ディアと最後の舞踏会
見回した大広間には、大勢の人達がいた。
その事実に少しだけ慄き、けれども決心は変わってはくれなかった。
月の光のような淡い黄色のドレスのマリエッタの姿も見えたが、リカルドはなぜかディアをエスコートしたままで、それは最後の質問の答えが出されていないからだろうかとディアは内心首を傾げる。
適当な言葉で濁すこともなく、リカルドはまだ何かを考えているようだ。
そしてそんな第一王子と元婚約者の不思議な組み合わせに、大広間に集まったファーシタルの貴族達はどこか困惑したような空気になる。
「ディア、これを」
「有難うございます」
侍従が銀のお盆に載せて運んできた葡萄酒のグラスを取り、リカルドがそれを渡してくれる。
よく見ればそれを運んできてくれたのは侍従長で、本来なら給仕のような役回りは彼の仕事ではない筈だ。
念には念を入れてその手配をしたのだと、あらためて理解させられる一幕であった。
二人が歩いてきたのは、本日の主賓が舞踏会の開始を宣言する王族の区画だ。
この大広間は艶やかな青緑色の森の魔術を宿した結晶をふんだんに使い、施された彫刻は精緻で美しい。
泉の魔術結晶の大きな窓にかけられたカーテンは雪のように白く、かつてこの王宮を訪れた異国の外交官が、これだけの白を恐れなく扱えるのはこの国だけだろうと呟いたもの。
深い深い森の色と白の配色に、ディアはファーシタルの森を思った。
ディアが知る森は王家の直轄地の狩り場だけだが、ジルレイド王子が調査を続けているハイドラターツの方は、木々の枝葉に黄色みが混ざり、まるで違う様相なのだそうだ。
広間の入り口ではまだ、舞踏会に訪れた貴族達の家名の呼び上げが続いている。
随分と距離は離れているが、家名を呼ばれた者達は入り口から国王夫妻に挨拶をし、この呼び上げが終わり全ての招待客が広間に揃ってから漸く舞踏会が始まるのだった。
その合間にちらちらと、国王夫妻が不安げにディア達を見ている。
恐らくだが、本来はもうリカルドはディアの傍を離れているべきなのではないだろうか。
だが、リカルドはそんな両親に視線で何かを伝えたようで、そのままディアの隣に留まった。
(……………あ、)
ふと、リカルドがしきりに指の動きを気にしているような素振りを見せる。
ディアは自分のドレスの妖精の刺繍について思い出したが、知らん振りをした。
「私が君を生かしたのは、君が生きてこの王宮にやって来たからだ」
不躾に第一王子を見ている訳にもいかずに人々の視線が外れると、リカルドがそう切り出した。
ディアはここで続けるのかと瞠目してしまったが、もう二度とその機会はないのだ。
最後だからこそリカルドも、その問いに真摯に答えようとしてくれるのかもしれない。
「……………私を保護したのは、王宮の騎士だったと伺っています。それは命令ではなかったのですか?」
「私は、全員をと命じたつもりだった。けれどもなぜか騎士達は、王宮に戻ってくると、誇らしげに君を保護したと私に言ったのだ。さもそう命じられていたかのように君を王宮に連れ帰った騎士達を見て私は、……………やはりジラスフィ家の人間には我々には見えない守護があるのだろうかと考えた」
「だから、………なのですか?」
「そう。……………だからだ。おまけにその翌日になると、陛下や母上も、王子の中から誰かが婚約者になって君を守るべきだと言う。必ず全員を殺すようにと私の肩を叩いた宰相や将軍達までも」
(……………その時のリカルド様は、まだ十六歳で)
自ら指揮を執ったにせよ、戦ごとなどのなかった平和な国の王子が一人で背負うにはあまりにも重たい期待ではないだろうか。
(そうか。……………この人なのだ)
あの嵐の日の粛清の指揮を取ったのがリカルドだと知り、ディアは震えそうになった指先を握り締めた。
まだ、国王や宰相の指揮によるものであれば良かった。
軍部や教会や、それこそリカルドでさえなければどれだけ良かったことか。
「私が君を生かしたのは、君が、あの一族の者だからこそ生き延びたのかを知る為だ。この魔術の希薄な国にも人ならざる者がいて、その何某かの意思が働くのであれば、私はそのようなものが在るべきものとして、国を治めなければならない」
婚約者として最も手厚い庇護を与えながら、リカルドはディアを観察し続けていたのだろう。
毎日、毎日、この子供は何かに守られているのだろうかと訝しみ、あの夜の国の王の治める森を開拓出来るかどうかの指標として。
国の在り方を大きく変えた訳ではないのだから、いずれまたいつか、森を崩さなければならないような困窮は訪れる。
平和な時代が続くからこそ、かつて森から切り出した畑だけでは足りなくなるだろう。
その時にまた、森を切り拓けるかどうか。
ディアは、それを測る為の道具として生かされたのだった。
「……………だが、私はやはり無知だったのだろう。君を通すことでしか、人ならざる者達の意思を測れなかった。ディア、これこそが呪いの顛末だ。我々が、災いにより恩寵を失った人間だからこそ、このような顛末になった」
「……………あなたはやはり、そうしていつでも王様なのですね」
そう微笑んだディアに、リカルドは困惑したように目を瞠った。
青い青い瞳だ。
婚約者として、そして小さなディアを抱き上げてくれた人の従姉妹として。
ディアは、リカルドのその青い瞳を、睫毛の影にすら触れられそうな距離から覗き込んだ事が何回もある。
「だから私はいつも、そのように振る舞うあなたを憎む時に、自分の事しか考えていないこの身勝手さは、なんと惨めなのだろうと思っていました。あなたは私の諦観を憎んだと話しておられましたが、その時だって、あなたは公人として私を見ていたのでしょう。そんな方に対し、どのような心を返せというのでしょう」
そう答えたディアに、ぐらりとリカルドの体が揺れ、最後の招待客を迎え入れた大広間の人々がさざめいた。
先程まで真っ直ぐに立っていたリカルドは、なぜか迷子になった子供のような目をしてこちらを見ている。
奏でられる音楽は途切れなかったが、今や、大広間の人々の殆どがこちらを見ているような気がした。
「ディア、……………私は君を、それでも愛していたよ。君を手放すしかなく、妻として慈しむことは出来なかった愛でも、それでも君を愛していた」
そう告げた美しい王子は、なんて堂々としているのだろう。
殺そうとしている相手にそう告げる事は残酷でしかないが、それでもリカルドは、ディアとは違う、人間としての守るべきものを得て、愛するべきものも持つ人だ。
復讐ばかりにお腹を空かせた哀れなディアとは、こんなにも違う。
それが悲しくて悲しくて、ディアはぎゅっと指先を握り込み、それでも最後だから微笑もうと思った。
これから成すことがどれだけ人間の倫理を外れるのだとしても、ディアにはノインがいるから、微笑もうと思った。
「リカルド様、……………私は、あなたをお慕いした事は一度もありませんでした」
だからディアがきっぱりとそう言えば、リカルドは途方に暮れたようにこちらを見る。
青い青い瞳を瞠り、困惑したようにこちらを見ている美しい王子は、どこか無防備で寄る辺なくすら感じてしまい、ディアの心を掻き毟る。
「あなたも、この王宮の方々も。どなたも。…………私はとても強欲なので、それでも愛そうとしてきたのです。誰かを大切に思う行為は、普通の人間であれば誰もが持っている贅沢さで、私もそれが欲しかった。私を生かして甘やかす為に、何とか喪ったものを忘れ、あなた方を愛そうとしました。…………けれどもそれはとうとう出来ませんでした。あなた方はやはり、優しくて大好きな、けれども私の愛するものを全て壊してしまった大嫌いな人達なのです」
「……………ディア?」
リカルドがあの日の事を認めたのは、ディアが、その傷を飲み込んで忘れてしまったと思うからだ。
王宮で育てられ、ここでぬくぬくと過ごしていたから、その仕打ちを知った上であの夜にあった事を受け入れたと思ったからだ。
あの夜の苦しみが、ディアにとってそんなものだったのだと、そう思うからではないか。
(私がこの場所にしがみ付いて生きて来たのは、あなた方への報復の手段を得られずにいたから。そしてここで死ぬのは、やっとあなた方に報いる手段を見付けたからだ)
ディア達の応酬から不穏な気配を察したのか、王と王妃が僅かに立ち上がるような仕草を見せ、いっそう不安げにこちらを見ている。
彼等よりも早くに、ディアが何を言おうとしているかを理解したのは、抜け目なく近くに立っていた宰相や将軍だったかもしれない。
その眼差しには、焦燥と諦観があったが、同時にディア一人くらいは容易く黙らせられるという自信のようなものも窺えた。
グラスを持ったまま、訝しげに視線を巡らせた第三王子や第一王女に、眉を顰めてディアを冷ややかに見据えた貴族達。
剣に手をかけることはなかったが、騎士達は注意深くこちらを見ており、ディアが不審な動きをすれば躊躇わずに剣を抜くのは間違いない。
そしてそうなれば、勿論ディアには防ぐ術もないのだ。
僅かに痛ましげな目でこちらを見た者は、もしかすると、ディアの手にしたグラスに毒が入っていることを知っているのかもしれない。
あれは輪の外側のものだと見つめる瞳の多さに、信仰の上でも異端だと弾き出された最後のジラスフィの孤独にひりつく心をぎゅっと抱き締める。
(リカルド様はもう、私がこのグラスに口をつける事はないだろうと考えているかもしれない…………)
でもディアは、最初からずっと、グラスの中の葡萄酒を飲み干してしまうつもりだった。
(今度はもう、助からないだろう)
ディアが、この国に指標として必要とされていた時間は終わった。
彼等はディアを殺し、やはりこの地には人ならざる者達の恩寵も災いもなく、森は人間のものだったと納得するのだろう。
ディアが死んでも何もなければ、早々に森は切り拓かれ、また新しい農地になる。
(……………ノインは言った)
あと一つ。
最後の一つだと。
次に自分のものに手をかけた時には、身の程を弁えないこの国など、滅ぼしてしまうだろうと。
(だから私は、ここで見事に死んでみせよう)
ディアが消えれば、森の開拓を躊躇っていた理由はなくなり、夜の王の警告を知る者もいなくなる。
その後でこの国がどうなろうと、それはもう、ディアの知った事ではない。
(……………ファーシタル)
それは、呪わしく愛おしく、ディアの大好きな美しい国。
けれど、魔術に愛されなかったファーシタルの民達が、人ならざる者達をおとぎ話に葬ったように、ディアだって、自分を大切にしないものなどいらないのだ。
ディアの大切な家族と、ディアの大切なディアを殺そうとする者達を愛するような慈しみ深さは、どうしてもやはり、ディアという人間の中には芽生えなかった。
だからディアは、朗々と声を張った。
少しでも多くの人たちに、この哀れな公爵令嬢の顛末が届くように。
無力なこの手ではその喉元を掻き切る事は出来なくても、この声がいつか、あなた達は自分で自分を殺したのだと思い知らせるように。
「私は、あなた達が大嫌いです。あなた方はいつだって私にとても優しく、なのだから、私はあなた方に感謝して心を寄せるのは必定だと信じてやまない。そんな自己満足で私を殺してゆくあなた方が、私は嫌いです。私の家族を殺したのであれば、あなた達はあの場で私を殺すべきでした」
「ディア、何を……………!」
「……………母上、ここは私が」
怯えたように立ち上がり、おろおろと周囲を見回した王妃を宥めたのは、リカルドだった。
その表情を見れば、彼はもう、この場でディアが嵐の日の真実について話してしまう事を恐れてはおらず、それがなぜだか悲しかった。
確かに、ここで不自然にディアを黙らせるよりも、その告白の内容を都合よく置き換える方が効果的だ。
きっとリカルドは、ジラスフィ公爵一家の粛清について、この場にいた人々が納得するような理由をつけるだろう。
彼は王族で、ディアの家族は死者だ。
どちらを優先するかくらい、簡単に想像出来る。
ディアがこの直後に死んでしまうのだから、理由付けはもうこんなにも簡単になってしまった。
「ディアラーシュ。………そうだね。君の苦しみを私達はずっと理解出来ていなかったのだろう。だが、もう充分だろう。それ以上の事は、私達と直接話し合うべき事だ。ここで、集まってくれている皆の心を騒がせるべき事ではない」
リカルドの言葉は、とても穏やかだった。
啜り泣きに気付いてそちらを見れば、艶やかな篝火色のドレスを纏った王妃が椅子から立ち上がった場所に座り込むようにして泣いていて、ディアの心をまた少し殺してゆく。
大広間は、いつの間にか静まり返っていた。
人々は固唾を飲んでディア達の様子を窺っており、そこには、ずっと王宮から出ずに暮らしてきたディアの味方は一人もいなかった。
挨拶の後に談笑をしたことのある貴族達は、皆リカルドのお客や友人だった。
不安に囁き合うご婦人達や少女達は、王妃や王女達の友人達ばかりで、ディアが個人的に誰かとの友情を育むことがないよう、周到なほどに環境が制限されていたことがこんな時に実感出来てしまう。
(ああ、……………)
ディアはこの国で生まれて育った。
それなのに、こんなにも自分には何もないのかと思えば、胸を引き裂かれるような惨めさが募った。
あと少しで死んでしまうのに、その死を悼んで欲しい人すらここにはいないなんて。
「ディアラーシュ、私はずっと、あなたを我が子のように愛してきました。でも、それでは足りなかったのね。…………もっと早く、あなたの孤独を知るべきだった」
「いいえ、王妃様。私は確かに孤独でしたが、理解し合う為の時間を得られずにあなた方を愛せなかったのではありません。私はただ、………そう出来なかっただけなのです」
ディアのその言葉を、蹲りさめざめと泣きながら王妃は聞いていた。
国王はそんな王妃の肩を抱き、まったく理不尽なことに、悲しむ伴侶を守らんとしている。
なぜ。
なぜ。
そんな風に人を愛せるのに、なぜ、自分の弟家族は殺してしまえたのか。
よく切れる磨き抜かれた鋏でぱちんとリボンを切り落とすように、兄さんはとても優秀で格好いいんだぞと笑っていた弟を、話し合いもせずに殺してしまったのか。
ディアの家族は一つだけで、それを取られてしまったら他にはもうないのに、どうしてそんな酷いことをしたのか。
(あなた達は、なんて理不尽で図々しく、愛情深く優しくて、なんと呪わしいことか…………)
それとこれは違うのだと、彼らは言うだろう。
人間はとても身勝手な生き物なのだから、勿論、彼らがそう言うのも当然かもしれない。
けれども、だとすればディアとて、同じ事を認めて貰いたいのだ。
それとこれは違うのだと。
それでも、どうしてもディアはどこにも行けなかったのだと。
「……………ディアラーシュ。私達は、あなたを慈しんできたわ。それは罪滅ぼしと言えば、そうかもしれない。けれども、本当の娘のように愛してきたではありませんか」
「……………王妃様。それは、愛したからこそ愛されるべきだと、仰っているのですか?」
「………っ、わたくしは………」
「……………きっと、私はとても弱く愚かな人間なので、そんな風に慈しんで下さった皆様のこと、とても大切にも思うのでしょう」
「では………!」
ぱっと穏やかな美貌に安堵の微笑みを浮かべた王妃に、ディアはわあっと声を上げて泣きたくなった。
こんなに美しく、そして悲しい最後の夜まで、とうとうこの人達はディアラーシュという人間の輪郭すら知ってはくれなかった。
いらない苦労などしたくないので、疎まれない為に余分な言動は差し控えたとは言え、ディアは自分である事を隠して生きていた訳ではない。
それなのに、どうしてそんな風に嬉しそうにこちらを見るのだろう。
(まるで……………やはり思い通りだったと言わんばかりに……………)
この人間が、ただひたすらに復讐を杖に歩いてきたとは思わなかったのだろうか。
「あなた方はいつも優しく、私にとっての大切な方々でした。それがどれだけ理不尽で、残酷な事かは私にしか分からない事なのかもしれません。………ただ、そうして大切に思うからこそ、どうしてそんな人達が、もう一人ぼっちで何も出来ない筈の私さえをも殺すと決めてしまったのだろうかと途方に暮れることは、おかしなことでしょうか?」
「……………ディアラーシュ」
ひび割れた声に、ディアは淡く微笑んだ。
困りましたねというように、もう取り返しはつかないのだと示すように。
知っている事を知られてしまえば、もう二度と同じ場所には帰れない。
時折、綺麗な首飾りやドレスを見せてくれるあたたかな微笑みの王妃様や、立派な馬や鷹を見せてくれる王様と、これからもずっと一緒に暮らせるのかなと思えた日々は粉々になってしまった。
あなたに似合うからと宝石のついた飾り櫛をくれたり、私達は姉妹のようなものねと優しく頭を撫でてくれた王女達から、素敵な騎士の話を聞くこともない。
だけどディアは泣かなかった。
ここ迄と決めた所迄は、自分の足で歩いてゆくと決めたのだ。
この大広間に集まった貴族達や騎士達の全てが、ディアの敵だとしても、一人ぼっちでその最後の幕を引く。
それが、ディアラーシュという愛する全てを毟り取られた哀れな人間の最後の矜持である。
こんな無様な顛末しか描けないのだとしても、ディアにだって矜持があるのだ。
凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据える。
ディアが約束通りにこの復讐を果たせば、あの美しい夜の王様が契約を果たしてくれる。
ディアの父親の忠告は真実だったのだと。
あの深く豊かな森には、確かに人ならざる者達が暮らしていたのだと人々に示してくれるだろう。
「私の報復はここまでです。私は、決してあなた達を許さなかった。ファーシタルの民をここに閉じ込めた誰かのように、私があなた方を許さなかったという事がどういう事なのかを、あなた方はいずれ知るでしょう。心を尽くし、この国を守ろうとしてきた私の家族が、どのようなものからあなた方を守ってきたのかを。…………お別れです。皆様。私はあなた方の思い望んだ通りに、ここから退場いたしましょう」
ディアは微笑んだ。
婉然と、そしてやっとこの厄介なディアラーシュという人間の人生を放り出せる幸福に。
(ずっと、どこか遠くへ行きたかった。自由になって、伸び伸びと美しいものを見てみたかった……………)
でもそれは、亡霊になれば叶う事。
ディアは、もし死の国に行く事になったとしても、死者の日にファーシタルになんて向かわない。
これ迄に行けなかった、この世界のあちこちを見るのだ。
もし、ディアに差し出されたノインの手すらも災いの内で、死んでも尚、どこまでも一人きりなのだとしても。
「ディア!!」
そう叫んだのは誰だろう。
手に持っていたグラスを取り落とし、初めて見る泣きそうな顔でディアの手からグラスを奪おうとしたのは。
けれどもディアは躊躇わなかった。
グラスに唇を付け、場違いなくらいに朗らかに泡をたてている葡萄酒を一気に飲み干した。
ふわりと濃密に香るのは雪水仙の香り。
清廉な味わいの筈の葡萄酒は、吐き気がする程に甘かった。
わぁっと声を上げて叫んだのは、リカルドだったのだろうか。
それを茫然と見つめる国王夫妻や貴族達に、へなへなと座り込んだマリエッタの姿。
頼むから吐き出してくれと懇願するかつての婚約者を突き飛ばし、ディアは一度だけしっかりと立った。
ディアに手を伸ばしたリカルドの指先の表皮が、ぴしりと石になった。
それでもこちらに手を伸ばしたリカルドを自分達の側に引き戻そうと、その腕を掴んだのは将軍だった。
まるで、決してディアに触れさせまいとするかのように、リカルドをそちら側に引き寄せる。
(……………ああ、)
あの、美しい夜の宮殿で、夜を宿した魔術の結晶石と雪の祝福石の素晴らしいシャンデリアを見上げていた幼い日。
父や母に連れられて向かったのは、ジラスフィ公爵家が千年もの贖罪として参じ続けた、夜を治める王様の宮殿だ。
祝祭の夜にそこを訪ね、我々は今も変わらず臣下であると伝える事で、ジラスフィは人知れずこの国の咎人達の罪を和らげてきた。
それなのに、この国の人々は、そんな事さえも蓋をして忘れてしまったのだ。
(私の王子様……………)
涙に滲む視界に揺れるシャンデリアの煌めきが、あの夜のようにゆらゆらと揺れる。
ぐらりと傾いだ体は、このまま受け止める者もなく、冷たい石の床に叩きつけられるだろう。
それくらいの仕打ちが、一族が守り続けてきたこの国を滅ぼすディアには相応しい。
「……………っ、あ」
けれども、ディアの体はそのまま床石に叩きつけられることはなかった。
どさりと落ちたのは誰かの腕の中で、ディアはどうしてだか泣きたいくらいに懐かしく感じるいい匂いに、胸が潰れそうになる。
「………幕引きだ。思っていた以上に、吐き気がするような舞台だったな。お前の幕引きは最悪だが、お前を殺した者達を破滅させるには、これ以上の罪もあるまい。……………ディア、対価は貰っていくぞ」
震える程に美しく、そして恐ろしい程に優しく微笑んだのは、ディアの大好きなノインだった。
見た事がないような黒い装束には、人間の手には不可能な程の精緻な刺繍や装飾があり、ありとあらゆる色を宿しながらも漆黒の一色で。
毒の影響か視界が霞む瞳にその姿は、ただひたすらに美しかった。
美しくて美しくて、涙が出そうだった。
「……………ノイン」
ディアが最期の言葉を彼に伝えようとしたその時、がしゃんと音がして、騎士の誰かが床に崩れ落ちた。
はっとそちらを見たディアは、よろめき、床に崩れ落ちて蹲ったリカルドの片手が、ざあっと砂になって砕け散るのを見てしまう。
それを見て、わあっと声を上げて逃げ出そうとした誰かが、足から砂になって崩れ落ち動かなくなる。
近くにいた将軍が喉を掻き毟ってのたうち回ると、そのまま砂の山になった。
それでいて、大広間は静まり返っていた。
静謐な水面に落とした雫が波紋を広げてゆくように、恐怖と崩壊がどこまでもどこまでも広がってゆく。
殆どの者達は、逃げるということを思い出す前にその波に呑まれ、恐怖の表情のままに砂になってしまう。
どこまでも。どこまでも。
王座の前の国王と王妃も、決してディアを傷付けはしなかった王女も、ディアに深々と頭を下げたマリエッタも。
瞬き程の間に、全てが砂になった。
そしてなぜか、毒を呷った筈のディアだけが、ノインの腕の中で目を瞠ってその光景を見ていた。
気付けば、賑やかだった大広間が空っぽになっていた。
王妃の篝火色のドレスと、マリエッタの月明かりの色のドレスも、どこにも見えない。
煌々と輝く大広間はうっとりとするような夜の光と雪明りに包まれ、ディアが今迄に見た事もないような不思議な魔術の光がきらきらと立ち昇る。
それはまるで、ファーシタルの人々が夜を切り拓いた明かりが消え失せ、美しい夜の森が再び王の手元に戻ったような美しさであった。
「……………ノイン」
「最低の筋書きだな。お前を野放しにするのは、二度と御免だ」
「………わ、私は、毒を……………」
「精霊から与えられた物をあれだけ食べておいて、自分が、まだ人間の体のままだと思ったのか?」
「………っ、わ、わたしが?」
「そうでなければ、お前の所有値で、擬態を解いた俺に触れられる訳がないだろう。ったく、手間をかけさせやがって」
ぞっとする程に美しく、けれどもとても顔を顰めている人を見て、ディアはやっと理解した。
王はここでは本当の姿を見せないと呟いたあの妖精の言葉の意味と、ノインの本当の姿を。
(……………その色彩が変わることはない)
それでもやはりディルヴィエの言葉通り、光る宝石と光らない宝石は違うのだ。
こちらを見る紫の瞳は魔術の煌めきよりもいっそうに鮮やかさを示し、夜の祝福を掻き集めたような静けさで。
眩しい程に暗く、胸が潰れそうなくらいに美しい。
ノインの腕の中でもぞもぞすると、預けていた体を起こしてそろりと立ち上がり、ディアは、静まり返ってしまった大広間を見回した。
リカルドが蹲っていた場所にも、もう何もなかった。
そこに残された砂の山を見ると胸が締め付けられたが、とは言え復讐を果たした事を後悔はしていない。
「みんな、……………いなくなってしまったのですね」
「俺が姿を現すだけでこうだ。強欲さの罪でファーシタルに追いやられた人間には、相応しい顛末だが…………」
そこで言葉を切ったノインが、ちらりと背後を見る。
そこに立っていたのは肩までの黒髪にスリーピース姿の眼鏡をかけた男性で、咥えた細い煙草から紫煙を燻らせている。
よく見れば美しい面立ちなのだが、それ以上に不穏なものという印象が強い。
同じ人外者でも、ノインやディルヴィエとはどこかが違う気がした。
そんな男性はこちらを見て微笑み、白い手袋に包まれた片手を胸に当てて深々と一礼する。
「ご安心を、夜の食楽の王陛下。あなたの夜の祝福を加えて錬成した幻惑の香炉が、きちんと働いておりますよ。我々は、こちらの商品の開発には自信を持っておりますからね。回り落ちた効果を引き戻しますか?」
「持続と固定はどれくらい可能なんだ?」
「一刻程は可能でしょう。ですが、仮の状態とはいえその間は死んでおりますので、死者達が迷い出ないようにこの広間の入り口は塞いでおきましょうか」
(……………え、)
あの黒髪の男性は誰だろう。
ノインとは面識があるようだし、商人のような口ぶりなのだから、話に聞いた商会を持つ魔物だろうか。
そして、この場に起きた事はどのような手のひらの上なのか、ディアは飲み込めずに目を瞬く。
「この崩壊は夢だ。幻惑の中で起きた現実とも言えるが、目を覚ませば夢に過ぎない。香炉の火を消せば、夢から醒めて立ち返り、崩れ落ちる前の状態に戻る」
「…………では、皆は生きているのですか?」
「夢の中で殺され、その影響が体に出ている状態だな。とは言え、その傷は深く魂に残る。崩壊の苦痛が容易く忘れられる事はないし、死んだ後も普通の死者のように死者の国に引き取られる事はないだろう」
「……………普通の、死者にはなれない」
「ああ。この人間達の魂はここ止まりだ。欠け落ちた者から死ぬが、死後もその魂が本来の丸い形に戻る事はない。幸い、死者の管理が得意な引き取り手がいるからな。そいつに気に入られたなら、屋敷に連れ帰って貰えるかもしれないぞ」
(……………それはまさか、)
ノインが示した方向に、ひっそりと立つ黒いローブ姿の人影が見えた。
誰かに説明されなくても、お腹を抱えて笑っているその人影がファーシタルを呪った死の精霊だと理解してしまい、その歓喜の異質さにぶるりと震える。
それに気付いたノインが、くすりと笑ってディアを腕の中に閉じ込めてくれた。
「安心しろ。全ての契約が満了し、かけておいた全ての橋が繋がった。お前はもう、対価に殆どを取られてこちら側の存在だ。まだ辛うじて人間ではあるが、五十年もすれば完全に俺と同じ真夜中の精霊になる。……………どれだけその仕打ちが呪わしくとも、それがお前の支払う対価だ。取り返しはつかないからな」
「まぁ、私は、ノインと同じものになれるのですか?」
最後の一言は、ディアを怖がらせてみようとしたのだろうか。
だが、ディアが瞳をきらきらさせると、なぜかノインは途方に暮れたようにこちらを見る。
ゴーンゴーンと、どこかで鐘の音が聞こえた。
初めて聞く響きのものだったので、それは、人ならざる者達の側のものだったのかもしれない。
窓の外では雪が降り始めており、楽団員達も皆砂になってしまった筈なのに、どこからともなく優雅な音楽が奏でられ始める。
はっとして壁を見れば、そこには、燭台の明かりに浮かび上がった妖精達の影があった。
これは、妖精達のワルツなのだ。
「……………体には影響はないな?それなら、一曲踊るか」
「………はい。……………あの夜ぶりですね」
「満願成就の夜だからな」
「あら。それは私の言葉なので、今夜は取らないで下さいね」
いつの間にか、大広間にはディルヴィエがいて、ぱちぱちと銀色の光の弾ける見たことのない発泡葡萄酒を綺麗なグラスに注いでいる。
その背中には美しい藍色の羽があり、彼の周囲に立って嬉しそうに微笑んでいる女性の妖精達とは違い、妖精の王族の証だという六枚羽だ。
スカートの裾をつまんでダンスのお相手にお辞儀をしてから、差し出された手を取る。
そこにいるのはディアの大好きな夜の国の王様で、大広間で踊るのは二人だけであった。
そうして、ダンスが始まった。
くるりくるりと回り、その手に抱き寄せられる。
花びらのようにふんわりと広がるスカートに、足先は羽根のように軽い。
見上げた先で微笑んだ紫の瞳の精霊に微笑みを返し、ディアは、胸元で揺れるオーナメントの首飾りがちゃりりと鳴る音に心を弾ませた。
どこまでも。
どこまでも。
これからのディアは、この人と共に行けるのだろうか。
あの夢見るような夜の続きの、ファーシタルの最後の舞踏会の夜に、ディアは大好きな王様と五曲も踊った。
最後は、そろそろ香炉の効果が切れますよと教えてくれた眼鏡の男性の声に、ディアが慌ててぺっとノインを引き剥がし、ディルヴィエの注いでくれた葡萄酒を飲みに行ってしまったことで幕引きとなる。
「まぁ、なんて美味しい葡萄酒でしょう!」
「お前な……………」
「真夜中とリベルフィリアの葡萄酒ですよ。このような夜にこそ相応しいと、ノイン様が昨年から大事に取っておかれていましたから」
「ディルヴィエ!」
遠い目をしたノインが低く呻いたその時、ぱちんと陶器製の道具の蓋を閉めるような音が響いた。
するとそこには、恐ろしい夢から覚めたファーシタルの貴族達が、再びシャンデリアの光が煌々と輝き始めた大広間の中で、茫然とした面持ちで立ち尽くしている。
体が崩れる痛みの苦痛の悍ましさに震えが止まらない者がいれば、座り込んで泣き続けている女性がいる。
剣を抜いて敵を探している騎士達は怯えきっており、国王と王妃は抱き合ってさめざめと泣いていた。
今やもう、誰もが知っていた。
かつて、それを成し得た誰かが捨ててしまった真実が蘇り、自分達が、死の精霊に呪われ、夜の国の王様の温情で何とかこの森の中の小さな国で生き延びた咎人だと理解していた。
けれどももう、約定は違えられ、これから残るのは禁忌に触れた者達に相応しい災いばかり。
床に蹲ったままゆっくりと顔を上げた第一王子が、慌てて元婚約者の姿を探したが、そこにはもう誰もいなかった。




