夜の入り口と願い事
それは美しい冬の夜のことだった。
ファーシタルの王宮にある夜菫と霧雨の棟のバルコニーでは、花びらの詰まったふっくらとした白薔薇の蕾がほころび、今まさに花開かんとしていた。
王宮の中でもなぜかここにだけ育った白薔薇は、魔術の貴色である白を宿す希少なものだ。
ふくよかな葉の色は麗しく、首を垂れた蕾には夜露が光る。
かつて、この希少な白薔薇を調べに訪れた魔術師からは冬夜の系譜の薔薇だと聞いており、確かに花が開くのはいつも夜であった。
淡い灰緑色の森の魔術結晶で作られたバルコニーにまでは届かないが、眼下の庭園は霧に包まれている。
まだ空は晴れていて、漆黒の天鵞絨のような夜空に煌めく星々は宝石を撒いたかのよう。
冬の系譜の花々は咲き乱れているが、王宮の庭園には既に雪が積もっていた。
「……………あと数日でリベルフィリアなのに、たった数日すら待ってはいただけなかったのね」
我慢出来ずにぽつりとそう呟くと、孤独と不安に心の奥がざらつくよう。
こくりと喉を鳴らしてその苦痛を飲み込み、無残に見捨てられるということはこんなにも惨めなものなのかと考える。
リベルフィリアは、夜だけでなく冬も長いこの国で、最も華やぐ冬の祝祭の一つだ。
晩秋の収穫祭が終わると、人々は、切り出して来たかやの木に美しいオーナメントを吊るし、家々の扉にミシェルカの赤い実を飾ったリースをかける。
そしてリベルフィリアの当日になると、教会のミサで祝福を貰ってきた蝋燭に火を灯し、家族や親しい者達と共にご馳走を囲んで夜を過ごすのだ。
既に王宮の中庭にはそれはそれは美しく壮麗な飾り木が立てられており、正門前の大きなリースだけではなく、あちこちの扉にも可愛らしい小さなリースがかけられている。
殆どの人々が、贈り物の用意も終わった頃だろう。
そんな、ほんの数日後に訪れる祝祭の日を前に、ディアは突然一人ぼっちになってしまった。
“すまないね、ディア。君との婚約を解消させて貰えるだろうか”
つい先程、ディアはこの国の第一王子に、婚約を破棄されたばかりだ。
あくまでもお互いの同意の下に解消するという体でなされた対話であったが、二人の婚約における魔術の契約が既に断たれてしまっている以上、婚約破棄以外の何ものでもない。
おまけに、十三年もの間ディアの婚約者であり、庇護者だったひとは、既に愛する女性との新たな婚約を決めているというではないか。
二人が出会ったという夜、ディアは体調を崩して寝込んでしまい、婚約者は一人で舞踏会に出かけて行った。
そんな、よりにもよってという日に出会った二人が、王宮の庭園で仲良く並んで歩きながら国境域の防衛について話し合っている様子を見たとき、ディアは、そう遠くない内に婚約者がいなくなる事を知ったのだ。
そう確信した日の事を、どう言葉にすればいいのだろう。
その女性の姿を初めて見たとき、婚約者を奪われてしまうという焦燥感よりも、運命の道行きに傷ひとつない美しく聡明な女性が、笑顔と叡智に相応しい幸運を手に入れゆく事への理不尽さにこそ、胸が痛んだことを覚えている。
(あの人達は、もう沢山のものを持っているのに………)
そうしてまた今夜も、健やかなるものは当然の権利のようにして、ディアの手元から僅かばかりの約束すら毟り取っていってしまう。
家族のいないディアには、リベルフィリアの夜を共に過ごすような人はいない。
これまではずっと、婚約者であるリカルドと共に、彼の家族達と晩餐を囲んでいたその夜を、今年はどう過ごせというのだろう。
勿論、ここが王宮の一画である以上は使用人達が面倒を見てくれるだろうし、今更、他の女性を想う元婚約者と共に過ごしたい訳ではない。
だが、楽しみにしていた美しい祝祭の日を取り上げられたようで、その惨めさに胸が潰れそうになるディアが、どうしてもう少し我慢してくれなかったのだと考えてしまう事くらいは、許されるのではないだろうか。
この歳で子供のようだとは思うが、ディアはリベルフィリアが大好きで、誰かと一緒に美味しい晩餐をいただくくらいの贅沢は、自分にも残されていると思っていたのに。
「ちっとも面白みのない婚約破棄だったな」
その言葉にふうっと溜め息を吐き、ディアはちらりと隣を見た。
どうやら、身寄りもなく婚約破棄をされたばかりの人間にも配慮することなく、不運というものはずかずかと押しかけてくるらしい。
しんしんと冷え込む夜の中で、自室のバルコニーに立つディアの隣には、一人の背の高い男性が立っていた。
はたはたと風に揺れる漆黒のケープは、彼の高貴な騎士めいた装いが人間の領域のものではないのだと主張するかのように、途中から夜闇に溶けている。
緩く巻いた長い水色の髪は、夜霧の祝福石を紡いだように光を孕み、角度によっては淡い菫色にも見えた。
残念ながらこの人物は、婚約破棄されたばかりのディアを案じて訪れた優しい隣人ではなく、手の中のもののことごとくを失ってしまった哀れな人間を観察しに来た、意地悪な人ならざる者である。
こちらを見ると鮮やかな夜紫の瞳を眇め、ふっと唇の端を持ち上げて艶やかに微笑むくせに、その微笑みにはぬくもりの欠片もなかった。
「余興ではないので、我慢して下さい。そして、遊びに来たのだとしても、今夜は構って差し上げる余裕はありませんからね」
「………毎回思うが、お前は、俺を森の獣か何かだとでも思っているのか?」
「愉快な催しはないかなとわざわざ森から遊びに来ているのですから、さしたる違いはないのでは………」
ディアの言葉にどこか遠い目をしてから、美貌の人外者は溜め息を吐いた。
そんな顔をしたいのはこちらなのだと思わないでもなかったが、相手はそもそも人間ではないので、好きにさせておこう。
「それにしても、打ち捨てられる為だけにわざわざ着飾ったのか。人間は酔狂なものだな」
「あの方はこの国の王子で、先程までは、表向きだけとは言え私の婚約者でした。こうして装ったのは、私の立場では必要な事だったからです」
人外者達の暮らしぶりは知らないが、人間の社会には序列がある。
婚約者の訪問が婚約破棄の為だと分かっていても、ディアの立場では、相応しい装いを整えなければいけない。
だが、その為に身に着けたドレスのスカートの裾が衣擦れの音を立てれば、美しいドレスはずしりと重たく、身を苛む災いのように感じられるのも事実だった。
冬の夜風に晒された指先はすっかり冷たくなっていたが、この身を切るような冷たさこそが、不安と失望に濁ってしまう思考を明瞭にしてくれる。
ここから先の残された僅かな時間で、ディアには、やらなければならない事が沢山あった。
「このままいけばお前は、リベルフィリアの翌日に王宮で開かれる舞踏会で、この国の連中に殺されるぞ?」
そう楽しげに笑う人ならざるものの低く甘い声音に、ディアは、かじかんだ指先をきつく握り込んだ。
こちらを見て酷薄な微笑みを浮かべた奇妙な隣人は、ディアのちっぽけな命がくしゃくしゃになったところで微塵も悲しみはしない。
(………それでも、この夜を司る生き物はなんて美しいのだろう)
彼は、この国では夜の国の王と呼ばれる、夜の一端を司る人ならざる者だ。
だからこそ、残酷であればある程に、夜は夜らしい美貌と艶やかさを湛え、冬の縁取りがあるからこそ玲瓏とした輝きで佇んでいる。
そんな特等の生き物をこの位置から見ていられるのはなかなか贅沢なことだが、あまりにも近くにいれば、たった今いらないのだと棄てられたばかりの自分の惨めさも際立った。
(私の手の中は、空っぽになった)
助けてくれる人も、守ってくれる人も、愛してくれる人も寄り添う人もおらず、これから自分はどうするのだろう。
ぐっと目の奥が熱くなり、思案に耽る仕草を装って目を閉じれば、きらきらと輝く大きな夜の魔術の結晶石のシャンデリアの真下で踊る美しい王子様の姿が瞼の裏側に見えた。
広間には着飾った人々が楽しそうに踊っていて、彼もまた、その輪の中心で誰かと踊っていた。
くるくると回る優雅なステップに、ふわりと広がる沢山のドレス。
見上げた天井は信じられないくらいに高く、楽団の奏でる音楽と、乾杯のグラスの中で煌めく宝石のような葡萄酒。
あの時に目を奪われた人のその微笑みを思い出すだけで胸が痛むのだから、ディアはまだ、彼のことが大好きなままなのだろう。
何とも愚かな恋をしたものだと溜め息を吐き、ディアは、こちらの表情から何を汲み取ったものか、ひどく呆れた目をしている人外者からぷいと顔を背けた。
「取り敢えず、………今夜は寝ますね」
「………は?」
「今は、とても疲れていて、惨めな気持ちなのです。………あの方々が私を殺そうとしているのだとしても、まだ数日の猶予はあります。そして、数日しかないからこそ、彼等も今は何もしないでしょう。それならば、今夜はもう寝てしまうに限りますから。寧ろ、このまま起きていてもむかむかしてくるので、寝るしかありません」
「………相変わらず、お前は自分の命に頓着しないな」
そう呟いた相手に、乙女が就寝すると言ったのだからさっさと立ち去り給えという冷ややかな一瞥を向けると、ディアは、心の中でくすりと笑う。
こんなに強欲な人間が、無欲な筈などない。
けれども、心の奥底にしっかりと押し込めてある可哀想な願い事は、ディアだけの秘密なのだった。