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海域の覇者 3

 ◆


 アレクシオス・セルジュークが出発した翌日、ティグリス・キケロとアイーシャ・ペガサスが艦隊を率いてアイオスを出航した。アントニア・カルスの出撃は、その二日後である。


 つまりアレクシオスがランスにラッキースケベをしていた頃、ドムトとテオドラはイラペトラ諸島に到着していたし、ティグリスは既に周辺海域で錨を下ろしていたのだ。

 アントニアがイラペトラ諸島――ザッカール港へと至る河口へ到着したのは、アレクシオスが左側頭部に鈍痛を覚えた朝のことである。


 主力艦隊を率いるアントニアは船団の最後尾を進む旗艦を眺め、楽しそうに唇の端を吊り上げた。

 

「鎧を身に着けてしまえば、爪牙兵も立派に見えるものね」


 陽光を反射してキラキラと輝く鎧や鉄板が、彼等の正体を隠す役目も果たしている。そんな中、一体の爪牙兵が手を振っていた。


「思ったよりも、敵を騙せそうだね。アイツがいることで、人間っぽい動きもできるし」


 アントニアに答えて、ディアナが笑う。


 あんな馬鹿なことをするのは、ガブリエラが爪を提供して、アレクシオスが作成した一体に違いない。

 爪牙兵の中では戦闘力が群を抜いて高いが、もっともやんちゃな爪牙兵でもある。

 他の兵と一緒に乗せたら大変なことになるかもしれない――という意見もあったが、ディアナは太鼓判を押した。何故ならアレが暴れるのは、アレクシオスが居ればこそだと気付いたのだ。


 あの爪牙兵は、ガブリエラの肉体、から作った。

 そしてガブリエラの肉体は、紛う事無く女である。

 つまりアレは男女曖昧な彼女の心を反映しない、女だけのガブリエラと云える。

 そのことに気付いて以降、ディアナはアレの運用に戸惑いを覚えることは無かった。

 どちらにしても、爪牙兵は使い捨ての兵だ。せいぜい派手に、敵を道連れにすればいい。それだけのことである。


「こうして見ると、少し勿体ない気もするわね。軍艦を動かせる七十名の兵と思えば……」


 アントニアが手を振り返しながら、呟いた。


「フヒヒ……でも、込めた魔力が尽きれば、どうせ機能停止して灰になるから……どっちにしても使い捨てだよ」


 ディアナは少しだけ柳眉を寄せて、すぐに冷徹な笑みを見せる。愛着を持たれても困る――と思ったのだ。

 その隣でミネルヴァが、前方の森から飛び立った鳥を指差す。彼女の声は、緊張を孕んでいた。


「見て、鳥が飛び立ったわ。敵がいると思うのだけれど……伝令かしら? アントニア、そろそろ艦隊に警戒体制を……」


「あら、目敏いわね。あなたも軍の指揮をした経験があるのかしら?」


 アントニアの瞳が、怜悧な光を帯びる。彼はミネルヴァの真実に近づいていた。けれど、それを強引に聞き出す気は無い。本人が語るなら、聞きたいと思っているだけだ。

 しかしミネルヴァは質問の意図を察して、はぐらかした。


「まさか、私は一介の奴隷女よ。アレクシオスさまの、単なる性のはけ口に過ぎない」


 苦笑するミネルヴァは、身体の曲線を強調する鎧を身に着けていた。

 アントニアは男色家であるから、彼女に興味を持たない。けれど彼女をはけ口に出来るなら、アレクシオスは果報者なのだろう、と考える程度の思考は有していた。


「ふぅん……以外とアレクも、やることやってるのねぇ」


 ディアナは、形の良いミネルヴァの胸を覆う胸甲に視線を這わせ、生唾を飲む。彼女も元は男だ。ミネルヴァの魅力が並々ならぬモノであることは、よく分かっていた。

 しかしアレクは童貞のプロだ。その事をディアナは知っている。こんな美人に手出し出来る訳が無い。


「そう! アレクは完全無欠のヘタレだ!」


 ディアナの心が叫び、瞳に希望の火が灯る。ミネルヴァの嘘を看破した。

 しかし――この女は事実として、アレクシオスが望めば彼を受け入れるだろう。

 ガブリエラにとって、尤も恐ろしいライバルになる。何しろミネルヴァは知的な姉萌えのする、生粋のドMだ。

 アレクシオスに何らかの性癖が芽生えれば、すぐにもヒットするだろう。いや――何より銀髪紫眼はヤバい。いっそホームランだ。

 誰がどう見たって、ラノベヒロインである。無知蒙昧な暴虐を絵に描いた、巨乳TS令嬢よりもヒロイン要素が強い。


 どうする――ディアナ。親友の為に、一肌脱ぐか!? ディアナは自問し、決断を迫られた。

 だが、やはりガブリエラは親友である。彼女の為なら、ディアナは何だってやるのだ。

 ディアナの決意は、ダイヤモンドよりも硬い。ミネルヴァをアレクシオスに近づけてはならない。その為に、彼女は犠牲になる覚悟だった。


「バ、バカなこと言うなよ、ミネルヴァ。今のアレクは、ボクに夢中さ。この前だって六回だよ。口やお尻は当然のこと――フヒヒ、あ〜んな所も使ったなぁ〜」


「なっ……アレクシオスさまが……あなた、親友じゃなかったの!?」


「フヒヒ、フヒヒ! 親友とは世を忍ぶ仮の姿さ! ボクこそ、アレクの性奴隷! さあ、わかったら二度とアレクの寝室に近づくなよッ!」


 ガックリと床に両膝を落とすミネルヴァ――彼女は小さく嗚咽を漏らし、泣いた。

 だが、このときディアナにも、不思議な変化が起きてしまう。

 

 あれ――ボク――アレクになら、されてもいい。

 どうしよう……こんな気持ちじゃ、ガブリエラを裏切っちゃう!

 ディアナも同じく、がっくりと膝を落とす。

 しかしミネルヴァの目は、まだ死んでいない。


「お尻っ……! 私だってアレクシオスさまに是非、お尻を使って頂きたいわっ!」


 そんな中、アントニアは何事も無かったかのように命令を下した。


「全艦第二戦速――警戒を厳になさい。特に火矢ね」


 恐らく、会敵は明日の正午を過ぎるであろう。もとよりオネェであるアントニアには、ディアナやミネルヴァのお尻がどうなろうと、知った事ではないのだ。

 むしろアントニアにとって重要な情報は、こちらの方だった。


「……アレクってお尻が好きだったのね。あたしので良ければ、いつでも使っていいのに……」


 セルジューク朝が滅び去った後、アレクシオス帝を研究する者にとって、絶対に意見の割れる事案が一つだけあった。

 それは、アレクシオス帝が男色家か――否か。むろん、これはセルジューク朝が存続していた時代、タブー視されていたことである。

 しかしだからこそ、多くの研究者がこの問題を扱い、多くの資料が発掘されることとなった。

 これを是とする見解を持つ者は、アントニア・カルスこそがアレクシオスにとって終生の恋人だと言う。

 それには様々な理由があるが、その最たるものがコレであった。


 ――アントニア・カルスの手記。


 アントニア・カルスはセルジューク朝初期において、最高の将軍と評されている。その彼が、自ら書いた手記だ。歴史的価値は、計り知れない。

 しかし長い年月は、無情にも資料を劣化させてゆく。

 彼の手記は丁度良い所で切れ、あるいは水で滲んでいた。ゆえに判読は困難を極め、幾人もの歴史家が大いなる壁に悩まされたのだ。

 しかし歴史家達は諦めなかった――解析した文字を繋げ、なんとか解読に成功したのである。

 そして、ようやく読めた文字を繋げた結果が、これだ。


「アレクシオスはお尻が好き――あたしの――」


 ――実に哀れな話であった。

 こうして真実は捩じ曲げられ、アレクシオスとアントニアの耽美的な絵が、数多く誕生したのである。

 人々はこれを、「ルネッサンス」ともてはやした。


 ◆◆


 上陸した部隊の半数をテオドラに預け、ドムトは河が比較的浅い地点を選び、深夜に渡河を決行した。

 アレクシオスの作戦は敵が兵を潜ませる地点の背後に、こちらの兵を潜ませるという悪逆なものだ。

 当然、河を遡上する艦隊を渓谷で挟撃する以上、その両岸に敵は兵を伏せるであろう。

 だから「その背後に兵を伏せろ」と、アレクシオスは言った。

 

 だが、ドムトを戦慄させたものは、その程度の読みではなかった。

 アレクシオスは敵が見張りを立てる場所さえ、ピタリと当てているのだ。

 兵の数を合計で一〇〇としたのもまた、敵に気取られぬギリギリであった。


 アレクシオスがドムトに手渡した羊皮紙には、先の展開も書いてある。

 そこには、これから渡る左岸こそ、勝利の要とあった。

 実際その通りに戦が進むかは未だ不明だが――もしもこれで勝利を収めたならば、彼の神算鬼謀は帝国に冠絶するだろう。

 

 ドムトは身震いした。それは何も真冬の河を渡ったから、というだけでは無いはずだ。

 とはいえ彼が左岸に渡った理由は、何もこちらが作戦の肝になるからだけではない。

 流石に帝国の皇女に――というより少女に冬の河を渡らせるなど、気が引けたからでもあった。


「音を立てるなよ」


 太い縄をしっかりと握り、後続の兵にドムトは声を掛ける。

 この命綱を放せば、闇夜に近い夜の河で生き残る術は無い。

 だがドムト達は誰一人欠けることなく、対岸へと渡った。

 五〇の兵はザアザアという川音を背に、森の中へと紛れ込んで行く。


 不死鳥フェニックスドムト――その名が歴史の表舞台に出る、これが最初の戦いだった。


 ――――

 

 ドムトの隊が対岸へ渡ったことを確認し、テオドラは木に結んだ縄を解く。程なく縄は対岸の部隊に引き上げられて、見えなくなった。

 ここまでで、不測の事態は置きていない。起きていないが、テオドラが気にしているのは別のことだった。


「……ガブリエラのヤツ、この機会にアレクと何かしようなんて、思ってるんじゃないだろうなぁ!」


 本当なら自分がアレクシオスと共にいたかったというのに、今回は不本意な任務を任されてしまった。


「まあまあ、副官どの。連隊長はあの通り、朴念仁ですから……」


 アレクシオス子飼いの兵に言われて、ようやく落ち着いたテオドラだ。

 それにしたって、ガブリエラの胸は凶器だと思う。

 テオドラは自分の慎ましやかな胸を見て、小さく溜め息を吐いた。


「あたしにも、アイツの半分くらいあったらなぁ……」


 そう思い、慌てて首を左右に振る。


「いや、ある! 半分くらいは、ある! これからだ!」


 剣を抜き、雄叫びを上げそうになったテオドラを、三人の兵が抑え込む。


「ちょ! 副官どの! こんな所で騒がないで下さいっ!」


「あ、ごめん」


 素直に兵に頭を下げるなど、テオドラは本人も気付かぬうちに、随分と成長をしていた。

 それに兵を直接率いて行軍することも、森の中に隠れて兵を伏せる事も、テオドラは性に合っている。

 もともと皇宮という鳥籠の中では、息が詰まると思っていたテオドラだ。いっそ、森の中が心地良いのだろう。

 兵達の先頭に立ち、歩みを進める。

 暫くして、アレクシオスの残した小さな目印を見つけた。左手を上げて、全軍の行進を止める。


「今日はここまでだ。皆、休め」


 後に獅子と呼ばれるガブリエラに対し、虎と呼ばれるテオドラ。

 二人は終生の好敵手になる訳だが――個人の武勇はともかく、歴史家達は武将としての彼女を高く評価している。その原型が今、朧げながら浮かんでいた。

 

「一〇〇〇人対一〇〇〇人までの勝負ならガブリエラが勝つだろうが、一〇〇〇〇人対一〇〇〇〇人以上の勝負なら、テオドラが勝つ」


 これが歴史家達の通説である。

 といっても一〇〇〇人までなら、ガブリエラは一人で敵を斬り殺すという。

 だとすれば案外、彼女の勇猛を讃えただけの話なのかもしれないが……。


 とはいえテオドラは、胸のサイズも用兵もまだまだ未熟。今は一〇〇〇〇対一〇〇でもガブリエラに負けるだろう。そのことは、誰よりも本人が自覚している。


「いつか……勝つッ! 色んな意味でッ!」


 テオドラは淡い恋心と用兵の楽しさを噛み締めながら、剣を胸に抱いて今日も眠るのだった。

 

 ◆◆◆


 ティグリス・キケロは洋上でアイーシャ・ペガサスと合流し、艦隊を再編成した。ニコラオス諸島からの援軍、トリスタン迎撃の為だ。


「トリスタンは用兵巧者だ、気をつけろ」


 船室で酒を酌み交わしつつ、アイーシャがティグリスに忠告した。


「用兵巧者? この俺よりもかい?」


 ティグリスはテーブルの上に足をドンと乗せ、愛人にした女性兵士に酒を注がせている。

 今まで女ばかりの海賊団に居たアイーシャとしては、嫌な光景だ。

 しかし嫌悪感を抱かせないのが、ティグリスという男の人徳なのだろう。アイーシャは肩を竦め、笑って見せた。

 

「さあ? どっちとも戦ったことが無いから、知らないよ。ただ、ヤツに敗れた帝国の船乗り達は、揃って言うのさ――気付いたら負けてた、ってね」


「――だったら向こうも同じ条件さ、俺も気付いたら勝ってる。ふははっ!」


「……流石に、大した自信だな」


「……ああ、当然だ。俺に勝てるヤツなんぞ、この世に二人しかいねぇ」


 ティグリスは人差し指と中指を伸ばし、アイーシャに言った。


「二人?」


 アイーシャは髪を掻き上げようとして、手を止める。いつものクセだ。

 彼女の左頬には、抉れた様な傷がある。別に見られた所で、どうということも無いと思っていた。むしろ戦いの最中であれば、敵に恐怖感を抱かせるこの傷に、誇りさえ抱いているというのに……。


「ガイナス・シグマと……アレクシオス・セルジューク」


 アイーシャの心を知ってか知らずか、彼女の思い人であるアレクシオスの名を、ティグリスは強調した。そして付け加える。


「アレクシオスはな、見てくれなんざ気にしねぇよ。アンタが本気で好きになったんなら、隠す必要なんてねぇさ。もっとも――敵は多そうだがな」


「敵なんて、いない」


 アイーシャは、瞬間的に顔を背けた。内心を読まれたことが、悔しかったのだ。

 けれどティグリスは面白い玩具を見つけた子供のように、目をキラキラさせて笑っている。


「ガブリエラ、ディアナ、ミネルヴァ、それからテオドラ――くくっ……アンタ、一番年増だなッ!」


「て、てめぇっ!」


「でもよ……アレクシオスみたいなヤツは、年上に弱いぜ、きっと。ふははははっ!」


 楽しそうに笑うとティグリスは席を立ち、部屋を後にした。

 帝国最強の攻撃力を誇る将は、まさに放たれる直前の弓矢そのものだ。

 滾る熱い血を受け止める者は、敵か女か――どちらにしても、彼の相手は至難の技である。

 

 一人取り残されたアイーシャは頬の傷を撫で、それから左半面を覆う邪魔な髪を短刀で切った。


「今は勝つこと……それだけだ」


 髪を切れば、それだけ視界が広がる。その効果は、言うまでもない。

 端整な右半面と抉れた左半面――アイーシャは鏡に写る自分に侮蔑の笑みを向け、呟いた。


「受け入れろ、これが私だ。それにアイツは、こんな私を綺麗だと言ってくれた……信じろ」

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