絵本の夢とローグフィリアの食卓
懐かしい父の執務室の長椅子に座りながら、ディアはこれが夢だと分かっていた。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
窓の向こうではさらさらと雨が降っていて、庭の薔薇の蕾をしっとりと濡らしている。
しゃりしゃりと音を立てるような綺麗な文字の書けるインクの匂いに、父のお気に入りの紅茶の香り。
屋敷のどこからか聞こえてくる、姉達のピアノの音。
どこか曖昧な記憶の中で、ディアは子供だった。
小さな手で大事な絵本をなぞり、困ったように微笑んでこちらを見ている父に首を傾げている。
『ディア、あの方を無理に望んではいけないよ。我々は、それを許されないんだ』
『……………王子様と仲良くしてはいけないの?』
すっかりご機嫌で絵本を読んでいたディアは、言われたことにびっくりしてしまい涙目になる。
とても美しく優しい王子様だったのだ。
またおいでと言って微笑みかけてくれたのに、どうして父はそんな事を言うのだろう。
すっかり項垂れてしまったディアに、父はどこか悲し気に微笑むと、大きな椅子から立ち上がり歩いてきて、ディアを抱き上げてくれる。
大きな手で抱き上げられればいつも胸がほかほかするので、ディアはこの父が大好きなのだった。
(お父様、大好き……………)
むふんと頬を緩めて、ディアは安全な腕の中で微笑んだ。
温かい手は大きく、鬣のような銀糸の髪はまるで絵の中に見る獅子のよう。
黙っていると、屋敷に遊びに来る王子達は怖がってしまう父だが、ディアは父親が誰よりも優しいことをよく知っている。
そんなディアの自慢の父を少し怖がってしまう第二王子と、ディアの姉の婚約はまとまらなかった。
ジルレイド王子が好きだった姉はしょんぼりしていたが、あくまで、今はまだということであるらしい。
ファーシタルの王様の言葉によると、ジルレイド王子はまだまだ子供なので、今しばらくは友人として仲よくして欲しいということなのだそうだ。
ディアは、よく遊びに来てくれる優しいジルレイド王子が、早く大好きな姉の婚約者になればいいなと思っていた。
二人は仲良しでお似合いだし、先延ばしになった婚約のせいで人気者の姉が他の婚約者を見付けてしまい、二つ年下のディアのところにこの話が転がり込んできても困る。
ディアはあの舞踏会で会った王子様と結婚するので、ジルレイド王子の婚約者にはなれないからだ。
小さなディアは、大人達の間でディアとジルレイド王子の婚約の話も出ていたこともちゃんと知っていて、それでは困るのだとふんすと胸を張る。
ディアはもう、他の王子様では嫌なのだ。
あの王子様でなければと決めてしまったのだから。
『ディア、……………目に涙をいっぱいにして。そんなにあの方が気に入ってしまったのかい?』
『……………ディアはね、あの王子様と結婚するの。王子様は、美味しいものをいっぱい作ってくれるの』
『困ったなぁ。まだまだ小さな子供だと思っていたが、ディアは所有値が高いから、心の成長が早かったのだろうか。可愛い可愛い私の娘。君が恋をするには少し早過ぎるんじゃないのかい?』
『所有値……………?』
所有値が高いと、成長が早くなるのだろうか。
少しだけ考えてみると、夜の国の王様の物語にそんな表記があった事を思い出した。
おおっと目を瞠り、大発見をしたばかりのディアはまた抱えていたお気に入りの絵本を撫でる。
そんなディアを愛おしげに見つめ、父はそっと頭を撫でてくれた。
『それでもね、ディア。やはり君が、あの方を望んではいけないよ。我々はずっと昔にとても悪いことをしてしまって、そう決められているんだ。……………その代わり、また来年の舞踏会にも連れていってあげるから、沢山おめかししておいで。王子様がディアを望んで下されば、それは構わない訳だからね』
『ディアは駄目だけど、王子様がディアを選んでくれるの?』
『かもしれないし、そうはならないかもしれない。これは内緒だが、ディアのお婆さんの妹は、あのお城の妖精に嫁いだんだ。森で亡くなったことになっているけれどね』
その話を聞き、ディアは目をきらきらさせた。
妖精のお嫁さんになった人がいるのなら、ディアが王子様のお嫁さんになる事もあるかもしれない。
ディアの頬はまだふくふくしていて美人ではないけれど、ディアが世界で一番綺麗だと思う母や姉達は、ディアも美人になると言ってくれるのだから。
『王子様がね、またおいでって言ったの。いつか沢山御馳走を食べさせてくれるんだって』
しかし、ディアがそう言えば父は少し驚いたように目を瞠り、暫くの間ディアを抱いたまま無言でいた。
(……………お父様?)
あやすようにゆらゆらと揺さぶって貰いながら、ディアは、父の立派なお鬚を引っ張り首を傾げてみる。
すると、青い青い瞳をした父は、どこか安堵にも似た穏やかな顔で微笑んだのだ。
『…………そう言ってくれたのなら、あの方はディアを気に入ったのかもしれない。もしかすると、……………いや、だがそうであれば。………お前をこの家から出してやれるのであれば、それ以上の喜びはあるだろうか』
『……………むぐ。ディアは、お家からいなくなった方がいいの?』
『っ、すまないディア。そういう意味じゃないんだ。ただ、……………私達はやはり、この呪いを解かれるまでは咎人なのだ。可愛いディアがこの死の系譜の者への贖罪の輪から出てゆけるのなら、それは父親として望ましいことなのだよ』
そう微笑んだ父の思いを、当時はよく理解出来なかった。
ディアの大好きな絵本の中にも、咎人という恐ろしくも悲しい言葉が何度も出て来ていて、屋敷を訪れる異国の商人達と話す両親や兄の会話にも、その言葉は幾たびとなく影を落としていた。
(……………私達は、悪い事をしたのだろうか)
その度にディアは考える。
絵本の中に出てくる一人の魔術師が、夜の王宮で出会った妖精の王女に恋をしたのは罪だったのだろうか。
こうしていつまでも呪われ続けなければいけないくらいに、美しい人に心を奪われその人にこちらを見て欲しいと望むのは、許されない事なのだろうか。
ディアの大好きな絵本のあらすじはこうだ。
大きな国の大きな都に、一人の優秀な魔術師がいた。
銀糸の髪を持つその魔術師の一族は、その国の中でもとても敬われていて、小さな子供の内から歴史のある学校で教師になれるくらいの魔術の所有値に恵まれ、強く美しい固有の魔術を持っていたという。
しかし、物語の主人公の魔術師は、招かれた舞踏会で一人の妖精の王女に恋をしてしまう。
彼は丁寧に膝を折り、花を捧げてその王女に求婚したが、それがまずかった。
その妖精の王女は、恐ろしく残忍な死の精霊の婚約者だったのだ。
精霊は、魔術師本人だけではなく、その銀の髪の一族の全員に強い強い呪いをかけ、立派な王国の都から遠く離れた氷の土地に連れ去った。
数ある種族の中でも死を司るその精霊の呪いは最も恐ろしく、魔術師がどれだけ謝っても怒りは鎮まらなかったのだ。
しかし、人々は死の精霊が目を離した隙に、夜の国の森に逃げ込む事に成功する。
けれども、死の精霊が森の周囲をぐるぐると回っていて、彼等は森に閉じ込められてしまった。
すると、森から出られずに嘆く人々に、その森を管理していた夜の国の王様が気付いたのだ。
なぜこんな森の中に多くの人間が閉じ込められているのだろうと訝しむ美しく恐ろしい王様が姿を現すと、王女に求婚してしまった魔術師は慈悲を乞う。
せめて、この森で暮らす事を許して欲しいと願ったのだ。
冷酷な王様はすぐには頷かなかったが、魔術師があまりにも泣いて頼むので、幾つもの試練を魔術師に課し、それを克服出来れば従者にしてくれるということになった。
試練はたいへん難しいものであったが、魔術師はそれを乗り越え、夜の国の王様の従者として取り立てて貰えることになる。
死の精霊は、憎い人間達が罪を逃れたととても悲しんだが、夜の国の王様と戦う訳にはいかず、また、夜の国の王様が治める森の中には入れなかった。
仕方なくその精霊は、人々が夜の国の王様の従者でいる間は手を出さないことを誓うと、誰も逃げ出せないように小さな呪いを残していった。
こうして銀の髪の魔術師の一族は、夜の国の王様に大きな森の管理を任され、従者としてその森を守りながらその土地を住処とすることになる。
死の精霊が残した呪いは、人々が持っていた全ての魔術を宝石に変えてしまうものであった。
しかしすっかり改心した人々はそれを惜しまず、夜の国の王様の豊かな森の木々が健やかに育つよう、その根本に埋めた。
それを喜んだ王様は、銀の髪の一族に美しい森の魔術結晶石の財産を授けたという。
(……………ファーシタルの国の人達はみな、綺麗な銀色の髪をしているのだ)
だからこの絵本がどのようなものを基盤とした物語なのかは明白で、それは、ジラスフィ公爵家の役割にも繋がっていた。
他国からファーシタルを訪れる商人達は、ファーシタルの国民の魔術の所有値の低さを知ると、銀色の髪は魔術の所有値の高い人間の証であるのになぜだろうと首を傾げる事が多い。
けれども、ファーシタルで一晩も過ごせば、彼等もこの土地や民達から魔術が失われていることを理解せざるを得なかった。
そうすると彼等は決まってこう言うのだ。
この土地の人々は、なんと恐ろしい障りを受け続けているのだろうと。
『始まりの魔術師が妖精の王女様に求婚したから、私達はファーシタルから出られなくなってしまったの?』
『そうだね。人ならざる者達はそういうものなんだ。私達とは違う生き物なのだから、どれだけ人間と同じ形をしていても、人間とは心の在り方が違う。彼等の決まりごとに逆らうと決して許してはくれないから、用心するんだよ』
『……………じゃあ、またおいでって言われたら、また行かなきゃなのね!』
『はは、この食いしん坊め。でも、あの方がそう言われたのであれば、約束は是非に守ろう。いいかい、ディア。夜の国で交わされた約束は必ず守らなければいけない。些細な事でも障りを受けてしまうからね』
うつらうつら。
淡い薄闇のその夢の中を彷徨い、今度のディアは、夢の中で教会にある立派な連作絵画の前に立っていた。
主祭壇の裏側にある見事な絵には、誘惑を退けて信仰の門をくぐる信徒の姿が描かれ、妖精や魔物などの様々な生き物達が現れ、悍ましい災いや呪いでその行く手を遮ろうとする。
(妖精は愉快なダンスで、魔物は叡智と富で、竜は権力で、そして精霊は素晴らしい御馳走で人間を惑わせようとする……………)
そう言えばと、心の中のディアが声を上げた。
(ノインは、夜の系譜は、真夜中の席を治める者達が様々な夜の王になるのだと教えてくれなかっただろうか。……………そして彼は、その王達のことを精霊王だと言ったのだ……………)
ぱちりと瞬きすると、ディアは、教会にある精霊の絵の前に立ったまま、その中の一枚を見つめていた。
これは夢だから、そこにはもうどこにもいない筈の大好きな父がいて、困ったように優しく微笑むと、御馳走を並べた黄金のテーブルの向こうで冴え冴えと美しく微笑む精霊の絵を指差す。
『可愛いディア。これだけのご馳走があっても、惑わされてはいけないよ。私達は咎人なのだ。万が一にでもその怒りを買わぬよう、決して彼らのテーブルのものを自ら欲しいと言ってはならない。精霊の方々にとって、食事というのはとても重たい意味を持つものだからね』
しかし、そこに並んだ御馳走はどれも豪華すぎて美味しそうには見えず、ディアは、ノインが作ってくれたポテトパイの方がずっといいのだと首を振った。
(王宮で出されるどんな食事よりも、ノインの料理が一番美味しい)
王宮で振舞われる料理の全てに毒が入っていた訳ではないし、リカルドや国王夫妻も美味しいと頬を緩めていた御馳走も一緒に食べてきたが、ディアはそれらの御馳走を一度も美味しいと思った事はなかった。
目にも美しい料理をいただけば、意図された味をきちんと感じるし、決してまずくはないのだ。
だが、美味しいと心が弾むような思いは、忌日の厨房でノインの料理を食べたあの夜が初めてだった。
もし、こうして絡め取られるように転がり落ちてゆく事こそが、彼の思惑であるのなら。
(だとすればこれは、……………行く手を遮り、人間を破滅させる人ならざる者の災いなのだろうか)
(それとも、……………あの舞踏会の夜の約束を破ってしまったことで、私が受けた障りなのだろうか)
夢の淵でひたひたと温度のない夜の中に揺蕩い、ディアは、沢山の事を考えた。
考えて考えて何かを掴みかけても、夢の曖昧さが掴んだものを押し流してしまう。
それがもどかしくて悲しくて唸り声を上げると、ふっと誰かの優しい手が頭を撫でた。
(……………気持ちいい)
その心地よさにうっとりと甘い息を吐き、ディアはその手のひらに頭を擦り付ける。
すると、誰かが満足気に微笑んだような不思議な気配があった。
ことんと、また夢の中に落ちる。
『ディアは、王子様と結婚するの。……………する筈だったのに』
あの日の嵐の夜に揺られて、噎せ返るような血臭の満ちた屋敷の片隅で、小さなディアがそう呟く。
くすんと鼻を鳴らして涙を詰まらせたその子供に、知った事かと嗤ったのは誰だっただろう。
出来るものならそうしてみろ、その男は喜んでお前を殺すぞと微笑んだひとは、紫色の瞳をしていなかっただろうか。
その時のディアは泣きじゃくるばかりでまともな判断など出来なかったが、美しく恐ろしいその生き物は、本当にそれを望んでいるのであれば、王宮へ行って殺されてこいと騎士の一人にディアを預けたのだった。
それがどういう事なのかをディアが理解し、ああ、あの人に見捨てられたのだと、深く深く絶望したのは家族の死を受け入れた数日後のこと。
「……………まったく、やれやれだ。精霊との約束を交わしておきながら、人間達はいつも気楽なものだ。この愚かな人間は、何もかもを剥ぎ取ってがらんどうにしてやらないといけないらしい」
眠りの淵からその声を見上げ、ディアは、その言葉に滲んだ仄暗さにもう一度くすんと鼻を鳴らした。
やはり人ならざるものは、人間とは違うものなのだろうか。
美味しい食事や優しい手は、こんなにも温かいのに、全部が水差しの毒のようなものなのか。
「このままでは、この子供は次の舞踏会の夜に殺されてしまうでしょう。あなたを裏切った人間とは言え、……………宜しいのですか?」
「それは構わない。寧ろこいつが殺されるまでが必要な工程だ。……………そうだな、あと一つだ。あと一つの禁忌を犯せば、この国も其れ迄だ。俺の領域のものに手をかける事以上に、相応しい罪もないだろう。どうせ破らせるのなら、最初の約束こそが相応しい」
その返答に、夢の中のディアは両手で胸を押さえた。
唇を噛み締め、堪らずにこぼれ落ちそうな嗚咽を押し留め、自分を殺そうとしている人の残酷な言葉を聞いていた。
(そうだ。……………分かっていた筈なのだ)
どんな要素を掻き集めても、ノインは一人ぼっちになったディアを王宮にやってしまったし、三年前に再会し、そこからの日々でもう一度彼に恋をしたディアの、最後の夜への道行きを止めようとはしてくれない。
彼の興味はいつだって、ディアがどのようにその幕引きをするのかに向けられていて、こちらへおいでと引き留める為の手は差し伸べられなかった。
(……………私が、あの嵐の夜に、家族を助けてと願ってしまったからだろうか)
勿論、それがいけない事だと小さなディアも分かっていた。
人間とは違う心を持つ人に、そのような願いをかけることの危険さを理解し、それでも願ってしまったのだ。
その事で失望させたのか、家族を殺されて泣く子供に興味を失ったものか。
どんな理由があったとしても真実は味気ないくらいに淡泊で、彼はもう、初めて出会った日の夜のようにディアに手を差し伸べてくれることはない。
ぽたぽたと心の中で落ちる涙はもう、胸の中にいっぱいになってしまった。
今のディアに出来る事は、大好きな夜の王様がどこかに行ってしまわないよう、注意深く狡猾に細い細い糸を繋ぐだけ。
あの、夜が一番長い日にもう一度出会わなければ、こうして再び恋をすることもなかったのに。
ただ、ただ、愛する者を殺した人達への復讐だけを望み、願いや希望などに揺さぶられる事はなかったのに。
「…………あの森で用意されていたのは、妖精の石弓でした。愚かな人間達だ。そこかしこに注ぎ込んだ雪水仙の蜜といい、自分達の手に余るものすら分からないとは無様にも程がある」
「異国の商人達に唆され買い上げた、ただのまじない弓だと思っていたのだろう。その弓で、こいつに傷でも負わせるつもりだったか」
「建前は事故による負傷ですが、果たして本当に事故だろうかとこの子供に思わせる事こそが目的なのでしょう。毒で体力を削ぎ、血も流させ心を削る。………よってたかって同族の子供を嬲り殺しにするなど、不愉快極まりない」
(ノインと話している、この人は誰だろう……………?)
それは、ディアの知らない声だった。
ぼんやりと曖昧だった夢の淵から顔を出してその会話に聞き耳を立てていたディアは、そろりそろりと盗み聞きをしている内に、その会話が夢ではない事に気付いてしまう。
どうやらディアはいつの間にか居眠りをしていて、ノインの膝を枕に借りているらしい。
そしてこの部屋には、ディアとノイン以外の見知らぬ誰かがいるようだ。
「弓を手にした騎士はどうなった?」
「眷属の者に、内側から入れ替わらせてありますよ。扱うだけの素質もないのに妖精の石弓を手にしていたのですから、相応しい顛末とも言えるでしょう。内側のものはこちらで回収いたしました。祝祭の季節の晩餐に良い材料が手に入ったと、子供達が喜んでおります」
聞いたことのない優しい声は、けれども異形のものらしい残忍さに満ちていた。
美しく柔らかで、けれどもざわざわと胸がさざめくような不思議な気配は、夏至祭の夜の踊りの輪を遠くから見ているよう。
(……………今ここにいるひとは、妖精なのだろうか………)
そんな疑問に胸をどきどきさせながらも、ディアは、どこかで冷静にその会話を聞いていた。
どうやら人外者達は、冬狩りの時のことを話しているようだ。
それはつまり、あの時の森の中には、ディアを意図的に傷付けようとしていた者がいたのだろうか。
(…………そうか。狩りの最中の怪我で私を傷付けておいて、これでもかという目に遭わせたかったのだ。様々な要因が重なり、徐々に心を壊したという筋書きであるらしい……………)
ノインがあのような形で側にいたのはなぜだろうと思っていたが、せっかくの舞台の幕引きの前に、演者が動かなくなってしまうことを防ごうとしたのだろう。
もしディアが冬狩りの事故で怪我をしていたら、すっかりやる気を無くして舞台を降りてしまったかもしれない。
人間はとても繊細なので、怪我でじくじく痛む体を引き摺って舞踏会に行かねばならないとなれば、ディアは早々に心が折れただろう。
誰がこの雑な筋書きを付けたのかは知らないが、女性の舞踏会での装いは、負傷に耐えられる程に生優しいものではないのだ。
そのあたり、ノインはディアをよく知っている。
不貞腐れた演者が出演拒否をしないよう、余計な演出を排除してくれたようだった。
こんなか弱い乙女に弓を向けようとした者など、遠慮なく妖精の子供達の晩餐にしてくれ給えな気分でディアがむしゃくしゃしている間にも、ノインと妖精の会話は続いていた。
「ああ、うんざりだな。この国の人間達は、目隠しをして禁忌に触れてゆくその指先から、既にどれだけのものを取られているのか知りもしないのだろう」
「そもそも魔術の約定に定められた禁忌を犯しているのですから、この土地の人間達はもう、魂の欠片も残らないでしょうね。あなたの治める土地とは言え、ここは人間の国だ。国一つを取り上げるとなると、あの酒や森の結晶石目当ての魔物達が黙っていないでしょうが、魔術の理において、交わした約束を反故にした事で得られる賠償であれば問題ありますまい。彼等とて、この世の魔術の理を動かす事はままなりません」
「とは言え、幾つかの場所には話を通しておく必要がある。既に、魔物の王の許可は得た。森の魔術結晶石目当ての魔物の商会や、宝石食いの妖精達とも交渉済みだ。死の精霊は、…………まぁ、互いにあちこち欠けたが、最終的には幾つかの条件を定めて納得させた。先にあちらの王の許可を取り付けておかなければ危うかったな………」
「お仕えする私としましては、わざわざ王であるあなたが動かねばならないのも、いささか釈然としませんがね。……………おや、」
ふっと、悍しい程の沈黙が落ち、ディアは息が止まりそうになる。
永遠にも思える程の静寂の後、ディアは鼻を摘まれふがっとなった。
「お、おのれ!ゆるすまじ…………」
「ほお、起きていたらしいな」
「妖精さんとの初対面なのに、よくも乙女の顔を弄びましたね!……………ふにゅ、いない…」
ディアは、鼻を摘んだ手を払い除けて慌てて飛び起きたが、見回した部屋の中にはノインしかいなかった。
すっかり陽が落ちた部屋は、燭台に灯した魔術の火がゆらゆらと頼りなく揺れている。
ディアはへにゃりと眉を下げて立ち上がり、椅子の下や抽斗の中も探してみたが、先程の声の主の姿はないようだ。
「……………妖精さんがいません」
「……………念の為に聞くが、その箱は何だ?」
「これでかぽっと捕まえて、妖精さんを飼おうと思ったのですが、逃げられてしまいました。………お皿に牛乳を注いで置いておけば、出てきてくれるでしょうか?」
「計画の前提からして様子がおかしいが、不用意に人外者に食べ物を振る舞うな。魔術の結びが出来ると、魂を取られるぞ」
「……………まぁ。魂を取られてしまうのですか?死後には行きたいところが沢山あるので、妖精さんは諦めた方が良さそうです…………」
ディアは、死後の予定を沢山立てているので、魂を取られると聞いてすっかり意気消沈してしまった。
なぜかノインが押し黙ったので、妖精を捕らえたがるくせに、魂を惜しむ人間の情けなさに呆れたのかもしれない。
「……………お前の家族は、とうに死者の国を出て新しい命を得ている頃合いだぞ」
「ええ、家族に会えないのは承知の上です。ですが、死後に亡霊になると、死者の日には申請した出口から地上に出られると聞いています。そうしたらきっと、魂を綺麗に丸くするまでの間に、見た事もない色々な国に出かけられる事でしょう。行きたい国はもう決めてあるのですよ」
「……………お前は失念しているかもしれないが、俺との契約がある。その有様で、支払いの後に魂が残るかどうかは疑問だがな」
「そうなると、…………私もパンシチューになるのですか?花びらになるのは吝かではありませんが、出来れば、ばらばらになってしまう前に、妖精のインクや刺繍のある国を見てみたいです。………ただ、その場合はそれなりの対価をお支払いしなければなくなるのでしょうか?」
「お前は……………」
そう小さく呟いて、こちらを見た夜の座の精霊は、内側に光を孕むような紫の瞳が無防備な程で、震える程に美しかった。
とても不機嫌で、けれどもどこか呆然としている生き物の無垢さに、ディアはやれやれと溜め息を吐く。
彼らはきっと、あまりにも簡単に人間という生き物で遊んでしまうので、ちっぽけな生き物が強欲に生きるという事がどのような事なのかを知らないのだ。
自分では、ディアが殺されるまでを楽しもうとしておきながら、ディアがこんなにも寄る辺なく舞踏会で殺されようとしている事を知っていながら、どうしてこの脆弱で怠惰な人間がしたたかに生き延びようとするなどと思ったのだろう。
希望などかけらも残っていないのに、それでもまだこの遊びに付き合えとは、あんまりな仕打ちではないか。
「ノイン、私はこれ迄に私なりにとはいえ、なかなかに頑張ってきました。もう、くたくたのぼろぼろなので、次の夜会以降もあなたの玩具でい続けるのは無理そうです」
ディアが微笑んでそう言えば、ノインは顔を顰めた。
しかし、ここで不機嫌になられても、ディアを生かすのはディアなのだ。
ディアだって、頑張って働いてきたので、そろそろお休みが欲しい頃合いなのである。
「その命をくれてやればあいつらがお前を惜しむと思うのなら、自分を高く見積もり過ぎだ」
「そうですねぇ、あの方達にとって、私は汚れたナプキンのようなものでしょうか。口を拭って役目は果たしたので、ぽいっと投げ捨ててしまいたい不用品です。勿論、誰がそんなものを惜しむでしょう。………だからこそ私はあなたに、私がこの舞台の幕を引くまで立ち合って下さいとお願いしたのではありませんか」
「……………お前は、全てを見届けた上で叶えて欲しい願いがあると言ったな」
「ええ。舞踏会で自害するとなれば、恐らくリカルド様は雪水仙の毒を使う筈です。ノインは、私がぱたりと儚くなった後、何だか分からない怖い感じを全開にし、私の魂が死の国に行けるまでの時間を稼いで下さい!」
「却下だ」
にべもなく却下されてしまい、ディアは怒り狂った。
舞踏会の日までには焼き捨てるつもりで、抽斗の中に隠しておいた、死後のうきうき観光マップを持ってくると、この計画の素晴らしさを何とか伝えようとする。
ディアを、ディアを殺す舞踏会に押し込んで溜飲を下げるのなら、それくらいの事には協力して貰わねば割りに合わない。
「今更、この素晴らしい計画の変更は出来ません!まず最初の年は、アンシュライドの妖精のインク工房や歌劇場、旧王宮でもある領主館などを巡った後、市場で土地の味覚をいただく予定なのです!!」
「忘れているようだから教えておいてやる。亡霊は生者の食事は摂れないからな」
「……………ふぁ、」
最大の楽しみを封じられてしまい、ディアはかくりと項垂れた。
「これは没収だ。他の案を考えておけ」
「……………私の隠居計画が……………」
「それを隠居とは言わん」
「おのれ、なぜに亡霊は生者の食べ物を美味しくいただけないのでしょう。この世界は間違っています!」
危うく、一人の公爵令嬢が世界を呪わんとしていたその時、こつこつと扉を叩く音が響いた。
王宮の厨房から、ディアの部屋にローグフィリアの夜の晩餐が届いたのだ。
かなり悲痛な叫びを上げたばかりだが、扉をノックした人物に動揺の気配はなかったので、ここでもノインが魔術で音を閉ざしてくれていたのだろう。
(……………ここの食べ物は、美味しくないのに)
届けられたものを口にする事を思えば、途端に食欲が消え失せてしまった。
この王宮の中で、ディアが食べ物に執着すると考える人は誰もいないだろう。
砂を噛むような食事を好んで多く摂る筈もなく、ディアの食事の量はいつも本来の量の半分くらいで調整して貰っていた。
それでもディアは、そんな料理を受け取らなければならない。
溜め息を吐いてそちらに向かおうとすれば、ぎいっと扉の音が鳴り、誰かが食事の準備を受け入れている音がするではないか。
ディアはまだここにいて、扉を開けに行ってはいないのに。
(……………え?)
唯一の部屋付きである侍女達も今夜は不在にしている。
となると、一体誰が誰がその対応をしているのだろう。
「そちらは放っておけ。どうせ毒入りだろう。冬狩りで削り損なったからな」
「…………ぎゅむ。となると私は、何をいただけばいいのですか?」
悲しげに見上げるとノインは僅かに遠い目をしたが、どうやらディアの為の晩餐は元々用意してくれていたようだ。
いつの間にか壁の向こうにディアの知らない部屋があり、カーテンを引けば、美しい小ぶりなシャンデリアの下に夜の魔術を宿した結晶石の見事なテーブルがある。
そこに並んだ祝祭のご馳走を見た時、ディアは、精霊の誘惑に屈する悪徳に身を染めるのも、満更でないとほくそ笑む。
(……………ノインにはああ言ったけれど、結局のところ私の復讐は、この国の人達から私を奪う事なのだ)
記憶の中の大事な絵本をぱたりと閉じ、最後のカードを切らせる事でディアが彼等に齎すのは、物語の中に押し込めて蓋をしていたおとぎ話の災いになるのだろうか。
人ならざる者との約束は、決して違えてはならない。
それがどれだけ無残な顛末となるか、ディアはこの身を以て知っている。
だが、この国はディアという目障りな過去の亡霊を殺せば、意気揚々と約定を破り森を削るだろう。
それは、あと一つだと呟いたノインの言葉であり、夜の国の王の良き従者である間だけはと告げた死の精霊の呪いである。
ハイドラターツの森が、どのようなものの住処との境界であるのかをこの国の人達はもう忘れてしまったのだと知って安堵したディアは、来るべき日を待ちながら、ノインがもう一度手を伸ばしてくれればいいのにという惨めな願い事を、心の奥に押し込んでぎゅうぎゅうと蓋をした。
復讐と願いは違う。
そのどちらが、ここまで自分を生かし、どちらが自分を殺すのだろうかと考えながら。