【その後のお話】 夜の果樹園と季節の味覚
はらはらと雪が降る。
夜の系譜の領域で見上げる空は、うっとりとするような青みがかった灰色で、ディアは、舞い落ちる雪が淡く祝福の煌めきを帯びている美しさにほうっと感嘆の息を吐いた。
(こんな美しい日なのに……………)
それなのに、どうして自分は小さな秘密を押し隠し、胸をちくちくと痛めているのだろう。
そう考えて少しだけむしゃくしゃすると、ディアは、心の中に凝っていた不安をふるふると首を振って払い落とした。
ここはもう、ディアの新しい家なのだ。
おまけにそもそもの種族が違うのだから、喜びがあるのと同じように、不安や不満があるのは当然の事ではないか。
いつかどこかで、噛み合わずに剥がれ落ちる橋があるかもしれないと、それくらいの事は覚悟してきた筈だったのに。
くすんと鼻を鳴らし、ディアは空っぽの長椅子を見つめる。
二人の部屋で過ごしている時の婚約者は、このふくよかな葡萄酒色の天鵞絨を張った美しい長椅子に座っている事が多かった。
書類を持ち込んで執務をしたり、お菓子を乗せたお皿をふわりと取り出すと、美味しい紅茶を煎れて二人でお喋りをしたり。
とは言え、そんな優しい時間が続いたのは、ノインが忙しくなる迄の事だった。
この城の主であるノインは、昨晩から留守にしている。
幾夜にも渡って開催される人ならざる者達の新年の夜会があり、そこに出席しているのだ。
もう少し色々な祝福が定着すればディアも連れて行ってくれるそうなのだが、今はまだ、体に不調をきたす可能性が高いということでお留守番になっている。
(そこでノインは、どのような人達と出会い、どんな人と踊るのだろう…………)
そう考えると、かけ外れた橋の無惨さが際立つようで、ディアは鋭く重たい息を吸い込む。
すれ違うのが心であれば、どれだけ良かっただろう。
心のすれ違いなら、丁寧に手をかければ幾らだって修復出来る。
けれども、ディアをこうして不安にしている二人の不調和は、精霊と人間という種族の違いこそが齎したもので、そうなると、やはり同族と過ごした方が良いのだと思われてしまう可能性だってあるではないか。
(……………もし、ノインに愛想を尽かされてしまったなら、私はそれでもこのお城に住めるのかしら。ディルヴィエさんは、それでも私の後見人でいてくれるだろうか………?)
一人で目を覚まし、一人で美しい雪空を見上げる。
ノインの城の周りには豊かな森があり、窓から一望出来る白緑色の葉を持つ美しい木々の森は、雪に覆われてもその葉先が淡い祝福の光を宿す。
雪の中でも咲き乱れる花々に、祝福や魔術が凝って育つ森の魔術結晶。
花蜜は夜になると青白い炎になり、ダイヤモンドダストの煌めく下では妖精達が大はしゃぎで踊っていた。
ここは、なんて美しい世界なのだろう。
ディアが暮らしていた国があまりにも閉鎖的だっただけなのだが、こうして新しい世界を覗き見れば、その驚きと喜びに胸の中が熱くなる。
こんなに美しいものを沢山見た後に、そこに繋がる扉をぱたんと閉ざされてしまったら、ディアは挫けずに生きてゆけるのだろうか。
(普通のものを手に入れるどころか、私はこんなにも特別なものを沢山手に入れてしまった………)
専属の侍女になってくれた木香薔薇の妖精達が言うように、外の世界の人間達の目で見ても稀有な恩寵に身を浸している自覚は、ディアにだって過分にあった。
だからこそ、最高級のご馳走を沢山食べさせて貰えた後、食べるものもないような荒野にぽいと捨てられてしまったなら、ディアの胸は悲しみと落胆に張り裂けてしまうだろう。
「まぁ、あなたがノイン様の愛し子?……………毛皮もないのに?」
だからその日、夜の食楽の王城の回廊ですれ違ったご婦人にそう問いかけられ、思わず目を丸くしてしまったのは、まさか、毛皮も基準になるのだとは思わなかったからだ。
こうしてノインの城に移り住んでから、いつかどこかでこのような場面はあると思っていたし、現実にこれ迄にも何回かこのような事はあった。
ディアは何の取柄もない人間というだけでなく、咎人を集めたファーシタルの人間である。
そのような事が知られれば、きっと反発もあるだろう。
知らされないだけで秘密裏に処理された苦言や忠告がどれだけあったのかは、王宮で暮らしてきたディアには想像に難くない。
(……………でも、毛皮………も、なのだわ)
途方に暮れてしまったディアはまず、正しい毛皮感を把握するべくまじまじと正面に立ったご婦人を見つめた。
そこに立っているのは、美しい灰色の毛皮を持つ二足歩行で狼姿の黄色いドレスのご婦人で、青い瞳は宝石のような輝きだ。
あまりのふわふわふかふかに撫でまわしたくなるし、これが正解なら、確かにディアはつるんとし過ぎなのは間違いない。
確かにこのもふもふは備え付けておらぬと、まじまじとその女性を見つめているディアに対し、綺麗な柳眉をきゅっと持ち上げ、不躾な呼び止め方をした女性を睨み付けたのは、木香薔薇の侍女頭であるシャンテだ。
植物の系譜の中でも階位の高い薔薇の妖精であるシャンテは、輝くような美しい女性だ。
ディアよりもすらりと背が高く、淡い水色の巻き髪と同色の羽を持つ女性らしい肢体は、絵の中の美女のような完璧さである。
とは言え、ディルヴィエの一族も含め、人型の妖精達の殆どは、困ってしまう程に美しい。
ぎゅっと細く括れた腰と豊かな胸の対比などを見ていると、ディアは、自分が子供用の抱きぬいぐるみにでもなったような気分になる。
それはまさに、人間か人間でないかの大きな違いの一つを知る事でもあった。
「ディア様は、王の正式な婚約者様でございます。わたくしはまだ派生したばかりの幼い妖精ですが、ノイン様は、ディア様だからこそと望まれた事は存じ上げております。王の選択を咎められたいのであれば、それは、謁見の後、夜の食楽の王にこそ問うて下さいまし」
「まぁ、貧弱な人間の侍女は、求められていなくてもよく喋ること。自身でも階位の違いを理解しているのなら、………っ、何ですの?!」
「ディア様?!」
「…………ご、ごめんなさい。ふかふかの尻尾がゆらゆらしていたので、我慢出来ませんでした。…………この毛皮はどうしてこんなに綺麗なのでしょう!こんなに綺麗な尻尾は、どうやってお手入れされているのですか?」
「…………え、」
目をぎらぎらさせた人間に突然に尻尾を鷲掴みにされ、狼姿のご婦人はじりっと後退りした。
しかし尻尾を掴まれているので逃げ出せず、助けを求めるように周囲を見回している。
しまったという顔をしたのは、シャンテだ。
この侍女は、やっと愚かなファーシタルの人間達の手から取り返した大事なお嬢様が、どんなものに心を奪われるのかを失念していた。
「ディア様、毛皮が大好きなのは承知しておりますが、そんな意地悪精霊の尻尾なんていけません。その手をお離し下さいませ」
「でもシャンテ、こんなに手触りのいい尻尾は、初めて触れたんです。お義兄様の毛皮よりもとろふわなので、これはもう是非にいただいて帰って枕に…………」
「ディア様、この前も夜風の魔物の尻尾を狩ろうとして、ディルヴィエ様に叱られたのをお忘れになられたのですか?少なくとも、城内の生き物は狩らないで下さいまし」
「枕…………」
ディアが尻尾を握り締めてじっと見上げると、水色の毛皮のご婦人はふるふると首を振った。
すっかり耳がぺたんと寝てしまっているので、邪悪な人間に尻尾を狩られそうになり、怯えてしまっているのだろう。
だがすっかり尻尾に夢中な人間は、その様子をちっとも考慮しなかった。
暗殺者のように鋭く周囲を見回し、自分達以外の人影がこの回廊にない事を確認すると、シャンテに厳かに頷きかける。
「シャンテ、今なら目撃者がいませんよ」
「いけません、お嬢様。目撃者がいなかったとしても、残りの体の部分はどうするんです」
「まぁ、何も命までは取りません。私は自然環境にも配慮出来る人間でありたいので、この素敵な尻尾をさっと奪い、後はもう自由にお帰りいただく方針です」
それを聞いた狼姿の精霊は、王の婚約者の隠された姿を知ってしまい、慌てて尻尾を引き抜こうとしたが、そんな事は予測済みであったディアは、尻尾をがっちり掴んで離さなかった。
「ご指摘の通り、私には毛皮感が足りないようです。これをいただいて帰り、少し増やしてみますね」
「ディア様、そこで、こう言えば行けるという表情をしたら台無しですよ………」
「まぁ……」
「わ、私の尻尾を差し上げる訳がないでしょう!!なんて恐ろしい人間の子なの!」
「人間とは、そうして時には邪悪で強欲なものなのかもしれません。ですが私は、そんな自分とも素直に向き合いたいと常々考えているのです」
「……………ちょ、誰か!だれ………まぁ、……」
助けを求めようとしたご婦人が、ディアの背後を見て目を丸くする。
嫋やかに目を伏せてみせると、艶々とした毛並みが美しい耳をぴるりと震わせる。
残念ながら尻尾は邪悪な人間に鷲掴みにされたままであったが、微かにお辞儀をしてみせた所作は、ファーシタルの王宮で見たどんな貴婦人よりも優雅で女性らしい。
その視線を辿りそろりと振り返った先に立っていたのは、夜会帰りの盛装姿のノインであった。
(……………わ、)
漆黒の盛装姿のノインは、息を飲むほどに凄艶な美貌を際立たせ、紫色の瞳は内側から光を透かしているように鮮やかに輝いている。
宝石を紡いだような髪は少しだけ結い上げられており、夜の祝福石をふんだんに使った装いは、まさに夜の国の王様という艶やかさであった。
しかし、冷え冷えとした微笑みでも浮かべていて欲しい艶姿のこの城の王は、なぜか、渋面でこちらを見ている。
今度はその視線を辿ったディアは、慌てて握り締めていた尻尾をぱっと離した。
どんな犯行にも及んでいませんという顔をしてみたが、ノインはどこかじっとりとした目でこちらを見ている。
「……………お前は、目を離すとすぐに騒ぎを起こすのか」
「むぅ。このご婦人から、毛皮感が足りないとご指摘を受け、であれば尻尾を頂戴しますねというだけの事ではありませんか。ノインは大袈裟なのです…………」
「………いいか、それは肉体の一部だ。軽々しく狩るな」
「で、でも、高位の方は、どこかをちょん切られてもまた生えてくるのですよね?」
「………そいつの階位では、永劫に生えてこないだろうな。離してやれ」
「まぁ……………この方の尻尾は、生えてこないのですね。それは何と言うか、………残念です」
たいそう残虐な人間から、不憫そうに見つめられてしまい、狼姿のご婦人は困惑したようだ。
それまで反目していたのを忘れたかのように、シャンテに、この人間は以前に誰かの尻尾を狩ってしまったのか尋ねている。
「ええ。ディア様は、シロロク伯爵が祟りものとの交戦で失った尻尾を元通りにされている姿をご覧になり、であれば自分も、こっそり切り落として持ち帰っても問題がないと思われたようでして………」
ちょっぴり意地悪なシャンテがわざと声を潜めてそう言えば、美しい毛皮のご婦人はけばけばになった。
目を瞠って震えながらディアを見ると、素早くノインにお辞儀をしてその場から逃げて行ってしまう。
獲物に逃げられてしまったディアは、すっかり通り魔の扱いだが、まぁいいかなと頷いた。
どちらにせよ、尻尾を狩るのなら、ノイン達のいないところで秘密裏に行動しなければなるまい。
「……………ったく。何か言われたのか?」
「毛皮感がないと言われたくらいですので、種族性の美観の問題のようです。ノイン、もう舞踏会は終わったのですか?」
「ああ。これで終いだ。今年は、一口大のパイ包みの人気が高かったようだな。……………シャンテ、今の騒ぎは何だ?」
「あのご婦人は、ノイン様のお目に留まりたかった方なのでしょう。シロロク伯爵と同じご反応でしたので、もうディア様に意地悪を言う事はないかと思われます」
そんなシャンテの報告に、ディアはおやっと目を瞠った。
(確かに、好意的な話しぶりではなかったけれど、………)
だがあれは、意地悪だったのだろうか。
好意的ではないと言うこととと、悪意は違う。
ファーシタルの王宮での声のない悪意や嘲笑をよく知るディアは、どちらかと言えば真正面から突撃してしまうからりとした潔さを感じたのだが。
「まぁ、……………先程の言葉は意地悪だったのですか?純粋にあちらの種族のお作法として、毛皮を持たない私はノインに相応しくないと思われていたのかもしれませんよ?」
こてんと首を傾げたディアがそう言えば、ノインとシャンテは厳しい目をして顔を見合わせている。
ディアは、そもそもが形状も習性も違う生き物なのでこのくらいのことはまるで気にならないのだが、この二人は心配性なのだ。
その時、こつこつと靴音が響き、ノインの後方から黒髪の美しい妖精が姿を現した。
ふわりと光の粒子が凝るように現れたので、あわいの道から出てきたのか、転移でどこからか戻ってきたのだろう。
宝石を薄く削ったような羽に回廊のシャンデリアの光が煌めき、ディアは思わずほわりと甘い息を吐いた。
ノインが無言で眉を持ち上げているが、妖精の羽の美しさはやはり格別である。
「と言うより、系譜の王の領域の者に、そのような口をきいてはならないのだという事を理解出来ないのが、最大の問題でしょうね」
「ディルヴィエさん…………」
「加えて、ディア様はもう夜明かりの妖精の子供でもありますから、先程の精霊は、我々の子供を脅かしたという事を理解するべきでしょう」
「………やめろ。お前の姉達が騒ぐと、洒落にならん」
「種族性の差異を理解しないというのは、そのような事でもありますよ。ディア様、欲しいのは尻尾だけで構いませんか?」
「まぁ。狩られてしまいそうで、ぞくりとしました。ですが、尻尾を受け取るのは吝かではありません」
「おい………」
ノインとシャンテも心配症の傾向があるが、そんな二人とは比べ物にならないくらいに過保護なのが、ディアの後見人になったディルヴィエを筆頭とした妖精達であった。
先月には、ディルヴィエの姉の一人が、ディアを転ばせようとしたテーブルナプキンの妖精を捕まえ、羽を引き抜いて窓から投げ捨ててしまうという事件があったばかりだ。
そのテーブルナプキンの妖精は、毛色の違う人間の娘を虐めてやろうとしたのではなく、ただ単純に、新月の夜に一人の人間を食べてしまう習性の生き物だっただけなのだが、羽を毟られてずたぼろにされてしまった。
絶世の美女というのはこのようなことを言うのだろうという美しい女性が、自分と同じくらいの体格の女性を捕まえて羽を毟る姿は、初めて見たディアにはなかなか刺激的なものだった。
だが、そんな苛烈な愛情もまた、種族性の違いによるものも大きい。
このノインのお城で暮らしながら、ディアは少しずつ人外者達の作法に慣れるようにしていた。
例えば、勝手に妖精の羽に触れることは、その場で手を切り落とされても仕方ないくらいの蛮行である。
妖精の羽に触れても構わないのは、家族などの親しい者達くらいで、求婚や求愛の作法になるその行為は、場合によっては友人同士でも非礼にあたる。
他にも、精霊から手作りの食べ物を与えられるのは求婚であり、人外者達は、余程親しくなければ食べ物を分け合うことはしない。
また、時折廊下に転がっている銀のフォークは、給仕の落とし物ではなく間諜だった。
「………ノイン、そう言えば今日も間諜めを捕縛しました。現在、シャンテが持って来てくれた炭酸水に漬け込むという拷問にかけ、お城の騎士さんに預けてあります」
「……………またか。いい加減、祝賀用のレシピを盗みに来るのはやめさせないとだな…………」
「なぜレシピを盗みにくるのでしょう。フォークの魔物さんは、奥様の誕生日の御馳走くらい、自分で考えるべきなのでは…………」
「俺のところだけじゃないぞ。食通の多い真夜中の精霊の城は勿論のこと、有名料理店にも間諜を放っているらしい」
「それはもう、有名な料理人さんでも雇えばいいだけなのでは………」
どこか遠い目でフォークの魔物の混迷ぶりを教えてくれたノインに、ディアは、人ならざる者達の生活について考えた。
それまで、ファーシタルの人間だったディアにとっての人外者は、その存在を認識しても尚、大きな力を使って気紛れに遊ぶ、祝福にもなるものの災いにもなる、恐ろしくも残虐な者達という印象が強かった。
ファーシタルの王宮で行われたあの最後の舞踏会の夜の事も考えれば、その認識はきっと間違いではないのだろう。
だが、ディアがノインのお城に移り住んで初めて巻き込まれた陰謀は、普通の銀のフォークにしか見えないフォークの魔物という間諜が、ノインの作るおもてなし料理のレシピを盗みに来るという事件だったのだ。
これはもう、ディアが困惑するのも致し方ない。
そもそもフォーク姿の生き物が手に入れたレシピをどうやって扱うのかも謎だが、ノインの婚約者になったとは言え、まだまだ所有値も低い人間の小娘風情にすらあっさり捕獲されてしまう魔物はそれでいいのだろうか。
なお、フォークの魔物は果物を食べてチュンチュン鳴く生き物で、一匹、二匹と数えるのが正解であるらしい。
なぜフォークが果物を食べ小鳥のように鳴くのかという、大いなる謎に包まれている。
「ディルヴィエ、次の執務までまだ時間がある。少し出てくる」
「ええ。夜明け前までは時間がありますので、ディア様とごゆっくりされては如何ですか?」
「ディア、この前に話していた、ルキシアの月光の果樹園にでも行くか?」
「い、行きます!!」
突然のお誘いであったが、今日は習い事もないのでお城でごろごろするばかりであったディアは、一度見てみたかった月光の果樹園へのお誘いにぴょんと弾んだ。
すぐさまシャンテと他の木香薔薇の妖精の侍女達が素早く装いを変えてくれ、ディアは、人生で三回目になる砂漠の国へのお出かけ準備を整える。
それまでに着ていた紫がかった水色のドレスもお気に入りであったが、こうして、今迄の暮らしの中では見る事もなかった異国に向かう装い程に、心を弾ませるものはない。
(……………月光の果樹園に行けるだなんて!)
うきうきわくわくと弾むディアに綺麗な祝福結晶の腕輪を嵌めてくれつつ、木香薔薇の妖精達はにこにこと微笑んでくれていた。
ご機嫌で四枚の水色の羽を広げたシャンテも含め、この侍女達は、ディアが幸せそうにしているととても喜んでくれる。
その時はまだ派生が叶わずもの言わぬ薔薇であったが、あの嵐の夜にジラスフィの人々が殺されてゆく様をその場で見ていた者達なのだ。
ディアの知らない父の話や、ディアの姉がこっそり薔薇を摘んで庭師に怒られた話など、昔話をしてくれる大事な家族のような侍女達は、ディアがこの城に来て得られたかけがえのない宝物の一つである。
「王は、ディア様とお出かけされたくて、早く戻られたのかもしれませんね」
「ふふ、ディルヴィエ様のあの様子ですと、きっと無理を仰られたのでしょう」
「仕方ありませんわ。王は、ディア様と過ごす時間が減ると弱ってしまわれるのだもの。この前の、ターナーでの粛清の恐ろしいこと。あの時は、ディア様に十日も会えずに気性が荒くなっておられたのだとか」
「精霊は困った生き物ですわね。ですが、ディア様を大事にして下さるのですから、仕方ありませんねぇ」
年末から年明けのこの時期、夜の食楽の王は忙しい。
真夜中の精霊の中では最高位ではないものの、晩餐という、生き物達の多くが大事にするものを司るひと柱の王として、ノインは肩書上の階位よりも実際の階位の方が高い稀有な存在だ。
世界のあちこちで催される、舞踏会や夜会の招待状がひっきりなしに舞い込んでいる様子を見ると、ディアは、リベルフィリアの期間中にノインがずっと傍にいてくれたあの日々が、どれだけの調整と無理の上で成り立っていたのかをあらためて知る事になった。
(……………リベルフィリアの時期は、今よりも忙しかったくらいだもの……………)
あれから、三年が経った。
最初の一年、ノインは執務の多くを城内で行えるものに限定し、ファーシタルの再生とディアとの生活の基盤を作ることに尽力してくれた。
ディアを、お伽噺の中だけにしか存在しないと思っていた様々な場所に連れて行ってくれ、ディアが初めて手にするような不思議で美しい贈り物を沢山くれた婚約者と、どれだけの話をしたことだろう。
(……………そんな日々で、私が、何もかもノインと同じ価値観であればどれだけ良かったことか)
刻々と、その日が迫ってきている。
ディアの胸の中にはひたひたと不安が水嵩を増しつつあり、どこかでこのかけ落ちた橋のことを、ノインに告白しなければならない。
着替え終わったディアを抱き上げ、ノインが転移を踏む。
薄闇を踏んで訪れた先は、からりとした夜風と砂の匂いのする、ルキシアという異国だ。
以前に砂漠に来た時には、サラムリードというオアシスの町で串焼肉を食べ、竜に似た毛皮の動物に乗って夜の砂漠を歩いた。
だが今回は、初めて耳にする国名である。
「月光の果樹園があるのは、ルキシアという国なのですか?」
そう尋ねたディアに、ディアを抱えたまま、ノインが頷く。
さらさらと風に揺れる水色の髪は、大きな満月の下で僅かに銀色がかって見えた。
あの盛装姿は解いてしまい、今はどこか異国風の黒い装束を身に纏っているが、そんな姿もまた凄艶で美しい。
どこまでも連なる砂丘は夜色に染まり、その砂丘の輪郭だけを月光が銀色に染め上げている。
ひんやりとした冷たい空気に、月影の向こうを歩いてゆく商隊が見えた。
「ああ。気性が荒く残忍な人間の国だ。大国だが、俺と一緒でも季節や時期は選ぶくらいに内乱や戦乱の起きる土地だな。いいか、他の誰に誘われても勝手に行かないようにしろよ?」
「はい。そのような怖い場所でもあるのなら、気を付けますね。…………もしかして、この前の安息日に、ディルヴィエさんと二人でお買い物に行ったのを、拗ねているのですか?」
「……………そんな訳あるか」
「あの時は、私の後見人の家族達に祝祭の贈り物を買いに行ったのです。ノインにも、素敵なカードを買ってきたでしょう?……………むぐ?!」
ここでディアは、頬っぺたを摘まんだ邪悪な精霊の仕打ちに怒り狂いじたばたした。
荒れ狂う婚約者にくすりと笑うと、ノインは砂漠の中に佇む、不思議な石門をくぐる。
「……………わぁ!」
そこには、古い都でもあったのだろうか。
砂の中に崩れかけた石門がある様子はどこか寂寥を滲ませていたが、その門をくぐると現れたのは、素晴らしい果樹園ではないか。
夜は一瞬にして色相を変え、大きな満月の下にはどこまでも続く果樹園が広がっている。
下草には細やかな水色の花が咲き、緑の葉を広げた立派なオレンジの木に、桃や葡萄の木が柔らかな風に揺れていた。
ディア達が入って来た場所には、大きな水晶の噴水があり、その周囲には赤い薔薇の茂みがあって、馨しい芳香を漂わせている。
「さて、何から収穫する?」
「ぶ、葡萄とオレンジです!!それから林檎と、……………まぁ、こうして見ると、檸檬も何て綺麗なのでしょう。沢山の果物のいい匂いがしますねぇ」
ノインがどこからともなく大きな籠を出し、ディアは大興奮で飛び跳ねた。
「今夜はまだ他の客がいないようだな。幾つかは、この果樹園で食べていけそうだな。噴水は収穫した果実を冷やす為にあるものなんだ」
「ここで捥ぎたてのものを冷やして食べられるのですね。…………じゅるり」
二人は、そこから暫くは果物の収穫に精を出した。
ノインは出ていた年明けの舞踏会について教えてくれ、ディアは人ならざる者達の集まるその会場を頭の中に思い描く。
そのような舞踏会ではノインが出している料理なども幾つかあり、ディアが試作の段階から気に入っていた料理は、爵位の高い魔物にも好評だったのだそうだ。
「ディア」
思う存分の収穫を終え、二人が座ったのは噴水の向かいの夜結晶のベンチであった。
ひんやりとしたベンチに、ノインがどこからか出してくれたクッションを敷き、二人で最初に冷やしておいた葡萄を食べる。
そして、ディアが最初のひと房を食べ終えたのを見計らったように、ノインに静かな声で名前を呼ばれた。
「……………ノイン?」
「俺に、言わなければいけない事があるんじゃないのか?」
「……………っ、」
全くの不意打ちであった。
ディアは小さく息を飲み、こちらを見ている紫の瞳を見返す。
怖さと悲しさに震えた心に、胸の中に熱が凝ったような苦しい塊を感じるのはこの人が愛おしいからだ。
失ったらどうしようと、小さな心がもがくからだ。
「……………話せる時に話しておけ。今はまだ言葉に出来ないと言うのであれば待つが、俺はそう気の長い方じゃない。それに、今更お前を解放してやる気もない。お前の為にしてやれる事も多いが、出来ない事も多いのは知っているな?」
「…………ノイン、私はとても狡い人間なので、この事を打ち明ける事で、ノインに見捨てられてしまうのが怖くて、ずっと言い出せませんでした。…………それでもあなたは、私が何かを思い悩んでいる事に、気付いていてくれたのですね……………」
ディアがそう言えば、小さく息を吐いたノインが、隣に座っていたディアをひょいと持ち上げてしまい、膝の上に乗せた。
その胸に背中を預ければ、じんわりと染み込む大事な人の温度に、胸の中に凝っていた怖さが少しだけ剥がれ落ちる。
「お前はどこに行かなくてもいい。言っただろう、対価だと」
「…………けれども、あなた方は望むだけの多くを手に入れられますし、私は………、ノインが忙しくお仕事をしている時も食べて寝るばかりの役立たずな人間なのです」
「ったく、そんなことを気にしていたのか?」
「ノインが王様だと知った後も、正妃としても教育を形ばかりとは言え受けていた私です。それなりの事は出来るだろうと甘く考えていましたが、人間の王族のお仕事とは違い、ノインのお仕事は私にお手伝い出来るようなものではありませんでした。……………その上で、この思いを伝えたら、ノインは私にうんざりしてしまうかもしれません」
悲しい声でそう訴えたディアに、ノインはどこか呆れたような優しい目をしている。
あまりにも穏やかに微笑むから、ディアは、これからが本番なのにどうしてこの人は満足げなのだろうと目を瞬いた。
「…………なぜご機嫌なのですか?」
「俺は、てっきり、人外者との暮らしや、俺の城での生活にうんざりしたのだとばかり考えていたからな。………俺の城には、司る食楽に関わる者達の出入りが多い。その分、お前の姿も人目に触れ煩く言う連中も少なくはないだろう。………そういう事ではないんだな?」
「まぁ、……………ノインは、私がそれで嫌になってしまうと思ったのですか?」
「………少しはな。とは言え、だからと言って解放してやるつもりはないが」
当たり前のようにそう断言したノインに、ディアは自分でも驚くくらいに安堵してしまった。
それはもしかしたら、望まない執着であれば恐ろしく残酷なばかりなのかもしれない。
けれども、どこにも行きたくないディアにとっては、命綱のような言葉であった。
「………ノイン、覚悟を決めて告白しますね。…………その、……………実は、私がまだ人間だからなのか、どうしてもノインと共有出来ない感覚があるのです」
「………どんなものだ?」
種族性の違いだ。
これから告げられるのは、聞いたところでどうしようもない事だと分かるだろうに、ノインの声はまだ穏やかなまま。
その優しさに罪悪感を覚え、ディアはくすんと悲しく鼻を鳴らした。
「…………この季節に食べる、ノインの大好きなお鍋がありますよね?」
「……………ん?」
深呼吸をして固い声で切り出された言葉の内容が予想外だったのか、ノインは眉を寄せて問い返した。
「…………ラダンのお鍋です」
「ああ。それがどうした?」
あまりにも不思議そうに問い返したノインに、ディアは、じわっと涙目になると両手をぎゅっと握った。
「わ、私には無理です!!あのお鍋は、怖くて食べられません!!」
「………は?」
「ラダンとは何だろうと調べたところ、私の心は粉々になりました。あ、あれだけは、どうしても食べられません!!」
「ラダンがか?!季節の味覚だぞ?美味いだろうが」
「あやつめは、人型ではないですか!ノインくらいの大きさの毛皮キノコ的な、けれども人型の生き物です!!町を作って暮らし、町内会や遠足もある生き物なのですよ?!」
その事実を知った時のディアの驚きは、やはり精霊であるノインには分からないのだろう。
ラダンは、人間の子供を番にする為に攫う悪い生き物だが、刺繍や裁縫を得意とする生き物でもある。
人間を伴侶にしても自身の体から分岐して個体を増やすので、ディアにとって共食いではないにせよ、裁縫を嗜む生き物を食べるのはやはり躊躇いがあった。
また、倫理的な観点とはまた別に、人型風毛皮巨大キノコという謎めいたものを、心を許して食せる程にディアは強い心を持たなかった。
ディアが精いっぱいそう訴えれば、ノインは呆然としていたが、ややあって静かに頷いた。
腑に落ちてはいないようだが、精霊の大好物の季節のお鍋を否定したディアに、嫌悪感や怒りを向ける様子はない。
「…………それで、悩んでいたのか」
「ノインは、私に沢山ラダン鍋を食べさせようとしてくれます。季節の味覚で、とても美味しいからと。…………でももう、今年からは怖くて食べられないでふ…………」
「ったく、そんな事なら早く言え。ふた月近くも悩みやがって」
「………ラダン鍋が食べられない婚約者でも、嫌いになってしまったりしません?」
「お前な………」
「でも、ノインは食楽の精霊さんなのでしょう?あなたにとって、食べ物は大切なものだと思うのです…………」
「やれやれだな。そんな事くらいで、俺がお前に失望するとでも思ったのか?食事は道楽で嗜好だ。好きなものを好きなように楽しめばいい。ただし、薬湯などは好き嫌いは聞かんがな」
苦笑したノインにわしわしと頭を撫でられても、ディアは、沢山の勇気が必要だったこの告白が、あっけない程に受け止められてしまったことがまだ信じられずにいた。
瞳を揺らしてノインを見上げていると、ディアの大事な婚約者は人外者らしい仄暗く艶やかな微笑みを浮かべる。
ふっと翳った視界に、ディアはぎくりと体を揺らした。
「…………っ、」
甘やかな温度と吐息を分け合う口付けは、安堵も重なり不思議なくらいに安らかなものだった。
周囲には見事な実をつけた檸檬の木やオレンジの木が枝葉を茂らせ、けぶるような月光の下で、噴水の水音だけが響いている。
穏やかな夜の美しさが、悲しいものや怖いものの全てを洗い流し、冴え冴えとした夜の美貌だけを鮮やかに残してゆく。
二人は少し体を離し、見つめ合ってくすりと笑うと、もう一度口付けをした。
(もう、怖い事はなくなった……………)
そんな思いに安堵して、大事な大事な婚約者の腕の中で、ディアは美味しい捥ぎたての果物を沢山食べた。
二人は美しい果樹園で夜明けの光を見てからお城に帰り、ノインは、そこから三日間の休暇を取ってずっとディアと過ごしてくれた。
しかし、義兄から沢山のラダンがお城に届けられてしまい、ディアが悲鳴を上げるのはその翌週の事である。
梱包されたままムグムグと暴れるラダンに怯えるディアを、背中の後ろに隠して守ってくれながら遠い目をしたディルヴィエから、ディアは、こんな珍妙なものを食べるのは精霊だけだと教えて貰い、少しだけほっとしたのであった。
もう何話か続きのお話や、その前のお話を更新させていただく予定です。
更新の際には、Twitterや活動報告からご連絡させていただきますね。




