かやの木と前夜祭
ハルフィリアの夜になった。
ディアはふくふくとした穏やかな気持ちで、中庭にある祝祭飾りでいっぱいの大きな木を見上げている。
大きなかやの木には、たくさんのオーナメントが吊り下げられ、防火処理をした枝を燃やさないように氷の魔術の結晶石の覆いをかけて、ぼうっと淡く輝く魔術の火を灯した蝋燭が飾られる。
大きな木の先端に取り付けられているのは、星屑のように明るく輝く魔術の祝福を宿した石だ。
魔術の殆どない土地でも明るく輝く美しい結晶石を見上げていると、ディアは物語の中に追いやられてしまった不可思議な生き物達のことを思った。
この国の人々の魔術が呪いで宝石にされてしまったのなら、あの光る石の中には、誰かから奪われた別の人生の可能性が閉じ込められているのかもしれない。
ディアから少し離れた場所には、ディルヴィエがひっそりと立っている。
女性のように華奢な妖精は、黒い燕尾服と騎士服の中間のような装いで、人間の目にはどこか儚く映ってしまうものの彼は妖精なのだ。
いざとなれば、人間くらい簡単に引き裂いてしまうと知れば、ディアは目を丸くするばかりであった。
身長はノインより少し低いくらいではあるものの、男性としては線が細いせいか威圧感がない。
ディアは、柔らかい外見に見合わず辛辣な部分もあるこの妖精が、すっかり大好きになってしまっていた。
飾り木の下から見上げる美しい夜の色は黒紫色の艶やかさで、雪は止んでいる。
夜空を彩る星々の煌めきに、ディアは妖精の刺繍はこのようなものなのだろうかと考えた。
降り積もったばかりの雪はふっくらと輝くようで、けれども妖精の目から見れば光りもしない面白みのない雪であるらしい。
「雪の妖精さんや精霊さんもいるのですか?」
「ええ。そのどちらも美しい者達です。とは言え、人間の国の戦火に巻き込まれ、雪の妖精の王族はもう一人を残すだけになってしまいました」
ディルヴィエの声は静かだったが、ディアは、この美しい妖精がどこかで人間を憎んでいる気がして、そっとその背中を撫でてやれない人間でしかない己の手を悲しく思う。
清廉な雪景色を知っているからこそ、それを司る者達が炎に殺されたと思い描けることは、あまりにも惨い。
「……………あなたの大切な方も、そのような目に遭ったことがあるのでしょうか?」
「さて、どうでしょう。ですが、もしそうだとしても私が美しい雪景色を厭うことはありません。愛しい者の面影を愛しこそすれ、その思い出が棘になることはない」
その言葉に滲んだ僅かばかりの軽蔑に、ディアは、見事な祝祭飾りの木の向こうの壮麗な王宮を思った。
ディアが両親達と訪れた夜の王族の方々の王宮とは違う、あくまでも人間の領域の王宮は、ディルヴィエから見れば貧相なものなのかもしれない。
だが、それでもディアにとっては広すぎる場所だった。
一人で生きるにはやはりあまりにも広くて、こうして誰かが側にいてくれる慣れない温度に胸が潰れそうになる。
「人間は、……………時として棘になるのかもしれません。あまりの悲しさに、目を瞑って顔を逸らし、見なかったことにしてしまう人達も多いのです」
「それは、さぞかし生き難いことでしょう。だからこそ身を滅ぼすのかもしれませんがね」
ひゅおるると風が吹き、飾り木にかけられた硝子のオーナメントをしゃりんと揺らした。
魔術の火は激しく揺れたが、しっかりと守られているので消えてしまうことはない。
だが、あまりにも雪が降れば消えてしまうだろう。
消えることなく明るく輝く祝福石ばかりを飾れる王国から追いやられ、蝋燭の火を飾った最初の者達の寂しさは、どれほどのものだったのか。
喪われたものを愛さずにいる為に、自分達の世界から殺してしまった人達について考え、ディアはその思考をぽいっと投げ捨ててしまった。
手の中のものを空っぽにされたディアからしてみれば、彼等は絶望ですら贅沢で、胸がむかむかしたのだ。
顔も知らない過去の人達の苦悩など、ディアの知った事ではない。
身勝手な人間は、自分が傷付けられた事ばかりをけっして許さないのだった。
「……………私は、この祝祭飾りしか知りませんが、それでもこの季節が大好きです。魔術の豊かな土地でのリベルフィリアは、きっと夢のように美しいのでしょうね」
「人間の土地であれば、やはりアンシュライドのリベルフィリアに勝るものはないでしょう。この国の人間達がかつて住んでいたマリアダも、最盛期の祝祭は美しかったが、趣きとしては華美さに偏り過ぎていました」
「……………マリアダ」
初めて聞く国名であった。
ディアはゆっくりと頷き、そこはどのような国だったのかと考える。
妖精達や竜達がいたのだろうか。
魔物や精霊達は、その国でどのように過ごしていたのだろう。
「それでも眩く、美しいところなのでしょうね。そしてきっと、あなた方のような人ならざる方達が大勢いたのでしょう」
「マリアダという国は、今はもうありません。それもまた失われたものになってしまいました。それと、誤解しているようですからお伝えしますと、ノイン様程の階位の精霊は、人間の前に姿を現すこと自体が稀な事なのですからね」
「……………そうなのですか?」
ディアの知る精霊は、ふらりと食事を持って現れる生き物なので、外の国の人達ともなれば、人ならざるもの達の王宮などに遊びに行ったりも出来るのだろうと思っていたディアは、それを聞いて驚いてしまった。
だが、精霊には精霊の世界の層があり、そもそも、系譜や種族の違う者達の交流自体が稀なのだと教えられると、そうあって然るべきだとあらためて納得する。
ディアとて、ムクモゴリスの巣を知らない。
違う種族であるというのは、そういう事なのだ。
「あの方の本来のお姿は、どの王にも劣らない程に美しいのですよ。夜の王座に座り、己の資質を睥睨する王は、それはそれは美しい」
「まぁ、今のノインもとても綺麗だと思うのですが、もっとなのですか?」
ディルヴィエにとって、ノインは自慢の王であるようだ。
得意げに話す様子が微笑ましく、また、このようなお喋りが出来る相手がいる事が嬉しい。
わくわくしながら問いかけ、ディアは記憶の中の舞踏会で出会ったノインを思い出す。
(確かに、髪の色はもっと白に近くて、そして短かったような気がする。私が見た時には、顔にかかる髪は全て纏めてしまって、宝石の小枝を編んだ王冠のようなもので固定していたから随分と印象は違うかもしれない…………)
ゆったりとした王様のようなローブにはゆらゆらとした光を宿す不思議な宝石飾りがあり、まだ子供だったディアには、豪奢だが華美には見えない得も言われぬ美しさだったとしか表現の出来ない盛装姿は、髪を下ろしている時より瞳の印象がきつく見えるノインにとても似合っていた。
「あなたの見ているあの方は、暗闇で光らない宝石のようなもの。本来の美しさはやはり、夜の領域の中でこそと言えるでしょう。特に、祝祭の夜のお姿ともなれば、多くの高位の方を見てきた私でも言葉にならない程です」
「…………今度のリベルフィリアでは、そのような姿は見せてくれないのでしょうか?一度だけ、冬至の日のノインの姿を見たのですが、それはそれは綺麗で。またあのような姿を見てみたいです」
大きなシャンデリアの下で踊っていた王子様の姿を思い出したディアが思わずそう言えば、なぜか、ディルヴィエは僅かに憐れむような目をこちらに向けた。
その眼差しにぴくりと震えたディアの心に、続けられた妖精の言葉は研ぎ澄まされたナイフのようであった。
「残念ですが、それは難しいでしょう。ここは、そのような国ですからね」
それはまるで、線を引いたそちら側へは入れないぞと言われたようだった。
線の向こう側のきらきらと輝く美しい場所を望み、そちら側には入れないままに焦がれ続けるディアもやはり、ファーシタルの民としての運命を背負っている。
あの方を望んではいけないよと教えてくれた父の言葉が胸の中に蘇り、ディアは、その響きを抱いたまま静かに立ち尽くしていた。
(ああ、…………始まりの魔術師のように、私も花を贈ることが出来れば良かった)
それなのに、幼いディアはあの嵐の夜に全く違う言葉でその手を求めるしかなく、それは彼を喜ばせないものであった。
せっかく彼が手を伸ばしてくれたのに、約束を果たしもせずに家族を助けて下さいと願ってしまったから願いは叶わず、たった一度限りの、それも許されてもいなかった願い事をその場で使い果たしてしまった人間は何もかもを無くしてしまった。
年に一度だけ、ジラスフィ公爵家の者達が、臣下の役割を果たしに訪れる夜を治める国の舞踏会で、ディアはその人に出会った。
目を閉じれば何度でも思い浮かべる事が出来る、ディアの心の中で特等に美しいもの。
それはいつだって、あの夜の思い出なのだ。
父が、王座に座る真夜中の王の縁者なのだと教えてくれた人は、人間は食べてはいけない精霊の御馳走を前に項垂れていたディアの頭を撫でてくれた優しい王子様。
またおいでと言ってくれたその王子様に手を引かれて、ままごとのような不格好なダンスを踊ったあの夜。
小さな心に可能などれだけの思いで、ディアはその人を大好きでいたことだろう。
夜の国の王様が出て来るだけでもう、あの絵本が宝物になってしまい、毎日のように読んでいた。
(すっかり忘れてしまっていたけれど、私は、ジルレイド殿下にもその話をしたのだろう……………)
王宮に引き取られる迄は面識のなかったリカルドとは違い、ディアの姉と仲の良かったジルレイドは、頻繁にジラスフィの屋敷を訪れていた。
あの頃の自分のはしゃぎようと思えば、どこかであの舞踏会の話をしてしまったのだろう。
それはもしかしたら、幼いディアなりの、自分には大好きな人がいるのだぞという自慢だったのかもしれない。
だからこそジルレイドは、ハイドラターツの森の異変に人ならざるものの意思を感じ、ディアから何かを聞けないかと部屋を訪ねたのだとしたら。
政治的な駆け引きなどには向かないものの、彼もまた聡明な王子だ。
異変の原因として人外者の存在を指摘したものの周囲の反応が鈍く、こちらに相談を持ち掛けてきたような気もする。
まさか、あの部屋にいたヨエルが夜の国の王そのものだとは知らず、あの瞬間の彼は、誰よりも森の異変の真相の近くにいたのだろう。
(ジルレイド殿下は、……………怖いものや悲しいものに蓋をしない方なのではないだろうか。森の異変を見て人ならざる者達の気配を感じられたのなら、そしてその問題から目を逸らさずに私に会いに来てくれたのなら、もしかすると、私が災いを成した後に残るこの国の希望は、ジルレイド殿下こそになるのかもしれない……………)
自分が齎したものを退ける人がいるのかもしれないと思う事は、どこか釈然としないものであるし、いささか複雑でもある。
だが、もしそうなった場合、ディアの災いに打ち勝つのが大好きだった姉が思い続けたジルレイドであるとすれば、少しだけ運命というものの善良さを感じられるような気もした。
「……………ディア様」
祝祭飾りのかやの木を見上げていたディアに、ディルヴィエの声が掛かった。
警戒を促すような低い声に、ディアはさっと表情を整え背筋を伸ばす。
程なくして、誰かがそっと隣に並び立ち、ディアはそちらに顔を向けた。
「やあ、かやの木鑑賞かい?」
そこに立っていたのは、深緑色の艶やかな盛装姿のリカルドで、青い瞳を細めて優しく微笑む。
ちらりと彼の奥を見れば、外回廊の柱のところには新しい婚約者であるマリエッタ侯爵令嬢と護衛の騎士達がいて、どこか不安げにこちらを見ている。
「……………リカルド殿下。良い夜ですね」
「ああ。ハルフィリアのミサが終わったばかりなんだ。私達も、少しだけ敬虔な気持ちで、かやの木を見てみようということになってね。……………ああ、彼が、侍女達の代わりに君の傍仕えになった者だね」
そう言われれば、そういう事になっているのだろう。
ディアは、ディルヴィエの方をちらりと見たリカルドに小さく頷く。
「優秀だと聞いているけれど、女性の手を借りられないということは不便でもあるね。何かあれば母上が侍女を貸して下さるそうだから、困ったら相談してみなさい」
「はい。そうさせていただきますね」
ここでディアが返すのは、臣下の礼だ。
もう隣に並び立つ存在ではなくなったのだから、ディアとリカルドの間には、超えようもない大きな線引きがある。
王族と臣下。
殺すと決めた者と、殺される者。
(……………でも、私はあなたになど殺されはしないわ)
それは、大切な大切なディアの秘密。
このファーシタルの王家に隠した、最後のジラスフィの秘密だった。
二日後の舞踏会でディアに直接手を下すのは彼だとしても、最後にディアを殺すのは、やはり最愛の人でなければ。
リカルドがその手でディアのグラスに毒を注ぐのだとしても、ディアを最後に殺すのは、それを見届ける夜の国の王様なのだから。
(……………そしてもし、あなたが……………)
小さな囁きが胸の中に落ち、ディアはぎくりとした。
胸の底に押し込めた筈の願い事が、閉めた筈の扉の隙間から頑固な枝葉を伸ばしている。
もしかしたらと残した小さな希望で、ノインと再会してからのこの三年間、叶えばいいのにと思いながら諦め続けた可哀想な願い事は、やはり今も枯れてはくれないらしい。
とは言え、このような場面で触れてもいい願いではなかった。
この願い事に触れると、どうしてもディアの心は揺れてしまうし、僅かな感情の揺らぎを見逃す程、リカルドは凡庸な王子ではない。
「……………ディア、長い間よく私を支えてくれたね」
「まぁ、ここで殿下にしんみりされてしまうと、何だかややこしいことになりますよ?」
やはりその変化を見逃さなかった王子に、ディアは顔を顰めそうになった。
ただでさえリカルドは、ディアが与えられ続けている毒で苦しみ、弱気になっていると信じているのだ。
計画通りに運ばなくなるような疑念も抱かれたくないが、彼を喜ばせるような反応も奪われてはならない。
最後にその手を振り払い彼等に報復する際に、それが、選ばれなかった事への報復だと思われては堪らないではないか。
舞踏会の日にディアが齎らすものは、ディアがとうとう逃れられなかったあの日の憎しみを晴らす為の復讐で、リカルドを振り向かせる為のものではなく、ディア自身の心を軽くする為だけに行うものだ。
「はは、そうかもしれない。だが、君にはきちんと、これまでの感謝を伝えておかなければいけないと思ったんだ。私では君の願い事を叶えてあげられなかったが、……………きっと君には、君だけの王子が現れるよ」
「……………王子、様でしょうか?」
「おや、忘れてしまったのかい?この王宮に来たばかりの頃の六歳の君は、宰相に婚約者が決まったと伝えられた時、舞踏会でダンスを踊った王子でなければ嫌だと可愛らしくむくれてみたそうだよ。………その話を聞いた私は、小さな従姉妹があの夜の事を覚えていてくれたのだと嬉しかったのだけれどね」
それはまったく想定外の返答であったので、ディアは目をぱちぱちさせた。
勝手に、小さな子供の微笑ましい恋の話のようにされているが、どこかでリカルドと踊ったのだとしてもその記憶はディアの中にさっぱり残っていない。
ディアが踊ったことを覚えているのは、大人たちの目を盗んで精霊の料理を盗み食いしようとした子供に苦笑し、ディアが食べられるものをこっそり用意してくれた優しい夜の国の王子様だけなのだ。
「……………私は、子供の頃に、リカルド様とも踊った事があったのですね」
「……………ん?あれ、もしかしてそれは私ではないのかな?」
「……………ええ。その、……………お騒がせしました?」
しんと落ちたのは沈黙で、こんな時に限って風も吹かずかやの木の下は静謐に包まれている。
何とも言えない空気になり、ディアは、このような場合はどうすればいいのか分からずにぺこりと頭を下げた。
考え込む様子を見せたリカルドが、という事はまさかジルレイドだったのかなと首を傾げているので、慌てて絵本の中に出てくる国の王子様だったのですよと誤魔化したものの、うっかりそう言ってしまったせいで今度は後ろを見られなくなってしまった。
(……………ディルヴィエさんの存在を、すっかり忘れていたなんて……………!!)
小さく呻きたいのを堪えてにっこり微笑めば、何だか微塵もしんみりしなかった空気に耐え切れなくなったらしく、では良いハルフィリアをねといういっそ清々しい程に残念な挨拶を残し、リカルドも立ち去ってしまう。
この状況下でよくもそんな事が言えたなという気持ちもあるが、ディアは、まずは背後から迫ってくる足音を警戒しよう。
「……………ディア様」
「……………はい。………っ、ディルヴィエさん、ち、近いです!!」
名前を呼ばれて振り返ると、振り返った勢いで激突しそうな場所に、ディルヴィエが立っていた。
慌てて離れたディアは、なぜかがしりと腕を掴まれて拘束されてしまう。
「私は何か、誤った情報を王から聞いていたような気がします。あなたが子供の頃から思いを寄せていたのが、あの能無…………この国の第一王子なのではなかったのですか?……………ああ、音の魔術を展開しておりますので、そのままお答え下さい」
「私が、……………リカルド様を?」
「ええ。王はそう仰っておりましたよ。婚約破棄をされても尚、あの人間に無様に心を残しているようだと」
「ええと、……………そもそも、ノインがどこでそのような認識をしたのかすら分かりませんが、リカルド様と私の婚約は、あの方が、私という駒を押さえたに過ぎない契約ですし、私としても、致し方なく寄る辺のない王宮で保護者を持ったというような感じのものでした。確かに私は、こんな目に遭ってもあの方を心底憎むという感じでもありませんが、それはあくまでも、従兄弟として与えてくれた優しさに返すものばかりなのです」
あまりにも真顔で問いかけられ、よく分からない危機感に追い詰められたディアは、つい本音を伝えてしまった。
話してしまってから、ディルヴィエがあちら側に通じていた場合を考えて少しだけひやりとしたが、まさか妖精である彼が、その手の話題を嫌う第一王子派の間諜という事もないだろう。
どうしてだか、この妖精には心を許してしまうのだ。
そう考えかけてふと、妖精の資質は浸食であることを思い出した。
「……………では、あなたが子供の頃から夢中だったという王子は、誰なのです?」
「そ、その、ちょっぴり個人的で繊細な乙女の心模様な問題になってきますので、返答を差し控えさせていただきます」
「今はそのような恥じらいは捨てて下さい。で、誰なんですか?」
「す、少しも傷つきやすい乙女の心情を慮ってくれず、もの凄くぐいぐい来るのはなぜなのです…………?!」
「あなたは先程、絵本に出てくる王子だと話していましたね。……………ですが、かつてはノイン様本人にも、王子様と結婚する筈だったのに叶わなくなったのだと泣きながら話したそうではないですか。であれば、それは実在する人物だと考えるのが妥当でしょう」
(……………え?!)
またしてもさっぱり身に覚えのない事を指摘され、ディアは呆然とした。
リカルドの勘違いはさて置き、さすがに、ノインにそんな事を言った事はない筈だ。
というより、登場人物の役割的にそれを彼に言うのはさすがにおかしい。
「そ、そのお話を詳しく聞かせて下さい!!さっぱり記憶にない出来事ですし、多大な誤解が生じています!!」
「……………あなたの情報で、絵本に纏わるものといえば、あの第二王子の訪問の際にそのような言及がありましたか。……………確か、ジラスフィの一族の家にあった、夜の国の王について書かれたものだったのでは?」
「……………あの時、ディルヴィエさんはお部屋にはいなかった筈なのに、なぜご存知なのでしょう…………」
「おりましたよ。正確には、こちら側には姿は現しておりませんでしたので、背中合わせになった私達の側からこちらを見ておりました」
あっさりとそんな事を言ったディルヴィエに、ディアは恐怖に震えた。
人外者の感覚は知らないが、人間は、物影からじっと覗かれていたらとても怖いと感じる生き物なのだ。
しかし、あまりの恐怖にふるふるしている人間を見ていたディルヴィエは、このちっぽけな乙女が哀れになったのか、ふわりと表情を緩めるとにっこり微笑んでくれる。
(あ、……………)
羽は見えないのに、羽があるようにという表現も妙だろうか。
もし背中に妖精の羽があるのなら、それを広げてゆったりと姿勢を正すかのようにふわりと髪を揺らし、ディルヴィエは、ディアをしげしげと見つめる。
「ディア様、私の質問に答えていただけますね?」
「……………乙女の秘密というものがありまして……………」
「おや。では、その返答と引き換えに、私もあなたからの質問に一つお答えしましょう。雪水仙の解毒剤についてでも構いませんし、ノイン様がどうして腕を負傷したのかでも構いませんよ。それとも、本日の晩餐に、何か特別なデザートでもお付けしましょうか?」
「デ、デザート……………」
ここで、愚かな人間が目をきらきらさせたのを見て、美しい妖精は、はっとするような艶やかな微笑みを深くした。
「ではこうしましょう。私は、ディア様の質問に一つ答え、そして晩餐には特別なデザートをお付けします」
「はい!…………は?!」
「おや、いいお返事ですね。ではそのように」
心を言葉が裏切る形で、殆ど本能的に頷いてしまったディアは、何が起きたのだろうと呆然と目を瞠った。
ここでディルヴィエの質問に答えても、ディアにはいいことなど一つもない。
寧ろ、暇を持て余して自分を殺そうとしている人を、今も大好きなのだと知られてしまい、いっそうに立場を弱くするばかりだ。
しかし、相手はディアが想像もつかないような程に生きている妖精で、ディアはただの人間だった。
「ディア様が、想われていた王子は誰なのですか?」
「……………むぐぅ。……………ぐぎぎぎ」
「往生際が悪いですよ。妖精との約束を破ると、どのような目に遭うのかを、お教えしましょうか?」
「お子さん達に、内側から食べられてしまうのです……………?」
「いえ。それは、獲物の内側を空にする為の措置ですね。妖精との約束を破った者は、ばらばらに引き裂いてそのどの欠片も生かしておき、小さな箱に詰めて妖精の馬車で引き摺るのですよ」
「……………やくそくはやぶりません」
「或いは、その体を宝石林檎の苗床にし、百年ほどゆっくりと時間をかけ、妖精林檎の苗の根でめりめりと引き裂き続けるという場合もあります」
「すなおにおこたえすることをちかいます」
「宜しい」
ここに、決して逆らってはならない相手がいる事を理解したディアは、そんな妖精の羽を掴んでしまったらしい過去の自分を、がくがくと両手で揺さぶりたい気持ちでいっぱいだった。
そして、一番誰にも知られたくなかった事を、告白しなければならなくなる。
「……………その、……………ノインなのです。小さな頃に、両親に連れられて行った、夜の王様のお城で私と踊ってくれたのは、王子様だった頃のノインなのです」
「……………成る程」
そろりと告白したディアに、なぜかディルヴィエは頭を抱えてしまった。
ローグフィリアのミサが終わったばかりの時間だ。
王宮の中庭とは言え、警備の騎士達や王宮で働く官吏達、もしくは他の王族が通りかかるかもしれない。
ディアは、こんな状態になってしまった人と一緒に居て不審がられないだろうかとはらはらしたが、幸いにも誰かが通りかかる前にディルヴィエは立ち直ってくれた。
「……………念の為にお聞きしますが、なぜあの方を王子だと思ったのですか?」
「お父様から、王座におられる方のご縁者だと教えられました。ご容姿的にも王子様かなと思ったのですが、違ったのですか……………?」
「ノイン様は、真夜中の精霊王の弟君ですよ」
「……………王子様ではなく?」
「ええ。治めるものを持つ階位の方々は、王位を継ぐ子供という存在自体がおりません。予めこの世界の中で司るものが決まっており、その数に見合っただけの者達が、必要だとされた時に派生します。ノイン様の夜の系譜や、……………この国の住人であればご存知でしょうが、死の精霊などもそのように」
(……………そんな)
もし、ノイン本人にディアが王子様の話をしたのだとすれば、ノインからしてみれば、前置きもなく王子様と結婚したかったのだと突然訴えられ、何の話だと憮然とするしかなかっただろう。
また、この王宮に来てからもそんな発言を耳にしたのなら、リカルドに並々ならぬ執着があると勘違いされても仕方ない。
「し、しかし、誰かがノインに向かって、彼は真夜中の子であるというような言葉を口にしていたような気もするのです……………」
「ああ、そのような表現は確かにありますね。夜の系譜の者達は、一人残らず真夜中の王の子供達であるという考え方もありますから」
「……………なんという紛らわしさなのだ」
がくりと項垂れたディアは、またしても何とも言えない空気の中にいた。
間違いを指摘しなかったのだから、父は、ディアが恋をした精霊が王子だと思っていたのだろうか。
或いはディアが、子供らしい憧れで、大好きな人を王子様と呼んでいるとでも思っていたのだろうか。
「……………私は、早急に王と話し合った方が良さそうですね。あの方も誤解されていますよ」
「い、いえ。毒になるようなものを与えるくらいの人間が、そんな小さな頃の口約束を未だに引きずっていると知ったら怖くて堪らないでしょう。是非に、ノインには言わないで下さい」
「……………毒?」
「それとも、呪いや障りと言うべきなのでしょうか。精霊さんの社会では、どのように呼ぶ行為なのかを、私は知らないのですが……………」
「……………どのような行為のことを、そうお考えですか?」
「これは、最近気付いたことなのですが、精霊さんに料理を振る舞われるのは、人間としては良くないことなのではありませんか?……………その、だとしてもノインの食事だけしか美味しく感じられないので、食べること自体は吝かではないのですが……………」
ここでまた、ディルヴィエは頭を抱えてしまった。
それどころか今回は、膝を抱えて雪の積もった地面に蹲ってしまったので、ディアは、この状況を誰かに見られやしないかとまたしてもはらはらする。
やがてディルヴィエは、とても暗い目のままゆっくりと顔を上げた。
「では、あなたは、真夜中の座の舞踏会で、あの方に求婚されたことは覚えておいでなのですね?」
「……………私の花嫁になれば、毎日ご馳走を食べさせてあげるよという言葉ですか?それならば、小さな子供を喜ばせる為に、悪戯に囁いた言葉なのでしょう。ただ、あの時の私にはそれが本物の求婚かどうかの判断がつかなかっただけで」
「全ての言葉には、魔術が宿ります。人間ならいざ知らず、我々が本意ではない求婚をすることはあり得ません」
いやにきっぱりとそう言われ、ディアは無言で首を横に振った。
「よく考えて下さい。……………あの時の私は六歳です。そして、ノインは立派に素敵な男性でしたので、まさかそのようなことを本気で言う筈はありません」
「……………ああ、人間はそのような事でも疑いをかけるのですね。あの方からしてみれば、人間の年齢など、どのような年代であれさして変わりありません。我々にとって人間の成長など瞬き程のもの。特に精霊におきましては、心に留めるものを見付ければ、相手が赤子であろうとも、その場で求婚することはさして珍しくありませんよ」
「……………怖……………」
「ディア様?」
ディルヴィエの言葉をどう受け止めるべきか、ディアの心はまだ上手く機能していなかった。
しかし、素直な人間が素直な感想を漏らしかけてしまったところ、こちらを見ていた妖精がにっこり微笑むので慌てて首を振るしかなかった。
(あの言葉が、本物の求婚だった……………?)
六歳の幼児に真剣の求婚したのだとしたら、戦慄以外の何物でもない。
せいぜい、その時はまだ可愛い子供だと思ってほっこりしていたくらいの真実の方が、どれだけ心に優しかったことだろう。
例え六歳のディアがノインに恋をしていても、ディアがもう一度彼に恋をしたのだとしても、分別の付く年齢になった今のディアにとって、種族性の違いはあれどもその事実は衝撃的であった。
「なお、人間達が精霊から振る舞われる食事を警戒するのは、与えられた食事を食べるという行為が、…………求婚………いえ、あまりにもその精霊に近しくなるからです。一方的に執着し、騙し討ちのような形で望む者を手に入れる精霊も少なくはありませんからね」
「……………ほわ。今、明らかに求婚という言葉が聞こえました」
何という恐ろしい生き物なのだと心の中だけで思い、ディアは、いっそうにふるふるした。
(でも、あの時の言葉が本物の求婚だったのだとしたら、ノインが、私が死ぬ迄のこの舞台をのんびり楽しもうとしているのはなぜなのだろう……………?)
そう考えかけて、ディアははっとした。
父に何度も言われたことであるし、幼いディアだってそう考えた事ではないか。
彼は、約束を交わした人間が、同族の王子に心変わりしたと考えているのだ。
おまけにその宣言は、夜の精霊の王弟殿下を呼びつけた上で行われたと思われる。
(そうだ。……………世の中には、愛情を持っていても殺してしまうという人達がどれだけいるだろう。おとぎ話の中にも、愛するからこそ約束の反故を許さず、相手を殺してしまう人外者がどれだけいるだろう)
人ならざる者達は、約束を破った者を決して許さない。
そして、精霊の報復はもっとも残忍で恐ろしいものなのであるらしい。




