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【その前とそれからの話】 王子と妖精




“ジルレイド、これが私からの最後の私信となる。………父上は、病死ではなく毒殺された。今後、母上や叔父上の方針には決して逆らわぬよう。教会からの通達にもだ。………もしいつか、ここで成された事への報復をと願うのであれば、この国ごと掌握出来るだけの力を蓄えてからとするか、…………この国の外に出る為の術を探しなさい。私の事も信用してはならない。侯爵家と、伯爵三家もそうだ。シェズダム伯爵家は中立ではあるが、あの一族はそれ故に、今後の粛清対象とされる可能性がある。……………大丈夫だ。この粛清と支配は、決して悪意ではなく支配でもない。善良な者達がそれ故に国を憂い、愚かさで国を傾けようとした私達を、許さなかっただけの話なのだから。……………だから、生き延びようはある。どうか、………生き延びてくれ”





それは、兄からの最後の私信であった。


王宮を抜け出し、ジラスフィの惨劇の地に勝手に向かってしまった弟の行動を何とか隠蔽した兄が、素知らぬ顔でジラスフィ公爵家の葬儀に出席したその後で書かれた手紙であった。



そうして、父である国王が病死したその数日後に、ジルレイドは兄をも喪うことになる。



いや、リカルドは常にそこにいたが、こちらを見て微笑む人はもう、かつては、共にこの国の未来を守ろうと誓った優しい兄ではなく、ずたずたに引き裂かれて鎖で縛り上げられた兄というものの残骸のように見えた。



だからジルレイドは、こう思う。

幸福だった日々に、ジラスフィ公爵や護衛の者達、そしてジルレイドと一緒に城下に忍んで出かけた大好きな兄の心や魂にあたる部分はもう、死んでしまったのだと。



優しく物静かだった兄もまた、あの嵐の日に殺されてしまったのだと。





「……………実際にもう、あの方は兄ではなくなった」

「ええ。あなたが領主になるにあたり、彼等との縁を切る事も求められた。その通りだわ。…………でも、あれも可哀想な子供ね。ジラスフィに傾倒し、真夜中の王に礼を尽くしたお前の父と同じように、私達の側にこそ心を傾けた哀れな人間。この国の王妃と王弟、そして教会の強欲な司祭達は、そんな王族を心から哀れんだのだわ」



ジルレイドの隣に立ち、ふわふわの柔らかな髪を揺らして、可憐な顔立ちに似つかわしくない辛辣な言葉を吐いたのは、もう、シェズダム伯爵家の一人娘ではなかった。


その娘の皮を被った妖精の娘で、だからこそ彼女は、ファーシタルの人間が想像も出来ない程の長きを生きた、人ならざる叡智を持つものとして言葉を選ぶ。



「……………哀れんだ、………?」

「ええ。あの人間達の主張はこう。国を傾けるほどに悪しき迷信に入れ込み、存在しない人ならざるもの達への信仰に囚われた哀れな家族、もしくは同胞。どれだけ愛しても説得には応じてくれず、我々は彼らを愛しているからこそ、その凶行を止める為に愛する者を殺すしかなかったのだと」

「……………っ、」



がりりと、奥歯を噛んだ。


だが、少しだけ呆れたようにこちらを見た少女の眼差しに、ジルレイドは、分かっていると苦々しく呟いた。



(……………その通りだ。彼らは、父上や兄上、そしてジラスフィの人々ですら、決して憎んではいなかった。それどころか、なぜこうなったのだろうと涙を流し、腐ってしまった患部をナイフで削ぎ落とすようにして殺したのだ)




第一王子はまだ若く、更生の余地があるとして生かされた。


それは母である正妃の懇願により叶ったもので、だからこそリカルドは、更生の為の覚悟を示す為にと、その手でジラスフィを粛正しなければならなかったのだ。




“私は、………私がその罰を甘んじて受ければ、それで救われると思っていた。ジラスフィに仇を成せば、夜の国の王との約定を違えたあの愚かな者達が、そしてその指揮を執った私が、人ならざる者達からすぐさま報いを受けると………。その時になって漸く、彼らは、父上や叔父上が正しく、人ならざるもの達はそこにいたのだと知るのだろうと…………”




リカルドはそう考え、ジラスフィ粛清の指揮を執った。



それは、もう逃げ出せないと悟った彼にとって、最後の復讐でもあったのだろう。


偶然にではあるが、ディアラーシュの復讐と全く同じ形をしていて、二人は共に、自分達の滅びを以て、愚かな同胞への報復としようとしていたのだ。




(でも、……………ジラスフィを害そうとしても、更には粛清しても尚、何も起こらなかった)




その時のリカルドの失望と絶望は、どれだけのものだったのだろう。


恐らく兄は、粛清を命じた騎士達がジラスフィを傷付ける前に、人ならざる者達が自分達を排除すると考えていたに違いない。

だが、目論見通りにはならず、ジラスフィ公爵家は、ディアラーシュを除いた使用人の全てまでが粛清されてしまった。



(……………俺は、兄上のようにはしなかっただろう)



多分ジルレイドは、兄と同じ道は取らない。

だから、本当の意味での兄の絶望は分からなかった。


ただ、粛清完了の報告を受けたリカルドが、本当に自分達はただの狂信者に過ぎず、王妃や叔父上や、教会の言い分こそが真実だったのだろうかと考えなければならない事は、どれだけ恐ろしかっただろう。



(自分達こそが狂っていて、だからこそ、無残に嬲り殺しにされても仕方がないのだと、そう考えなければならない事は確かに恐ろしいだろう。でも………)



あの頃のジルレイドは部屋に閉じこもってしまっていたし、弟はまだ幼かった。

一人だけ歳の離れていたリカルドは、焼ける鉄のようなその絶望の全てを飲み込み、もはや誰にも頼れないまま、無理やり働かされる死体のようにして生きていたのではないだろうか。



そこには、可哀想な子と涙を流した母上がいて、よくやったと肩を叩いた叔父上がいる。

彼等もまた、兄弟や夫を殺す決定をした自分達もまた、国の為に心を殺し、身を切ったのだと考えていただろう。


けれどもリカルドは、その中で生きる事を余儀なくされた、たった一人の異端者でもあった。


彼等に微笑むリカルドの瞳の中にはもう、ジルレイドが、かつての兄がまだそこに生きていると信じるに足りる程の感情は、欠片も残っていないように見えた。



美しい瞳の奥は、すっかり壊れ崩れてしまっていて、ぞっとする程にがらんどうに見えたのだ。





そうして、あの嵐の日から長い長い月日が流れた。




それは、人外者達からすればほんの瞬き程の時間かもしれない。

けれども、苦痛と絶望にのたうち回る人間にとっては、永遠にも思える長さだろう。




(ましてや、あの頃のリカルドは、こうしてここにいる今の俺よりも若かったのだ…………)




勿論、もう子供とは言えない年齢である。

その若さを理由に罪を洗い流せる訳ではないが、まだ両親や家族、そして臣下達の助けがあってもいい青年でもあったのだと考えれば、漸く愚かなジルレイドにも、その苦しみが想像出来るようになった。


かつては兄を憎み、この国のすべてに失望して命を断とうとしたジルレイドが、そんな兄の苦悩と絶望を想像出来るくらいには大人になる事が出来たのは、ジルレイドの魂を掴み上げて強引に生き延びさせた伴侶に出会ったからである。




「だが、リカルドには誰もいなかった」

「でもあなたは、リカルドを許さないのね?」

「……………許さないと言う程の、強い感情ではないだろう。それに、自分の事しか考えずに兄を助けられなかった俺に、あの人を許さない資格はない。あの時に、リカルドと同じ立場で残された俺や弟を守れる者はどこにもいなかった。だからこそ、俺があの人を責める事は一生出来ないだろう」

「ふぅん。変なの。人間はそんな風に堅苦しいことばかり考えてしまうのね」

「……………君が教えてくれたんだろう」



溜め息を吐いてそう言えば、どきりとするほどに美しいひとがこちらを見て微笑む。

妻は、流れるような紫紺の髪に、夜の光を集めたような、光を孕む藍色の瞳を持つ息を飲むほどに美しい妖精だ。



伴侶であるフィードが、この本来の姿を見せてくれるのは、義理の両親が不在にしている短い間に限られる。




「私はただ、あの王子やかつてのこの国の王の愚かさを指摘しただけ。私達に寄り添うのは人間の勝手よ。そして、約定を違えないことはとても正しいこと。けれども彼等はどこかで、私達の力にこそ救いを求めた。自分の種族の中で解決の為の努力をしなかったからこそ、あの悲劇は起きたのだわ」



夜の国の王への感謝を失わないようにするのであれば、ファーシタルの民は、どれだけ残酷な真実と寄り添わねばならないのだとしても、真実に蓋をするべきではなかった。


王族がそれを忘れる事を許したからこそ、ジラスフィの悲劇とファーシタルの粛清が起こったのだ。



「…………ああ。父も、兄も、夜の国の王がきっと救いの手を差し伸べてくれるだろうと考えず、自分の手で戦うべきだった」



そんな当たり前の事を、二人は怠ってしまった。


この場合は、ジラスフィ公爵家でも粛清を警戒するべきだったとも言えるが、ジラスフィ公爵家の思想を危険視する動きは、彼等からは徹底的に隠されていた。


人ならざる者達に傾倒し過ぎた彼等を憂いた教会派は、まるで心の病に罹った者達をそっと隔離するように、自分達の動きをジラスフィ公爵家には見せずにいたらしい。



「そうね。…………そんなところは、最初の魔術師によく似た傲慢さだわ。どうして私達が、人間達の愚かさの尻拭いをしなくてはならないのかしら」

「…………その通りだ。自分は何も出来なかったくせに、なぜジラスフィの人達を救ってくれなかったのかと、心の中で理不尽な怒りを夜の国の王にぶつけていた……」




人ならざる者達がいるのなら、そう在るのだとばかり。


奇跡のような不思議な力で、悪しき者を滅ぼし、身勝手にも正しい者を守ってくれるものだと考えていた自分の強欲さに、今となっては恥じ入るばかりだ。




「当時、国内では教会派が最大勢力だった。あの悲劇は防げなかったかもしれないが、せめて、ジラスフィの人々に現状を受け入れて共に戦おうとすれば、彼等はより確かな策を持ち得ていたかもしれない。…………少なくとも、リカルドは、自分の手でその指揮をとるべきではなかった。その結果自分が殺されるのだとしても、弟達が殺されるのだとしても、………それでも虐殺のような非道な行いの指揮を執るべきではなかったんだ」

「そうね。あなたがリカルドだったら、或いはあなたが前王であったのなら、そのようにしたでしょう。時として、愚かさは年齢では測れないもの。彼等は、その無防備さや信念の在り方が、どうしようもなく愚かだった。巻き添えにされたジラスフィは、堪ったものではないわ」



(母上や叔父上、そして教会の者達は、ジラスフィの存在を危険視している事を、巧妙に隠していた。知っていたのは父上と、兄上だけ。後はもう、教会が既に取り込んだ者達にしか知らされていなかったという…………)



父や兄がその状況を軽視せず、自分の胸に留めず、せめてジラスフィ公爵に伝えていれば。

それだけでも、何かを変えられたかもしれないのに。




長い長い時間をかけて、教会はその教典の悪とした災いに触れるジラスフィを滅ぼす為の力を蓄えた。


ジルレイドにとっては母である正妃や、マリエッタの生家である侯爵家だけではなく、宰相家や将軍家も、その血筋に何世代もかけて教会派を取り込み、ジラスフィをいつか刈り取る剣として育てられたのだ。



(けれどもその全ては、……………最初に、人ならざる者達をおとぎ話の存在に貶めた、王族がいたから始まった。罪と向き合えず、それをなかった事にしてしまった愚かな者がいたからこそ、教会派は我が国の最大派閥となってしまった…………)



全てが終わるまで、自分を含めた誰もが、その先に待ち受けた悲劇を想像出来なかった事が、罪なのだ。



そう考えれば堪らない気持ちになり、ジルレイドは、指先をきつく握り締める。

気付いたフィードが、そっとその手に触れた。



「そんな風に悲しまないで。彼等はあなたを許したし、あの子供もあなたを憎んではいないわ」

「だが、…………」

「王の伴侶になるあの子にとって、あなたは、辛うじてこの国に残す事が出来た、かつて愛したもののひと欠片なのでしょう。あの子が愛したものを愛した唯一が残る事が、ディアラーシュの救いでもあるの。だからあなたは、自分を責めてはいけないわ。勿論、そう考える事もまた、身勝手で高慢ではあるけれど」



くすりと笑ってそう付け加えたフィードに、ふっと強張った心が緩んだ。



「……………そうだな。身勝手だし、高慢だ。俺は結果として許されただけで、何も出来なかったし、何もしなかった」

「それでもいいのよ。幸せになれるのだから、なっておけばいいの。人間なんて、か弱くて強欲で、そんなものでしょう。私達妖精も、自分が良ければ他のものなんて知った事ではないわ」



(長くを生きる人ならざる者達は、教会派を育てた罪が、王家の特定の誰かの罪だとは考えない)



フィードは、それはジルレイド以外の全ての王族と、王族達と同じように原罪の在り処を知りながら伝え残す責任を放棄した、この国の全ての民達の罪だと笑う。


自分もその王族の一人だったのだと言えば、その時のあなたは小さな子供だったのだものと笑う妻は、弟は更に小さな子供であったことはどうでもいいらしい。



そういうものなのだ。



あなたは私の特別だから除外ねと笑うフィードは妖精で、ディアラーシュを救い、使える駒だからとジルレイドを許した夜の国の王も精霊である。

それぞれの事情でジルレイドを生かした彼等の思考や倫理観を、人間と同じものとして判断してはならない。



(彼等の守護や愛情は、どれだけ清く正しい者であっても、満遍なく与えられるものでは無い。許しも含めたその全てが、自分にとって必要な相手だけに与えられるものなのだ)




だからそれでいいのだ。



だがその代わりに、この先にどうあるべきかは、ジルレイドに委ねられており、今度こそ与えられた恩赦に甘える事は許されない。



そこでもまた、彼等とは違う生き物だからこそ。

最初にその手を取ってしまったファーシタルの民は、これからも死ぬ迄、彼等の物差しの中で善良でなければならなかった。


人外者との約定はそういうものなのだと、ファーシタルは漸く知ったのだろう。



(…………俺は、フィードと関わることでそう考えられるようになったからこそ、許されたのだろう。フィードが俺を選んだとしても、生かすに値しない人間であれば、ノイン様は俺を赦しはしなかった筈だ。フィードがその為に努力し、惜しみなく与えてくれた愛情がこそが俺を生かしたのだと、決して忘れないようにしなければな)



重ねられた手をもう片方の手で覆うと、フィードは嬉しそうに瞳をきらきらさせた。


どれだけ老獪で残忍な生き物でも、この妖精はジルレイドの事が大好きだ。

返される愛情の深さは、人間という生き物の在り方が情けなくなる程に無垢でもある。



ジルレイドにその事をなによりも理解させたのは、フィードが成り代わってしまった、伯爵令嬢の皮に纏わる事件であった。





『…………どうしてそんな悍ましい事が出来たんだ』



あの日のジルレイドは、不思議そうな目でこちらを見るフィードに、吐き捨てるようにそう言わずにはいられなかった。


その乱暴で嫌悪感に満ちた言葉には温度もなかった筈なのに、フィードは、ジルレイドを見てにっこりと微笑む。



『この娘は罪人で、いらないものだもの。あなたが好きだった可愛い女の子が邪魔で邪魔で、その女を蹴落とす為に王家からの策謀の一端に乗ったのだわ。ジラスフィの家の門を開いてしまったのはあの家の哀れな子供だったけれど、本来ならあの家の使用人が扉を開ける筈だったからこそ、この娘と彼女の祖父はあの場所にいたの』

『………っ、それは…………確かにそうだとしても………』

『自分達が訪問者だと告げて、門を開くようにジラスフィの警戒心を緩める手伝いをすれば、あなたの婚約者になれるのだと言われて、この娘は喜んで飛び跳ねていたわ』

『だが、……………まだ、こんなに幼い子供だったのだ。自分がどのような事に加担しようとしているのかを理解していなかったのだろう!』



フィードが、伯爵令嬢の皮を被っていると教えてくれるまで、ジルレイドは愚かにも信じていた。


彼女は本当は妖精で、人間の子供のふりをしている取り換え子のようなものなのだと。

けれど、もしそうだとすれば、彼女がジルレイドの体を損なわずに、こうして隣にいられる筈もなかったのに。



『あらあら、困った人ね。あの日に同じ年齢だったあなたが、自分の一族の罪を即座に理解して命を絶とうとしたように、この娘だって、自分が手を貸そうとしているのがどのようなことかくらいは理解していたのよ?例え、大人達と同じ深度で理解せずとも、子供にだって分かる事はあるでしょう。自分で望み選択したのであれば、その先の罪の大きさも等価値なのだわ』

『だとしても……………、』



当時はまだ子供だったジルレイドには、この妖精を言い負かすことなどは出来なかった。

途方に暮れて項垂れた人間の子供に、同じ年齢の人間の子供のふりをした妖精は婉然と微笑む。



『もし知らなかったら、その罪は許されるの?あなたの大事な女の子は、簡単には死ねなかったわ。逃げ延びようとして捕まり、傷付けられた母親を守ろうとして抵抗し、嬲り殺しにされた。それでも?』



その問いかけの容赦のなさに、あの日のジルレイドは、情けないくらいにわんわんと泣いてしまった。

そうして殺された少女は、ジルレイドの初恋の人で、家族が大好きな優しい少女だったのだ。




では、自分の罪はどうなるのだろうと考える。



フィードが許すと言い、彼女に自分を与えた人外者達がそれを許しても、果たしてそれは許されていいものなのだろうか。


そう考えて頭を抱えたジルレイドに、フィードは小さく微笑み、当時はまだ幼い子供のものだった手で、ぎゅっと抱き締めてくれた。



『そうね。……………確かにあなたの罪は、私の嘆願によって一時的に許されているだけなのかもしれない。ノイン様がジラスフィの子供を選ぶのだとすれば、その子供があなたを許さなければ、あなたは罰せられるでしょう。その時は私も一緒に殺されてあげるから、寂しくはないわ』

『え………?』

『だって私は、あなたを選んだのだもの。ずっと一緒にいてあげるわ』



どうしてだろう。

そうしてこの妖精は、そんな事を言うのだろう。

ジルレイドはそろりと顔を上げ、あの湖の畔で、小さな体で苦心しながら自分を水の中から引っ張り上げた、自分より小さな体に入ったフィードを思う。



フィードは、愚かなファーシタルの子供に心を寄せた為に、この先の長い時間を、咎人の国で生きていかねばならなくなった。



常に息苦しく重たいという人間の体に入り、本当の名前も使えない。

魔術を使う事も出来なければ、妖精の国の果実を食べることも出来ず、美しい羽で空を飛ぶことも出来ない。


仲の良かった家族にも会えない。

大好きだったという妖精の夏至祭で、美しいドレスを着て仲間達とダンスを踊ることも出来ない。


おまけに、この国の人間の中に入っているということは、いつ間違いがあって、人間として殺されるかも分からないのだ。



『全てを同じにして、全てを飲み込む必要なんてどこにあるのかしら。私は、あなたがどんなに嫌がってもあなたを手に入れるのだから、あなたは、私の在り方が悍ましければ私を憎めばいいのだわ。勿論、そればかりでは私もうんざりしてしまうけれど、妖精と人間は全く違うものだもの。少しくらい違う部分があっても、私は気にしないわ。だって私は、同族ではなく、ジルレイドに恋をしたのだもの』




目を閉じると、水底から見上げた時にほんの一瞬だけ目にした美しい妖精の姿が瞼の裏に蘇った。



その姿が見えたのはほんの一瞬だけだったが、湖面の光を映してきらきらと光った妖精の羽は宝石のようで美しく、死にたいと思った事も忘れて手を伸ばしたからこそ、ジルレイドはここにいる。



それでも、ジルレイドは、何年もの間フィードを受け入れる事が出来なかった。



自分を慕ってくれる彼女の姿に、時には人ならざる者の許しを勝手に重ねながらも、それでも身勝手に彼女を遠ざける事も少なくはなかった。

それなのに、フィードはそういう事もあるわねと微笑むばかりで、ジルレイドが望めば優しく寄り添ってくれる。



かつて恋をした少女の命日にも、フィードはいつも隣にいてくれた。



兄や母たちと過ごすディアラーシュを遠くから眺め、けれども彼女に手を差し伸べて謝る事は終ぞ出来なかった無力なジルレイドの背中をそっと撫でてくれる優しい手を振り払う強さもなく、フィードは、いつからか当たり前のように共にいるようになる。



ディアラーシュが王宮に引き取られてから見られるようになったその輪は、偽りばかりの庭園であっても穏やかに見えた。


彼等こそが、君の家族を奪ったのだと、何度言おうとしただろう。


けれどももし、ディアラーシュが彼等を選び、そこで幸せになれるのであれば、ジルレイドが、身勝手な正義感で彼女をもう一度貶めることがどうして出来よう。

彼女には復讐を望む権利もあるし、全てを知らずに幸福になる権利もあるのだ。




(……………俺達は、この国以外のどこにも行けない。あの子だって、何も知らずに生きてゆけるのなら、その方がどれだけ楽だろう)



こんな時ばかりは都合よく頼ってくる人間の手を振り払わずにいてくれるフィードの手を握り、ジルレイドはいつも、所在なく居住棟に戻る。


そうあればと望むような、ディアラーシュを救う力すらも持たない自分が無様で、本当の事を知らせる事が正しいと胸を張って言えない自分が惨めだった。



(兄上と同じだ。…………俺も、ここから逃げ出す事は出来ない。人ならざる者達はそこに居ると知りながら、それを知らない人々を正す事も出来ず、咎人の体を持つが故に、この国から出てゆく事も出来ない………)




あまりの惨めさに、部屋に戻り一人で咽び泣いたジルレイドに、フィードはうんざりもせずに寄り添ってくれる。


最も暗い夜はあの嵐の日の夜明けであったが、そんな日々も堪らなく暗かった。

自分の醜さが、堪らなく堪えた日々だった。



『でもね、あの子には近付かない方がいいわ。この城の者達があの子を大事にしているのは、夜の国の王がそう願ったからよ。私にも、あの子がこれからどうなるのかは分からないけれど、あの小さな嘘つき達の箱庭を壊しては駄目。私もあなたも、あの方の意向に背くだけの資格など、持ってはいないのだから』



そう微笑んだフィードの言葉通りにしたのは、それが仮初めのものだと知っているからだと、ジルレイドは自分に言い訳をしていた。


いつかその偽りの輪が解けてしまった時にこそ、自分はディアラーシュに手を差し伸べようとしているのだと。


でもそう考え、心の中で自分と向き合い何度言い聞かせても、本当は分かっていた。

ジルレイドはただ、怖くて堪らなかっただけの、情けない男であった。



(……………分からないんだ)



張り詰めた細い糸の上で踊るようなディアラーシュを見て、自分の不手際で、彼女を救うかもしれない最後の一線を切り落としてしまったらどうしようと怖くなる。


良かれと思い手を出した事で、最後に残されたものまでを自分の手で殺してしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方なかった。



何もしなければ、このまま。

そうだ。このままどうか、幸せになって欲しい。




そう考えながら過ごしていたある日、フィードが声を上げた。




『まぁ、……………あの方がいらっしゃったわ』



冬至の日のことであった。


その言葉に目を瞠ったジルレイドの手を、フィードは両手でそっと握る。


その手の冷たさと、どこか怯えたような彼女の眼差しに、初めて、高位の人ならざるものの恐ろしさについて考えたのかもしれない。


近くに現れた事にこうも怯える程なのに、そんな相手に嘆願し、フィードはここにいることを選んでくれたのだと、ジルレイドが初めて理解した瞬間でもあった。



『一緒にいましょうね、ジルレイド。私、こんな無理をしてあなたの側にいるのに、あなたが殺される時に一緒にいられないのは嫌だわ。王はとても恐ろしい方だけれど、私が盾になれば、もしかしたらあなたくらいは守ってあげられるかもしれないし』



どうしてと問いかけたジルレイドに、フィードはにっこりと微笑む。



『あら、あなたが大好きだからよ。人間は、誰かを愛して守るのに、他に理由が必要なの?』



あの日の彼女に恋をしたのだと言えば、これは、何と都合が良く身勝手な恋だろう。


けれども、どこにも行けずに誰も救えなかったジルレイドにとって、彼女こそが、たった一つだけ残された最後のおとぎ話であった。




結果として夜の国の王は、ディアラーシュの側に留まる事にしたようだ。

その様子を注視し、フィードが安堵の息を吐いたのはふた月後のことであった。



『少し迷っているみたいだけど、あの子が手放せないのね。思いの外、王は………恋が苦手なのかしら?おまけに、あの子が自分の婚約者を愛していると考えているのかしら?私には少しもそう見えないけれど………。ふむ。………兎に角、精霊の愛し方は面倒だから、近付かないようにしましょ』

『それでいいのだろうか?その王に、……ディアラーシュは、リカルドのことは想っていないと伝えたりはしないのか?』

『精霊は面倒なの。部外者に口出しをされて、それっぽっちのことで冷めてしまうかもしれない。そして精霊はね、とても我が儘なの』

『助言などは許さない程に?』

『気分を害されて、却ってあの子から手を引く事になっても困るでしょう?………でも、安心していいと思うわ。精霊が食事を与えるのは求愛なのよ。そうして愛したものを、精霊は逃がさない。それが、あの子にとって幸せな事かは分からないけれど、きっと王はあの子を召し上げる筈よ』



からりとした微笑みを浮かべてそう語り、フィードは先程まで侯爵家の末娘に踏まれていた、ドレスの裾を直している。


どうしてドレスの裾を踏まれたのだろうと首を傾げている無防備さが不憫になり、最近はいつも持ち歩いている、フィードの大好きな砂糖菓子を取り出して渡してやった。


今日の彼女は、第二王子の婚約者としては家格が低いくせにと、茶会で嫌がらせを受けたのだ。

けれども、爪先を踏まれたり、体当たりをされても、直接的な言葉で言われない限り、フィードにはそれが心ない嫌がらせだと理解出来ない。


人間には知り得ない叡智を持つ彼女がそんな事を理解出来ないのが、ジルレイドは不安でならない。



いつ、この婚約者が、人間の社会にうんざりして立ち去ってしまわないかと、最近はそんな事ばかりを考える。



フィードが、ジルレイドをディアラーシュにあまり関わらせないようにしている事には気付いていた。

それでも、精霊の王の一人が彼女の隣にいる以上はそうして警戒するのも当然であるからと、ジルレイドは何も言わずににフィードの望むようにさせている。



いつの間にか優先するべきものが変わり、いつの間にか、ジルレイドの一番大切なものは、このたった一人の妖精になった。


ディアラーシュを見捨てるような自分の酷薄さに打ちのめされたし、ジラスフィを救えなかった王家の一人として、その罪を忘れてはならないことも承知している。



けれども、こちらを見て微笑むフィードは、誰よりも守りたい人になった。



これ以上よからぬ虐めを受けない内にと慌てて彼女を伴侶とし、とは言えその体はどう扱えばいいのだろうと困惑しながらも子供にも恵まれる頃には、ジルレイドの隣にはフィードがいるのが当たり前になった。



やがて、夜の国の王はファーシタルを罰し、ディアラーシュはこの王宮を去った。





「どうしたの、領主様?」

「……………今日は、ディアラーシュにこれまでの事を打ち明け、謝罪をしに行ったのだが、彼女は既に色々な事を知っていた。君が先に話したんだろう?」

「あら、勿論よ。打ち明け話には適切な話し方があるのに、あなたに任せておいたら先に謝罪から始めてしまいそうだもの。あの子の考え方や取捨選択の付け方は、どちらかと言えば私達に近いわ。だからまずは、私から説明しておいた方がいいと考えたの」



ディアラーシュの婚約者になった夜の国の王はからりとしていて、お前は報復の線引きのこちら側だから気にするなと、鷹揚に笑っていた。



ただし、ジルレイドという人間が問われるのはこれからだ。



ファーシタル領主としてのこれからの手腕を、この土地を治める人ならざる者達にどう評価されるかが、この身のこれからを決めるのだろう。




「だが、ディアラーシュと話をしていると、あの方に酷く睨まれるのだが………」

「精霊と魔物は、伴侶の言動にとても狭量なのよ。私だって、あなたが他の女と踊ったら許さないわ」

「………この前はすまなかった。その、………まだ子供だったので、構わないかと」

「子供でも、駄目なものは駄目!それにあの子供は、あなたに恋をしていたのだもの。今度そんな事をしたら、私からあなたを取ろうとした女なんて、ばらばらに引き裂いてしまうわよ?」

「………せめて、そうする前に俺を叱ってくれ」



妖精を伴侶にしてから知った事は、彼女達は、過分な程の愛を与える代わりに裏切り者を許さないと言うことだった。


ジルレイドがフィードを愛する前はそれ程でもなかったのだが、こうして伴侶になってからは、他の女性との接触をとても嫌がるようになっている。


時には困惑するような過激な言動もあるが、この妻とは、そもそもの種族が違うのだ。

分からない事はよく話し合い、フィードが一人で悲しまないように心がけている。






(……………あの人は、今は何を考えているのだろう)



リカルドをもう兄ではないとフィードに言ったのは、何も彼を嫌悪しているという意味ではない。

そこで微笑んでいるリカルドの内側にはもう、ジルレイドが知っていた頃の兄がいなくなってしまっているし、ファーシタル領主となるにあたり、死の精霊は、ジルレイドにかつての家族と縁を切る事も要求した。



だからもう、リカルドはジルレイドの兄ではない。



他に良い言葉があるのかもしれないが、相応しい言葉を探せずに、あの方はもう兄ではないのだと呟き、視察に出た街で見かけたリカルドの横顔を思う。




リカルドはあの夜の後、王宮を出た。

マリエッタとの婚約は破棄し、今後も家族を持つつもりはないと周囲に話しているそうだ。

本人は必要ないと言ったそうだが、従僕達や護衛騎士達がそんなリカルドに付き従ったと聞き、少しだけほっとしている。



贖罪として課せられたその役割は、決して楽なものではないだろう。


しかし、かつての臣下達にどれだけ罵られようと、時には激昂した住民に殴られようと、リカルドは漸く得られた人ならざる者達の確認に、どこか安堵しているように見えた。




(あの嵐の日にジラスフィが滅びた時、リカルドの心のどこかも死んでしまったのだろう………)



ふと、そんな風に考える事がある。


ジルレイドがあの日から見てきた兄はいつも、内側ががらんどうになっていて、とうに死んでしまっているのに無理やり生かされている人形のようだった。



あの後、リカルドがディアラーシュを毒殺しようとしていたことがあると聞き驚いた。

ファーシタル国の最後の舞踏会で初めて感情を露わにしたというリカルドに、その真意を問いたくなった事もある。




だが、彼等とは縁を切ると魔術上の誓約を交わしたジルレイドが、その約定を破り彼と個人的に会う事はなかった。



毒殺しようとした行為が、ジルレイドが知る兄の意向であったのか、それ以外の者達の意向であったのかはもう、確かめようもない。


兄が、敬愛していた叔父の娘として婚約者を見ていたのか、彼女自身を愛した事があるのかも、兄自身にしか分からない事である。




それでも、今はかつての国民達への説明責任に追われているリカルドは、どれだけ呪われても、どれだけ憎まれても、かつての自分が信じたものが有る事に救われ続けてもいるのだろう。



そんなリカルドの姿を見ると、あの日のジルレイドの胸がぎしりと痛む。

大好きだった優しい兄からの最後の言葉を読み、そこに残された兄の苦しみを握りしめて声を上げて泣いたあの日から、どれだけ遠くに来たことか。



そんな胸を押さえて、ジルレイドは願うのだ。




かつてそこにいた、人ならざる者達に憧れ、ジラスフィ公爵が大好きだった兄が、安らかに眠る事を。

おかしな事ではあるが、それはどこか、死者を悼むような感情によく似ていた。





そして、死者の日には、亡霊となった死者達が死の国から戻って来るように、いつか自分がファーシタル領主としての実績を積み、人ならざる者達の赦しを得られる日が来たのなら、その時にリカルドと色々な話をしてみようと思う。



けれどもその夢は、身勝手で強欲な、ジルレイドという人間の心の中だけの秘密なのであった。













ディアとは違う角度から物語に関わった、第二王子のお話でした。


ディアもそうであるように、彼もまた正しくも完璧でもない一人の人間として、けれども置かれた環境の中でもがいていたのかもしれません。

フィードの一族は、元より水辺に暮らす妖精として、悲しみ憂う者に惹かれてしまう傾向があるようです。




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― 新着の感想 ―
[良い点]  人それぞれに事細かな設定があって、素敵です。  作者さまの愛情が籠っている作品ですね。  完結おめでとうございます。
[良い点] 物事には、関わる人の数だけ捉え方があり、信念もまた違ってくるのですね。 本編を読んでいるときには、何故だろうと理解できなかった出来事が、他の登場人物視点によってその一端を知ることができ、し…
[良い点] ジルレイドとフィードの馴れ初めと、ジルレイド視点での物語を知ることが出来て嬉しいです! そして、気になっていたリカルドのその後と、物語の間のリカルドのちぐはぐな言動が、すでに粛清のときに心…
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