お爺さんの謝罪と提案
本日二話目です。
階段から落ちたはずなのに、気が付くと、書斎のような部屋でソファに座っていた。
「申し訳ない」
謝罪の声で、漸く向かいにも人が座っているのに気が付いた。
白髪のお爺さんが、座ったままとはいえ深々と頭を下げている。
背は私と変わらないくらいなのに小さく見えず、年老いているのに若々しいという不思議な印象の人だ。
母の周りには、いわゆる青年実業家という人もいたので、社会的地位の高い人は見慣れている。
このお爺さんは、私が知る誰よりも格の高い人なのだろうなと感じさせられた。
深々と頭を下げていても威厳があって、畏まらなければならないような気持ちにさせられる。
「何を謝っておいでなのでしょう? ここはどこですか? 私は階段から落ちたはずなのですが……」
派手に階段から落ちたはずなのに、体のどこも痛くない。
それに、あれだけじくじくと痛んでいた心も、今は和らいでいるように思う。
もしかしたら、驚き過ぎて、感覚が少し鈍くなっているのかもしれない。
「最初から説明しよう。落ち着いて聞いてほしい。階段から落ちた其方は、本来ならば踊り場まで落ちて、怪我だけで済むはずだった。だが、階段から其方が落ちた時、偶然にも儂が通りかかり、ぶつかって弾いてしまったのだ。その結果、手すりを飛び越えて7階から地上まで落ちてしまい、其方は死亡した。しかも、ありえない軌道で下に落ちたために、完全な事故であったのに、自殺と誤解されてしまった。儂は其方を殺してしまっただけでなく、人としての尊厳までも傷つけてしまった」
申し訳なさそうにしながらも、淡々と経緯を語るお爺さんを見ながら、他人事のように話を聞いた。
私、死んだの……?
落ちた瞬間までしか覚えていないから、死んだと言われても簡単には納得できない。
しかも、確かに何かに体が弾かれたような気はしたけれど、このお爺さんとぶつかった記憶はない。
信じ切れずに呆然としていると、お爺さんはまた深々と頭を下げて謝罪した。
「本当に申し訳ない。代わりと言っては何だが、儂にできる限りの償いをさせてほしい。同じ体に生き返らせることはできないが、儂の管理している世界に転生させたり、転移させたりすることはできる。何か希望があるのなら、教えてほしい」
このお爺さんが反省していて、何やらお詫びをしたいのはわかった。
けれど、転生とか転移とかって、何?
図書館のライトノベルのタイトルやあらすじで、異世界転生という言葉を見たことはあるけれど、その手の小説を読んだことはない。
たくさんの本が並んでいたから、流行っているんだなぁとは思ったけれど、大学に入ってからは課題やバイトで忙しくて、そういった本を読む機会はなかった。
大学受験を機にやめたものもあったけれど、いくつかの習い事は続けていたので、それらにも時間を取られてもいた。
将来のためにと、資格取得もしていたので、今までの努力が全部無駄になってしまったのだと思うと、心が折れそうになる。
母に振り回され、周囲に気を使って、疲れることの多い人生だった。
大学を卒業したら就職して一人暮らしをして、母とは違う生き方をするのだと、それを目標に頑張っていたから、すべてが無駄になったとわかり、ごっそりと気力を持っていかれてしまった。
そんな私に希望と言われても、何も思いつかない。
「…………引き籠りたい」
一つだけ頭に浮かんで、小さく呟いた。
人里離れた場所で自給自足の生活をしながら、誰ともかかわらず生きていきたい。そんなことを思ったけれど、でも、それが現実的でないことはわかっている。
自給自足なんて、言うほど簡単なことじゃない。
ベランダの家庭菜園と観葉植物の手入れくらいしかしたことがないのに、自分で生きていけるだけの作物を育てられるとは思えないし、何より、魚はともかく、肉を自力で手に入れるのは無理だ。
動物を捕まえて殺すことも解体することも、私には厳しいだろう。
調味料だって一から作れないとなれば、どうしても定期的に購入する必要があるし、そうなると人と関わらないわけにはいかない。
思いついても、それは不可能だとすぐにわかってしまって、ため息が零れた。
「なるほど。人と関わらず生きていきたいのだな。もし其方が心からそれを望むのならば、この場所と同じような空間に森を作り、畑を作り、家を建てて、そこに住まわすこともできる。心配している食材や調味料に関しては、欲しいものを欲しいだけ取り寄せられるようにしよう。――このようにして」
お爺さんが軽く指を鳴らすと、テーブルの上にティーセットと私のお気に入りのケーキ屋さんのフルーツタルトが現れた。
さっきまで何もなかったのに、まるで絵本や映画に出てくる魔法使いみたいだ。
驚いてしまいながらも、すすめられて紅茶のカップを手に取った。
カップも私が大事にしていたアンティークのカップで、その上、紅茶はお気に入りの紅茶専門店の期間限定のダージリンだった。
私の好みをここまで熟知している人は、誰もいない。
ずっと一緒に暮らしている母だって、ここまで知らないはずだ。
目の前のお爺さんが人でないことが、とてもよくわかってしまった。
お爺さんの言う通り、一人で自給自足っぽい生活をすることはできるのだろう。
でも、このお爺さんにその力があるからといって、それをしてしまったら、私はペットと変わらない生き物に成り下がるんじゃないだろうか。
いくら償いだからといって、当り前のように与えられて生きていけば、一生お爺さんに養われることになる。
それじゃ、人じゃなくてペットだ。
そう遠くないうちに生きている意味を見つけられなくなって、死にたくなってしまうだろう。
でも、だからといって、どうしたいのか、この先どうすればいいのか、何も思い浮かばない。
図書館にあった異世界転生物のライトノベルを読んでみればよかった。そしたら、何かしらの指針になったかもしれないのに。
もう二度と食べられないかもしれないので、遠慮なくタルトをいただきながら、急かされないのをいいことに黙って考え込んだ。
そして、考えているうちに、今後を決めるための情報が足りないことに気づいた。
「もし、他の世界に行くとしたら、そこはどんな世界なんでしょう? 女性一人でも生きていけますか?」
できるなら、日本のように治安のいい、住環境の整った世界に行きたいけれど、似たような世界があるのだろうか?
女性の社会的地位が低い世界だったら、仕事をすることすら困難かもしれない。
母の方針で色々と習い事をしたけれど、どれも極めるほどじゃないから、見知らぬ世界で仕事をするときに役に立つのかわからない。
『出来過ぎる女は嫌味だから、何事も程々がいい』というのが母の持論で、ギャップは大事だけれど、男の自尊心を傷つけてしまうような過ぎた能力は、愛されるためには邪魔だと常々言われていた。
そのせいで、もっと続けたかったけれどやめてしまった習い事もいくつかある。
能力は磨いてもそれは隠して、いざという時の切り札にするべきと、母は本当は料理上手なのに恋人たちの前では滅多に料理をしなかった。
母に反論しても無駄だから、何も言わずに聞き流していたけれど、確かに母は世渡りがうまかったと思う。
常に複数の恋人がいたけれど、恋人達はみんなそれを知っていて、私の知る限り、修羅場ったことはなかった。
短いサイクルで入れ替わるということもなく、どの人も割と長い付き合いだ。
私が年頃になってからはあまり家に連れ込まなくなったけれど、小さい頃は一緒に出掛けることも多かったし、大きくなってからもたまに旅行先などで逢うことがあった。
母の恋人たちは紳士揃いなので、みんな邪魔なはずの私にも優しくしてくれて、色々気遣ってもらっていたと思う。
一緒にいるとき、子供心にも可愛がってもらっているのを強く感じていたから、何も知らない小さな頃は、父親というのは複数いて、一緒に暮らさないものだと思っていた。
幼稚園に入ってすぐに、それは間違いだと知ることになったけれど。
「残念ながら、どこも地球ほどに文明が進んでいない。中には魔物が出て危険な世界もある。そういった世界には、魔法も存在しているのだがな。其方がゲームというものをやっていれば、説明は楽だったのだが……。行き先に希望がないのなら、一つ提案がある。其方、ダンジョンマスターをやってみる気はないか?」
どう説明したものか困ったような様子だったお爺さんが、少し悩んだ後、そう切り出した。
だんじょんますたーって何?
ただの女子大生にやれるものなの?
わからずに首を傾げていると、お爺さんが丁寧に説明してくれる。
どうやら私の考えていることがわかるようなので、疑問に思ったあやふやで曖昧なことにも、的確に返事をくれるからわかりやすい。
その説明によると、ダンジョンマスターというのは、その名の通りダンジョンの主のことで、ダンジョンコアというダンジョンを作る源になるものが壊されると死んでしまうらしい。
だからコアを壊されないようにダンジョンを作り、ダンジョンにやってくる人々からダンジョンポイントを得て、ダンジョンを広げたり、魔物を召喚したり、宝箱を設置したりするそうだ。
やったことはないけれど、ゲームみたいと思った。
母が嫌がるから家にゲーム機はなかったけれど、携帯アプリのゲームくらいならやったことがあった。
といっても、育成系ののんびりとしたゲームばかりだったけれど。
多分、植物を植えたり、料理を作ったり、動物を飼ったりして、少しずつレベルアップしていった箱庭系のゲームみたいに、ダンジョンを育てていけばいいのだろう。
ただ、ダンジョンポイントを得るための一番の手段が、ダンジョンにやってきた人を殺すというのが、どうしても受け入れられない。
いくら別の世界で法律も倫理も違うからって、人を傷つけたり殺したりはしたくない。
そんな殺伐とした生き方をするくらいなら、ここで人生を終わらせた方がマシだ。
何が何でも生き続けたいという気力が、今はどうしても沸かないのだから。
「できれば、人助けと思ってダンジョンを作ってほしいのだ。今、その世界は魔力が充ち溢れすぎて、動植物が次々に魔物化している。本来ならば、勇者を誕生させて、勇者に魔物狩りをしてもらうつもりだったのだが、少し目を離した隙に、勇者になる予定だった子供が死んでしまったのだ。勇者としての能力が目覚める前は、普通の子供とあまり変わらないというのが仇になってしまった。これから勇者を誕生させても間に合わず、このままでは増えすぎた魔物に襲われ、一つの大陸の国々がすべて滅んでしまう」
私が断ろうとしているのに気づいたのか、お爺さんがちょっと必死だ。
いくつもの国が滅ぶと言われれば、全く知らない世界のことにしても断りづらい。
こんな時ですらいい子であろうとする自分が嫌になるけど、私には関係ないことだからと、簡単に切り捨てられるような性格なら、もっと楽に生きてこられた。
周囲に気を使って、不愉快な思いをさせないように顔色を窺って、時には自分を抑えて、今まで生きてきた。
男好きで奔放な母は、同じ学校に通う生徒の母親達の間では評判が悪くて、私はあの母の子供だからと、小さい頃から色眼鏡で見られることが多かった。
なまじ私が、外見だけは母にそっくりだったのもよくなかったのだと思う。
他人は関係ないと、母のように生きる強さは私にはなかった。だから、真面目ないい子だと思ってもらえるように、ひたすら努力した。
みんなが嫌がるようなクラス委員や、先生の仕事の手伝いなども率先してやるようにして、周囲に気を使ってばかりだった。
母の憧れだったらしい私立のお嬢様学校に小学校から通わされたけど、大学だけは無理を言って外部に進学させてもらった。
大学に入って、私の母を知る人がいない環境に変わったことで、それまでのように周囲に気を使わなくてもよくなって、かなり気持ちは楽になったけれど、それでもまだ疲れていたらしい。
だから、引き籠りたいなんて思ってしまったんだろう。
叶うなら、誰にも気を遣わず、思うままにのんびりと生きてみたい。
「ダンジョンマスターなら、引き籠れるぞ? マスタールームから出なくても、ダンジョンの中のことはわかるようになっているから、あとは配下になる知性のある魔物を召喚して、采配を振るえばいい。ダンジョンができれば、周囲の魔力をダンジョンが吸収していくから、魔力が薄まって、魔物が生まれづらくなる。そうすれば、国を滅ぼすほどに大量の魔物が発生することもなく、いくつもの国々が救われるのだ。吸収した魔力はダンジョンポイントに換算されるから、ダンジョン側にも利がある。ダンジョン予定地は深い森の中の魔力だまりだから、放置していてもダンジョンポイントは増えていくのだ。ダンジョンに挑んだ冒険者達を傷つけたりするのは、召喚した魔物達が勝手にやってくれる。だから、こればかりは、防衛だと思って割り切るしかない。そうしなければ、コアを壊されてしまうのだから。壊されたコアの欠片は、魔力を豊富に含んでいて、大規模の魔法を使う媒介にもなる。大きなものは国宝にもなるから、冒険者は一獲千金を夢見てコアを狙ってくるのだ」
壊せば一生遊んで暮らせるほどの宝が手に入るとなれば、コアが狙われるのも仕方がないのか。
お爺さんの説明を聞きながら、何とかうまく折り合いをつける方法はないものかと考え込んだ。
例え召喚した魔物が殺すのだとしても、傷害や殺害が起こるのを知っていながら、見て見ぬ振りをするとなると、そのうちにストレスが溜まってしまうと思う。
でも、私がダンジョンを作ることで死なずに済む人がいるのなら、ダンジョンを作りたいとも思う。
そもそも、ダンジョンというものがどういうものなのか、私は知らない。
簡単に説明はされたけれど、理解しきれていない気がする。
それにどうせなら、自分の能力を生かしたダンジョンにしたい。
今まで頑張って培ってきた能力をすべて捨ててしまうのは、今までの人生が無駄だったみたいで嫌だ。
「少し、考える時間をください。一人にしてもらうことはできますか? それから、書いて考えをまとめたいのでノートと筆記用具が欲しいです」
私がそう願うと、お爺さんは一つ頷いて、立派なつくりの机を指さした。
「ここでは書き物がし辛いだろう。あの机を使うといい。考えがまとまったら儂を呼びなさい。呼ばれるまでは席を外すことにしよう」
言い終わると同時に、お爺さんの姿は消えた。
よく見てみれば、この部屋に扉はない。今まで、そのことに違和感を感じる余裕もなかったということなのだろう。
机に移動し、まずはわかっていることを書き連ねてみることにした。