生き延びた夜
◆
「走れ! 陣営まで逃げ切れば、援軍が待っているぞ!」
気っ風のいいガブリエラの命令が響く。太陽はまだ空に高く、沈む気配は微塵も無い。敵はこちらを殲滅するのに、今が絶好の機会だと考えているのだろう。
敵の騎兵が後方から迫っている。
後方と言えば、さっきまで先頭にいた俺達の部隊のすぐ後ろだ。
ヤバ過ぎる。騎兵に追いつかれたら、馬に踏まれたり槍で貫かれたりして死ぬ。きっと死ぬ。冗談じゃない。
「全力ではしりゅっぞっ!」
俺は命令を噛んだ。けれどもう、何でもいい。ひたすら走る。もう目の前は山の裾野だ。盾も捨てる。背嚢も捨てる。むしろ馬にとって障害物になるから、捨てた方がいいような気がした。
“ビュン、ビュン”
丁度そこで、裾野から多数の矢が降り注いだ。敵騎兵の足が止まる。背後から怒号が聞こえた。
「進め! 止まるな!」
振り返るとそこには、鬼の形相をした騎兵指揮官がいる。怖い。しかも矢を剣で弾きながら、馬の速度はそのままだ。
「伏兵がいる! 引き返せ! ここで兵を無駄に損なうなっ!」
今度は女の声だ。凛として張りがある。美人な気がしたが、もう俺には背後を振り返る余裕など無い。
山の木立がざわめく。
ここに残存した二〇〇〇の兵が、数万に見えるよう一人で多くの草木を動かしていた。
もともと最悪の場合、ここに逃げ込む事を想定していたのだ。その時、敵の足を一時的に止める効果があるのは、自軍を上回る敵が存在する可能性に尽きる。
相手が名将であればある程それを匂わせれば、深追いを避けるだろうとの確信が俺にはあった。名将と呼ばれるほど戦に長けるには、それだけの回数生き残らなければならない。だったら慎重だろうと思ったのだ。
「わー! わー!」
さらに鴇の声。
皆で一斉に叫んでもらい、更に数を誤摩化す。その間に俺達は陣営へ飛び込み、何とか命を失わずに済んだ。
敵は後退し、山裾で陣形を再編成している。鮮やかな手並みで突撃陣形を整えてゆく。その間にも敵の偵察兵がこちらの山腹に入り、状況を分析していた。一分の隙さえ感じさせない指揮ぶりだ。
見事に統率された軍団に、俺は正直舌を巻く。
完成された軍略と、統卒の取れた軍団。この二つが揃っているから、ガイナスは無敵なのだと納得した。
「点呼!」
俺は急いで人員の確認する。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十!」
問題ない。全員居る。戦う前に兵を失ったなら、隊長失格だ。
というかそもそも不正で合格した隊長の地位だから、失格も何もないのだけど。
とにかく点呼が、あちこちで行われている。第六軍団としての正確な実数を司令部が知らなければ、的確な指揮が出来ないからな。
とはいえ、敵の動きは想像以上に速い。ガブリエラは対応出来るだろうか?
ラッパの音が鳴る。「配置に付け」の合図だ。
問題無かったようだ。ガブリエラが指示を出し始めた。俺達は持ち場である柵の前へ行く。
ここで俺は、迫り来るだろう敵兵を迎撃する。
まずは弓兵による狙撃。それでも倒れなかった騎兵を、短槍の投擲によって打ち倒すのだ。
さらに近づいてきたなら、背後の槍隊が馬を刺す。こちらの騎兵は、後背からの攻撃に備え、予備隊として温存だ。
こうして防御に徹する間に、ガブリエラの実家であるレオ公爵領に援軍を求める急使を送る――とまあ、この程度のことを決めていた。
とはいえ、どれほど急使が早く到着しても、公爵領からここまで援軍を呼べば一月は掛かる。
そこで俺は一計を案じた。公爵にはカプスを包囲してもらう。それなら二週間と掛からない。
そうすればいくらガイナスが名将でも、退かざるを得ないだろう。手に入れた都市を失えば、自身の武名に傷が付くからな。
さて――どうやら無駄な事を考えている時間は無いようだ。
敵は自らの兵力がこちらに勝ることを、既に見抜いたらしい。騎兵が前進を開始し、突撃体勢に入っている。
騎兵が目の前に迫った。猛り狂う軍馬を正面から見ると、生きた心地がしない。けれど背後から矢の雨が敵に降り注ぐ。陣地防御の基本戦術が、忠実に守られていた。
敵はにわか作りの陣営だと思い、舐めて掛かったに違いない。だからこそガイナス軍の精鋭が、無造作に突撃などしてくるのだ。
とはいえ、流石は精鋭だ。降り注ぐ矢の雨をかいくぐり、俺が護る柵の前に殺到する騎馬兵も多い。
「おおおっ!」
柵を飛び越えようとした馬の腹に、槍を投擲。命中して騎兵が落馬した。そこに後続の騎兵が乗り上げ、バランスを崩す。
落ちた騎兵に、剣を翳して襲い掛かる俺。無我夢中だ。生暖かい返り血を浴び、前が見えなくなる。
「ど、どこだっ? 次の敵っ!」
左右に身体を揺すっていると、どうやら敵に目を付けられたらしい。気がついた時には軍馬が迫っていた。
印象としては――轢かれる――だ。しかし激痛は訪れず、代わりに馬が横倒しになっている。どういうことだ?
「へへ……隊長。目の周りに血を浴びちゃいけねぇや、です」
いつの間にか頬に傷を作った副長のドムトが、敵の馬の腹から槍を引き抜いた。それから落馬して呻く敵兵の喉を貫く。
なんの躊躇いも無く人を殺すこの男に俺は一瞬、寒気を覚えた。しかし次の瞬間、俺も背後から迫る敵兵の脇に剣を突き刺している。
何のことはない――訓練したことが役に立っていた。身体が勝手に動き、敵の命を無造作に奪っている。
俺は吐き気を感じたが――しかし孤児院でも死体は見慣れていた。
凍死する者、喧嘩の果てに撲殺されたもの、強盗にあって斬り殺されたものなど――どうあれ、この世界の人の命は安い。だから俺は、殺さなければ殺されるだけだと考え、無心になった。
◆◆
暫くすると、敵兵は潮が退くように去って行った。
どうやらこちらの陣を、簡単には突破出来ないと悟ったらしい。
流石はガイナス。無駄に兵を失わない、といった所か。こうして夜を迎える頃には、今日の戦闘が終っていた。
俺は全身に浴びた返り血を、皮膚が捲れるんじゃないかと思うほどに拭った。
血の匂いが取れない。水を浴びたかったが、水場へ行くには持ち場を離れなければならない。隊長として、それも出来なかった。
止めどなく涙が流れる。自分が奪った命に対する贖罪と、部下が一人死んだという事実からくる悲しみのせいだろう。
いや、違う。
本当は今日、自分が死ぬかもしれなかった――という恐怖が大きい。
それに、確かに今日は生き延びた。けれど明日死ぬのは自分かもしれないと思うと、冷静ではいられない。
その証拠に、奥歯がガチガチとなっている。
もしかしたら俺は、自分だけが生き延びればいいと思っているサイコパスなのだろうか。人を殺す事も、正直に言えば自分の死と比べればどうでもいいのだ。
まったく……名将と対決できることを、少しでも喜んだ昼間の自分が酷く愚かに思えてくる。
「警戒を怠るな!」
篝火の明かりの中、ガブリエラの鈴の音のような声が響く。
同じく初陣のはずの彼女も、やはり返り血を浴びているだが僅かの動揺すら見せていない。ましてや疲れも見せない彼女は、まさに武将になるべくして生まれてきたかのようだ。
すごいな、と思う。
やっぱり彼女は南槐で、それ以外の何者でもない。
「ケーミス、すまない」
俺は死んだ部下の為に祈りを捧げ、目を閉じた。怯えて震えるだけよりは、自分が今出来ることをしたいと思ったからだ。
この帝国においては、国教たるヨハネス教が唯一絶対だ。唯一神たる無名神を信仰し、それ以外の土着の神々は皆、悪魔や堕天使へと姿を変えた。
それゆえに死んだケーミスへ対する俺の祈りも、ヨハネス教のものとなる。
ついでに言えば俺は教会が運営する孤児院で育ったから、司祭のまねごとくらいは出来るのだ。
「天に召します我が友ケーミスの御霊よ、安らかなれ……」
祈りの言葉が聞こえたのか、副長であるドムトが側に来て俺の肩に手を置いた。
「あんたは良くやった。この陣地もあんたの発案だって言うじゃねぇか。だったら、あんたが居なきゃ、ここにいる皆だって死んでいたかもしれねぇ」
真新しい頬の傷が痛々しい副長の顔を見て、俺は顔を顰めた。よくもこれで、飄々としていられるものだ。
「……おっと、クソした手なら洗ったぜ?」
副長が戯けて見せる。多分、彼はきっと俺よりも十歳は上だ。だからなのか、気遣ってくれているのだろう。
「……ケーミスは俺と同い年だった。夢だってあっただろう。それを……俺は彼を、無意味に死なせてしまった」
「けっ……軽装歩兵になるヤツが、夢なんぞ見るか。どうやって今日を生き延びるか、それしかねぇよ。そもそも俺たちゃ無意味な存在なんだしよ。だから気にすんな、な?」
「いや、違う。俺だって孤児だった。それでも夢はあるぞ。夢がなければ、生きることに何の意味がある?」
「はっ! 夢ね。じゃあ俺の夢は、毎日美味いメシが食えて、女を抱く。これだな!」
「違う! 女とは、女同士で愛を育むのだ! ああ、そうだ! 俺には夢がある! 生き残ったら、百合の花園を見守る樹木となるんだ! あははは、素晴らしいだろう! お前達も夢を見ろ! 夢がなくて、なんの為の人生かっ! ふははははは……!」
何だか副長が離れていった。他の部下達も愛想笑いを浮かべている。
「隊長はアレだ。俗にいう、ホンモノだ。ほら、言うじゃねぇか、バカと天才は紙一重ってよ。だからほら、やっぱりホンモノなんだよ……俺ぁ確信したぜ」
聞こえているぞ、ドムト副長。俺がバカだって言いたいんだな。知ってたさ。だけどな、お前の声は大きいんだ、もっと小声で悪口を言え。あと部下ども! 一緒になって頷くな。変な所で結束するな! 目からしょっぱい水が出るだろうが!
暫くすると、ガブリエラが俺の側にやってきた。しれっと俺の横に腰を下ろし、暖かい茶を所望する。
俺の部下が薄汚れたカップに茶を注いで持ってくると、気にする事なく彼女はそれに口を付けた。
「アレクシオス、夜襲するか?」
ニッと笑って物騒なことを言う、元男の公爵令嬢を俺はぶん殴りたい。俺はたった今まで、恐怖に震えていた男だぞ。
「ほら、こんな時は夜襲だろ。三国志だったら、だいたいそんな感じだ」
うわぁ……ガブリエラの目がキラキラしてる。やっぱりぶん殴りたい。
「お前に三国志の何が分かる? 一番好きな武将が呂布とか言う脳筋バカのお前に」
「失礼だな。こう見えても、関羽だって好きだ」
「呂布とどっちが好きなんだ?」
「呂布だな。陳宮だって知ってるぞ。なあ、おれの陳宮!」
「いや……微妙だからやめて、それ」
「ちぇ……じゃあやっぱり関羽にしとく」
「だからさ、お前ってどんだけ武力マックスが好きなんだよ……」
俺の言葉に、ガブリエラが首を縦に振っている。「おれの武力は百超えだな」
「いや、簡単に超えないでくれる?」
「おれのこと、美髭公って呼んでもいいぞ」
「ねえ? 俺の話、聞いてる? あとお前のどこに髭があるんだよ。呼べて美髪公だ、この金髪碧眼美女がっ!」
あれ? これは悪口になっていないぞ。
しかし俺の言葉でガブリエラは肩を落とす。ちょっとショックだったらしい。
「髭が……生えないと思うと……生まれの不運を呪うしかないが。
まあいい。それはともかく、夜襲すれば敵の士気を挫けるだろう? だから夜襲しよう」
「士気を挫けるとすれば、それは敵が夜襲を想定していない場合だ。見ろ、敵陣を。篝火も少なく、いかにも警戒していませんって雰囲気だろ? 名将であるガイナスが、そんな油断をする訳が無い。むしろ夜襲を待っているだろうな」
「うん?」
ガブリエラが首を傾げている。頭上に巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるようだ。ああ、こいつ本当にバカだな。
「つまり、こっちの夜襲を誘ってるんだよ」
「じゃあ、誘いに乗ろう」
あああ、本当にこの脳筋バカは何を言い出すんだ。ここは守りを固めて、時間を稼ぐのが得策なのに。とはいえ、こっちが相手の予測の範疇にいたら、いずれはジリ貧。
だとすれば、ガイナスに警戒させるっていうのは悪くない。誘いに乗ったフリをして、一挙に敵の本営を突く……という手もあるか。
それなら軽騎兵が必要だけど――って、おい! そんな兵種が無いよ、ちくしょう!
俺は頭を振ってガブリエラに答えた。
「ダメだね。敵を打ち破る策が無い」
俺の言葉を聞くと、ガブリエラは唇を突き出して不満顔だ。
「昼間は全然戦えなかった。五人しか倒していなんだぞ! せっかく鍛えたこの腕を今振るわず、いつ振るえばよいのかっ!」
ついでに腕をブンブンと回している。迷惑な全身凶器女だ。そっと距離をとる。
「ああ……じゃあ、こういうのはどうだ? 敵に夜襲を仕掛けるのではなく、敵の夜襲を誘う、というのは?」
ガブリエラが動きを止めて、輝く瞳で大きく頷いている。
上下に揺れる金髪が星明かりに照らされ、神秘的に輝いていた。