【いつかの午後の話】 お留守番と盗まれたシチュー
ディアはその日、ファーシタルを離れて暮らし始めた屋敷の中を歩いていた。
まだディアの体が整っておらず、すぐにはノインのお城に移り住めないのでと滞在している森の中の素敵なお屋敷である。
真夜中の精霊は精霊の中でも最高位にあたるので、その中の王族位にあたるノインのお城となると、土地の魔術の階位が相当に高いのだそうだ。
よってディアは、これからは暫く、体調などを見ながらその時の体に合った土地で暮らしていくことになる。
まずはこの森の屋敷で基礎的な体作りを始めるのだが、とは言えずっとここにいるのではなく、体調が整っている時期を見計らって真夜中の精霊の管轄下にある夜の系譜の土地や、ディルヴィエの一族のいる妖精の国などに滞在したり、それ以外の適した土地に旅行に出かけたりしながら、段階的に体を慣らしてゆくのだそうだ。
(………ノインに、随分と負担をかけているのではないかしら)
そんな説明を聞けば、ディアがノインのお城に移れるまでの時期をおおよそ一年半とし、その後お城に馴染むまでの半年を予備期間も加えて長期休暇を取ってくれたことに対して僅かな引け目を感じてしまう。
その期間で、ディアが見てみたかった世界中の様々な土地を巡る予定もあると聞けば嬉しくて弾んでしまうのだが、ノインとて夜の食楽の王である。
王様としての仕事に、影響は出ないのだろうか。
(ディルヴィエさんからは、精霊はそういうものだから必要な時期が今だったのだなとみんなが思うだけだって言われたけれど、………王様がいなくてもいいのかしら)
ディアは、ファーシタルの外周を囲む森の外のことを殆ど知らない。
なので今は、ノインやディルヴィエが教えてくれることをそのまま受け取っているのだが、とは言えその二人は、ディアに対して好意的な人達だ。
彼等が良しとしてくれても、実際には問題があるということはないのかどうか、密かにはらはらしていた。
「…………なので、おやつくらい」
だからこそ今日のディアは、一人で厨房に向かっていた。
何か実務上の問題があったようで、ノインとディルヴィエは屋敷を離れて不在にしている。
護衛騎士としてつけて貰ったリーシェックが屋敷にはいるのだが、階位としては高い爵位を有するという彼に、おやつを探しに行くので付いて来て欲しいというのは如何なものだろうか。
幸いノインからは、この屋敷から出なければ好きに出歩いて構わないと言われているので、ここは一人で厨房に出かけることとした。
歩いていると、ぐぅとお腹が鳴った。
恥ずかしさに真っ赤になって両手でお腹を押さえたディアは、ノインの作ってくれた料理を食べて転属してゆく真夜中の精霊としての資質が、食楽に向かうからこその弊害に項垂れた。
(ノインと同じものになっていくのはとても楽しみだったけれど、その為にいつもよりもお腹が空くなんて………!)
体の変化が顕著な時、ディアはこんな風にお腹が空くようになった。
無事に真夜中の精霊の中でも食楽の資質に向かっている証拠なのでいいことだが、淑女としての矜持は粉々になりかねない。
ノイン曰く、ディアは元々よく食べる方だったので、食楽の中でも料理を振る舞う側ではなく、美味しく食べることを楽しむ側の資質を得る可能性が高いのだとか。
だからこそ、いっそうにお腹が空きがちなのだ。
ノインもそれを理解して部屋には焼き菓子などを置いてくれていたが、食べすぎると魔術中毒で寝込んでしまう。
その配分もなかなかややこしい為、部屋に用意されたお菓子は最低限のものばかりだった。
そしてつまり、ディアはそれでは足りずに腹ペコなのである。
(着いた!)
厨房を見つけたディアは、喜びのあまりぱたぱたと駆け込み、慌てて立ち止まった。
厨房に来るのは誰かとでも一人でも初めてではなかったのだが、その中に、初めて見る人がいるではないか。
びっくりして動きを止めると、はっとしたように振り返った背の高い男性が、なぜか窓際に逃げていく。
「…………逃げたということは、不法侵入者でしょうか」
「おっと。誤解しないでくれ。俺は、君の過保護な精霊の部下だからな!ただ、まさかここで会うとは思っていなくて、驚いたんだ。………今の君の状態だと、俺には近付かない方がいい。ノイン達や、リーシェックのように器用じゃないから、魔術の調整をしてやれない」
不審者にされかけた紅茶色の髪の男性は、とても慌てたのか若干早口でそう説明してくれた。
ディアは目を丸くしてから頷いたが、全面的に信用していいかどうかは分からないので、リーシェックを呼ぼうと考える。
しかし、ディアの護衛騎士は既にこの騒ぎを察知していたらしい。
「………ふぁっ?!」
いきなり背後から抱き上げられて思わず声を上げてしまうと、どこかじっとりとした目のリーシェックがいる。
はっとするような鮮やかな水色の瞳は、ディルヴィエの瞳とはまた色相が違い、とても綺麗だ。
「お嬢さん。どうして俺を呼ばなかったんですか?」
「…………おやつを探していたので、……」
ここで、ぐぅぅという音が響き、ディアは、どこかに消えてしまいたくなった。
真っ赤になって項垂れたディアに、厨房には沈黙が落ちる。
「……………リーシェック、彼女はお腹が空いているんじゃないのか?」
「……………さてはお嬢さん、空腹過ぎて真っ直ぐに厨房に向かいましたね」
「……………お、お腹が空いておやつを探しにいくのに、リーシェックさんを呼んでいいかどうか悩んでしまいました。ノインから、お屋敷の中では自由にしていていいと言われたので、一人で厨房に行くことにしたんです」
「成る程………」
「ただ、あちらの不審者に遭遇しましたので、リーシェックさんを呼ぼうとしていたところだったのですよ」
「あれ。俺はまだ不審者のままなのか………」
「当然ですよ。来るなら連絡をして下さい。あなたがいるなら、彼女を野放しにはしませんでした」
「のばなし………?」
ディアは、それは果たして乙女に使う表現だろうかと眉を寄せたが、見上げた先のリーシェックは涼しげな顔だ。
低く響いた誰かの笑い声に厨房の奥を見ると、先程の紅茶色の髪の男性が愉快そうに笑っている。
よく見ればどこか精悍な美貌のその男性は、ディアの目線に気付くと、悪戯っぽく笑って首を振った。
「いや、すまない。リーシェックがしっかり面倒を見ているのが、なんだか微笑ましくてな」
「うるさいですよ。さっさと出て行って下さい」
「うーん。威嚇するなぁ。でもまぁ、大事にしているようで何よりだ。ちょっと待っていてくれ、このシチューを貰ったら離れの部屋にでも移動するよ」
「ん?そのシチューは、あなた用のものではないのでは?」
「そ、そのシチューは、私のものなのでは?!」
ここでディアとリーシェックが同時に声を上げて、紅茶色の髪の男性はなぜかにっこりと微笑んだ。
「すまないな。任務でまたトマト煮込みばかりを食べさせられる羽目になって、…………食事の為に立ち寄ったんだ」
「ビスト!!」
「わ、私のシチューが!!」
ビストと呼ばれた男性の動きは、素早かった。
さっと両手鍋を持ち上げると、開いていたらしい窓から素早く逃げていってしまう。
厨房には、シチューを盗まれたディアと、そんなディアを抱き上げたまま呻き声を上げたリーシェックが取り残される。
「…………やられましたね。とは言え、ここでお嬢さんを残して屋敷を出る訳にもいかないので、今のシチューの分、お嬢さんのケーキを分けて下さい」
「おかしいです。なぜ、シチューに続いてケーキまで減るのでしょう………。それと、シチューを見たからには甘いものではなくて塩っぱいものが食べたいです………」
「やれやれ。菓子類なら作り置きがあるでしょうが…………」
リーシェックはそう呟くと、ディアを抱えたまま厨房に入った。
リーシェックが開いたままの窓の方を見ると、触れてもいないのにぱたんと窓が閉まったので、魔術で何かをしてくれたようだ。
「いつも、ケーキ類はこのあたり、焼き菓子やタルトはこのあたりに隠してあるんですよね」
「……………私のおやつを、日常的に盗んでいる犯人です」
「探し物は得意なんですよ。索敵して殺すのが、俺の本来の役割なので。………料理類はここには備蓄してなさそうだな。…………何か作りますか?」
「もしかして、………リーシェックさんも、お料理が出来るのですか?」
「少なくともお嬢さんよりはね。どうせなら、あいつが戻ってきた時にも盗まれないよう、鶏肉のトマト煮込みにするか………」
断ろうかと思っていたディアは、鶏肉のトマト煮込みと聞いてすっかり心が弱くなってしまい、こくりと頷いた。
悪いのはシチューを盗んだ先程の人物なので、リーシェックの料理を食べて叱られたら、犯人を裁いて貰えばいい。
「ただ、私にはまだ食べられないものがあるようなのです」
「知っていますよ。お嬢さんの体に悪さをしない食材を使いましょう。……………幸い、その手の調整は昔色々と調べたので詳しいですからね」
「はい!」
ディアが微笑んで頷くと、リーシェックはなぜか、眩しそうに目を細めた。
窓からの陽光が差し込んだのかなと振り返ったが、既に陽は隠れてしまったようだ。
なお、ディアとリーシェックは、帰宅したノインとディルヴィエに叱られることになった。
リーシェックが作ってくれた料理はディアの体調には影響がないものだったが、魔物に餌付けされてしまうといけないので避けた方がいいらしい。
シチューを盗んだのは竜であるらしく、ディアは、竜はそういうことをする生き物なのだなととても評価を下げることとなった。




