第二王子と初夏の部屋
婚約を解消されてから、ディアの日常はがらりと変化した。
これまでは、ディアがどれだけ王宮の亡霊であったとしても、それが限られた時間だけの仮初のものでも、ゆくゆくは王妃となるべき者としての教育は日々行われており、それなりに忙しく過ごしていた。
その時間が、ばっさりと断ち落とされたのだ。
(…………廃棄してしまう事が決まっているのだから、これ以上に手をかける必要はないということなのだろう)
リカルドや、よくディアを気にかけてくれる王妃様からは、心の整理をする為にも暫くはゆっくりと過ごして欲しいと言われていた。
リベルフィリアは、一年の最後の月にある祝祭である。
大晦日にも王家の執り行う式典はあるが、それはあくまでも儀礼的なものだ。
前夜祭となる二つの祝祭を経たリベルフィリアが終わると、後はもう年の瀬に向かう時期でもあるので、年内はもうのんびりしておいでと言われてしまうのも仕方ない。
(でも私には、そのこれからはないのだ)
水差しには、あれから毎日、雪水仙の毒が入れられているらしい。
ノインにしか分からない程度のものなので、徐々に力を削いでいって舞踏会当日に自害しそうなディアを作ろうとしているというのは、確かなのだろう。
とは言え、舞踏会の夜に殺されるのだとしても、それまでは是非に心地よい日々を送りたいと考える人間がそんな水を飲めるはずもなく、ディアは、自分の手で水差しの水を汲まなければならなかった。
「……………っ、むぐぐ」
今、ディアは、バルコニーへの扉を開きこっそりお皿に雪を掻き集めているところだ。
外の庭園から見付からないように行うので、床に這いつくばらなければならないことにむしゃくしゃしながら、前傾姿勢で雪を取っている。
こんな事をしなくてもと何度思っただろう。
しかしこれは、きりりと冷えたお水が飲みたいと願う哀れな乙女の為なので、今は憤怒の形相で頑張るしかない。
この時期のファーシタルは、王宮に張り巡らせた水の管の貯水庫に火の魔術を宿した鉱石を放り込み、全ての蛇口を捻るとお湯が出るようになっている。
夜が長く冬の厳しいこの国では、王宮のような広大な施設で管を通る水を汲み上げたものをそのまま流すと凍ってしまうので、それならばと蛇口から出るものを一括してお湯にしてしまおうというなかなか大雑把な方策だ。
ノイン曰く、魔術の豊かな土地では水を通す管そのものに魔術がかけられているので、こんな苦労はしなくていいらしい。
お湯とお水が出るのが当たり前なのだそうだ。
「……………おのれ、なぜ部屋を初夏にしたのだ」
低く怨嗟の呟きを漏らし、ディアは、あの水差しから毒入りの水を飲むように仕向ける為か、蛇口からお湯しか出ない季節に部屋の温度を初夏に設定した何者かへの憎しみを募らせていた。
やっとバルコニーの雪を集めると、汲み上げて冷ましておいたお湯と合わせてお水を作る。
男らしく額の汗を片手の甲で拭いながら、ディアは即席の冷たい水をごくごくぷはっと飲み干した。
「うむ。労働の対価としての美味しさですね」
「…………おい、また何かしでかしたんじゃないだろうな?」
「ノイン?」
またしてもよりにもよってな場面で現れたノインに、ディアはぎりぎりと眉を寄せてゆっくりと振り返る。
公爵令嬢らしく整った姿を見せたいところなのだが、残念ながら袖を捲り上げ、前髪はくしゃくしゃのままだ。
それでもディアは、ぐっと堪えて淑女らしい柔らかな微笑みを心掛けた。
「ごめんなさい、ノイン。今日はご覧の通りに部屋が初夏なので、食欲はあまりないのです」
「言っておくが、俺はお前の料理人になったつもりはないからな?」
「……………まぁ、そうなのです?」
「おい、どうして目を逸らした」
素直ではない夜の王様が荒ぶってしまったので、ディアは慈悲深い心で、ノインが来る度に食べ物を持ってきている事を指摘せずにおいた。
ふと思い出してみれば、ノインが料理を持ってこなかったのは、ディアが婚約を解消された日だけだ。
それ以外の時に部屋を訪れる時には、大抵何か食べ物を持ってきてくれている。
(もしかして、夜の系譜の方は、人間を餌付けするのが好きなのだろうか…………)
長命高位な生き物の楽しみは分からないが、案外、子ムクモゴリスに餌をやるような気分なのかもしれない。
それにしても、最近は良く来るなと考えていると、そんなディアの疑問を見透かしたように、ノインが訪問が増えた理由を説明してくれる。
「わざわざ観劇に来ておいて、物語の顛末を見逃す客がいると思うか?」
「………当事者としてはとても解せない気持ちでいっぱいですが、言われてみれば確かに、お客様にとっては一番面白い頃合いでしたね……………」
「そのお前は、幕引き間際なのにちっとも動かないどころか、床で皿を舐めている始末だがな」
「……………舐めておりません」
最後の一滴までを飲もうとはしていたが、お皿を舐めるような真似は流石にしていない。
何という事を言うのだとじっとりした目でノインを見上げていたディアは、ふと、その人間の目には毒ともいえるくらいに美しい漆黒の騎士服の一部が、無残に裂けている事に気付いた。
「……………ノイン、それはどうしたのですか?」
「ん?………ああ。少し持っていかれたな」
「……………持っていかれた?」
事もなげに言ったノインにディアは茫然としてしまったが、ここでノインがふっと視線を動かした。
その視線を行く先を見て、ディアはぎくりとする。
「誰か来たのですか?」
「騒々しい奴が来たようだな。やれやれだ」
「……………ノイン」
うんざりしたような声にそちらを見ると、ノインの姿は既になかった。
誰もいなくなってしまった部屋を見回し、ディアは小さな溜め息を吐き、訪問者へのむしゃくしゃを募らせた。
(来てくれたばかりだったのに…………)
もう少し話をしていたかったのにと少しだけ足踏みをし、ディアは捲り上げていた袖を下ろし、前髪を直した。
訪問者にはきちんと身なりを整えて会うのが貴族の子女の礼儀だが、侍女を呼んで身支度を整えさせる事が今日ばかりは難しい。
ディアの部屋付きの侍女達は、午後から全員お休みを取っているのだ。
公爵令嬢ではなくてもそんな事は本来あり得ないのだが、今日のファーシタルは、リベルフィリアを控えたローグフィリアという前祝祭の日にあたる。
リベルフィリアの前々日をローグフィリア、前日をハルフィリアといい、その両日は、リベルフィリアの為に祝福を高める祝祭だ。
ファーシタルのローグフィリアは、家族で過ごすリベルフィリアに先んじ、親が子供達と過ごす為の祝祭であった。
(これ迄のローグフィリアは、私は、リカルド様と一緒に、王宮の朝霞の棟で国王様や王妃様達と過ごしていたから)
晩餐は遅い時間まで続き、朝霞の棟の客間に泊まってくるのが習わしだったので、昨年までのディアの侍女達は、祝祭の行事に向かうディアの支度を済ませた午後からは家族の為にお休みを取れていたのだ。
それが今年は、婚約の解消があまりにも突然だった事もあり、いきなりこちらで過ごす事となってしまった。
だからディアは、そんな侍女達には、今年も同じように午後からお休みを取るようにと命じている。
それは決して、幼い子供達を持つ母親でもある侍女達に家族と過ごしていて欲しかったという綺麗事ばかりではない。
残すところたった三日しかない残り時間を、少しでも自分の為にだけに使いたかったのだ。
(それなのに、まさかのローグフィリアにお客様だなんて………!!)
激辛香辛料酒を投げつけたい思いで待ち構えていると、すぐに夜菫の棟の護衛騎士達が、部屋を訪ねてきた。
王宮内の指揮系統を幾つにも分ける必要はないからという理由で、ディアの住う棟には家令などは置かれておらず、こうしてお客の取り次ぎなどは騎士達がしてくれる。
今になって考えてみれば、リカルドはこの場所をディアの家などとは思っておらず、牢獄として管理していたのだろう。
「ディア、マリエッタを困らせているというのは本当か?」
「……………まぁ、ジルレイド様。率直に申し上げますと、ご質問の意図するところがよく分かりません」
部屋に通されるなり、この国の第二王子でもあるジルレイドは、いきなりそんな事を言うではないか。
そしてぴたりと立ち止まると周囲を見回し、羽織っていた毛皮付きの上着を無言で脱いだ。
暑いのだろう。
「暖炉の火が強過ぎるんじゃないのか?」
「あちらをご覧くださいね。火は入れていないのです」
「となると、建物内のストーブか。後で管理する者達に申し伝えておこう」
「いえ、今日は午後から侍女達に休みを取らせましたので、このままで構いません。調整が上手くいかずに凍えるよりは、いっそもうこのままの方が安全ですから」
「…………私が訪ねたのは、その件だ。マリエッタが、朝霞の棟の侍女達をこちらに派遣しようと申し出たのを、考えもせずに断ったと聞いているぞ」
ディアが勧め忘れた椅子にどさりと座り、ジルレイドは襟元を寛げて溜め息を吐いている。
少々お行儀が悪いものの、それでも優雅に見えてしまうのはファーシタルの王族の美貌故だろう。
リカルドが美しい銀孔雀なら、このジルレイドは美しい銀狼だ。
(……………いや、リカルド様は孔雀ではないかしら。優雅で穏やかで、聡明でなかなか腹黒そうな生き物の例えが見付からない……………)
第二王子のジルレイドは、短く切った銀髪に瞳は淡い水色である。
酷薄な印象も与えかねない美貌だが、この御仁は何というべきか、表情に見る者をほっとさせるような不思議な温度があるのだ。
王族を示す青い盛装姿は、彼がローグフィリアの儀式に参加してきたことを示しており、ディアは、昨年までは招待されていた教会での壮麗な儀式を思った。
「ジルレイド様、お察し下さい。私自身が特に感じる事はなくとも、婚約を解消された元婚約者の部屋付きにされる現婚約者の侍女達には、あんまりな仕打ちになります。彼女達だって、主人の側で婚約を喜びたいでしょうに、祝祭の日にそのような思いなどさせられないでしょう」
「だが、側仕えも持たないお前が、侍女達にすら休みを取らせてしまうのは、立場を考えてもいささか無謀と言わざるを得ない。兄上が許可したとしてもだ。………男ならいざ知らず、お前はまだ未婚の女性なのだぞ。一つ我が儘を通したのなら、それ相応の我慢をしろ。マリエッタとて、自分の立場でお前に手を貸す事の無神経さは理解している。それでも、見過ごせなかったのだろう」
呆れたような声でなされるお説教を、ディアは微笑んで聞いていた。
そんなディアを見ていたジルレイドは、途中からどこか遠い目になってゆく。
「……………侍女達を受け入れる気はないようだな」
「はい。ジルレイド様、私とて傷付きやすい乙女なのです。流石にこの前の事がありましたから、こんな日くらいは一人で過ごしたいという我が儘を許してはいただけませんか?」
「……………無用心だろう。それに今夜はローグフィリアだ。せめて、俺の棟に来るか?」
「お子様が生まれたばかりの奥様に、余計な気を遣わせてはなりません。有り体に言えば、私が今日を一人で過ごしたいのは、誰にも気を遣わせない時間を過ごしたいからなのですから」
ディアがそう言えば、ジルレイドは深く溜め息を吐き、なぜか頭を抱えてしまった。
「……………頑固な妹だ」
「ふふ、そんな事今更でしょうに。そして、こちらにいらっしゃった御用は、マリエッタ様の件だけですか?」
「……………いや、それとは別に、お前に聞きたい事がある。ディア、……………あまり思い出したくない事かもしれないが、お前が子供の頃に過ごした屋敷にあった、夜の国の王の絵本を覚えているか?」
真っ直ぐにこちらを見たジルレイドに、ディアは目を瞬いた。
相手は王子なのだから、お茶でも振る舞うべきなのだが、残念ながらこの部屋には侍女がいない。
実はお茶くらいディアにも淹れられるのだが、この部屋の茶器を使うと毒の心配があり、安易に勧められるものではなかった。
ここで、第二王子の暗殺疑惑をかけられるのはまっぴらだ。
「……………夜の国の王様の絵本ですか?」
「ああ。………実はな、ハイドラターツの森では今、いささか深刻な森の異変が起きている。昨年から、この国の森に育つ結晶石の採掘量と質が減っているのを知っているか?」
「いいえ。そのような事はリカルド様も仰っておりませんでしたので、存じ上げておりませんでした」
「中でも、ハイドラターツの森に、最も顕著な異変が表れている。…………そして、十日前から少しずつハイドラターツの森が樹氷で覆われるようになった。これ迄にない事で、森に調査団を派遣したものの原因は不明のままだ」
「今年の冬は、一際寒いという事ではないのですか?」
「あの森は、どれだけ寒い冬でも土が凍らなかった場所だ。地下から湧き出る温水の影響で、この季節でも森の中には花が咲き乱れていた。………それがどうだ。今はまるで死の森のような有様ではないか」
低い声で語られる言葉に、部屋の戸口に立った二人の騎士達もどこか鎮痛な面持ちで頷く。
もしかすると彼らも、ジルレイドと共に森の調査に出ていた者達なのかもしれない。
「では、原因はその温水にあるのかもしれません。確か、温水が湧き出しているのは、ターハウの渓谷寄り、国境域ですよね?これまで湧き出していたものが枯れてしまったですとか、そのような事もあるのかもしれませんでしょう?」
ディアの言葉に、ジルレイドは僅かに瞳を揺らしただろうか。
微笑もうとして失敗したような曖昧な表情を浮かべ、どこか苦しげに一つ頷く。
「かもしれないな。…………だが、幼い頃にお前の屋敷で読んだあの本に、とても大切な事が書かれていたような気がしたのだ。あの痛ましい事件を機に、この国では森を治める夜の王について言及する事が暗黙の了解で禁忌とされてしまった。……………ディア、お前が言ったような理由なら、どれだけいいだろう。けれども、お前もあの様子を見れば分かるだろうが、……………今のハイドラターツの森は異様なのだ」
「ジルレイド様、そのような事であれば私とて是非にお力になりたいと思います。ですが、ジルレイド様のお探しの本についての記憶があまりないのです。……………確か、森には恐ろしくて美しい夜の国の王様が住んでいたというような物語だったとは思いますが…………」
それは、ふくよかな濃紺の布貼りの本だった。
絵本のように作られていたものの、今のディアには、それが絵本を模した教本だったのだと分かる。
もう一度読みたいと思い、王宮内の図書館でも探したが、そんなものはどこにもなかったからだ。
(あの絵本はいつもお父様の執務室にあって、手に取って読む事が出来たのは、ジラスフィ公爵家の人間と、屋敷を訪ねてきた王子達くらいのものだったから………)
遠い日に触れたあの本の手触りを覚えている。
そして、何度も何度も読んだあの絵本の内容を、ディアが忘れる筈もない。
しかし、それをジルレイドに伝えるかどうかはまた別の問題だ。
不思議そうに首を傾げてみせた狡猾な人間に、ジルレイドは落胆したように肩を落とした。
短い髪の毛は僅かに濡れているので、ここに来る前に雪を積もらせた枝のかかる中庭を抜けてきたのだろう。
「……………そうか。すまない、辛いことを聞いたな。それと、今夜の祝祭の晩餐はどうするつもりなのだ?」
「まぁ。またそちらに戻ってしまいましたね。今夜の晩餐は、きちんとお部屋に届けて貰えるそうですよ。ジルレイド殿下はお忘れかもしれませんが、ここも一応は王宮内なのです。侍女達に休みをやったからといって、私は飢え死になどはしません」
ディアがそう言えば、なぜかジルレイドは少しだけ考え込む様子をみせた。
少しだけ疲弊したような目をして、とても熱心に自分の手元を見ている。
「そ、そう言えば、今朝はローグフィリアのミサがあった。お前は来なかったのだな」
「あれは本来、王族とその縁者だけのものです。ご招待いただきませんでしたから」
「……………そうか。お前は俺の従姉妹でもある。その線引きで招待しなかった訳ではないと思うが、今年は、父上も配慮したのかもしれないな」
「かもしれませんね。…………ジルレイド様、私に何か仰りたい事があるのではありませんか?」
どうも様子がおかしいのでそう言えば、ジルレイドはそろりと顔を上げて何ともいえない暗い顔でこちらを見るではないか。
「…………教会にある、古き祝福の絵画を覚えているだろうか」
「ええ。古いおとぎ話の中に現れる、妖精や竜、魔物と精霊のものですね。それがどうかされましたか?」
「あの物語の中では、妖精は侵食を好み、竜は宝を抱え込む。魔物は残忍で享楽的で、精霊は……執着が強いとされる」
「…………ええ。人ならざる者達の誘惑とその顛末である破滅を退け、主人公が信仰の門に向かうお話でしたからね。それが、どうかされましたでしょうか?」
「っ、……そうだな。ディア………」
ジルレイドが、何かを言おうとした時の事だった。
奇妙な切実さを孕んだ瞳をこちらに向けたジルレイドが、ぎくりとしたように体を揺らす。
そして、ゆっくりとディアの背後を見上げた。
「おや、これはこれはジルレイド殿下。ご訪問中とは知らず、ご無礼を」
「ヨエル…………」
そこに立っていたのは、リカルド王子の近衛騎士でもあるヨエルで、いつの間にこの部屋に入ったものか、その手には騎士姿に不似合いなお茶のセットを持っている。
まだいたのかとぎくりとしたのはディアも同じだったが、ヨエルとしての姿を見せたからには、リカルドから何らかの指示があるのかもしれない。
ディアの元婚約者は、弟や妹達が必要以上にディアと近しくなるのを厭うのだ。
「侍女達が休んでおりますので、ディアラーシュ様にお茶の準備をと思いまして席を外しておりましたが、殿下がいらっしゃるのであれば、カップの数を増やして参りましょう」
「……………っ、いや、もう帰るところだ」
「ジルレイド様………?」
あまりにも不自然な慌てように、ディアは思わずその名前を呼んでしまった。
するとジルレイドは、なぜか狼狽したように視線を彷徨わせる。
背の高い従兄弟がおろおろとする様子は不可思議で、何だか悪戯が見つかったばかりの猟犬のようにも見えた。
「ディア、………そのだな、お前はまだ、…………初めて参加した舞踏会の事を覚えているのか?」
「……………またしても、突然話題が変わりましたね。……ええ。その時のことは覚えております」
「お前が初めて踊った王子の事も………?」
(私は……………)
そんな事までを、この従兄弟に話しただろうか。
あの、ディアの無残な人生の中において、たった一つの輝かしく美しかった夜のことを。
目を瞠り、無言で見上げたディアに、ジルレイドはふっと淡い微笑みを浮かべると、手を伸ばしてそっと髪を撫でてくれた。
「……………お前の想いが叶えばいいとは思うのだが、いささか相手は捻くれているのかもしれない。辛い思いをしていないといいのだが」
「ジルレイド殿下?」
「ジルレイド殿下、長居をされるようであれば、やはり紅茶を淹れ直してきた方が良さそうですね」
「………っ?!い、いや、そうだな、もう帰ろう。騒がせたな。……………ディア、マリエッタにはきちんと話をしておくのだぞ。お前を心配していたからな」
「……………はい。あらためて、お礼のお手紙を書いておきます」
どうやらジルレイドは、ヨエルが苦手なようだ。
第一王子との仲は良好で間違いない筈なので、単に、個人的な相性かもしれない。
ジルレイドは、この通りディアを妹のように扱ってくれており、これ迄も度々夜菫の棟を訪れてくれている。
婚約解消となるまではヨエルがこの棟の護衛騎士隊長だったのだから、何らかの接点があったのかもしれない。
「……………この国の第二王子を、一介の騎士が追い返してしまって構わないのですか?」
「構わんさ。それとお前は、まだあの王子に心を残しているのか」
「……………ノイン?………あ、先程のやり取りですね。え、ええとあれは、私が幼い頃に話していた事なのです。両親やお兄様に話した記憶はありましたが、ジルレイド様にも話していたとは思いませんでした。……………子供の頃のことですよ」
ディアはそう言ったのに、つかつかと歩み寄ったノインは、指先をディアの顎にかけて顔を持ち上げさせると、ひたりと覗き込む。
いつの間にかヨエルの擬態は解かれていて、ディアの瞳を覗き込むのはぞくりとする程に鮮やかな紫の瞳だ。
その瞳を真っ直ぐに見返す筈だったのに、ディアは堪らずに視線を逸らしてしまった。
「……………子供の頃のこと?……………どうだろうな」
「ち、近過ぎるのです!これでは、疾しい事がなくても目を逸らしてしまいます」
ディアは慌ててそう主張したのだが、指を外してこちらを見たノインの眼差しは、人外者らしい嘲りに満ちていて、その冷たさでディアの心をずたずたにした。
(……………だって、忘れられないのだもの)
指先を握り込み、あの美しく優しい日のことを思う。
大きなシャンデリアの下で踊っていた美しい人と、ディアが初めて見る王様の椅子。
父は、そこに腰掛けている王とディアが目を奪われた人を視線で繋げて見せると、彼も王族なのだよと教えてくれた。
ああ、目を奪われた人は王子なのだ。
そう思うと、いっそうに遠く思えた輝かしい人が、手をつけてはならない舞踏会のご馳走を前に、悲しく項垂れていたディアの頭を優しく撫でてくれたあの日。
あの日に、ディアは王子様に恋をした。
そして、彼が自分を救わず、それどころか殺すのだと知っても尚、やはりこの思いは消えないのだった。
「お前がどうこの舞台の幕引きをしようとしているのかは知らないが、立ち合い見届けることも契約の内だ。くれぐれも、無様な物を見せてくれるなよ」
「ええ。私は私なりに、望む物を勝ち取るつもりです」
「その、子供の頃に望んだ王子様とやらの心を?」
「……………いいえ。自分を望まないものを願っても、私は私を惨めにするだけでしょう。私が望むのは、私の家族や私を殺してゆく人達が、相応しい報いを受ける事ばかりです」
静かな声でディアがそう言えば、ノインはまだこちらを探るように見てはいたが、先程以上に不機嫌になる事はなかった。
「そして、お部屋の温度が落ち着いたようなので、何かを食べられるかもしれません」
ジルレイドが何か指示を出してくれたのだろうか。
ディアの部屋の室温は、いつの間にか、初夏の室温から暖かな冬の日の室温になっている。
これであれば食事をするのも吝かではないと、ディアはおずおずと申し出てみたのだが、そうするとノインは腰に手を当てて暗い目をするではないか。
「……………料理人じゃないんだぞ」
「……………お、お菓子くらいは、持っていないのですか?」
「ったく、その食い気をどうにかしろ。舞踏会の前に腰がなくなるぞ」
「こ、腰はきちんとあります!失礼ですよ、ノイン。疑うのなら触れてみて下さい。きちんと括れていますからね!」
ノインはたいそう呆れていたが、美味しい食事をどこからか出してくれた。
鮭の香草焼きの林檎バターソースをいただきながら、ディアは、ジルレイドが触れた教会に飾られた絵画を思い浮かべ内心首を傾げる。
(どうして、ジルレイド殿下はあのような事を仰ったのだろう?)
無意味なことを、あのように伝えはしないだろう。
であればあの発言には、ジルレイドなりのものとは言え必ず意味がある筈だ。
夜の国の王様の絵本についての言及は分かる。
分かるがディアは、自分を殺す国の為にはその答えを出さないというだけだ。
だが、教会の絵についてジルレイドが何を言おうとしたのかは、さっぱり分からなかった。