夏に吹く風
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マーモス全土を制圧したアレクシオス・セルジュークの凱旋式は、三月の半ばに挙行された。
その行列は金竜湾から始まり、賢者の学院を横切って大聖堂の手前で右へ――そしてペドリオン宮殿へと至る道筋を辿る。
出征時には二隻であった軍艦も、拿捕したものを加えて二十隻を超えていた。
帝都の民衆は連なる軍艦の偉容に溜め息を吐き、これを指揮した若き美貌の英雄に喝采を送る。
また軍艦の上にはアレクシオスに従った兵達が整然と並び、指揮官の下船に合わせて一糸乱れぬ敬礼を送っていた。
地上には四頭立ての馬車が三台並んで、車列を作っている。
馬車は最前にティグリスとアントニア、二台目にアレクシオス、テオドラとディアナ、三台目にドムトとランス・ヒューリーが乗り込んでいた。
本当はアレクシオスと一緒に馬車へ乗りたかったガブリエラは、宮殿の露台で皇族と共に彼を待つという屈辱を与えられている。
「おれも戦ったのに……」
こんな事を言う金髪のバカは帰るなりメディアに監禁されて、今は豪奢なドレスを身に纏っている。
もっとも、彼女も悲惨といえば悲惨であった。
何しろ側には自分に言い寄る皇太子がいて、それを生暖かい目で皇帝が見ているのだ。
逃げ場の無い状態で行儀よく振る舞うなど、ガブリエラにとっては痛恨の極みである。
「はやく来い、アレク。おれが死んでしまう……」
切実な、ガブリエラの願いであった。
アレクシオス達の車列が通る道は、全て人々に埋め尽くされている。
子供達がアレクシオスの馬車に目を向けながら、父母に彼の武勲を聞いていた。
「セルジューク将軍は、南の海の海賊をやっつけて、沢山の島を手に入れたんだ」
父母は大体、このように答える。
もちろんアレクシオスは将軍位に無いが、庶民にとってはどうでも良い事だ。
子供達は説明を聞いて「セルジューク将軍ばんざーい!」と叫び、飛び跳ねていた。
もちろん大人達も喝采し、アレクシオスを「若き英雄」「黒狼」と褒め讃えている。
しかしアレクシオスはこれを、決して喜ばなかった。
「勝ったからね……こうして喜んでくれるけれど。負けていたらこれ、全部が罵声だよ。そう考えたら生きた心地がしないね……」
むしろ彼はメランコリックな感情に包まれて、げんなりとしている。
その一方で彼の両脇を固める二人の美女は、にこやかに手を振っていた。
もちろん彼女達に掛けられる声も、暖かいものばかりだ。
「ディアナさま〜! お綺麗です〜!」
「テオドラさま〜! お美しい〜!」
確かに彼女達の内実を知らない民衆からすれば、二人の美貌は春の陽光さえも霞ませるものだろう。実態は、酔いどれ魔導師と暴力皇女に過ぎないのに……。
そんな訳で人々のばら撒く花びらに囲まれ、うら若き女性の黄色い歓声に手を振り応えつつも、アレクシオスは浮かない顔をしていたのである。
それともう一つ、アレクシオスには納得しがたいことがあった。
「黒狼って……どうして私が……」
隣に座る副官に、アレクシオスが問う。その背中が徐々に赤い背もたれへ、めり込んでいく。何とも恥ずかしい呼び名だと思うからだ。
すると皇女にして副官のテオドラが、ニッコリ微笑み大きく頷いた。
「うん、提督は黒髪で黒目だから父上によ、手紙で黒狼のような戦いぶりだったと報告をしたんだ」
「君のせいか……この中二臭い渾名は……」
ともあれアレクシオスは内心と表情を乖離させながらも、つつがなく凱旋式を終えた。
彼の信条は平々凡々――何事も無く百合っぷるを見守る観葉植物になるのが夢――である。
だから如何なる事態に対しても、粛々と対処することが出来るのだ。
とはいえ――彼がこの日に得たモノは、誰もが羨むものであったと云う。
何しろアルカディウス帝国の子爵位とマーモス全土、それから有り余る金銀財宝だ。
一代の成り上がりとしては帝国史上十指に入る、成功譚であった。
しかし、一方でこの時期アレクシオスの軍事的権限は、なんら拡大していない。
これに関して後世の歴史家は、彼の政敵であったクロヴィス・アルビヌスとユリアヌス皇子の策謀説を有力と見ている。
もっとも、それを証明する一次的な資料は、今のところ発見されていないのだが……。
――――
アレクシオス・セルジュークの叙爵式が終ったあと、広い宮殿の廊下で男達がすれ違う。一方が足を止め、一方が振り向いた。
足を止めた男は、薄茶色の髪をマッシュルームのように整えている。顔立ちも端整だ。
背はアレクシオスよりも数センチ低いだろうか。それでも平均身長の低いアルカディウスにおいては、十分に長身と云えた。
彼の衣服は丈の長いチュニックで、白地に金糸を鏤めた、一際豪華な作りである。
男の名はクロヴィス・アルビヌス――伯爵家の当主であり、大司教マヌエル・ロムヌスの公然たる隠し子だ。つまりその権勢は四公爵家に匹敵し、皇室すら動かしうる存在であった。
一方で振り向いた男も、長身である。
彼は黒に近い茶髪を整髪料で固め、オールバックに纏めていた。
眉間に皺を寄せたその表情は、彼が無骨で愚直な武人であることを思わせる。
実際、礼服に身を包んでいるが、腰には幅広の剣を下げていた。それは儀式よりも実戦向きの、重く分厚い鉄の塊だ。
彼の名はクラン・サーペンス。言わずと知れたサーペンス家の長男――つまりは四公爵家の御曹司だ。
クランはテオドラに想いを寄せており、今回、アレクシオスの功績が気に喰わない。
というより、このままではテオドラをアレクシオスに奪われるのではないか――という焦りが大きくなっている。
クランが舞踏会で会ったときのアレクシオスは、騎士爵に過ぎなかった。
であれば、何事があろうとテオドラが降嫁することなど有り得ない。
いくらテオドラが彼に興味を示そうが、クランとしては取るに足りない問題であった。
しかし子爵となりマーモスを得たとなれば、話が変わってくる。
アレクシオスは元老院に入る身分的な資格を得た。
後は相応の税を納めれば、彼は元老院議員にもなるだろう。
そうなれば、閣僚への道も開けるのだ。
閣僚経験者ならば、テオドラが降嫁してもまったくおかしくは無い。
そういった楽しく無い未来を想像してクランは今、胸が苦しくなっていた。
だが、クランはあくまでも武人である。
アレクシオスを追い落とそう、などとは露程も考えない。
彼が考えたことは、あくまでもアレクシオスよりも大きな武勲を立てること――それだけであった。
◆◆
「クロヴィスどの」
クランの呼びかけに、クロヴィスが反応した。
「何か?」
ようやく互いが向き合って、数歩――距離を詰める。
宮殿の廊下は美麗な柱が等間隔で並び、荘厳な屋根を支えていた。しかし一方で壁は無く、四季折々の表情を見せる内庭に面していた。
午後の穏やかな日差しが、二人の頬を柔らかく撫でている。
「今回の件、クロヴィスどのは、どのように思われた? その……セルジューク卿の件ですが」
「ふむ……」
顎に指を当て、クロヴィスが考え込む。少なくともクランには、そう見える仕草を彼はした。
「実力は確かなのでしょうが……帝国の秩序を考えると憂慮すべき存在かも知れませんな」
伏し目がちに言うクロヴィスを見て、クランが大きく頷いた。
我が意を得たり――と思ったのだ。
「もしご都合がよろしければ、少しお話を聞いて頂いても?」
「ええ、この後は学院に戻るだけですので、大丈夫ですよ」
二人は共に宮殿の一角にあるサロン、いわゆるティールームへ向かった。
色鮮やかなステンドグラスを通して入り込む陽光が煌めき、給仕の女性達を輝かせている。
ここは上級貴族専用の待合所のようなもので、常に百名程度の文官や武官が寛いでいた。
もちろん給仕の女性でさえ、貴族の子女である。
花嫁修業の一環として務める者もいれば、ここで良縁を見つけようと息巻く女性もいた。
高い天井からは、鎖で吊るされた大きなシャンデリアが降りている。
夜になれば、無数の明かりが室内を照らすのだろう。しかし今はまだ、その時間ではない。
二人は給仕の女に案内されて、ある区切られた区画へと通された。
流石に四公爵家の御曹司とクロヴィスだ、特別な席が用意される。
大理石のテーブルを挟んで、黒い革張りの椅子に二人は腰を下ろした。
「葡萄酒を貰おう。食べ物は適当に――軽いものでいい」
クランが給仕の女に微笑み、注文をする。
暫くすると葡萄酒の入った壷と水の入った壷、それから酢とオリーブオイルで味付けをされた野菜の盛り合わせが供された。
二人は互いに葡萄酒を杯に注ぎ、水で薄めてから乾杯をする。
この時代、葡萄酒を水で薄めて飲むのは茶を飲む様なものであった。
ディアナがいつも薄めず飲むことの方が、おかしな飲み方なのだ。
また、革張りの椅子は、大の男が悠々と二人並んで横になれるほど広い。
なぜなら横臥して食事を摂る事が、彼等には一般的なことであるからだ。
しかし、クロヴィスとクランは横にならなかった。
寛いで話すには、些か内容が深刻だったからである。
「――アレクシオス・セルジュークはやがて、執政官になる男かも知れませんな」
クロヴィスが一杯目を飲み干し、目を細めて言った。クランには彼が嬉しそうに見えて、若干頬が引き攣っている。
執政官とは、帝国宰相と言い換えても良いだろう。要するに元老院における最高の役職で、皇帝に次ぐ地位だ。戦時にあっては皇帝の代理として、全軍を統帥する権限を有する。
ただし常時二人が任命され、任期はあくまでも一年。再任も可能だが、それは二年の空白期間を経なければならなかった。
つまり、あくまでも皇帝権限を侵害せず、国務を遂行する為の閣僚の長である。
しかしながら、執政官経験者とそうで無い者の差は歴然。
故に現在、執政官を排出する家柄といえば、四公爵家と一部の侯爵家のみが独占していた。
そこにアレクシオス・セルジュークが加わるということは、即ちテオドラを娶ることと同義である。
クランは首を左右に振って、「有り得ない」と否定した。
「いくらなんでも、元平民にそのようなことが……」
「しかしセルジュークどのの家柄は、元を正せば貴族ですぞ」
「といってクロヴィスどの。貴族といっても、たかが騎士爵家ではありませんか」
「然様、ですが今は子爵になりました――どうもクランどのは、彼の出世がご不満のようですね?」
「いや、出世が不満という訳では無い。優れた武人が出てくることは、帝国にとっても喜ばしい。しかし私は、テオドラさまに想いを寄せている。それが――」
「ああ、なるほど。このままではアレクシオス・セルジュークに、彼女を奪われてしまうと……ハハハハッ!」
愉快そうに腹を抱えて笑うクロヴィスを、クランが恨みがましい目で見つめている。
「そう、笑わないで頂きたい。これは政略などとは関係の無い、純粋な気持ちなのだから」
「失礼――では、どうだろう。クランどのがアレクシオス・セルジュークよりも優れた武勲を立てれば、テオドラさまの蒙も開けるのではないでしょうか?」
「それは私とて、そう思うのです。けれど、どのようにすればマーモス制圧以上の武勲になるのか、皆目見当が付きません」
「はは――そのような武勲、ただ一つしか無いでしょう。モンテフェラート要塞を落とすのです」
飲みかけの杯を置いて、クランは眼前の魔術師を見つめた。
薄い唇が弧を描き、赤い舌が覗いている。
それは悪魔の囁きであったが、可能ならば確かにマーモス制圧を越える武勲になるだろう。
「私にそれが、出来るとお思いか?」
「むしろサーペンス家の次期当主である、あなた以外に誰が出来ましょうや……」
クランにとって、クロヴィスの声は極上の葡萄酒よりも甘美だった。
「確かに……私以外にモンテフェラートを落とせる者はいない……うむ――よく言ってくれました、クロヴィスどのッ!」
こうして、クラン・サーペンスの決意は固まった。
元より彼は、自身の武に絶対の自信がある。
実際、十五の頃から幾度と無く戦場に出て、敗れたことは皆無。
そうして考えるうち、彼は一つの考えに行き着いた。
未だかつて無い大兵力で攻めれば、落とせるかも知れない――と。
実際、彼の家柄であれば帝国軍の大半を動かすことも可能である。
クランは大きく頷き、クロヴィスの杯に葡萄酒を注ぐ。
「クロヴィスどの、前祝いだ」
――――
一月後、クラン・サーペンスは皇帝より、モンテフェラート要塞討伐軍の司令官職を拝命した。
折しもアレクシオス・セルジュークによって、帝国中が戦勝に浮かれている時期である。
「この余勢を駆って、帝国の版図を更に広げよ」と、皇帝から有り難い言葉も賜った。
また、ラヴェンナ共和国においてガイナス・シグマが未だ獄中にあるとの話も、クランには追い風となっている。
彼のいないモンテフェラートであれば、攻略出来ると皇帝以下の閣僚達も考えたのだ。
こうして八個軍団、凡そ十万の大軍が帝都に集結し、夏を間近に控えてモンテフェラートへ進軍することになったのである。
ここから新章になります。




