほどの生徒が思い思いに集まって談笑しているこの空間は、やはり教室であることに間違いはないのだろう。
六華がこれまでの常識と一人戦っている間に、麗奈たちも教室を見回していた。もっとも、二人が注目していたのは教室の設備ではなく、先に来ていた生徒たちだ。
目当ての人物を見つけた。教室後方、二人だけで何かを話している真っ最中。
麗奈はその二人の元へと歩き出す。有栖は当然のようにその後を追い、それに気付いた六華が慌てて二人についていく。
「ごきげんよう。春光さん、五十鈴。これで10年連続ですわね」
「やっほー、久しぶり春光ちゃん。五十鈴ちゃんもー」
「おう。やっぱこれって政府のインボーだよインボー。クラス分けって政府がやってんだろ?」
「おはよう。久しぶりだね、麗奈さん、有栖さん」
顔見知り同士の挨拶。それに入れない六華は一人どうしたものかと悩んでいると、
「で、誰そいつ。見ない顔だな」
五十鈴に無遠慮に指差された。
「ああ、彼女は、」
麗奈の言葉の途中、五十鈴は勢いよく立ち上がり、
「まさか友達いないからって攫ってきたのか!? おい友達料いくら払ってんだ!? あだっ!」
ゴスリ、と麗奈が頭にチョップを叩き込んだ。
「頭蓋骨たたき割ってその酸素の足りてない脳が直接呼吸出来るようにしてさしあげますわよ」
「クッソ、す~ぐ暴力に訴えるんだからこの女は」
五十鈴が叩かれた場所を撫でながら座る。麗奈はため息を一回だけ吐いて、五十鈴の相手をするのを切り上げた。二人の後ろに座る。が、麗奈は奥に進むでもなく、有栖と六華のは回り込まなければ同じテーブルには座れそうにない。
「この子は野亜六華さん。外部からの新入生ですわ」
これは迂回すべきなんだろうかと六華が悩んでいる間に、麗奈が紹介を始めてしまった。仕方なしにその場で頭を下げ、
「の、野亜六華、です」
「電車組か? 寮に来た奴らの中にはいなかったよな」
「そうらしいですわ。野亜さん、こちらの可愛らしい男の子は石川春光さん。警察庁長官のご子息で、わたくしの従兄弟ですわ」
「よろしくね」
紹介された春光が、高校生男子とは思えないほど小さくてかわいらしい手を差し出して握手を求めた。
「よ、よろしくお願いします」
初手に紹介された相手は、まさか警察庁長官の息子という大物である。しかもそれが従兄弟。もしかして、麗奈はとんでもない大物人物なのではないか。遅ればせながら六華は気付き始めた。
「ついでに、この粗野な男は鷹谷五十鈴。春光さんの金魚の糞」
「オイコラ誰が金魚のフンだテメエコラ。俺が金魚のフンならお前は金魚の餌だろがコラ」
「ね? 粗野な男でしょう?」
しゃくれ顔になった五十鈴を指差しながら麗奈が言う。
「あははは……」
粗野な男と紹介されても、六華には五十鈴がどれだけの身分なのか想像もつかない。曖昧に笑うことしか出来ずに困っていると、有栖が六華の手を取った。
「じゃあ他の子たちにはボクから紹介してあげるね! 麗奈ちゃんたちは積もる話もあるだろうし!」
六華の返事を聞きもせず、有栖はズンズンと歩を進めて他グループへと突貫していく。いやちょっとまだ心の準備がと頭の半分で、もう半分ではこんな小さな体のどこにそんな力があるんだろうと考えながら、六華は軽々と引っ張られていった。
「あっ、みっちゃんズもいるじゃん久しぶりー!」「ちょっと有栖姉、みっちゃんズはやめてってば」「お久しぶりです、有栖お姉さま」「ちょっと有姉ちゃん。ウチらがまた同じクラスなの、やっぱ有姉ちゃんがみっちゃんズって名付けたせいじゃない?」「みっちゃんズ?」「紹介するね六華ちゃん。箕郷ちゃんと真美子ちゃんと明海ちゃん! 三人そろって、」「「「みっちゃんズ!!!」」」
ノリノリだった。みっちゃんズはポーズまで取ってくれた。
その様子を、麗奈たち3人は遠巻きに見て、
「有栖に任せておけば大丈夫ですわね」
「まぁ適材適所だな」
麗奈はその言葉を「お前友達いないもんな」と言われているのだと解釈した。
「縫い合わせますわよその口」
「おわっ、何しやがるお前!」
麗奈と五十鈴がじゃれ合い始め、春光は笑いながら巻き込まれないように尻を滑らせて二人から離れた。有栖が六華を紹介して回っている。そこから人が抜けないものだから段々と集まりが大きくなっていく。
その教室に、黒髪長身オールバックの男が現れた。生徒会長の豊菱邦彦だ。
シンボルマークのオールバックは入学式だからと気合を入れ過ぎていつもよりもポマードマシマシで、有栖が言った通りにゴキブリの背中じみた光沢を放っていた。蛍光灯がポマードに反射し、銀縁眼鏡に反射し、ついでに白い歯にも反射している。
殆どの生徒は、六華に夢中で気付いていない。豊菱が教室を見回して目立つ金髪を見つけるのと、麗奈たちが豊菱に気付いたのはほぼ同時だった。豊菱が麗奈たちに接近し、
「やぁ、獅子王君、鷹谷君。まずは入学おめでとう」
「ごきげんよう、豊菱先輩。今日はこれまた普段以上に髪が光を反射しておりますわね。ワックスが足りなくなって工業油でも使われたのですか?」
「ははははは! ワセリンは石油から作られるからあながち間違いでもないな!」
余談であるが、豊菱と麗奈では仲が悪い。家業が同業他社だからだ。
ただし、麗奈の側には『元』の一文字がつくが。
獅子王家が経営するレムナント財閥は、昔ドール・マキナの製造業を営んでいた。まだドール・マキナという言葉が存在しなかった時代、戦国時代から第二次世界大戦までの300年余りにかけて。今では『世露威』に分類されるドール・マキナを開発・生産していた。
その無数の世露威たちは、今やほとんどが博物館に飾られている。時代遅れの骨董品として。
豊菱重工が開発したドール・マキナ、世露威と別の特徴を持つため『クルス』という分類名を持つドール・マキナに、そのシェアを完全に奪われてしまっているのだ。だから麗奈は、五十鈴とは別のベクトルで、豊菱のこともライバル視していた。
「先輩どうしたんスか? あ、もしかして入学祝い? ついに俺にクルスをくれる気になったとか!」
五十鈴のその言葉に、豊菱はあきれたように鼻から息を吐いた。
「寝言は寝て言いたまえ、鷹谷君。軍用ドール・マキナを一介の学生に送れるわけがないだろう。どうしても欲しいというのなら競技用で我慢するか、君のガールフレンドに頼みたまえ」
「いや、麗奈んとこもう作るのやめてるし」
「やめてるわけではなく、凍結中というだけですわよ。いずれ復活した暁には、もう豊菱先輩のところには大きな顔をさせませんわ」
麗奈は片手を握りしめながらそう言った。が、二人の言葉を聞いた豊菱は、片目を閉じて歪んだウインクのような、嫌味な笑い顔を作ってみせた。
「おや、ガールフレンドということは否定しないのだね。ははは、二人ともついに年貢の納め時というわけだ」
「いちいち否定するのが面倒くさいだけっスよ!」
「いちいち否定するのが面倒くさいだけですわよ!」
豊菱は反論に答えず、無言で肩を竦めるだけだった。そこに春光が、
「それで会長、さっきの話に何か漏れがありましたか?」
「いや、石川君。今回来たのはその話ではない。用があったのは獅子王君たちだ。例の新入生はどこに?」
「野亜さんならあちらですわ。今は有栖が紹介しております」
麗奈たちは揃って、教室前方の人の集まりを確認する。男も女も混ざっていて、誰かが冗談を言ったのだろう、笑い声が広がったところだった。何人かは豊菱の来訪に気付いているようだったが、生徒会長と次期理事長に割って入ろうとする剛の者はいなかった。
「ふむ、あの様子では大丈夫そうだな。済まなかったね、獅子王君。言い訳にしかならないが、急な連絡で少し待ち合わせ場所を外していてね。その間に入れ違いになってしまったようだ」
「気になさらなくて結構ですわよ。同じ花山院の生徒同士ですもの。助けるのは当然のことですわ」
《誰だこの綺麗な麗奈。本当に悪役令嬢かよ》
いつかマリアは殴る。麗奈は固く決心する。
「そう言ってもらえるとありがたい。野亜君のこともよろしく頼む」
そこで豊菱は立ち去ろうと身体を反転させかけるが、途中で足を止めて再び振り返った。
「ああ、そうだ、鷹谷君。君にクルスを送るわけにはいかないが、入学式の後、一足先に最新型を見せる予定がある」
「マジっすか!?」
「こんなことで私は嘘をついたりしないさ。まだ世間には発表していないモデルだ。詳しくは石川君に聞いてくれたまえ。では、私はこれで失礼するよ」
教室から去った豊菱の後ろ姿を見送るなり、五十鈴が落ち着きなく身体を揺らし出した。
「おっひょぉーテンション上がってきた! はやく入学式終わんねえかなぁ! つかもうやんなくていいだろ。どうせアルキンが(放送禁止用語)とか(放送禁止用語)連発しながらいつもの話するくらいだろうし」
アルキン、というのは学園理事長代行、梅崎勝治郎のあだ名だ。このアルキンなる言葉がどこから来たのかと言えば、『歩く放送禁止用語辞典』の略である。
この男はとにかく口が悪い。学園で行われる式に保護者が参加できないのは、この男の口汚さを隠すためなのではないか。大体の生徒がそう思っている。
加えてこの男は第二次世界大戦中、麗奈の曾祖父が隊長を務めた特務部隊の元隊員であり、戦後半世紀以上が過ぎてなおも獅子王家に忠誠を誓う憂国の士である。五十鈴が言う「いつもの話」とはまさしくこの戦時中の武勇伝であり、
「今回は麗奈さんも入学するから、テンション上がって軍歌歌い出すかもしれないねえ」
「あったあった! 初等部と中等部の時の入学式でも歌ってたもんな。あれやるの俺たちの時だけらしいぜ」
「梅崎さんにも困ったものですわね……」
「それで春光! 俺にも詳しく、あ、いや、待て。見終わってから解説してもらった方がいいかな。それとも見ながらの方がいいか? なぁ麗奈、どう思うよ?」
麗奈は、腹の奥底からため息をつく。視線の先、六華がはやくも受け入れられている姿を見ている。
麗奈は9年経っても友達の一人も出来ないのに、六華は5分と経たずに誰彼構わず仲良くおしゃべりしている。麗奈が同じように有栖に引っ張られていったとしても、わずかばかりも同じようには出来ないだろうと麗奈は思う。
「どっちでもいいですわよ、そんなの」
ぶっきらぼうに言い捨てた。
●
朝から多数の生徒を飲み込んだ昇降口は、今は飲み込んだ分を次々と吐き出し続けていた。
外を歩く生徒たちが目指すのは、入学式が行われる多目的ホールだ。土足制、つまり上履きを履き替える手間暇がかからないおかげで、出てくるペースはかなり早い。
外を歩く者たちの中に、麗奈と五十鈴の組も存在した。有栖と春光も共に校舎を出たはずなのだが、2人の姿は今は側にいない。わざと遅れて後方を歩いているからだ。その理由は言うまでもない。
そして、野亜六華の姿がどこにもなかった。
生意気な外部生めちやほやされやがってとお坊ちゃまお嬢様の怒りを買って人気のない場所に連れ出された、というわけではない。入学式が始まる前にと、トイレに足を運んだからだった。
ところで、花山院学園は名門校として有名であるが、そんな名門校にも女の連れション文化はやはりというか存在している。
しかし、だ。六華はまさかこんな金持ち御用達の名門校の高貴さと連れションという下賎さがどうにも噛み合わず、こんなお嬢様がたをまさか自分如きがトイレなんぞに誘うわけにはいくまいと考えた。
一方の麗奈であるが、同性の友人などいたこともないので連れション文化など知る由もなく、特に催してもいないのに人と共にトイレに行くという発想自体が無かった。
普通に誘ってよかったのに。普通に一緒に行ってよかったのに。
―――一つ目の選択肢を、誤った。
六華は選択肢を誤った。ここで麗奈を誘っていれば、主人公機の出番が失われることはなかったのに。
●
―――二つ目の選択肢を、誤った。
麗奈は選択肢を誤った。もう少し待てば、主人公機が登場して撃退したはずだったのに。
花山院学園がドール・マキナが暴れても問題が無い敷地の広さを持つという設定も、
自尊心を操られた大池がバイソンチェストで乗り込んだという状況も、
皆より遅れて校舎を出ることになった六華の尿意も、
全ては、六華が巨大人型兵器を操り、テロリストを撃退するための舞台装置だったのに。
全ては、ただの一民間人を特殊部隊に参加させるための事前準備だったのに。
この瞬間、主人公機の出番は奪われた。それは即ち、六華が、ルインキャンサーが表舞台に出る唯一無二の機会を、麗奈が、ローズ・スティンガーが奪ったことに他ならない。
だからこれからの話は、主人公機が苦戦することも無ければ、新装備で窮地を脱することもない。妹が操縦する支援戦闘機と合体してパワーアップする機会も無い。
これからの話は、ローズ・スティンガーが一方的に蹂躙するだけの話だ。




