【1巻発売記念】 秋の狩り場と杏の焼き菓子
ふくよかな紅葉の森を眺め、ディアはずきずきと痛む足首を押さえた。
こっそりスカートを持ち上げてみれば、右の足首が見事に腫れ上がっている。
今日はまだまだ部屋に戻れないので、ここから悪化するのだろうなと思うと深い溜め息を吐いた。
(………ここまで酷いと、誰かに気付かれていないといいのだけれど)
そう思い出来るだけ足を引き摺らずに歩こうとしているのだが、同行しているのは残念ながら他者の動きに敏感な騎士である。
きっと負傷の程度などはそのままに把握され、狩りが終わった後にでもリカルドに報告されるのだろう。
本日は王家主催の狩りの日で、ディアはリカルドの招待で会場を訪れていた。
本来であれば馬に乗って狩り場の中を適度に移動する予定だったが、この通り落馬により負傷してしまったのでその予定は切り上げざるを得なかった。
とは言え、足が痛いからと言って勝手に帰れるような催しではない。
渋々、婚約者であるリカルドの天幕に向かっている。
同行してくれた護衛騎士の案内で漸く目的地に到着したのは、ディアが、もう森の中を歩くのは充分であると弱音を上げそうになるほんの少し手前の事であった。
今日は狩りの催しに参加する用のドレスではあるものの、女性用の靴は僅かに踵が高くなっている。
その僅かな傾斜を憎み、脱いだ靴をどこかに投げ捨てたくなるのも致し方あるまい。
ばさばさと、風を孕む布が音を立てる。
僅かな風に揺れる天幕の白い布は深い赤色に染まった紅葉の森によく映えていて、第一王子の天幕の入り口には、はっとするような鮮やかな青色の絨毯が敷かれていた。
その鮮やかさにふと、目を奪われた。
(………綺麗)
白と、赤と青と。
鮮やかな色の対比を美しいと思ったが、それを伝える相手はいない。
頬に触れる風はひんやりとしていて、灰色の雲間からは青空が覗いている。
何だか、物語の入り口のような佇まいであった。
殆どの男達が狩りに出ているので、こちらに残っている騎士達はあまり多くないのだろう。
そんな中に護衛騎士の一人を伴って戻ってきたディアを認め、リカルドの近衛騎士達は僅かに困惑したような顔をした。
だが、仮にも第一王子の婚約者であるので、その中の一人がこちらに進み出る。
「どうされましたか?」
そう尋ねたのは、リカルドの天幕を守る近衛騎士の一人で、ディアの伴っている騎士よりも階位が高く、伯爵家の次男だと聞いていた人物だ。
僅かに緊張した様子なのは、こうしてディアと対面する事が滅多にないからだろう。
リカルドは、自分の目がないところでディアが誰かと関わるのを嫌っていたし、近衛騎士であればそのようなことも把握済みに違いない。
(尤も、それは私への監視が及ばなくなるからなのだけれど…………)
とは言え、そんな背景があるので、ディアも恐縮していた。
後でこの騎士達が責を問われないように、出来るだけ必要な会話を減らしてあげた方がいいだろう。
なのでと、未婚女性としては柔らかさに欠ける事を承知で、必要な情報だけを伝えてしまうことにする。
「カレルド王子が貸して下さった馬から振り落とされてしまいまして、足を痛めたので、天幕で休ませていただくことにしました」
「……………ああ」
馬から落ちたと言えば騎士達はさもありなんという顔をしたが、今日のディアが振り落とされたのは穏やかな筈なのにと言われるいつもの馬ではない。
兄の婚約者を嫌う第三王子が、利口な馬だからきっと上手く乗せてくれるだろうと連れて来た暴れ馬だ。
とても優しい馬だという事であったが、どこからどう見ても最初から相当に気性の荒そうな馬であった。
けれども、近くにいた者達は見て見ぬふりをしていたので、言われるがままに跨ってみるしかなかったのだ。
そして、当然ではあるが、ディアはすぐさま跳ね飛ばされて落馬した。
この季節の森の地面には落ち葉が降り積もっているが、大きな馬の背から投げ落とされて無事で済む程に柔らかくはない。
それが分かっているからこそ、周囲にいた者達はそれぞれに理由をつけてあっという間にその場から立ち去ってしまったのだろう。
(リカルド様が一緒にいれば、上手く嗜めて角が立たないように断ってくれたのに………)
結ばれた婚約は素晴らしく打算的なものであったが、それでもリカルドは、表立った場所ではディアを守ってくれている。
結果として、その周囲にいる者達もリカルドがディアを庇護している間だけはと手を貸してくれるので、せめてその中の誰かがいれば、このような事にはならなかったに違いない。
けれどもそこには誰もいなくて、だからこそカレルド王子は、ディアにあんな仕打ちをしたのだろう。
もしくは、こうなるようにどこかに手を回していたからこそ、あの馬を連れて来ていたのだろうか。
そう思うと惨めさにぐしぐしと心が痛んだが、ディアは痛む足に出来るだけ体重をかけないようにして、それでも真っ直ぐに背筋を伸ばす。
誰かが親身に案じてくれる事はないので、自分の品位は自分で守らねばならない。
こんな身の上で他者の評判を気にする必要はないと思うのだが、迂闊に軽視され過ぎれば、今後もこのような事が続くだろう。
弱さというものは、得てしてより過分な悪意を招くのだ。
ディアはこれ以上に痛い思いも怖い思いもしたくないので、人目に触れる瑕疵を作りたくなかった。
「では、こちらでお休み下さい」
天幕を守る騎士達は暫し話し合っていたが、やがて、その逡巡などなかったかのように穏やかな微笑みを浮かべ、ディアを天幕の中に案内してくれた。
幾重にも布を張り巡らせた入り口から中に入ると、さすが第一王子の天幕だけあり、中には立派な火鉢や高価な火の魔術を使ったストーブなども用意されていて、冷たい秋風に冷えた体を温めてくれそうだ。
ファーシタルの秋は早いところでは初雪も観測され始めるくらいなので、とにかく底冷えするという季節なのである。
「……………むぅ」
けれども、これでやっと人心地かなと思ったものの、天幕の中に入れられると、先程までディアに随従していた護衛騎士も下がってしまう。
この中に居れば迷子になることも逃走することもないので当然と言えば当然のことなのだが、手当てに関する言及の一つもないまま放置された感も否めず、ディアは悲しく眉を下げた。
(でも、やっと座れるわ)
天幕の中を見回して、リカルドの為だと一目で分かる椅子は避けた。
ディアが選んだのは、一脚の簡素な木の椅子だ。
筆頭騎士の控える椅子か、或いはこの天幕を訪れた者の為に用意されたものかもしれない。
ではそこに向かおうと思ったが、今度は、落ち葉を掃き出した森の野営地に絨毯を敷いて設営した天幕であるのでお世辞にも歩きやすいとは言えず、人目を気にしなくなったところなのでがくんと体が揺れた。
第一王子の休憩所に相応しいだけの設営ではあるものの、少なくとも足首を痛めていなければ普通に歩ける程度の地面でしかない。
ディアは、靴を脱ぐのは椅子に座ってからだと自分に言い聞かせながら、苦心しながらゆっくりと進み、念の為にもう一度ドレスの汚れを払ってからよろよろと椅子に座った。
「………っ、……………う!!」
足を庇いながら歩くことに疲労困憊していたせいか、椅子にはどさりと腰を下ろしてしまう。
その結果、残念ながら落馬の際にはお尻や背中も痛めていたようで、硬い座面にぶつかって今度はそちらが悲鳴を上げた。
あまりの痛さに声も出せずに悶絶し、体を屈めていると、ばさりと天幕の入り口の布を持ち上げる音がする。
「……………ったく、また馬から落ちたのか」
「ヨエル……………」
はっとしてそちらを見ると、入ってきたのは、リカルドの筆頭騎士の一人であるヨエルだ。
表立って近衛騎士として同行する者ではないが、この騎士が第一王子の片腕なのは皆の知るところである。
とは言え、先日の冬至以降は中身が夜の国の王様になってしまっているので、ディアばかりは、ノインと呼んでもいいのかもしれない。
どんなやり取りが表であり、こうも無遠慮に主人の天幕の中に入ってきたのかは分からないが、やや我が物顔で中に入ってくるなり、体を縮こまらせて痛みに耐えていたディアを一瞥したノインは、露骨に呆れたような目をした後に顔を顰めた。
「また落馬したのか」
「今回は、少し特別な事情があるのです。カレルド王子に貸していただいた馬が、…………明らかに性格が破綻していました」
「……………馬だぞ」
「見た瞬間から暴れるぞという感じを出しつつも、私が背中に乗る迄の間は、じっと冷ややかな目でこちらを窺っていて、騎乗に手を貸してくれた騎士達が離れた途端に、力いっぱい私を振り落としたのですよ。あの馬は性格が悪いと言わざるを得ません」
「いつもの馬ですら満足に乗れないのに、初めて扱うような馬に乗るからだろう」
「………カレルド様からの、是非にこちらにした方がいいだろうというご厚意でしたので。穏やかで利口な馬だという事でしたが、殿下の護衛騎士の方々から漏れ聞こえてきた評価によれば、騎士にすら怪我をさせるたいそうな暴れ馬のようです」
「……………ほお。成る程な」
ディアは痛みを堪えて小さく体を丸めて座っていたが、ノインは、そんな人間の様子を何をするでもなく近くに立って見ているばかりだ。
予定通りの行動をしなかったことを訝しみ、その確認に来ただけなのだろう。
そんな無関心さに腹を立てても良かったが、ここにいるノインとてディアの味方ではないのだ。
ただの観客に文句を言っても煩わしく思うだけだろうし、そんな事よりもディアは、ノインにもう少しこの場に居て欲しかった。
皆が楽しそうに過ごしている日に、誰にも弱音を吐けずに一人でこの天幕まで歩いてきて、悲しくて堪らなかったから。
「たまたま、こちらにいたのですか?」
「……………そうだな」
どこからこの騒ぎを聞きつけたのだろうと不思議に思って尋ねてみたが、偶然近くにいたようだ。
勝手に契約を歪められても気になるのでと、何が起きているのかを確かめに来たのだろう。
ここで会話が途切れたので、ディアは、もう一度ちゃんと椅子に座ってみようと考えた。
お尻の片側があまりにも痛かったので、思わず体の片側を浮かせたままであったが、このままでは痛めていない方の足にも負担がかかるし、何しろ全体的に痛めたらしい背中がそろそろ限界だ。
「…………っぴ」
しかし、そんなディアの作戦はあえなく失敗した。
ただ木の椅子に座るだけだったのに、痛さのあまりに、足を踏まれたムクモゴリスのような声を上げてしまう。
「…………明日以降、十日程の間に公式行事への参加予定はあるか?」
「……………ふぁ、…………い、いいえ。なぜそんな事を訊くのですか?」
「魔術酔いを警戒するからだろうな。…………ったく。受け身も取らずに落ちたのか」
不愉快そうに溜め息を吐くと、ヨエル姿のノインがひらりと片手を振った。
その途端、ディアには上手く表現出来ないが、透明な硝子で囲まれたように周囲の色の見え方が変わる。
そして、ざあっと音を立ててヨエル姿を解くと、ノインが本来の姿に戻った。
「この中からでは外の様子が見えませんし、リカルド様が戻られたら危ういのでは?」
「遮蔽の魔術をかけてある。俺が用事を終えるまで、この中に入れる者はいないし、それに気付く者もいない」
「…………まぁ。そんな事も出来てしまうのですね」
であればとディアが靴を脱ごうとすると、なぜか低い声で、おいっと警告されるではないか。
後で靴を履けなくなると問題なのかなとノインの方を見れば、いつの間にか近くに立っていたノインに、ひょいと持ち上げられた。
「ノイン?!」
「この様子だと腰から上も痛めているな。大人しくしていろ。…………骨と肉か。寧ろ、よくここまで歩いてきたという状態だな。脆過ぎるだろう」
「も、もしかして、骨折していたのですか…………?」
「今回だけは、後の目的に支障が出るので調整しておいてやる。後で対価を取るぞ」
「………はい」
ディアは、思いがけず骨までどうにかしていたのだと聞かされ、肩を落とした。
そんなディアを持ち上げていたノインは、そのままディアをもう一度椅子の上に下ろす。
持ち上げはなぜか痛くなかったが、流石に椅子に戻るとなるとまた痛むのかなと覚悟をしていたが、なぜかふかふかの座面に座らせられていた。
(少しも、………痛くないわ)
「…………先程の木の椅子ではありません?」
「今だけだぞ。手間をかけさせやがって」
「それは、……………申し訳ありません」
「どうせ、この狩りへの参加で体調を崩したという理由でもつけて、あいつ等は今夜にも毒を仕込むだろう。数日寝込んでもどうにかなるな」
「…………という事は、私はこの後、ノインに数日間寝込むような事をされてしまうのですね」
「……妙な言い方をするな。傷の回復にかける魔術がお前には強過ぎるだけだ」
「……………む」
それはどういう意味だろうと目を瞬いていると、椅子の上に座らせたディアの前に屈み込み、ノインが勝手にスカートの裾を持ち上げるではないか。
あんまりなことに目を瞠ったまま固まっていると、痛めた方の足の靴を脱がせられた。
(あれ…………?)
きっとこれだけ痛めていれば靴を脱ぐのも相当痛いだろうと思っていたのだが、幸いにも、そこまでではなかったようだ。
するりと取り上げた靴を横に置き、ノインはぐっと冷ややかな表情になる。
「……………その、不愉快であれば、そちらはそのままでもいいのですよ?」
「狩りが終わったら、離宮まで自力で帰らなければいけないんだぞ?」
「ええ。きっととても辛いでしょうが、王宮までは馬車に乗れますし、死にはしないでしょう」
それは強がりではなく事実であったので、ディアは言葉を選びはしなかった。
いつだって、ディアには殆ど選択肢がないのだ。
(例えば、あの馬に乗らなけばいけなかったように……)
こちらを見たノインが僅かに瞳を揺らし、ややあって、盛大に顔を顰める。
そしてなぜか、立ち上がりながら、ディアのおでこを指先でばちんと弾いた。
「…………っ?!な、何をするのですか!!」
「さぁな。お前の返答が不正解だったからだろうよ。…………今日は、このまま狩りが終わるまでここにいろ」
(…………あ)
立ち上がったノインに、ディアはぎくりとする。
そのまま帰ってしまいそうな気配であったので、慌てて会話を繋げる言葉を探した。
だが、そもそも社交に長けている訳でもないディアには、もう少しここにいてくれればいいのにという提案ですら、最適なものが選び出せない。
これぞという話題もなく、また胸がきりりと痛む。
「………お昼からは、王妃様の天幕で昼食をいただく予定だったのです。そちらには参加しないといけません」
「参加するのは、王妃だけか?」
「………いえ。昼食会ですので、王妃様が親しくされているご婦人方と、その、カレルド王子もいらっしゃいますが………」
「却下だな」
「まぁ。今回ばかりは、そう我が儘を言われても……」
行きたくないからと行かずに済む場ではないのでそう言えば、ノインは呆れたような目をするではないか。
仕方なくディアがこちらの事情を説明しようとしたが、ノインが遮った。
「昼食会については、こちらで調整しておいてやる。行かなくても問題ない。………そもそも、その王子はお前が落馬したことを知っているんだろう。その上で昼食会に出るのなら、面倒な奴との面倒な会話を強いられる事になるぞ」
「…………行かなくて済むようになるのなら、行きたくありません」
「そうしろ。………このままだと、お前の支払いがとんでもない事になりそうだな。………それを対価の一つにしておいてやる。ここでの用事は昼食会だけだな?」
「……………はい」
本当は、もう一つだけ予定があった。
けれどもそれは、王妃との昼食会が流れてしまえばなくなるものなので、ディアは敢えて言及しなかった。
だが、返事をするまでに少し間が空いてしまったからか、ノインが無言で片眉を持ち上げる。
「もう一つ用事があるようだが?」
「……………むぐ。…………昼食会の後に、ご婦人方と、鹿取りの遊びをする予定でした」
「なんだそれは…………」
とても怪訝そうな顔をしたノインに、そうなるから言わなかったのだという目を向けてみたが、無言でこちらを見るばかりなので説明せよという事だろう。
困った人外者であると背もたれにもたれかかり、ディアは、体のどこも痛くない事に気付いた。
はっとしてもう一度椅子に座り直してみたが、お尻も背中もたいへん壮健である。
「…………体が痛くなくなりました」
「気付くのが随分と遅かったが、俺の手を煩わせない程度に整えてある。で?」
「………そうだったのですね。有難うございます。………鹿取り遊びは、最近、王都のご婦人方の間に流行っている、狩りの日に楽しむ盤遊びなのですよ」
ここ一年くらいで流行り始めた鹿取り遊びは、陣取り盤のようなマス目のある板の上で、何種類かの鹿の形をした駒を動かして遊ぶ貴婦人の嗜みだ。
男達が狩りをする間に、女達が時間を潰す為の余興である。
勝敗がつく遊びなので、小さな小物やお菓子などを賭けるようになっており、その仕組みを使って僅かな社交の駆け引きも行われるらしい。
そして、場合によっては面倒な事になり兼ねないその遊びに参加するのを、ディアは密かに楽しみにしていた。
(……………鹿取り遊びが流行り始めてから、一度もやった事がなかったから)
ご婦人達が楽しそうに話しているその遊びに、今日こそは参加出来る筈だったのだ。
あなたもやるでしょうと声をかけてくれた王妃に、何を賭けるのかは分からないままにとても楽しみにしていて、リカルドに相談して、まっさらなレースのハンカチを用意して貰っていた。
リカルドの助けを借りねばならなかったのは業腹だが、とは言え、ファーシタルの王宮でのディアの暮らしは、婚約者や後見人の国王夫妻の助けがなければ成り立たないものだ。
ここは素直に甘えてしまうことにしようと考え、来る迄の馬車の中で遊び方のおさらいなどをこっそりやっていたのだが。
(でも、今日は諦めるしかなさそうだわ…………)
ノインが何かを調整するのなら、ディアはきっと王妃との昼食会に招かれていなかった事になるのだろう。
その間のディアがどうしていたのかということは、誰も気にしなくなるらしい。
以前にも一度そんな事があったので、そのあたりはディアも承知している。
その場合、ディアの昼食もどこかへなくなってしまうが、諦めるしかないだろう。
みんなが知っていて、ディアだけが知らない楽しい遊びに加えて貰うことも。
「……………人間用の娯楽か。………誰か、その盤と駒の用意はあるか?」
「盤…………?」
不意に、ノインがそんなことを言った。
目を瞬きディアが問い返せば、こちらを見たノインはなぜか、お前ではないと言うように首を横に振る。
ノインが不自然に持ち上げていた片手に、誰かが渡したかのように見た事のある鹿取り盤が現れたのは、その直後の事だった。
「………駒はこれだな。…………稚拙な細工だな」
「な、何もないところから、鹿取り遊びの道具が現れました………!」
「この国の文化の確認の一環としてなら、少しだけ付き合ってやる」
「ノインが、……………一緒に鹿取り遊びをしてくれるのですか?」
「言っておくが、賭けるものが必要になるぞ?」
「は、はい!賭けるものは持ってきています!」
ふっと意地悪な微笑みを浮かべて、これもまたどこからか取り出した小さな机の上に、鹿取り盤を置いているノインに、ディアは狩りの日用のポケットのある上着から、慌てて用意しておいたレースのハンカチを取り出した。
しかし、自慢げにそれを見せたディアに、ノインは顔を顰めて首を横に振るではないか。
「女物だろうが。別のものを賭けるぞ」
「そうなると、ちょっと手持ちがないので………」
「ほお?俺は、昼食を賭けてやるつもりだったが、いいのか?」
「仕方がありません。ノインにも確認作業が必要な筈ですので、お付き合いしますね」
それは、不思議な時間であった。
ディア達がいるのはリカルドの狩り用の天幕の筈なのだが、言われた通り誰も入ってこなかった。
それどころか、まるでここだけどこかに隔離されているかのように、天幕の外からの会話や人々の気配なども伝わってこない。
天幕の中はほこほこと温かく、靴を脱いで座り心地のいい椅子に腰かけたディアは、頑張って覚えてきた鹿取り遊びのやり方をノインに説明し、今回ばかりは自分が有利に違いないと唇の端を持ち上げる。
何しろディアは、王妃から昼食会に誘われた日から、王妃や他のご婦人達からお菓子を巻き上げるべく、寝る間も惜しんで鹿取り遊びの勉強をしてきたのだ。
ちょっぴりやり方を聞き齧っただけのノインになど、負ける筈がないではないか。
しかしそう思っていたディアは、すぐに呆然とすることになる。
「ぎゃ!ま、負けています……!!」
「残念だったな。三手遅い。……………二度と、第三王子の勧める馬には乗るなよ」
「………もしかしてそれが、賭けの品物代わりなのですか」
「俺も忙しい。またこの騒ぎを起こされるのは御免だからな。残念ながら、昼食の準備は必要なさそうだな」
「も、もう一度です!!次は負けません!!」
「ほお?まさかとは思うが、次ならば勝てると思っているのか?」
「ぐるる!!」
ディアの渾身の威嚇に恐れをなしたのか、ノインはその後、三回も勝負をしてくれた。
残念ながらディアは全ての勝負で完敗し、鹿の形の小さな鉱石の駒を叩き割りたいくらいの屈辱に甘んじる事になる。
(とは言え、粘った甲斐はあった…………!!)
さすがに三回目で、ノインは察したようだ。
この人間は、昼食を振舞うまでは絶対に再戦を諦めないようだと。
「ったく。今回で終いだ。その代わり、昼食は作ってやる」
「私の勝ちですね!」
「いや、勝負そのものは、大敗もいいところだぞ」
「これは、出来の悪い規則が多い遊びのようです……………」
「やれやれだな……」
(まだ、誰も来ないのだわ)
もう随分と時間が経った筈だが、相変わらず天幕の入り口を開ける者はいない。
ディアが不思議に思ってそちらを見ると、ノインが人ならざる者らしい怜悧な微笑みを浮かべる。
はっとする程に美しいがどこか仄暗い微笑みに、ディアは、外ではどんなことが起っているのだろうと少しばかり不安になった。
「ノイン、外の様子は………」
「昼食は、鶏肉のクリーム煮込みでも作ってやる。干し葡萄入りのパンと、……最近出来上がったばかりのチーズもあったな。飲み物はこの天幕にあった紅茶で我慢しろよ。さすがにそれ以上は、お前の体には負担になる」
「と、鶏肉のクリーム煮込みと、ぶど………ぱん」
興奮のあまり復唱もおぼつかなくなったディアを、ノインは呆れたように見ていた。
けれども、そんなに美味しそうなものを出されて、動揺しない筈もないではないか。
なお、あまりの美味しさに心が弾むような昼食を終えたディアが、ノインが何かの魔術を解くのを見てから天幕を出ると、そこにはもう何もなかった。
ディア達が出た途端に天幕はしゅわんと消えてしまい、その中に入るまでは午前の鈍い陽光が照らしていた秋の森は、既に夕刻の青さに沈んでいる。
当然、森の中には狩りを楽しんでいた人々の姿はなく、ディアが乗ってきた馬車が残っている筈もない。
「……………まぁ。私は、森に置いていかれてしまったのですか?」
「そう言えば、帰路は問題ないんだったか」
「先程の会話のことであれば、さすがに馬車には乗って帰る予定だったのですが……」
これはさすがに予想外だ。
まさか、ここから歩いて帰るのだろうかと途方に暮れていると、ノインが小さく笑う気配がした。
むっと眉を寄せて隣にいる夜の国の王様を見上げれば、夜の入りの暗い森の中でも鮮やかに映える紫の瞳がこちらを見て微笑む。
伸ばされた手が、ふわりと頭の上に載せられた。
「仕方がない。部屋までは送ってやる」
「今回は、ノインのせいで馬車に置いていかれたのですからね?」
「そうだな。…………まだその様子なら、もう一品付けても大丈夫だろう。部屋に戻ってからになるが、焼き菓子の一つでも追加してやる」
「やきがし!」
ノインが見えない誰かから何かを受け取るかのように振り返ると、そこにはどこから現れたものか漆黒の馬がいた。
ディアは、またしても馬であると身構えてしまったが、ノインにひょいと持ち上げられて馬の上に設置されると、後から馬に跨ったノインがしっかり背後から背中を支えてくれる。
(……………温かい)
背中越しに伝わる体温に、なぜだか少しだけ動揺してしまうのはなぜだろう。
けれども、こんな風に体を寄せたのは初めてで、慣れない距離感には、おろおろするばかり。
だが、ノインの方はまるで気にならないのか、手綱を持って馬を器用に操ると、そのまま帰路につく。
見た事もないような深い森の中を、月明かりだけを頼りに進めば、ディアの知らない抜け道があったようだ。
二人が乗った馬は、どうやって突破するのだろうと思っていた王宮の正門も通らずに夜菫の棟の庭まで運んでくれてしまい、なぜか見張りの騎士達の姿のない扉から屋内に入り、そのままディアの部屋まで誰に会う事もなかった。
これも魔術の不思議なのだろうか。
そう思うと驚くばかりだが、ディアにはこのままでは困る事情がある。
部屋まで付いてきたノインを見上げ、そっと訴えてみた。
「…………このまま今夜は誰にも会えないとなると、着替えはどうすればいいのでしょう?」
「暫くすると、晩餐の準備をしに誰かが来る筈だ」
「やきがしは…………」
「………一度に食うなよ。一日に一つまでだ」
このまま帰られては堪らないと焼き菓子の催促をしたディアは、ノインが取り出したお皿を見て目を丸くすると、手渡されるなり慌てて膝の上に置いて大事に抱え込んだ。
楕円形の美しい白いお皿には、杏を使った焼き菓子が五個も載せられている。
一日に一個までということは、五日間は楽しめるということに他ならない。
「……………こんなにくれるのです?」
美味しそうな焼き菓子を見ていたら、ディアは、なぜだか泣きたくなった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感じがして、目の前の美しい人に手を伸ばしたくなった。
もし、今ここでノインを抱き締めて、もうどこにも行かないで欲しいと言ったのなら、どうなるのだろう。
呆れてどこかに行ってしまうだろうか。
もう二度と、会えなくなってしまうだろうか。
そんな愚かなことを考え、ディアはその願い事にそっと蓋をする。
「保存用の魔術を使った布をかけておいてやるから、残りのものはそのあたりの机の上にでも置いておけ。俺とお前以外には見えないし、触れられることもない」
「………まぁ」
「とは言え、数日は寝込む事になるだろうから、二個目を食べられるのは少し先だがな。…………もう、暴れ馬なんぞに乗るなよ。……………面倒だからな」
「……むぐ。………美味しいです」
込み上げてきた涙を隠して焼き立てのいい香りに我慢出来ずに本日分を齧っていると、ノインは再びの呆れ顔になった。
どうやらこの焼き菓子は、二度と暴れ馬から落ちて面倒をかけるなという忠告も兼ねているらしいが、とても素敵な賄賂なので有難く貰っておこう。
ノインは、ディアが焼き菓子を夢中で食べている内に、帰ってしまったようだ。
こつこつとノックの音がして、いつもの晩餐を運んでくる者達が部屋を訪れる。
ディアが姿を消している間の事は何の問題にもなっていないらしく、不審がられない程度に、着替えの手伝いに訪れた侍女に聞いてみれば、ディアは馬から落ちたものの特に問題なく狩りに参加し、王妃の昼食会にも出た事になっているようだ。
鹿取り遊びで全敗したことになっているのは不本意であったが、実際にあった事ではないので気にする必要もないのかもしれない。
いつの間にか上着のポケットからレースのハンカチが消えていて、王妃と仲の良い侯爵夫人がそれを持ち帰った事になっていた。
ノインの見立て通りに雪水仙の甘い香りのする水と一緒に準備された晩餐には申し訳程度に口を付け、ディアは、その日の夜から二日間熱を出して寝込んだ。
ノインがそんなディアを見舞う事はなかったが、高熱に魘されながら目を覚まし、焼き菓子を置いておいたテーブルを見れば、確かに誰も気付かずに触れられもしないようである。
(……………早く、二個目が食べたいな)
そう思いながら枕に頭を戻し、ディアはふと、カレルド王子の企みで怪我をしたことをすっかり忘れていたことに気付いた。
こうして思い出してしまえば、リカルドの天幕に向かうまでの間に感じた胸の痛みが蘇るかなと思ったが、テーブルの上に誰にも見付からない杏の焼き菓子を隠し持っていると思うと、それだけで心の中がいっぱいになる。
不規則な呼吸のまま目を閉じれば、帰り道でノインに預けた背中の温かさを思った。
真夜中に誰かが同じ温度の手のひらでおでこに触れたような気がしたが、熱に魘されて夢を見たに違いない。
なお、カレルド王子は、後日またあの自慢の暴れ馬を連れ出そうとしたところで不手際があり、たまたま近くにいたリカルドを巻き込んでひと騒動あったしい。
大事には至らなかったものの大好きな長兄に擦り傷を負わせ、たいそう落ち込んでいるそうだ。