長い夜の国と食楽の恩寵
そこには、かつてファーシタルと呼ばれた夜の長い人間の国があった。
今もその領地の名前はファーシタルだが、既に人間の統治を終えた土地として、夜の統括地と呼ばれる事も多い。
豊かな森に囲まれ、森の魔術結晶の質がいいのは勿論のこと、鉱石や結晶石の採掘が盛んで、コルグレムという玄人好みの強い酒が作られている。
とは言えその土地の人々は魔術所有値が低く魔術侵食の危険と常に隣り合わせなので、観光客はアストレ商会の支店で酒や宝石を買うといいだろう。
土地の住人達が魔術の障りを受けて所有値を落としている事は有名で、その研究に訪れる者達も多い。
だが、夜の統括地になってから軽減されたとは言え、土地の魔術が薄いので長期の滞在は推奨されない。
その代わり、魔術の障りや呪いの働きを抑えたい患者達には人気の保養地になっていて、その土地を治める夜の王の許可を求める者達はかなりの数なのだとか。
ファーシタルに国を興した人間達は、妻子を持ちながらも死の精霊の想い人に求婚した一人の魔術師が、障りを受けた際に、共に呪われた魔術師の血族であるという。
死の精霊の呪いを受け、かつては潤沢な魔術の所有値を持ち、高位の魔術師を輩出し栄えた一族は、永劫に彷徨える民となった。
しかし、彼等が放逐された土地を統括していた真夜中の精霊の王弟と出会い、彼と取り引きをしたことで、身に持って生まれた魔術の所有値の殆どを結晶石や鉱石に変えて森の養分としながらも国を興すことを許されたという。
彼等はファーシタルの外では生きてゆけないくらいに脆弱な体になってしまったが、ファーシタルを囲む豊かな森を防壁とし、流浪の民達を毎晩一人ずつ嬲り殺そうとしていた死の精霊の呪いからは逃れる事が出来た。
真夜中の精霊の王弟と交渉し咎人にされた人々を守ったのは、一族の中でも末席だったジラスフィという分家の者達であったという。
彼等は、始まりの魔術師の行いを咎めた為に一族の中では爪弾きにされたが、それが幸いし、死の精霊の呪いを受けずに済んでいた。
そんな彼等が真夜中の精霊の王弟との契約を果たし続ける為だけにファーシタルに留まったのは、自分達を迫害した血族を救う為に外の世界を捨てる事もまた、契約の対価の一環であったからだ。
その条件を飲んだジラスフィの一族もまた保有している魔術の所有値を奪われたが、年に一度の真夜中の座の精霊達に参じる時にだけは、かつての魔術を取り戻し術式の道を開くと、忠実な僕であることを示す為にその王宮を訪れたという。
そうしてファーシタルは、ジラスフィの献身の下に健やかに国を育てていった。
だが、その国の二代目の王が、魔術の豊かな森の外の世界への未練を断ち切る為に、この世界には人ならざる者達は存在しないということにしてしまうと、そこから国の命運は陰り落ちる。
その背景には、かつて親しんだ人外者達との交流や、豊かで安らかな魔術の恩恵を失ったことで心を病み、自死する者達が相次いだからだと言われていたが、直接その事件に関わった訳でもない自分達が、この先もずっと咎人であり続けることを受け入れられなかったからとも言われている。
更に少し経つと、真夜中の精霊の王弟との契約も死の精霊の呪いも忘れてしまった人々が、約束を忘れずに夜の国の王宮に参じ続けていたジラスフィの人々を粛清してしまった。
その時代のファーシタルは、国民が増えたものの国土を広げられないという悩ましい問題を抱えており、農作地を増やす為の森の開拓に強固に反対したジラスフィの一族の口を封じたのだ。
ここで真夜中の精霊との約定は決定的に違えられ、ファーシタルの民達は、図らずも二度目の禁忌に触れることになる。
そうして、ジラスフィの一族が粛清されてから十三年後、ファーシタルは王宮に幽閉していたジラスフィの最後の娘を殺そうとしたことで、真夜中の精霊の王弟の逆鱗に触れ、約定違反としてその国の全てを取られてしまった。
ファーシタルの民達は、自分達が魔術の約定を決定的に破棄するその瞬間を、近くにいた人ならざる者達が待ち侘びていたことに気付かなかったのだ。
なお、救い出されたジラスフィの最後の娘は、真夜中の精霊の王弟に見初められ、その花嫁として迎え入れられたという。
精霊の祝福を受け幸せになった娘は、二度と人間達の国に戻る事はなかったのだそうだ。
「ムクモゴリスは、お城に連れてこれないのですか?」
「いいか、絶対にやめろ。そもそもそいつは、あの国で暮らしてゆけるように、魔術の薄い土地に対応して生き残った個体だろうが」
「…………わ、私のふかふかが……………。ノインは、お義兄様のようにもふもふにはなれないのでしょうか」
「やめろ。そんなものにはならんぞ」
「もふもふの成分が足りておりません。何か、私を満たすもふもふを献上するのだ!」
「ほお、その提供に相応しい対価を支払えるんだろうな?」
「まぁ、ノインへの対価は、手作りの料理を美味しくいただくだけで充分なのだと、ディルヴィエさんが教えてくれましたよ?」
「……………ディルヴィエ!」
「やれやれ、いい加減にディア様で遊ぶのはおやめ下さい。人間の文化では、花嫁を怒らせると、生家に帰られてしまうことがあるそうですよ」
ディアのカップに夜雫と月光の紅茶を注いでくれているディルヴィエがすぐに味方をしてくれ、ディアは、ふんすと頷いた。
家族を喪ったディアには帰るべき実家はないが、後見人になってくれたディルヴィエの、夜明かりの妖精のお城に帰ればいいのだ。
ディルヴィエの姉たちは皆美しくて優しく、ディアをたっぷり甘やかしてくれる。
とは言え、あまりそちらに入り浸ると婚約者が荒ぶってしまうので、本当はお泊り会などもしたいのに我慢していた。
「実家に帰らせていただきます?」
「やめろ。そもそも実家じゃないだろうが。お前の家はここだ」
「おや、ディア様はもう娘のようなものですので、実家だと思って下さって構いませんよ。母も、精霊が嫌になったら妖精になればいいと言っておりますからね」
「ふふ。妖精さんになったら、お空がしゅんと飛べるのですよね」
「……………おい」
「むぐ?!」
少しだけふざけてみただけなのだが、ディアは荒ぶる婚約者に膝の上に持ち上げられてしまい、おやつを食べていた途中だったのにと怒り狂ってじたばたする。
対外的にはディアはもうノインの花嫁であるという事になっているが、実際にはまだ婚約者だ。
それは、実は死の精霊の呪いではなくノインとの取り引きの対価であったらしい所有値を元に戻しても、長年低い所有値で生きてきたディアの体が精霊に近付くのに時間がかかっているからだった。
(でも、時間はもう幾らでもあるのだもの)
それでももう、鏡に映る自分を見れば、そこにいるディアラーシュの瞳は艶やかな紫色で。
ノインと同じ色の瞳が嬉しくて、ディアはそんな変化をとても気に入っている。
ディアの大好きな婚約者は、せっせと美味しい料理を作ってくれるので、ディアはそれを美味しくいただきながら徐々に精霊に転属してゆこうと思う。
(……………あの国は、秋になった頃かしら)
ファーシタルは今、夜の食楽を司る王の直轄地として、系譜の人外者の管轄下に置かれている。
ノインが王として治め、最後の舞踏会の夜の粛清を免れたジルレイドが領主となっていた。
今後は、かつてジラスフィ一族がしていた夜の王様への年に一度の挨拶を、ジルレイドの一族が続けてゆくことになる。
(あの、ファーシタルの王宮で迎えた最後の舞踏会の夜)
精霊としての力を抑えずにノインが顕現したことで、王宮に居た全ての人間達は砂礫になって壊れてしまった。
ディアには教えて貰っても仕組みの理解出来ない魔術の道具を使い、夢として処理された出来事ではあるが、その瞬間の記憶は失われず、それを知る限り崩壊を経験した者達の魂は欠けたままである。
同時にその時、ファーシタル全土では、そちらは死の精霊達の顕現により国民の全てが同じような経験をしていたのだそうだ。
ノインは王宮を、死の精霊は残りの国民達を。
そうして分け合った契約であったが、死の精霊は、最初の魔術師の直系である王家の者達をこそ自らの手で壊したかったらしい。
(そんなことを聞いてしまうと、やはり人外者の障りは恐ろしいのだ……………)
少しずつそちら側に転じているディアは、今はまだそう思う。
けれどいずれは精霊になってしまい、それが当然になるのかもしれなかった。
恐ろしい夢から覚めた人々は、夜の食楽を司る、夜の国の王様の土地の領民になった。
それが禁忌に触れた代償であるが故に逃れる術はなく、罪ある人々から罪なき人々までの全てが夜の座の規則に縛られ、今後もずっと暮らしてゆくことになる。
(とは言え、隷属というような厳しい罰が与えられた訳ではないし、死後に死者の国に行けないことは知らされていないのだから、本来であればそこまでの混乱は起きない筈だったのだけれど…………)
しかしファーシタルでは、人外者は存在しないと教えられてきたのだ。
また、その呪いから逃げ出す者が現れないよう、異種族と結ぶことを教会の教えの悪の象徴としてきた。
そんな国民達が突然、精霊の統括下に入ったのだから、勿論その直後の国内は穏やかとは言い難い状態になった。
それを収めたのもまた人外者達で、本来の姿を見せただけで人間達は砂になってしまうのだから、あの夜の恐怖を覚えている人々は慌ててその統治を受け入れた。
(まだ問題は色々とあるだろうけれど、人間は人外者達が思うよりずっとしたたかで柔軟な生き物だから、やがてすっかり飲み込んでしまうのだろう……………)
ディアはそう思い、ただ何も知らなかっただけの民達迄もがこの災いに巻き込まれた事への罪悪感はぽいと投げ捨ててしまった。
こちらも身勝手な人間として、顔も知らない人たちの人生や悲劇に共感などは出来ないのである。
彼等の輪からとうに外されてしまった怪物は、もう二度とそちら側には戻れないのだ。
(……………これが、新しいファーシタルの歴史)
先程まで読んでいた本をぱたんと閉じ、新しく改訂され根付いてゆくであろう正しいファーシタルの歴史を思う。
建国当時にノインが交わした契約の本当のところを知る事も出来たので、ディアは、幼い頃に大事にしていた夜の国の王様の絵本のようにこの本を大事にしてゆくつもりだ。
騒動の収束と今後の国民の教育については、ノインや死の精霊、そしてコルグレムなどを扱う商会持ちの魔物の総意より、かつてジラスフィの粛清に関わった王族や貴族達に任されている。
その精査には人間の証言などは勿論反映されず、ジラスフィの屋敷に残った木香薔薇と、土地に少しばかり残った水仙から妖精を派生させ、その妖精達の手によって関係者が魔術的に洗い出された。
ディアはこの時、可憐に見える植物の妖精が最も執念深いのだと初めて知った。
特に水仙は自らを損なった者達を終生許さないそうで、その気質を利用し、関係者の特定はあっという間に成されたという。
該当者は手の甲に魔術刻印で罪人の証が刻まれ、契約魔術で不用意な言動などを監視されながら国内全域で国民への説明責任を担ってゆく。
その契約に触れると、それはそれは恐ろしい苦痛を味わうのだそうだ。
そうして彼等は、日々、自分達の手で殺した人々と向かい合う。
国民達から、あの夜の苦痛と恐怖は、あなた方のその行いの所為だと向き合わせられ続ける。
「約定に逆らわなければ生温いとも言える処置ですが、魂の欠けた者達は、まっとうな死者として死者の国に行けませんからね。死後は奴隷としてツエヌ様の元に下げ渡されることになります。あの方はとても執念深い精霊ですので、呪いに食われたり、魔術的な障りで命を落とすよりも、遥かに悍ましいことになりますよ」
「……………でも、生きている内に人外者のどなたかのお気に入りになれれば、その代償の輪から抜け出すことが出来るのですよね?」
そう尋ねたディアに、ディルヴィエはどこか冷ややかな微笑みを浮かべて頷いた。
この妖精曰く、ディアの従僕に扮していた期間は終わったものの、ディアは主人の婚約者なので、引き続きディア様ということであるらしい。
後見人でもあるので、同時に家族という不思議な感覚なのだが、今では二人で買い物に出かけるくらいに仲良しになった。
「とは言え、この土地を訪れる人外者は限られております。多くの者達は、自分を唯一救うかもしれない者が自分を選ばないという思いも抱いてゆくことになるでしょう」
「だろうな。あの咎人の印を見た上でその人間を選ぶのは、こちらの者にとっても不利益が大きい。何しろ、死の精霊の中でも特別に執念深いツエヌの獲物を奪う訳だからな」
「……………あのせいれいめはほろぶべきだとおもいます」
聞こえてきたツエヌの名前にふるふるとしたディアは、最近、よく遊びに来てしまう死の精霊にほとほと困り果てていた。
人ならざる者達は、死に纏わる領域と近しい者を、終わりの子と呼ぶのだそうだ。
死の系譜の者達は特にその終わりの子を好む傾向にあり、最近、ちょっとした行き違いから黄昏の妖精と破局したらしいツエヌは、あの舞踏会で容赦なく同族を破滅に追い込んだディアをすっかり気に入ってしまったという。
外出すればどこからかやって来て、手紙や贈り物を受け取らないと泣いて暴れたりもする厄介な御仁なので、ディアだけでなくノインもかなり手を焼いている。
階位としてはノインが上なのだが、精霊種としては死の精霊が最高位になるらしく、追い返すにもあれこれと駆け引きが必要になるのだとか。
昨日も、ディアがディルヴィエの姉達とお茶をしていたところ、いつの間にかやって来て窓の外からじっとりとした目でこちらを見ていたので、怒ったディルヴィエの母親が水を撒いて追い払ったという事件があった。
すぐさまノインが駆けつけてくれたが、隙あらばどこかに潜んでいるので怖くて仕方ない。
(……………あの後、ノインからジラスフィの屋敷を取り戻したいかどうかを訊かれたけれど、私はいらないと言った)
そこにはもう、愛する者達はいないのだ。
それでも一度は見に行ってみたのだが、かつての面影を残したものは取り払われ、保持しておきたいようなものではなくなっていた。
だが、今のディアには、あの屋敷の木香薔薇から派生した妖精の侍女達がいる。
生まれ育った屋敷を手放しても、彼女達がいる事で不思議と寂しいという気持ちにはならなかった。
侍女達もまた、大切なお嬢様が帰って来てくださったからと、とても幸せなのだとか。
「今年のジルレイドの訪問は、明日なのですか?」
「ああ。昨年の段階ではふた月先の夜会で設定していたが、今年の収穫で、南瓜の魔物を怒らせて魔物除けの儀式をしなければいけなくなったらしい。それが出来るのは、あいつくらいだからな。明日の舞踏会に振り替えてやった」
「…………また虐めてはなりませんよ?あの方は、お姉様の為に死のうとまでなさった方なのです」
「…………ああ」
ノインは、それでもファーシタル王家の者だから、粗相をしたらどうするかなと怖い顔をしてみせるが、ディルヴィエによると、ツエヌがジルレイドに悪さをしようとするときちんと保護しているようなので、このような時だけ悪ぶってみせるようだ。
ファーシタルが夜の国の統括下になった直後、ディアは、ジルレイドから紹介された妖精の奥方から、従兄との馴れ初めをこっそり教えて貰った。
ジルレイドもまた、ディアの姉を想っていたらしい。
ジラスフィの悲報を聞いて王宮を飛び出した彼は、事後処理の行われているジラスフィの屋敷を訪れ、幼いながらもそれが王家の手による粛清であることを理解した。
そして、恋をした少女を殺され絶望したジルレイドの幼く柔らかな心は、そこで挫けてしまった。
ジルレイドは、そのままジラスフィの屋敷の近くの湖にふらふらと歩いてゆき命を断とうとしたらしい。
そして、そんな少年に恋をし手に入れたのが、現在の伴侶である夜霧の妖精である。
ジルレイドの伴侶になったその妖精は、決して高位の妖精ではない。
だからこそ、系譜の上位であるノインも含め、きちんと報告を上げた上でジルレイドを手に入れていた。
その方法はなかなかに妖精らしい凄惨さであるし、彼女が入れ物にしてしまった令嬢の家族は、自分の娘が妖精と入れ替わってしまっていることは知らないまま。
真実を知るのは、夫であるジルレイドと人外者達だけである。
だとしても、それでもと心を定め、絶望と苦しみの上に築かれる幸福もあるのだろう。
紆余曲折はあったようだが、二人は互いに望んで夫婦になり、今のジルレイドは誰よりも伴侶を愛している。
その伴侶は、系譜の王であるノインが語らないことまでをジルレイドに教える事はなかったが、ヨエルの中身が真夜中の精霊になっていることなどは、教えられて知っていたらしい。
「だからジルレイド様は、ヨエルがいると様子がおかしかったのですね」
「……………様子がおかしい」
「真面目に落ち込むのはやめていただきたい」
ディアとジルレイドは、あの夜の後からの方が仲良くなったような気がする。
二人は今、夜の食楽の夜会で、久し振りのお喋りを楽しんでいた。
「人ならざる者達とは、不思議なものだな。俺の妻は、どれだけ尋ねても森の異変の原因については何も語ろうとはしなかった。夜の国の王との約定が崩れかけており、森の外から良くないものが忍び寄りつつあるのだということを言わず、もしそれが原因で俺が死んだ場合は、後を追って死ぬつもりだったのだそうだ」
ジルレイドが異変の調査をしていた森には、その後、樹氷の祟りものという恐ろしい怪物が現れた。
ノインとファーシタルの約定が揺らぐことで、そのようなものの侵食が始まっていたらしい。
あのままファーシタルが人間の手に委ねられていたなら、その祟りものが国を滅ぼしただろうというくらいの悪しきものだったのだ。
その怪物を排除したのは、死の精霊のツエヌの配下の者達である。
どのような取引の上で彼が動いたのかは知らないが、ディアと同じように終わりの子であるらしいジルレイドを、実はツエヌは少しだけ気に入っているという。
「フィード様は、人間の中に入ってしまわれたので、妖精としての力は持たないのですよね?」
「ああ。時が来たら早々に入れ物は捨てるつもりでいたらしいが、今は自分の家族を気に入っているらしい。両親が生きている間は、娘のふりをしているつもりなのだそうだ」
そう語るジルレイドの声には隠しようのない愛おしさが滲み、ディアは、彼が見ている美しい女性が、ディルヴィエに挨拶している姿を眺める。
ふわふわに巻いた銀色の髪に可憐な水色の瞳のファーシタル領主夫人は、どこか可憐な印象の女性に見えるものの、怒らせると震える程に怖いのだとか。
「……………ディア、俺は」
「ジルレイド様から、謝罪をいただこうとは思っておりません。あの夜の私は、あなたに罪がなくとも、えいっと諸共滅ぼした筈なのです。なので、ジルレイド様……………ジルレイドは、この恐ろしい人間の災いから逃れられて良かったと思っていて下さい。それはつまり、奥様があなたを守ったからこそ得られたものなのでしょう」
ジルレイドの伴侶であるフィードからは、ジルレイドが、まだ幼いディアが生き残っているのにもかかわらず、自分だけが死の国に逃げ出してゆこうとしていたことを今も恥じていると聞かされていた。
(困った方だわ。あの頃のジルレイド様はまだ十歳だったのに………)
またフィードからは、王宮に迎え入れられたディアにはノインの魔術の証跡があったので、ジルレイドが近付かないようにあれこれ暗躍したとも告白されている。
これは、系譜の王がディアを生かすのか殺すのかの意向も判明していなかった頃なので、ディアの側の事情でジルレイドが損なわれては堪らないと思ったからなのだとか。
だって、王が人間の事情なんて考慮せずに、約束を破ったジラスフィ諸共に障り、あなたを破滅させて遊ぶつもりだったらジルレイドが危ないでしょと言われ、それは確かにそうだなと考えたディアも納得の理由である。
(そして私は、どうしてもまだ、ジルレイド様という呼び方をしてしまうわ…………。早く敬称を外した呼び方に慣れないと………)
「…………ところで、………ずっと気になっていたのだが、夜の王が現れなければ、どのようにして復讐をするつもりだったのだ?」
「直接手を下す方法は、私がえいっと踏み出した瞬間に護衛騎士に滅ぼされて終わりますし、馬を華麗に扱う事もとうとう出来ませんでした」
「ああ。あの乗馬技術はいっそ奇妙な程だ。なぜ、鞍に乗せておくと落ちるのか分からない」
「…………ぐぬう。であればと、私に使われた雪水仙の蜜の毒を集め、お城の井戸に放り込む事も考えていました。読書用の遮蔽眼鏡で陽光を集めて水を蒸発させ、残った不純物を小瓶に集めていたりもしましたね」
「…………酷い効率の低さだな」
「……………はい。途中で嫌になりました。他の毒をと思ったのですが、バルコニーの植木鉢であれこれ品種改良した結果、珍しい白薔薇は咲いたのですが、毒草は育てられず………」
「……………そうか。あの白薔薇はそのような理由で………」
「他にも、外周の森を燃やせば、死の精霊さんが国の中に入れるかなと考えたりも………」
顔を上げると、ディア達が二人でいることに気付いたノインが、慌ててこちらにやって来るのが見えた。
大好きな夜の国の王様の姿に、ディアは思わず微笑みを深めてしまう。
(……………その他の人達がどうなったのかを、私は知らないのだ)
元婚約者のことも、国王夫妻や宰相や将軍が今はどうしているのかも、ディアは興味がなかった。
ディアの復讐は、あの舞踏会に人外者達の災いを呼び込むまで。
それ以降の管理はノインに任せており、ジルレイドも彼らのその後については語らない。
ただ、本物のファーシタル国王が既に故人になっていた事には驚かされた。
ジラスフィの粛清の指揮をリカルドが執った背景には、当時の彼がファーシタル王に最も近しい立場であったからという事情があったのだ。
ディアの知る国王は亡くなった王の従弟で、とは言え、十三年にも渡りその秘密を分け合った王妃とは名実共に伴侶になっていたらしい。
(瓜二つだからとその場凌ぎの代理王となったその方を、これだけの期間王として据え置かねばならなかっただけの理由も、あの王宮にはあったのだろう。前国王様の従兄弟の方を王とし続けた議会や諸侯達にとって、リカルド様は、最後まで王に相応しいとは思えない方だったのだろうか)
本物の王の崩御は、ジラスフィの粛清の三日前のことで、その原因や、崩御が国民に隠された理由は謎のままだ。
だがディアは、もしかするとその伯父の死そのものが、最初の粛清だったのかもしれないと考えてみる事もある。
(でも、それはもう私にとっては関係のない事なのだ………)
ノインから、先王の死に纏わる真実や、リカルドがその後どうなったのかを知りたいかと尋ねられた事もあるが、その時のディアは、翌日からノインと出かける予定だったアンシュライド旅行の準備に夢中だったので首を振った。
星の降る流星雨の夜の砂漠のオアシスや、海の上にある不思議な島の温泉地。
大聖堂の影の中に現れる駅から向かう、こちら側の世界ではない場所の列車の旅。
ディアはもう、どこにでも行けた。
ノインがいて、その他の大切な人達が沢山いて、どこにいても寂しくはなかった。
だが、その度にひたりと立ち止まり自分の心の中を覗き込むと、いつかの夜のディアがこちらを見ていて、それでも私は復讐をするわと微笑んでいる。
そんなかつての自分に静かに頷き、ディアはこう答えるのだ。
「……………今はとても幸せだから、それでいいの」
「何だ?また、妙な騒ぎを起こすなよ」
「……………ぐるるる」
「ったく。この夜会が終わった後でも食べる余裕があれば、夜苺のタルトを焼いてやる」
「まぁ!ノインは、何て素敵な婚約者なのでしょう。これはもう、逃げ出さないように捕まえておかなければいけませんね」
ディアがそう言うと、そっと手を伸ばして婚約者を抱き寄せた夜の国の王様は、淡く艶やかに微笑んだ。
「それならば、俺は俺の約定に祝福を足しておこう」
「……………しふしく」
「一向に慣れないのは、呪いか何かなのか………?」
少しだけ遠い目をしたものの、ノインはふっと身を屈めると、ディアの唇に柔らかな口づけを一つ落とした。
それはまるで、安らかな夜のように。
そして、あの幼い日に見た夢のような舞踏会の夜の続きの煌めきのように、ディアを、ふくふくと満たし満腹にするものだった。
「……………お腹がいっぱいです」
それは、ディアとノインだけの秘密の言葉。
とびきり幸せな時にだけ使えるその言葉は、お気に入りの首飾りの薔薇にそっと触れ、呟くのがいいだろう。
本編完結となります。
最後までディアのお話にお付き合いいただき、有難うございました。
また、執筆中の誤字報告なども含め、ここまで作品の連載にお力添えいただきましたこと、心より感謝申し上げます。
(作品の中でのオノマトペとの繋がりや、登場人物の心境の表現、文章の視覚的な柔らかさを出す為に敢えて平仮名表記にしている事があります。そのような箇所は、修正なしとさせていただきました)
ひとまず、こちらで完結とさせていただきますが、近いうちに、番外編のお話を追加させていただきますね。
2020.01.19 桜瀬彩香




