王妃と婚約者
リベルフィリアの朝は特別な時間だ。
家族はそれぞれに贈り物を交換し、贈り物の話をする。
家々には美しい祝祭飾りのかやの木が立てられ、教会や大きな建物の入り口で焚かれる香炉の煙の匂いと、リベルフィリアのお菓子に使われる林檎と香辛料の独特な甘い香りは、例えようもないふくよかさであった。
ファーシタルでは、扉にかけたリースから一粒だけ赤い実を取り、グラスに注いだ赤葡萄酒に入れて窓辺に置いておく風習があるのだが、今年のディアの部屋にはそれをやってくれる人はいない。
その代わりに、そんな風習を聞いて何の意味もないと顔を顰めたディルヴィエが、ディアが初めて飲むような美味しい紅茶を淹れてくれた。
(……………美味しい!)
初めて飲む紅茶はほろりとした甘さと豊かな香りで、ディアは、淑女のお行儀をぽいと捨てて爪先をぱたぱたさせてしまう。
薄らと霧の這う庭園は、はらはらと雪が降っている溜め息を吐きたい程の美しさで、ディアはその様子を窓から見下ろし、うっとりと眺めていた。
奥には飾り木の上の部分が少しだけ見えていて、奥にある王妃の庭園に繋がる扉には可愛らしいリースがかかっている。
本当なら、リベルフィリアのミサには出られないディアは、この美しい情景をいつ迄でも見ていられた筈だ。
それなのに、よりにもよってこんな時間に、ディアの部屋にはお客が来るという。
「このような時間に訪問があるとは、いささか驚きました。リベルフィリアの贈り物でしょうか」
「…………殺される前日ということになるので、贈り物を惜しまれてしまっても不思議ではないのですが……………」
ディアがそう言えば、ディルヴィエはどこか複雑そうな顔をした。
昨晩にはノインと話すと言っていたのだが、誤解が解けたことで何か変化はあったのだろうか。
王であるノインは、こんな時期だからか何やら忙しくしているようで、ディアは、かやの木の下でディルヴィエと話をしてからあの夜の精霊に会えていない。
(……………でも、思い違いがあったのだとしても、私が約束を破ったことに違いはないのだ。彼等は人間とは違う生き物で、その怒りについても私達とは違うものだと考えた方がいい。おとぎ話を読んでいても、精霊はそうたやすく人間を許す生き物ではないのだから……………)
もし、ディアがあの嵐の夜に彼を呼びつけたりせず、翌年の舞踏会に参加する事が出来ていたら。
そうしたら、二人にはどんな未来があったのだろう。
そんな事を考えると胸が張り裂けそうになるが、元より自分の手で未来を損なったという落胆を抱えて生きてきたこの十三年で、こうして胸を締め付ける鋭い痛みを感じたのは今日ばかりではなかった。
(……………あの舞踏会の日から、随分と遠くまで来てしまったのだわ)
ぽそぽそと歩いてはしくしく痛む胸を押さえ、どこまでも、どこまでも。
ディアの今日まで歩いて来た道には、あの夜と同じようにべったりとした血の靴跡が残っているのだろうか。
(あの、嵐の夜……………)
ごうごうと風が吹きすさび、強い雨が窓を叩いた。
屋敷の壁を伝う木香薔薇の枝が硝子を擦り、立派に育った枝を切るのを不憫がっていた父の笑顔を思い出す。
耳の奥に残るのは、父を殺されて咽び泣く母親の声と、騎士達の重たい剣で、愛する人達がずたずたにされてゆく鈍い音。
悲鳴、絶叫、慟哭。
窓を揺らす風の音に身を竦め、ディアは、まだ温かい血の中で転び、ずっぷりと血に濡れたままの手足を何とか動かして物陰に逃げ込んだところだ。
額からは血がしたたっていたが、大きな剣で横殴りにした使用人の子供が生きているとは思わなかった騎士が、その場を離れてくれたのは幸いだった。
ただ、殴り飛ばされごろごろと転がって暫く気を失っていたディアは、歩くのもやっとの有り様で。
ぜいぜいと荒い息を飲み込み、きらきらとあの舞踏会の王宮のシャンデリアのように輝いていた未来を諦め、ディアは夜の国の王子様に助けを求めた。
名前を知らない彼を呼ぶ為に、どれだけの拙い言葉を尽くしただろう。
それでも、何としてもその人を、ここに呼ばなければならなかった。
(間に合って、間に合って、間に合って……………)
ディアは息が詰まりそうな絶望の中で、囁くようにその人を呼び続け、惨劇が続く我が家の中で、身を隠して震えていた。
大好きな夜の国の王子様と、結婚したかった。
でもディアは、そんな自分のちっぽけな夢よりも、大好きな家族に生きていて欲しかった。
あの王子様にはもう二度と会えなくてもいいから、怒った王子様に殺されてしまってもいいから、世界にたった一人ずつしかいないディアの家族の全員をどうにかして助けて欲しかった。
ぼろぼろと涙が溢れ落ち、吐き出す吐息は熱い。
強く頭を殴られた衝撃の為か、体がぐらぐらと揺れ、隠れている書棚の壁にぶつかりそうだ。
この部屋によろよろと逃げて来たディアを見付けたのは、傷だらけの兄だった。
既にその体は深刻な程に損傷していて、辛うじて動いている人型のもののような有様で、それでも末の妹をここに押し込み、兄は安心させるように微笑んだのだ。
傾いた体で書棚に残った血の跡を拭い、ディアの兄はふらふらとそこから離れる。
ディアを生かす為に、もうきっと目も見えないのに、何とか騎士達の注意を書棚から逸らそうとして、何かを手に持ち、近くにいた騎士に向かって行った。
ずだん。
重たいものが床に倒れる心が凍えるような音に、ディアは、小さな体を震え上がらせる。
それでも何とか身を隠し、家族を助けてくれるかもしれない人を呼ぶまでは、生き延びなければと思った。
けれども、ディアが漸くその人に届く言葉を選べた頃にはもう、ディアが守りたかった家族は、誰一人として生き残っていなかったのだ。
『……………ごめんなさい。ディアは、王子様と……………』
不意にあの日の自分の言葉が蘇り、ディアはぐっと奥歯を噛み締めた。
ああ、そうか、自分はノインに謝ろうとしたのだと、漸く思い出したあの嵐の夜の邂逅にそっと触れる。
ディアは、彼に謝りたかったのだ。
王子様と結婚する筈だったのに、家族を助けて欲しくて呼んでしまってごめんなさいと。
だからどうか、自分はどうなってもいいから、家族を助けて下さいと。
でも、全てが手遅れだと知り、一人ぼっちになってしまったことに気付けば、その先の言葉は上手く続けられなかった。
ぽそりと、また一歩、ディアは前に進む。
王宮での暮らしは拍子抜けするくらいに恵まれていたが、ノインに突き放され、王宮に引き取られたディアのたった一つの杖は、復讐ばかりであった。
生き延びて知恵をつけ、体をもっと大きくするまで。
どんな手段でもいいから、何らかの形で彼等を破滅させる為のその方策を。
水差しに雪水仙の毒を入れられるずっと前から、ディアは、自分の家族を奪った人達を決して許さないと決めていたのだ。
(…………だから私はまず、第一王子妃になろうと思った。その立場や権限で大きなものを損なえる力を手に入れたかった。でも暫くすると、この国の人達が本当に私を王子の妃などにするだろうかと考え、まずは王宮から逃げ出すべきだと考えた事もある……………)
とは言え、毒を盛られる迄のこの王宮の人達は、幼いディアに甘く、困惑してしまうくらいに優しかったと思う。
政治的な理由や思惑などを理解出来なかった子供の内に、その穏やかさで憎しみなど洗い流してしまえば良かったのにと思う人もいるかもしれない。
復讐などやめてしまえと。
でも、あの日のディアは、六歳だった。
たった六歳の子供にとって、世界の殆どは家族で占められていて、それが目の前で無残に奪われたのだ。
それしかないところから始めたディアは結局どこにも行けず、この復讐がどれだけ愚かな事であるのかを知りながらも、だからといって愛を毟り取られた憎しみを捨てられる程に高潔な人間でもない。
他の誰かであればそう思うように、大多数の者達がそうあるべき選択肢を取れるように、ディアは、憎しみを濯ぎ、目隠しをして歩く事はどうしても出来なかった。
(本当は、また会えたノインに、手を伸ばしてみたい。私はまた、あの夜の王子様に恋をしたのだと伝えてみたい……………)
けれど、既に一度約束を破った子供がそんな事をしたら、今度こそ彼は、ディアを許さないだろう。
不相応なものを望んで呪われたファーシタルの民がまた同じ過ちを犯せば、ディアはこの復讐を遂げる前に殺されてしまうかもしれない。
(だから、私がノインに手を伸ばしてみるのは、私が死んでこの復讐が全うされてからでいいのだ)
心置きなく死んだその時にこそ、ディアは好きなだけ自分の願い事を叶える事が出来る。
その為に、こつこつと積み重ねて来た復讐の絵図を辿りながら、必死に必死に、この場にノインを引き止め続けているのだから。
『ディア、……………幸せになるんだよ』
そう呟いた兄の声は、既に喘鳴のようだった。
この世にたった一つしかないディアの宝物だった家族は、決してこんな復讐などは望まないだろう。
ああ、それでもだって、記憶の中で大好きな家族はいつだって幸せそうに微笑むのだ。
その記憶が失われずに残る限り、あの夜にディアが家族を助けられなかったという事実が残る限り、ディアはやはりどこにも行けない。
家族を奪った者達を、ディアの願い事を打ち砕いてしまった人達を、許す事などは出来なかった。
窓の向こうに、はらはらと雪が降る。
清廉な白さでカーテンを下ろして、ちっぽけな人間の愚かな憎しみも覆い隠してくれるように。
(……………リベルフィリアの朝だ)
こうして見ると、やはり世界は美しかった。
こんなに残酷なのに、どうしてだか愛おしく、ディアは最後まで自分だけを愛してくれないこの国がとても好きだった。
こんなに復讐を望みながらも、この美しく閉ざされた国でひたむきに生きている人達を、やはりどこかで愛し続けてもいた。
この体たらくだからこそ、ノインが誤解をし続けていたのも致し方ないのかもしれない。
「ディルヴィエさん?」
「こちらの紅茶はひとまず下げましょう。…………おいでになられたようですね。非公式の訪問ですので、儀礼的なものは簡略化されるそうです。お二人で話していただき、私や護衛の騎士達は、部屋の外で控えていることになるでしょう」
「……………まぁ。未だに不用心なのですね」
「おや、私は高慢だと思いましたが」
ディルヴィエの冷ややかな声に小さく頷き、ディアは、やはりノインだけでなく彼もそう思ってくれるのだということに安堵する。
ずっと不思議だったのだ。
(この王宮の人々は、そうして誰も、私を側に置くことを警戒しないのだ……………)
それは、婚約者になってからは二人きりで会う事も多かったリカルドであり、絵本を読もうかと膝の上に乗せてくれた国王や、こうして無防備にもディアの部屋を訪ねる王妃である。
彼等はいつも、自分達に家族を殺されてしまったディアが、自分達を憎むだろうとは思わない。
国を生かす為に、ジラスフィ公爵家の家族とその屋敷内にいた使用人の全てを殺すくらいの覚悟を持った人達なのだ。
ディアがあの日の真実を知る筈がないと考えているにせよ、その懸念を持てばもう少し対応も変わるだろう。
それなのに、さっぱり警戒されぬまま、ここまで来てしまったらしい。
(ジラスフィ派を取り込むまでは私をリカルド様の婚約者として扱ってきたのだとしても、王族と臣下には相応しい距離がある…………)
その距離を無防備に超えてのけるのだから、本当に何の懸念もないのだと気付いた時には衝撃であった。
大事に慈しんだ子供は、家族を殺されても自分達を愛するだろうと信じているのだろうか。
彼等にとってのディアはそんなもので、ディアにとっての家族はその程度のものだと、そう思っているのだろうか。
あまりの侮辱にずきりと痛んだ胸に、ディアは小さな溜め息を吐いた。
(でも、こんな時に一人でなくて良かった…………)
ディルヴィエがいなければ、ディアはどんな気分でこの祝祭の朝を過ごしていたのだろう。
大好きなリベルフィリアのその最後の朝に、どんな思いでこの部屋にいたのだろう。
「おいでになられました」
天井が高く広い王宮の廊下は寒い。
だが、王妃の訪問ともあれば、ディアは部屋の扉を開けて待っていなければならなかった。
やがて、廊下の向こうにこちらに向かう王妃一行が見えてくれば、隙なく盛装で身なりを整え、深々と頭を下げてその訪れを待つ。
ゆったりとした歩みを待つ時間は、腰が折れるかなというくらいに長い時間であったが、今迄のディアには免除されていただけで、このように礼を尽くすのが臣下の定めである。
「まぁ、ディア。そんなに畏まらなくてもいいのよ?あの子との婚約がなくなっても、あなたは私達の家族なのですから。それとね、今日はマリエッタも一緒なの。この後のミサでは、一緒にリベルフィリアの朝のミサに出るのよ」
顔を上げ、微笑んでその言葉に応えながら、さらさらと体中の血が足元に落ちてゆくようだ。
にこにこと花のように微笑む美しい王妃は、まるで悲しいことなど何もないような朗らかさだ。
輪の中から弾き出されたディアには、その幸福そうな微笑みがやはり堪えた。
「ディアラーシュ様、このような時間に私までお邪魔させていただき、ご迷惑ではないといいのですが」
「いいえ、とんでもございません。本来であれば、私が本棟にお伺いするべきだったのです。それを、こちらの棟まで訪ねていただくお気遣いをいただき、有難うございます」
「まぁ、いいのよそんなこと。あちらは、舞踏会の準備で騒々しくしているし、私達はミサに向かう道中にこちらに寄るだけですもの。せっかくのリベルフィリアの朝に起こされてしまったのだから、その上であなたがわざわざ遠くまで歩いてくることなんてありませんよ。ごめんなさいね、ディア。今日は、どうしてもこの時間しか取れなかったの」
少女のように微笑んだ王妃に、ディアは、上手に微笑めているのだろうか。
もう何もすることのないディアとは違い、王族やその縁者達は忙しいのが祝祭だ。
朝昼晩の教会でのミサに顔を出し、それぞれの食事の席はいつもよりも賑やかになる。
数えきれない程の人達からのカードを従僕が読み上げるのを聞き、山のような贈り物を受け取り、親しい人達との贈り物の交換もせねばならない。
(なんて幸せそうで、不公平で、どうしてあなた達がまだ持っているものが、私の手の中にはないのだろう……………)
ひび割れて、研ぎ澄まされて、心の中は冴え冴えと澄み渡ってゆく。
折り重なって色を無くした水面は限りなく澄明になり、貼り付けた微笑みはいつからか自然に動くようになった。
王妃は、ミサの前にディアの顔を見に来たのだという。
贈り物などは持っておらず、その話題に触れることもない。
ハルフィリアの日の昼食会の話や、正式な婚約発表とお披露目を控えたリカルドの衣装選びの話、そんな家族の時間のあれこれを面白おかしく話してくれる王妃は、同じ側に立ってさえいれば、何とも可愛らしい女性なのだと思う。
こうして向き合えばやはり、その薄情さは悪意ではなく、その朗らかさにも翳りはなかった。
彼女にとってのディアが、息子の婚約者ではなくなり、家族から臣下に戻っただけのこと。
明日には殺されてしまうのだと知ってかける慈悲が、この訪問での労いなのかもしれなかった。
「…………ふふ。そうなのよ!あの方は、私には緑柱石が似合うと言って聞かなくて、この通りなの」
「国王様は、王妃様が愛おしくて仕方ないのですわ。私も、そのように大事にされる女性になりたいものです」
「あら、マリエッタは大丈夫ですよ。あのリカルドの幸せそうな顔を見ていたら、誰だってそう言うでしょう。ねぇ、ディア」
王妃と侯爵令嬢は美しかった。
甘やかで可憐で、幸せそうで自信に満ちている二人を対岸から見つめ、ああこの人たちは自分を恐れないのだというやるせなさの一方で、ディアは、そんな二人のしたたかな強さを尊敬もしていた。
多分、彼女達の欲しいものや居場所は間違っていなくて、そのような形で満たされるのが真っ当なのだ。
そうして伸びやかに輝く美しさが、背筋を伸ばしていようと思ったディアに、お前が怪物なのだと知らしめるかのようで、この上なく惨めな気分にさせた。
「まぁ、もうこんな時間なのね。マリエッタ、そろそろ行きましょうか。ディア、もっとお喋りをしていたいのだけど、これっぽっちしかご一緒出来なくてごめんなさいね」
「いえ、リベルフィリアの朝に盛装姿の王妃様とマリエッタ様にお会い出来るなんて、何だか贅沢者になった気分です。お立ち寄りいただき、有難うございました」
「ふふ、そんな事を言われたら嬉しくなってしまうわ。……………あら、マリエッタ?」
「王妃様、ディアラーシュ様と、少しだけ二人で話をしても宜しいですか?教会までゆっくり歩いていただければ、すぐに追いつきますわ」
「あら、…………そうねぇ。私は構わないけれど」
やっと帰っていただけるぞという喜びも虚しく、新しい婚約者殿はディアに話があるようだ。
互いの関係を踏まえてもいい予感などする筈もなく、ディアは、微笑んだまま地団太を踏みたくなる。
ディルヴィエの美味しい紅茶を、まだ飲んでいたかった。
せっかくのリベルフィリアの朝の清廉な光を浴びた庭も、あと少しと窓から眺めて楽しむ前に、既に光の変化で色合いを変え始めていた。
輪の外側に追いやられてくしゃりと潰されてしまうよりも、そんな事がなぜだか我慢ならない。
聞き分けのない悲しさと悔しさを丁寧に丁寧に折りたたんで心の中に押し込め、ディアは、そろそろ厄介なものを押し込むだけの部屋の空きがなくなってしまったことに慄くばかり。
その怖さを押し隠して、ディアは部屋に残ったマリエッタと向かい合う。
「……………ディアラーシュ様、こうして二人きりでお話をするのは初めてですわね」
少しだけ困惑したように一人で部屋を出た王妃を見送り、マリエッタがゆっくりとこちらを振り返る。
未来の王妃の護衛についたのは、以前、リカルドがこの部屋に来ると必ず伴っていたあの騎士だ。
二人だけで話したいのだと言われた騎士は扉の外で待つことになり、先程は許されて部屋の壁際に控えていたディルヴィエも隣室に下がった。
ゆっくりとこちらを振り返った侯爵令嬢は、穏やかな日の霧雨のような銀色の髪をしていて、淡い緑色の瞳が何とも艶やかで美しい。
溌溂とした笑顔と鋭い舌鋒を持つこの女性を、ディアは、彼女がリカルドの婚約者になる前からずっと好ましく妬ましく見ていたものだ。
「はい。こうして二人でお話をする機会は、今までにはありませんでしたね。……………残っていただいたのは、リカルド殿下の事でしょうか?」
「ふふ、リカルドは今でもあなたの事を、危なっかしくて放っておけない妹のように話すのですよ。ディアラーシュ様は、こんなにもしっかりしている方ですのに」
「きっと、初めてお会いした時の身長差が、あまりにも衝撃的だったのでしょう。こうして立派に育った今は釈然としませんが、あの方にとってはいつまでも子供のようなものなのかもしれません」
じっとディアの瞳を覗き込み、マリエッタは淡く微笑んだようだ。
雨に濡れた新緑の葉の色の瞳は生き生きとした喜びを知る人のもので、ディアのぼんやりとした淡い青紫色の瞳とはまるで違う。
(……………おや?)
ふと、そう考えた自分に、ディアの中に奇妙な違和感が残る。
だが確かに、ディアはそのような色の瞳をしているのだった。
瞳の色なのだ。
他の色だった筈もない。
「あの方が、あまりにもそう信じていらっしゃるので、私はずっと、ディアラーシュ様はリカルドのことを恋慕っているのだと思ってきましたの」
「今は、そうは思われていないのですね」
「……………ええ。あなたはやはり、リカルド様に私のような想いを向けている方ではありませんでした。まったく、あの方も困ったものね。可愛いディアラーシュ様からの微笑みにすっかり舞い上がってしまって、男として想われていると思い込むだなんて」
呆れたように微笑んでみせながらも、マリエッタの瞳には、両手で掬い上げられそうな程の豊かな愛情が垣間見えた。
ディアですら、こんな女性に愛される人は幸せだろうと思えてしまうくらい、くるんと持ち上がった綺麗な睫毛を持つご令嬢は、愛を惜しみなく与える人であるらしい。
冬のドレスらしいしっかりとした天鵞絨地のドレスは淡くけぶるような檸檬色で、瞳と同じ色の糸で施された冬薔薇の刺繍が、これからのこの女性の瑞々しい喜びを暗示するよう。
それでいて上品さも兼ね備えているのだから、このドレスを作った仕立て屋はさぞかし腕がいいのだろう。
そしてここで、マリエッタはすっと瞳を眇めた。
「……………ディアラーシュ様。私は、後悔はいたしませんわ。あなたを見定め、こうしてお話が出来ることを光栄に思います。それを理解し、そして飲み込んで下さる方であることを、私は生涯忘れはしないでしょう」
(……………あ、)
その言葉が何を意味するものか。
その答えは一つしかない。
「マリエッタ様。あなたにはあなたの幸福があり、それは殿下と並び立つのに相応しいものなのだと思います。…………後悔をして欲しいとは思いません。ただ、私が別の在り方をしていれば、あなたとはもっと色々な事をお話ししてみたかったとは思います」
「私は、あなたの未来を絶つでしょう」
そうきっぱりと告げた萌黄色の瞳の令嬢に、ディアは、どのような理解の仕方であれ、マリエッタは、ディアがいずれ殺されることを理解しているのだなと思った。
それでいてこんなにも真っ直ぐにこの目を見るのだから、彼女こそがやはり、第一王子の伴侶に相応しい人なのだ。
「……………かもしれません」
「それを理解し、私はそれでもとリカルドを望みました。私の大事な幼馴染で、たった一人の愛しい人を、あなたという悪しき因習の枷から解き放って差し上げたかった。……………誤解を恐れずに言わせて下さるのなら、私はそう考えているのです」
「それは、………この国の古い成り立ちに由縁することを指していらっしゃいますか?」
「ええ。古く形骸化した重たく悲しいもの。その為に我が国の民たちは困窮し、豊かな森を眺めてお腹を空かせてきました。あなた達がどれだけ善良であれ、国を滅ぼす棘というものも、確かにあるのです」
「私はやはりジラスフィの娘ですので、そうですねと同意して差し上げる事は出来ません。ですが、……………どうかもう、それ以上は誠実であろうとなされなくてもいいのです。マリエッタ様、私は私であることを変えられません。ですから、感心するあまり思わず頷いてしまうようなお言葉をいただくと困ってしまうのです」
ディアがそう言えば、マリエッタは目を瞠り、困ったような泣き出しそうな目をすると、すぐにそれを消し去り、しっかりと頷いた。
「……………あなたに、お礼とお詫びがしたかった。ですがこれは、自己満足を満たす為の、私の我が儘でした。……………ディアラーシュ様、こんな惨い事を口走る私を、どうぞ許して下さいね。……………どうかご安心なされて下さい。この国はこれからもっと豊かになるでしょう。深い森に覆い隠され、光の差さなかった場所にも陽が当たるようになります。あなたがこの十三年間支えて下さった殿下を、これからは私が支えて参りますことを、約束いたしましょう」
既に、立場としてはマリエッタの方が上位である。
まだ婚約者という立場ではあるものの、事実上、第一王子妃になることが決まっている女性だ。
ディアとの長い婚約期間を経ての再婚約であることを受け、二人の婚約期間は最短で設定されており、ファーシタルの第一王子とマリエッタ侯爵令嬢は、半年後に成婚予定だった。
しかしそんな侯爵令嬢は今、腰を折って、ディアに深々と頭を下げてくれている。
それがマリエッタなりのけじめであるのならば、ディアは静かに受け入れるしかなかった。
それでもマリエッタはディアが殺されることを良しとするし、ディアが家族の復讐を諦めることはない。
そのような互いの覚悟の中で、こうして向かい合う時間があったばかりだ。
顔を上げた時にはもう、マリエッタの微笑みは揺らがなかった。
心内はどうであれ、彼女の中でディアの事は終わったのだ。
だからディアも、今度は臣下の礼に戻り、部屋を出てゆく第一王子の婚約者を見送る。
「やれやれ、やっと帰りましたか」
「……………このお茶は何のお茶なのです?」
「夜露と夜霧の紅茶ですよ。お疲れでしょうから、薔薇ジャムを入れてどうぞ」
「まぁ!薔薇ジャムが、きらきらしています……………」
「ええ。夜の雫が入っておりますからね。気分を落ち着かせるのには、夜の系譜のものが宜しいでしょう」
「……………はい。有難うございます」
ディルヴィエは窓を少し開けると、カーテンを上手に少しだけ下ろし、外からはディアが見えないようにして雪の降る祝祭の庭の鑑賞をさせてくれた。
不思議な事に窓を開けているのに冷たい空気は入り込まず、はらはらと降る雪は物語の美しさで、軋んでいた心を落ち着けてくれる。
「このジャムは、妖精さんの国のものなのですか?」
「いえ、ノイン様の手作りですよ」
「……………ジャムを」
「ええ。そのような事には凝られる方ですからね」
「……………やはり、しっかり呪おうとされてるのです?」
「そういう事ではございませんよ。ですが、その説明はご本人からなされるでしょう。……………一刻も早く、その時の為の準備が終われば良いのですが、………ここはファーシタルという贖罪の土地で、今は魔術的に危ういものも残っております。もう少々お待ち下さいね」
ディアは、妖精が用意してくれた朝食をいただき、祝祭の朝を静かに過ごした。
贈り物は一つもなかったが、魔法のジャムを入れた紅茶があって美しい妖精の従僕がいれば、上々のリベルフィリアを取り戻せたと言えるのかもしれない。




