長い夜の国と王子の婚約者
その夜、部屋を訪ねたディアの婚約者は、婚約の際に署名をした魔術の誓約書を携えていた。
既に結ばれた契約を解消する為の措置は取られているが、形式的にディアの署名が必要なのだ。
ディアの暮らす棟で働く使用人達は皆、王家から貸し与えられた者達ばかりで、おまけにこの訪問者は、ディアが六歳の時から王宮で共に暮らしてきた婚約者で、今夜は婚約解消の席だ。
未婚の男女だからと誰かが部屋に残るような事はなく、ディアはその夜、リカルドと二人で話をする事になった。
ディアは、公爵令嬢である。
とは言え、家族を喪くしたディアの公爵としての名前は、既に別の人間に譲渡されていた。
ディアは、叔父である国王を筆頭にした王家を後見人とし、公爵令嬢としての肩書きは守られながらも、ジラスフィ公爵家からは完全に切り離された状態にある。
このような決定がなされた背景には、この国の建国の物語が影響していた。
近隣諸国から長い夜の国と呼ばれるファーシタル、つまり、ディアの生まれた国には、夜の王と呼ばれる人ならざるものに守られる古く深い森がある。
かつてこの土地には、人間達を治める王家と、人ならざる者達に仕え、彼等と人間達との間を取り持つ祭祀の役割を務めた王家があり、ディアの一族は、ファーシタル建国の際に公爵へと階位をあらためた祭祀の王家の末裔であった。
(今はもう、忘れられて久しい古い祝祭の儀式や、夜の王様のお城へ向かう精霊達の謁見の列。夏至祭の日の夜に窓辺に届けられた花や、妖精達の泉に、夜明けの空を飛んでゆく竜達………)
そんな光景が見られたのはディアの曽祖父の世代までのことで、今ではその殆どが、おとぎ話の中に薄っすらと残るばかり。
ファーシタルでは、良質な森の魔術の結晶石と、様々な祝福石や結晶石が採掘されているのだが、かつては土地に宿っていた膨大な魔術がそれらの資源に吸い尽くされてしまい、現在の魔術の痩せた土地になったと言われていた。
青緑に白灰色を重ねたような針葉樹の深い森は荘厳で美しく、雪の中で煌めく枝葉に縁取られた森の佇まいを見渡せば、誰だってそこに人ならざる者達がいると思うだろう。
それなのにこの国の民はいつからか、森に住まう人外者達と共に暮らした日々を物語の中だけのものにしてしまった。
(それでいて、建国の書に記される森の祭祀のジラスフィ公爵家は、空座にする訳にもいかないらしい)
何とも我が儘な理由だが、人間には人間の建前というものがある。
人ならざる隣人たちの存在にはすっかり懐疑的になってしまった王都の重鎮達は、なぜ、ジラスフィ公爵家の名を建国よりの立ち位置のまま遊ばせておく訳にはいかなかったのだろうか。
そして彼等は、まだ幼いという理由で公爵家を継ぐことが許されなかったディアが、あの惨劇の夜に何があったのかを知っているとは思いもしないのだ。
がらがら、ぴしゃん。
記憶の中で今も轟くのは、落雷の音と壁や窓に吹き付ける強い風の音。
ざわざわと庭の木々が揺れさざめいた嵐の夜に、ディアの大好きな両親と兄、そして二人の姉は、ならず者に襲われて命を落とした。
凶報の届いた王都からはすぐさま騎士達が差し向けられたが、彼等が駆け付けた時に、ジラスフィ公爵家の敷地の中で生き残っていたのは、バルコニーに置かれた薔薇の鉢植えの横で遊び疲れたのか玩具を持ったまま眠りこけていた、まだ六歳のディアだけだったのだという。
そうしてディアは、駆けつけた騎士の一人に宝物のように抱き上げられると、壮麗なるファーシタルの王宮に庇護されたのだ。
その年のファーシタルは、長雨続きの不作の年であった。
深い森に囲まれたこの国は良質な宝石の産地とされるが、夜が長い国なので、安価な農作物の収穫を安定させる気候には恵まれていない。
堅牢な小国と言われることもあるものの、言葉を返せば霧雨や霧の多い切り立った山々の麓の森に閉ざされ、広大な畑を作れないような国土ばかりである。
その上での、長雨の不作であった。
外の国々の戦乱が落ち着き、周辺諸国からは宝石や森の魔術が凝った結晶石から作られる魔術道具の需要は増えたが、国が豊かになり増えた国民を養うだけの蓄えは、ひとたび不作ともなるとこの国土には育たないのだった。
よって、当然ながら国は、身を切る法案を国民に強いる事を余儀なくされる。
他国から入って来る資金の殆どを国民の生活を維持することに充てはするもの、より豊かな暮らしを目指し華やいでいた国民達に、一時的にとは言え、かつてのような慎ましさを取り戻して欲しいと頼まねばならなくなった。
そして、そんな折に、ジラスフィ公爵家の悲劇が起きたのだ。
国の生かし方など知らない民達に、生活水準を落とせと命じたのは早計であったと誰かが言った。
節制を命じられたことへの恨みを募らせた者達が公爵一家を襲ったという調査報告が出され、実行犯として捕縛された者達は速やかに処刑された。
領地の民達の多くは聡明で穏やかな気質で知られた公爵一家を愛しており、優しいご領主様達がいなくなってしまったと、一月も喪に服してくれたと聞いている。
ディアが覚えているのは、晩秋の風のさざめく丘をどこまでも歩いて行く葬列と、はたはたと揺れていた国旗の鮮やかな青色くらいだ。
しっかりと覗き窓を塞がれた棺の中は、小さな子供には惨すぎると決して見せて貰えなかった。
(…………幸いにも、公爵家の家名を継いだ方は、とても優秀で優しい方であった………)
ディアはきっと、恵まれた子供なのだろう。
公爵家の家名を現ジラスフィ公爵に譲渡する旨を記した書類に署名をした時にはまだ、家族を喪ったことへの落胆が大きく、受け継いで来た名前を失うことへの抵抗はなかった。
その名前に紐付く責務の重さを理解し、ジラスフィを名乗るのは、その爵位に相応しい役割を果たせる者でなければならないのだと知ったのは、もう少し大きくなってからだろう。
貧しさに喘ぐ国を揺らがせるには危うい時期であったし、まだ六歳の子供が家名を背負ってゆくことは現実的ではないと考えた国王以下その他の貴族達の決断を、ディアが恨むことは今もない。
美しい国なのだ。
特に秋は、艶やかに紅葉の森や丘陵地を霧が這い、そこに黎明の金色の光が散らばる。
乳白色の霧の向こうに見た事のない不思議な世界があるような気さえするのは、この国がとても美しいからに他ならない。
(だから私は、正当な権利は云々というような綺麗事を言わず、私からジラスフィ公爵家を取り上げて、それを管理するべき能力のある臣下に譲ったこの国を、寧ろ誇らしく思っている……………)
一方で、王家に引き取られたディアは、王宮で王子達や王女達と共に大切に育てられた。
勿論、王族とそうではない者の教育は違うし、本当の自分の家族というものを持たない寂しさを感じる事はあれど、扱いを不公平だと感じたこともない。
王と王妃は、早々に、ディアの為に信頼の置ける使用人や教師達を用意してくれたし、王宮の一角にある夜菫と霧雨の棟をディアに与え、自分の帰るべき家がないと思わずに済むような配慮もしてくれた。
擬似的なものとはいえ家を得たディアは、その後も、特筆するほどの不幸には遭わずにいたのだと思う。
記憶の中にこびりついたあの夜の絶望がなければ、ディアはもっと違う人間に育ったのかもしれない。
山尾根を照らす凄艶な遠雷の煌めきと、降り出したばかりの雨の匂いがしたあの夜。
ごうごうと風が唸り、嵐の中で王都から派遣された騎士団の為に公爵家の正門を開いたのは、侍女のハティエの娘の外套を借りたディアだった。
(騎士団の訪問のその時まで、私の家族は生きていた。自分達が粛清されるなどとは露ほどにも思わず、リベルフィリアの飾り付けの準備をしていた………)
あの嵐の日にディアの大切な家族を殺したのは、ならず者達などではない。
この国の正規の騎士団によるもので、それを命じたのは、王様と王妃を始めとするこの国の貴族達だと、ディアはずっと知っていた。
勿論、彼等とて私怨で公爵一家を葬ったのではない。
喪われた者達への弔いの丁重さとディアへの扱いを踏まえれば、そこに感情的な理由がなかった事は明白で。
(恐らく、その時のこの国はもう、そうするしかなかったのだ。…………西の果てにある夜の王様の森を切り拓く事に反対していたジラスフィ公爵家を、なんとしても早急に沈黙させなければならなかった………………)
あの当時、国は国を生かす為に、その豊かな森を農作地にする事を、苦渋の思いで決断せねばならなかった。
改革が浸透すればそれをせずとも良かったが、改革には痛みが伴い、下手をすれば国が荒れる。
であれば、国を守り続けた豊かな森を犠牲にしてでも、国民を守るしかないと王達は考えたのだろう。
それなのに、国の起源である森は、国民の魂の寝床であると声を上げたジラスフィ公爵は、まずは、公爵領で改革を始めてみるので、その結果を見て判断して欲しいと国王に提言したのだ。
その動きに賛同した者達も多かったが、当時、ジラスフィ公爵家と意見を揃えた者達は、それは不可能だと項垂れた反対派の者達とは違い、国政の中枢には関わっていない貴族達が多かった事を、今のディアは知っている。
彼らは皆、国政から離れているからこそ、どれだけこの国が窮地に立たされているのかを知らなかったのだ。
(お父様とお母様は、とても優しい方々だった。特にお父様は、子供の頃に森に住んでいた最後の竜と仲良しで、その竜の住んでいた森と湖を守りたかったのだろう…………)
十七になったディアは父の願いを理解し、十九になったディアは、そんな理想論ではこの国は立ち行かなかったのだと理解する。
多分、ディアの家族の願いは甘かった。
きらきらと輝く魔術の結晶のような美しさだが、それでは、自分達も国も生かすことは出来なかった。
けれど、ただそれだけで、他には何の問題もなかったのに。
とは言えその甘さが一雫の毒となり、国を乱す恐れがある以上は、国というものを生かす為に取り除かれる事もまた世の必定だったのだろうか。
ディアは公爵令嬢だ。
しかし、そう呼ばれても名前すら持たない、亡霊のような存在である。
そしてそんなディアを生身の人間にしてくれていたのは、こうして目の前にいるリカルド王子との婚約であった。
「……………すまないね、ディア。君は幼い頃からずっと、こんな私の婚約者でいてくれたのに」
深々と頭を下げたリカルドに、ディアは目を瞬く。
この部屋を訪れ、婚約を解消したいという旨を伝えたリカルドは先程からずっとこの様子なのだが、彼はこの国の第一王子なのだ。
ディアは何度も、もうそんな事は気にしなくていいのだと言わねばならなかった。
美しい銀髪に雪の日の湖のような青い目をした、吟遊詩人達の歌にも歌われる程に美しいひと。
彼が、婚約を解消する為にこの部屋を訪れたのならば、こんな風に向かい合って話しているのは何だか不思議なことにも思える。
昨年、満月の夜に行われた王宮主催の舞踏会で、ディアの婚約者は、運命の人に出会ってしまったのだそうだ。
リカルドが、ディアにその出逢いを無神経に語って聞かせることはないが、第一王子の恋の話は王宮のそこかしこで囁かれており、ディアの耳にだけその囁きが届かないということはなかった。
(勿論だけれど、その噂ではいつも、新しい恋という言い方はされない)
それは当然のことで、ディアとリカルドの婚約は、ディアの身上を慮る政治的な決断からなされたものだが、今回の婚約は事情が違う。
第一王子は、漸く愛するひとを見付けたのだ。
「…………リカルド様。どうぞ、頭をお上げになって下さい。侯爵令嬢との事は存じ上げておりますし、リカルド様が誠実に対応して下さったお陰で、私は裏切られたとも感じておりません」
「しかし、古くからの約束が失われるという事は、やはり、どのような形であれ裏切りに違いない。私は、共に育った君に不実な事はしたくなかった。…………自分で婚約を破棄すると決めた以上は綺麗事に過ぎないが、それでもやはり胸が痛むのだ」
「まぁ。そのように仰ると、こんなに酷い事を自分で決めておいて、その上で私に許して貰おうと思っていらっしゃるのかと、私が意地悪を言うかもしれませんよ?」
そろそろ、この謝罪を切り上げさせてやる頃合いだ。
ディアがくすりと笑ってそう言えば、リカルドは困ったように淡く微笑む。
よく知らない者が見れば、一介の公爵令嬢風情がなんと辛辣な言葉なのかと青ざめるかもしれない。
けれども、二人の間ではこのようなやり取りが常で、それはディアがどれだけこの王宮で自由だったのかを示してもいた。
こちらを見たリカルドの青い瞳に浮かんだのは、微かな安堵だろうか。
それとも、本当は失望だったのかもしれない。
「そう言って、私から毟り取れるだけ毟り取るといい。この決定を許して下さった国王と王妃も、君には望む限りのものを与えると約束してくれた。私の我が儘のせいで、君がこれから先に不自由な思いをする事などはあってはならないからね」
「…………では、リカルド様など、あと十年もしたら、頭頂部から禿げてしまえばいいと呪いをかけておきましょう」
ディアがそう言えば、リカルドは僅かに目を瞠り、漸く、見慣れた柔らかな表情で微笑んでくれた。
「とても残酷な仕打ちだが仕方がない。私は耐え難い程に愚かな男なので、その報復は甘んじて受けよう。それで許してくれとも言わないから、引き続き私を爪研ぎ板にして構わないよ」
「まぁ、困った王子様ですね。私が、あの可憐で聡明な侯爵令嬢のように、あなたを愛してはいなかったことくらいご存知でしょうに」
二人は、一つの長椅子に並んで座っていた。
正面の暖炉では、ぱちぱちと音を立てて、置かれたばかりの薪が燃えている。
この国の王宮は、大陸の豊かな土地から訪れる人々からすれば、随分と質素に見えるかもしれない。
魔術を宿した火の結晶石や、暖炉を焚かずとも屋内を温める魔術などはなく、王宮魔術師達は、質のいい魔術の結晶石に祝福の言葉を宿すくらいがせいぜいである。
それでも、ディアはこの国が大好きだった。
深い森に囲まれた僅かばかりの国土に、小さな塔と飾り窓のある、石造りの家々が立ち並ぶ。
王都には美しい王宮があり、王宮前広場には魔術結晶をふんだんに使った素晴らしい噴水があった。
もしかすると、大国の王都に遠く及ばないどころか、大きな国の地方都市と比べても容易く見劣りするかもしれないけれど、宝石や結晶石の細工に長けた国民を有するこの国の建築は、細部に目を懲らせば大国の王達ですら唸らせる自信がある。
その上、こうして目の前に座っている元婚約者もそうだが、ファーシタルの民は、夜霧や霧雨のようにと評される美貌にも恵まれていた。
それでいて隣国からの侵略を免れてきたのは、この国の人間たちの魔術所有値の低さに尽きる。
魔術所有値は、その人間が体に蓄える事が出来る魔術の上限を示す言葉だ。
魔術はこの世界のあらゆるものに宿るので、所有値があまりにも低ければ生きてゆくことすらままならないが、ごく稀に土地そのものの魔術が希薄な場所もあり、そんな土地だからこその魔術の豊かな国では暮らせなかった人々が集まり育まれたのが、ファーシタル国である。
ファーシタルの国民がこの土地でしか生きていけない者達ばかりである一方で、魔術所有値の高い人間にとってファーシタルは暮らしやすい場所ではない。
それぞれの必要と不要の理由が上手く噛み合わさった結果、ファーシタルは略奪も侵略も受けずに済み、建国より国を治める王家のものであり続けた。
(……………でも、だからこそ人々は、森に暮らしている夜の王様の事を忘れてしまったのかしら)
ぱちりと暖炉の中で薪が弾ける音がして、しゅうしゅうと乾燥しきれていなかった木の水分が音を立てる。
上等な薪とは言えなかったが、幸いにもこの部屋の主人はもう、第一王子の婚約者ではなくなった。
それなのにリカルドは、顔を顰めると、後できちんと乾燥された薪を届けさせると呟くのだ。
「そうだね、私達の間にあったものは、確かに男女の愛情ではない。…………だから、約束を奪うと表現したのだよ。私は、君の寄る辺なさを知っている君の家族だ。であれば、これからもずっと、君の家となるべきだったのだから」
「ますます困った王子様ですね。それが必要かどうかは、私が決める事です。これでも私はとても賢いので、それは嫌だと思ったら狡猾に泣き喚くでしょう。そうしたらリカルド様は、私を見捨てられなくなるとは思いませんか?」
「ああ。それは間違いない」
生真面目な表情でそう頷いたリカルドが嘘吐きなのはさて置き、彼は、実によく我慢してディアの婚約者でいてくれたと思う。
大陸で戦が続いた時代の余波を受け、ジラスフィ公爵家には縁者が殆どいなかった。
侵略などの憂き目には合わずとも、不安定な情勢の隣国との交易に旨味などなく、この国は長らく貧しかったのだ。
ディアの身寄りが国王一家しかいなくなった時、リカルド王子は十六歳である。
弟王子の子供が生まれ、国としての後継ぎの心配はなくなったとは言え、いずれ国王となるべき人がこの歳まで婚姻を待ったのは、幼過ぎる婚約者のディアのせいでもあった。
彼は、小さな公爵令嬢が兄のように安心して慕えるようにと、敢えて一番年上の自分が婚約者となってくれた優しい人だ。
この国の成人年齢は男性が二十歳、女性は十七であるのに、成人の直後にディアが体調を崩した事で、更に一年待った。
けれどもその結果、ディアが十八の年に彼は運命の人に出会ってしまった。
魔術所有値が低い為に平均寿命は百二十年余りと長いものの、乳幼児から幼児の死亡率が高いファーシタルでは、その分、子供達を大事に育てる為に教育期間を長く取る。
三十歳までを始まりの朝の期とし学びや成長に充て、子供達が家督を継ぐのはその後からだ。
リカルドの新しい婚約がこの時期なのは、ぎりぎり立太子に合わせたとも言えよう。
(…………もしあの事故がなければ、私はとっくに、リカルド様に嫁いでいたのかもしれないのだわ…………)
ふと、そんなことを考えて、運命の数奇さを思う。
けれど、ディアはそうしなかったし、こうして成される婚約の解消についても特に異論はなかった。
どちらにせよ、ディアはもうすぐ死ぬのだ。
だから、この婚約はもういらないのだと言ってあげられたのなら、僅かの間だけでもリカルドは安堵出来るだろうか。
そう考えて微笑んだディアに、リカルドは、少しだけ躊躇い、小さな頃のように頭を撫でてくれた。
「………ディア、これからも君は、私達の家族ではあるんだ。これまでのように、困ったことや、そうではない事も含め、遠慮をせずに私達を頼ってくれるかい?」
立ち去り際、リカルドは不意にそんな事を言った。
だからだろうか。
ディアは、両親に連れられて訪れた王家の舞踏会で、目を瞠る程に美しい王子とおままごとのように踊った日のことを思い出す。
あの日、小さなディアは気紛れに頭を撫でてくれた王子様に恋をし、ディアの家族はその翌日に殺された。
壮麗な騎士団の訪れに、あの王子様が自分を迎えに来てくれたのかもしれないと勘違いした子供が、使用人の子供のふりをして屋敷の正門を開けてしまったから。
「…………私は、遠慮をしてしまいそうに見えますか?」
「とてもね。君は、自分は強欲だと言うくせに、時々とても遠くを見ているだろう?そんな時私は、君が、どれだけのものを手にしたいと思う事すら出来ずに諦めているのかと不安になる」
(まぁ……………)
少しだけ、その言葉は予想外だった。
ディアは、この人は思っていたよりも自分の婚約者の様子を見ていたのだなと考えたが、それでもリカルドは、一番大切なことには気付かなかった。
「リカルド様。これまで、私のお側にいて下さって、有難うございました」
「これからも、私は君の親族ではあるのだ。それだけはどうか忘れないでくれると嬉しい」
ディアは微笑んで頷くに留め、肯定はしなかった。
婚約者でもなくなるリカルドとディアは、これ迄のように会うことはなくなる。
ましてや、リカルドに新しい婚約者が出来るのであれば、その心情に配慮しいっそうに疎遠になるのも当然のこと。
だからこそ、何気なく告げたこの一言が今生の別れの挨拶であるのだと、リカルドは気付くはずもない。
(あなたが私を殺そうとしている事に、私が気付いてしまったことを、あなたは知らないのだ………)
リベルフィリアの翌日のリカルドの誕生日の夜、盛大に執り行われる王宮の舞踏会で、ディアは我が身の行く末を憂いて自殺する事になっている。
リカルドは、その計画がディアに知られてしまっている事にはまだ、気付いていないのだろう。
ディアとしては最後まで気付かないで欲しいので、暫くは距離を置く口実が出来たことに感謝した。
ぱたんと扉が閉まり、リカルドが部屋の外で待っていたお付きの者達と共に夜菫の棟から退出すると、ディアはふうっと息を吐き、可憐な乙女とは言い難い仕草で眉を寄せる。
落胆と孤独に震える息を吸えば、砕いた霧の魔術の結晶石を飲み込んだように胸が痛んだ。
目の奥がじんと熱くなったが、ここでめそめそと泣くほどにディアは幸福な人間ではなかった。
身寄りもなく、王宮で第一王子の婚約者として生きてきたディアにとって、その庇護を失うという事そのものが初めての体験である。
失い得ないものと、奪われてもやむを得ないもの。
欲しいものといらないものをしっかりと決めておかねばならない。
(……………そうだ。リカルド様はちっともご存じない。………私はとても身勝手で、臆病者なのだ)
ディアの持ち物はとても少ない。
そんな状態でこれ以上の不愉快な思いはしたくないし、当然だが怖い思いは絶対にしたくない。
それでいて、理不尽な仕打ちには腹が立つし、達観する程に穏やかな気性でもなく、酷いことをした人達には手酷い報いを受けて欲しい。
夜はたっぷりと寝ていたいし、残された自由な日々くらいはせめて、美味しいものを食べてぬくぬくしていたい。
「……………でも、」
それでも、たった一つのこの願いが叶うのなら。
この命を賭してでも、手を伸ばしてみる価値はあるのかもしれない。
そう考えて窓の方を見ると、やはりと言うべきか、どうしてこんな日にと思うべきか、はたはたと風に揺れる美しい瑠璃紺色のケープが見えた。
こちらに気付き振り返ったのは、暗く眩い夜の光を浴びて微笑むぞくりとする程に鮮やかな紫の瞳。
リカルドがディアを殺さねばならなくなった最大の要因が、そこに立っていた。