海域の覇者 6
◆
アレクシオス・セルジュークがエリティスの邸を制圧した頃、ティグリス・キケロも前方に敵艦隊の姿を見ていた。
真冬の海は風も強い。軍艦と云えども波に揉まれた船体は軋み、ギイギイと悲鳴を上げている。
だがティグリスは、船に大分馴れたらしい。
揺れる船上でもしっかりと両足で立ち、腕を組んでいる。
敵影を睨み片眉と唇の端を器用に上げて、彼は笑っていた。
「十隻か」
呟くティグリスに、アイーシャが苦笑する。
彼女は風に靡く茶色の髪を、そのままにしていた。
露になった左半面の傷に、そっと指を触れる。
「隠す必要は無い」と言われても、実際にそうするのは勇気が必要だった。
「こちらは七隻。少し不利だが、どうする?」
「どうもこうもしない。予定通りだ」
「敵を河口に入れてから戦っても、別に恥じゃないだろう? 風も強い」
「風が強いからこそ、こっちが有利になる」
腕を組み、「クック」と笑うティグリス。
海戦の指揮をとるのは初めてだというのに、その顔は自信に満ちている。
それには理由があった。
ティグリスは待機中、幾度も艦隊を動かし、ある結論に達していたのだ。
「艦隊運用とは、単純な方が強い」
この結論にはアイーシャも驚いたが、しかし真理に近いとも感じていた。
艦隊の動きを複雑にすればするほど、兵や水夫に負担が掛かる。
信号が見えなかった――では済まされないのだ。
ゆえにティグリスは旗艦の信号旗を見なくても戦える、そんな戦術を考案したのである。
それ程にティグリスの戦術は、単純明快だ。
波が高く艦隊の運用が難しい今日の様な日なら、実に有効だろう。
アイーシャは頷き、帝国の剣の意思を尊重する。
「まあ、違いない。単純であることは強さにも通じる。――お前のようにな」
「はんっ、俺は単純じゃねェ」
ティグリスは河口の手前に横陣を敷くと、旗艦を中央に据えた。
敵艦隊もティグリスの布陣を見て、艦隊の速度を緩める。
両艦隊とも風が邪魔になったようで、帆を全て畳んだ。
太鼓が打ち鳴らされた。
全ての櫂が水面に降ろされ、ザブンと力強く水を掻く。
ここからは、全てが人力の戦いとなった。
――――
ニコラオス諸島の艦隊を率いているのは、トリスタンだ。
彼はこの年、二十九歳。
決して自らが武勇を振るう類の指揮官ではないが、海戦において敗北は無い。
それは常に有利な状況で戦ったからだと仲間からは揶揄されるが、それこそが彼の非凡な所であった。
「策が露見していた? あれは――足止めの艦隊か?」
黒い長衣を風に揺らし、トリスタンは眼前に迫る敵を見つめていた。
黒い髪と青い瞳は、貴族的な印象を受ける。
もしも彼が海賊船に乗っていなければ、どこかの伯爵だと名乗っても信じる者は多いだろう。
といって、彼の出自が貴族である訳も無い。
単に彼の趣味が貴族的――というだけのことだ。
トリスタンはいつだって粗暴になれるし、粗野な海賊を束ねるだけの暴力性も持ち合わせている。
だからこそ、彼の命令に皆が従うのだ。
「艦隊の両翼を広げろ。罠だとして――こちらの方が数が多い。囲んで潰す」
トリスタンはアレクシオスの基本的な作戦の意図に気付いた。
けれど惜しむらくはティグリスの戦術を、見抜けなかったのである。
いや――たとえ見抜いたとしても、同じように命じるだろう。
彼は自らの戦術に、絶対的な自信を持っているのだから。
「へい」
トリスタンの命令に従い、信号旗が上がる。
すぐに全艦が少しずつ距離を開け、ティグリスの艦隊を包囲するよう展開した。
――――
「見事な陣形だ」
嘆息するアイーシャを横目に、ティグリスは笑っていた。
「見事な陣形だからといって、勝てるとは思わんことだ。さあ、突っ込め!」
ティグリスの作戦には陣形などなく、ただ「旗艦に付き従って旗艦が狙う敵だけを狙え」という簡潔なもの。
これが齎すのは、全艦が一直線にならぶ単縦陣だ。
その為にティグリスが用意したのは、艦艇に明確な順番を付けること。
つまり艦番号の順に列を作り、動き、敵を襲え――という話である。
従って彼等は一切の信号旗を排しても、艦隊行動が出来るのだ。
そして前の艦と同じ行動をとる以上、乱れも無い。
ティグリスの旗艦が、敵の旗艦に接近しつつある。その後方を、六隻の艦艇が連なっていた。
一方トリスタンは旗艦をやや下げ、艦隊の両翼を狭めて包囲を目論んでいる。
晴れ渡った空の下、波飛沫を上げて進む両艦隊。
海鳥はそれを見下ろし、空を舞う。乱気流のせいで、鳥が中空に留まっているように見えた。
大海原に響き渡るのは櫂を漕ぐ為に打ち鳴らす鼓の音、そして櫂を漕ぐ男達の声である。
太鼓が鳴らされ、男達が「おうッ!」と叫ぶ度、互いの艦隊が近づいていく。
ザザッと波を蹴って、飛沫が上がる。
ドン、ドン、ドン、ドン――「おう!」「おう!」「おう!」「おう!」
互いの艦隊が、競うよう船足を速めて。
水夫達の額には、玉の汗が光っていた。
やがて両軍の旗艦がすれ違う。
「射てッ!」
「射てッ!」
ティグリスとトリスタンの命令は、ほぼ同時だ。
互いに火矢を放つ。
「火を消せッ!」
「放てッ!」
双方の艦から、怒号が飛び交っている。
ティグリスはなおも舳先で腕を組み、笑っていた。
時折降ってくる火矢を、無造作に剣で叩き落としている。
これだけでも、彼の驍勇が知れるというもの。
「敵の旗艦を囲むよう、回頭してくれ」
炯と光る目をアイーシャに向け、ティグリスが言った。
「敵に囲まれるぞ?」
「構わん。敵の旗艦を、こちらが先に囲む。奴らがトリスタンを見捨てる可能性は?」
「あるが――そうなれば逃げ散るだけだろう」
「なら、問題なかろう」
アイーシャは頷き、「面舵!」と声を張り上げた。
回頭を始めたティグリスの旗艦に従い、続く艦隊が円を描いていく。
ティグリスは一度だけ後方を見て、自分に付き従う艦隊に頷く。
「ま、実戦でも有効であった訳だ」
ティグリスの物言いに、アイーシャが口をあんぐりと開けた。
有効じゃなかったら、どうするつもりだったのか――と問いたい。
が、問うだけ無駄であろう。だから仕方なく頷いている。
「ああ。戦史に残る戦法となろうよ」
一時間ほど過ぎた頃、ティグリス艦隊がトリスタンの旗艦を包囲した。
一方でティグリスの艦隊はトリスタン艦隊に、やんわりと囲まれている。
両艦隊が、半ば入り乱れた状態だ。
「魔術師の類は、いないようだな」
敵を見極める為か、ティグリスが目を細めてる。
「ああ。トリスタンが多少の魔法を使うが――ディアナほどの者はいない」
アイーシャが頷いた。もともと海賊同士、互いの戦力は把握している。
「では、接舷するぞ。敵旗艦に乗り込む」
ティグリスが剣を高々と掲げた。そして言葉を続ける。
「アレクの望みは勝利だ。それも――敵味方とも、なるべく被害を出さない勝利。となれば、奴を捕えるしかあるまい?」
ティグリスは既に目と鼻の先にいる敵旗艦を見つめ、その舳先に立つ男に目をやった。
彼がトリスタンであることは、明白だ。
一方、トリスタンもティグリスを睨み、こちらへと艦を近づけている。
「見ろ、向こうもその気だ」
アイーシャは「ふぅ」と息を一つ吐いて頷いた。
ティグリスの言っていることは正しい。
どうせ海賊の戦い方は、最終的に白兵戦なのだ。
となれば、タイミングの問題である。
「敵旗艦に接舷しろッ! 白兵戦だッ!」
アイーシャの声に、船乗り達が拳を上げた。
彼等とて、血の気は多い。やる気が漲っている。
もちろんアイーシャも同じだ。
副将という立場から、より安全策を口にしようとしてはいたが……。
だが、こうなれば力と力のぶつかり合い。望む所である。
接舷した両軍の旗艦で、兵と海賊が入り乱れた。
白刃が煌めき、怒号が飛び交っている。
「それじゃアイーシャ、防戦の指揮を頼む」
ニヤリと笑って、ティグリスが駆け出した。
目指す先は、トリスタンだろう。
アイーシャは不本意ながら頷き、旗艦に残る。
自分がトリスタンと戦おうと思っていたのに……。
「行ったからには、勝ってきやがれ」
ティグリスに毒づき、アイーシャは剣を振るった。
その刃は既に敵の血を吸い、濡れている。
といって、彼女もなるべく敵を殺さないように心がけていた。
ただ――どうしても戦場では心が乱れる。
かつて顔に傷を負った日のことが、心に過るのだ。
そうして闇に染まる自分を、アイーシャは抑制することが難しかった。
一方、敵艦に乗り込んだティグリスは、まるで野獣のように歩んでいた。
群がる敵を盾で打ち払い、海へと投げ飛ばす。
猛り狂った獣のようでありながら、ティグリスはどこまでも冴え冴えとした頭を持っていた。
ティグリスの獲物はトリスタンだけだ。
行く手を阻む者は、誰一人とていないかの如くであった。
「強いな……お前は」
トリスタンのマントが揺れている。
幾度か矢を払ったせいで、数カ所の穴が開いていた。
一方ティグリスの鎧も、矢を受けてボロボロだ。
「当然だろう。俺の名を聞いた事は無いか? ティグリス・キケロだ。一応、降伏を勧告してやる」
「ほう……お前が帝国の剣か……」
言うや、トリスタンが駆けた。
揺れる艦の上でも、陸と変わらぬ早さである。
互いの剣が激突し、火花が散った。
つばぜり合いをしながら、ティグリスが言う。
「まぁ、今は魔導学院に通う、しがない学生だがなッ!」
言うや、ティグリスがトリスタンの剣を弾く。
トリスタンの体勢がぶれた。
ティグリスは振り上げた剣を降ろし、斬りつける。
トリスタンは身体を捻り、躱した。
躱しざまトリスタンは踏み込み、突きを繰り出す。
避けきれないと感じたティグリスは重心を落とし、身体を回転させてトリスタンの胴を払った。
互いの剣が銀光を煌めかせ、交差する。
トリスタンの剣はティグリスの兜を弾き、ティグリスの剣がトリスタンの脇を翳めた。
鋭い撃ち合いが二十合程続いている。
端から見れば、両者は互角に見えたであろう。
だが――実際は違った。
ティグリスが言う。
「もう一度言おう。降伏しろ……殺すには惜しい」
ティグリスが剣をユラリと左右に揺らし、トリスタンを睨む。
トリスタンは頷き、「ふぅ」と溜め息を吐いた。
「まぁ、こんなものか……手加減した目的は何だ?」
「被害を減らそうと思った」
「これでか?」
先ほど翳めた脇腹を抑えた手を、トリスタンが開いて見せた。
血がベットリと付いている。
「死んでねぇだろうが」
「うむ。まぁ……生きているな」
「だろう?」
暫しの沈黙があったあと、トリスタンが笑った。「ふっ……ふふふ」
「……お前、面白い男だな。ティグリス」
「そうか? お前も結構なモンだと思うぞ、トリスタン」
「そうか」
「そうだ」
「では、降伏しよう」
「……酒でも飲むか?」
「俺は怪我人だぞ」
「酒で消毒しろ」
「……俺は、葡萄酒が好きだ」
「あるぞ」
「では、飲もう」
「そうか、飲むか」
「うむ」
「うむ」
ティグリスが酒を、トリスタンはチーズを用意した。
なぜか、そういうことになった。唖然としたのは、アイーシャである。
「なぜ友達にッ!?」
その夜、船上は双方が入り乱れた宴となる。
皆が死んだ戦友に涙し、互いの健闘を讃え合う。
ある意味アレクシオスの指令は、完璧なまでに達成されていた。
こうしてトリスタンは降伏し、ニコラオス諸島もアレクシオスの手に落ちたのである。
◆◆
アントニアが防戦を続けて三時間ほど。ザッカールから狼煙が上がった。
これを待っていたアントニアは、ようやく反撃に転じる。
といっても既に崖の上は制圧を終えて、味方が待機していた。
それを何とか敵の罠が発動しているように見せかけ、エリティスの本隊を足止めしていた状態である。
「魔法で敵の矢を防ぎつつ、前進。エリティスを生け捕りにするわ」
アントニアの指示に、ディアナとミネルヴァが頷いた。
同時にアントニアの艦から信号旗が上がり、崖の上から敵艦隊に矢が降り注ぐ。
だが、思わぬところでアントニアの思惑が外れた。
この状況に慌てたエリティスが、旗艦もろとも真っ先に逃げたのだ。
しかも配下の艦隊を盾に逃げた為、追いたくても追えなかった。
挙げ句の果てには盾となった艦に、ヴェンゼロスがいる。
彼はどうあれ猛将だ。そう簡単に、通してくれそうもなかった。
といって、形勢は既に定まっている。
アントニアはヴェンゼロスに降伏を呼びかけ、道を開けるよう説得をした。
が――当然、答えは否だ。
「ここを通りたきゃ、俺を倒して行きやがれッ!」
戦斧を片手に禿頭をキラリと光らせる老将に、皆が手を焼いている。
なんだかんだ言って、誰も彼を心から嫌っている訳ではないのだ。
彼を信用していなかったディアナでも、
「まぁ、気持ちは分かるよ、うん」
と言った程である。
だからこそ、皆が彼をどうにかしたいと考えていた。
「俺に行かせてくれ。約束は出来んが――なるべく生かして捕える」
アントニアの前に進み出たのは、ヴァレンスだ。
彼は鮫のヴァレンスと呼ばれた海賊で、ヴェンゼロスとも旧知であった。
きっと今のヴェンゼロスは、完璧に敗れて清々しているのだろう。
だとすれば、多分ヴェンゼロスは死にたいと考えている。
ヴァレンスは彼の思考が分かるだけに、応えてやろうと思ったのだ。
といって、彼もヴェンゼロスを心から信用していた訳では無かった。
もしかしたら、そういった感情が彼に「裏切り」という行為を働かせたのかも知れない。
そう思えばこそヴァレンスは、前に進み出たのだ。
ヴァレンスがヴェンゼロスの艦に乗り込み、一騎打ちが始まる。
得物は互いに、大斧だ。そして身体の大きさも同等。鎧も無し。
彼等の大きな違いと言えば、髪の有無と髭の有無であろう。
互いに別の意味で、二人はとてもワイルドだった。
先に仕掛けたのは、ヴェンゼロスだ。
大斧を振りかぶり、ヴァレンスの頭上目掛けて振り下ろす。
鈍色の刃が柘榴のように頭を割るかと思われた寸前、太い斧の持ち手でヴァレンスが攻撃を受け止めた。
ギィィン!
凄まじい音が響く。火花が散った。
互いに歯を剥き出して、ギリギリと力を入れている。
押し込むヴェンゼロスに、押し返すヴァレンス。
肩の筋肉が盛り上がり、はち切れんばかりであった。
「しゃらくせぇ」
力の勝負に勝ったのは、ヴァレンスの方だ。
若さゆえに勝てたのだろう。
打ち降ろされた斧を弾き返すと、ヴァレンスは体当たりを喰らわせた。
ドンッ!
骨と骨がぶつかる音が、辺りに響いた。
二人ほどの巨体がぶつかれば、その迫力は凄まじい。
見ていた兵が、腰を抜かしてへたり込んだほどだ。
踏み込まれたヴェンゼロスは、僅かによろけた。
追撃を仕掛けたヴァレンスが、斧を水平に振るう。
ヴェンゼロスの斧が、弾けとんだ。
「弱ったな、ヴェンゼロス。歳か?」
斧を船の床に、ズンッと置き、ヴァレンスが言う。
ヴェンゼロスは斧を失った掌を見つめ、震えていた。
痺れているのだろう――かつての彼であれば、受け止めていたはずだ。
「まぁ、四の五の言わず、殺せや」
ヴェンゼロスは、呻くように言う。
禿頭を掌でペチ、ペチ――と叩いていた。
「俺にお前を殺す権利は無い。アレクシオスさまの前で、言え」
ヴァレンスは斧の平でヴェンゼロスの顔を殴り、気絶させる。
それから、彼を縛り上げた。敵の抵抗は既に無い。
エリティスに見捨てられた彼等だ――皆、意気消沈していた。
ヴェンゼロスが捕えられるのは、実に三度目のことである。
気絶した彼の目には、薄らと涙が浮いていた。
「降伏しろッ! 兵の命を取る気は無いッ! その気があるなら、以後はアレクシオスさまにお仕えしろッ!」
ヴァレンスの叫びに応じて、エリティスの兵達が武器を捨てる。
自分たちを見捨てた首領を、彼等もまた見捨てたのだ。
こうしてエリティス艦隊は旗艦を残し、全てが降伏した。
アントニアは急ぎ、エリティスの旗艦を追う。
とはいえ辺りは、夕闇に包まれつつあった。夜、川を遡上するのは危険だ。あまり速度を上げることは出来ない。
「アレク――流石にザッカールにまだ留まってる、なんてことは無いわよね」
祈るように星を見上げたアントニアは、彼の司令官を思う。
もしもエリティスがザッカールに戻れば、その兵力は三百にもなろう。
対してアレクシオスは数人だ。勝負にならない。
僅かの間でも彼がザッカールを離れていてくれれば……。
アントニアは、そう願わずにいられなかった。




