海域の覇者 2
◆
四日前、小さな帆船に乗ってマーモスを出た俺達は、つい先ほど夜の闇に紛れてイラペトラ島の海岸に着いた。
月の無い夜を選んだせいか、星明かりだけの海岸は驚く程に暗い。ザザーッという波の音が闇を強調して、恐怖心を煽る。
船は岩場の影に隠した。これが見つからないことを祈りつつ、ともかく身を隠せる所まで進み、今夜は休むことにしよう。
「提督って無駄に度胸があるよな」
ナナが砂浜を歩きながら、ボソリと言った。彼女はエルフの血が入っているせいで、夜目も利く。もっとも――俺だって魔法を使えば、夜目くらい利く様になるのだけど。
「まったくです。こんな仕事、ご自身でやる必要は無いのに」
肩にかかる茶色の髪を夜風に靡かせ、小柄な少年が言う。彼は眉の上で髪を切りそろえた、いわゆるパッツンだ。
そう、彼こそアントニアが自信を持って推薦した、ランス・ヒューリー君である。以前、一度会った事があるので、俺としても馴染み易かった。
弓の名手だと聞いていたし、出発前に技量をセルティウスさんがテストした結果、剣の腕も上々とのこと。俺よりは強いとの太鼓判を頂いている。
「弱いくせに出しゃばっては、兵に負担をかけよう。そも――将ならば、後ろでドンと構えておればよいのだ」
セルティウスさんがゴミを見るような目で、俺を見ていた。なにこれ、俺、悪い事したかな?
「なあ、俺、そんなに弱い?」
「ディアナよりは強い、心配するな」
ガブリエラに聞いてみたが、慰めにはならない答えだった。
浜辺から雑木林に入ると、一軒の小屋があった。中には網や竿があることから、漁師達の道具小屋だろうとナナが言う。時期的に漁には出ないだろうから、朝、人が来る心配も無いそうだ。
野宿をするより寒さを凌げるし、逆に野宿で見つかってもつまらない。二人ずつ交代で見張る事にして、ここで休むことにした。
といっても、俺達は五人だ。ガブリエラとナナ、俺とランス君、セルティウスさんは強過ぎるから一人で、という形で見張りの順番を組む。
ガブリエラとナナが見張りから戻って来ると、夜も半ばを過ぎていた。俺より先に起きたらしいランス君に身体を揺すられ、やっとの思いで目を覚ます。
四日の船旅は、かなりの負担を身体に強いていた。腰や背中が痛むし、未だに揺れているような感覚だ。ようやく藁の上で眠ったと思えば、二時間で起こされる。
もう嫌だ、誰だ、こんな任務を考えたのは――と思ったら、自分で考えた策だった。
「提督、提督……交代ですよ、起きて下さい」
耳元に聞こえる声は妙に艶っぽく、優しい声だ。
この声で「ご飯、出来てますよ、あなた」なんて言われたら、こんな俺でも幸せな家庭を築ける気がする。
そう思って寝返りをうち、希望を伝えてみた。
「むにゅ……――って耳元で言ってくれたら、起きるかもしれない……」
「ご、ご飯、出来てますよ、あなた……」
モジモジした感じで、吐息と共に耳元へ吹き込まれる声に、俺は震えた。
なんという美声――なんというエロさ。リピート・アフター・ミー。さあ、言ってみて。
「ご飯にする? お風呂にする? それとも、わたし?」
「ご、ご飯にする? お風呂にする? そ、それとも、わたし? て、提督、俺――こんなこと……!」
これはたまらない。
ふんす――と息を荒らげ起き上がると、ようやく俺は目の前の現実を見た。
ランス君がモジモジと内股で座り、ガブリエラが虫を見る目で見下ろしている。ナナは息を殺しながらも腹を抱えて笑い、床に転がって足をバタバタさせていた。
……ふむ。
俺は心に大きなダメージを負い、立ち上がって言い訳をする。
「ランス君は男の娘だから、ギリオッケーだろ?」
「お前の趣味、いよいよ本気で分からねぇよ」
ガブリエラの冷たい言葉が、俺の股間を直撃した。ヒュンってなる。
「ガブリエラ……俺はもしかしたら、変態かもしれない」
「気付くのが遅ぇよ。もう手遅れだ」
ランス君は申し訳無さそうに立ち上がり、「……あの、見張りに行きましょう。俺、気にしてませんから」と言っていた。
なんだか俺の元気が回復した。うん、確かに手遅れだ。
俺は気を取り直し、ランス君と共に小屋の外へ出る。
冬の寒空の下、星明かりに薄らと照らされたランス君の横顔は、幽玄の美を思わせた。
――と、いかん! 俺は百合スキーであってBLではない。ランス君に見蕩れてどうするのだ。両頬をパチンと叩き、周囲の警戒を厳にした。
俺は正常、俺は清浄、俺は性情――ちっがーうっ!
「提督――今回のこと、ありがとうございます」
「ん? 礼を言われる様な事は、何もしてないよ? むしろ変なことしか……」
弓を片手に、ランス君が唐突に話し始める。俺は腕組みをしたまま、首を傾げた。
「軍団長のお話も聞けたし、剣聖と謳われるセルティウスどのと稽古まで出来て、感激です」
「ああ、そんなことか。こちらこそ、こんな任務に付き合ってくれて、感謝してるよ」
「そんな……提督のお役に立てるなら、俺、何でもします!」
暗がりで良く見えないけど、きっとランス君の目は輝いているんだろうな。
「ランス君は、将軍になりたいんだっけ?」
フクロウの鳴き声が止んだところで、俺はそっと聞いた。吐き出す息が、白く揺れて消える。
「はい――恥ずかしい話ですけど、万の軍勢を指揮して、強大な敵と戦ってみたい。自分がどれだけの人間か、知りたい――そう思っていました」
照れくさそうに語るランス君は、戦闘狂なのだろうか? いや、違うな。彼は今、自分の事を過去形で語った。
「いました――というのは? 今はもう、違うのかな?」
「戦えば、当然ですけど人が死ぬんですよね。俺自身も人を殺しますし……それを、あまり考えていませんでした。
なんていうか、敵に矢を放つとするじゃないですか――それが頭に当たっていたら、血と脳が出て死ぬんですよ。ああ、これを自分がやったんだなぁって思うと、気持ち悪くなって。将軍っていうのは、それをやれって命令する訳じゃないですか――だからといって部下にそれをやらせなかったら、自分の部下がそうなっちゃう訳で……」
「そっか……そうだね。じゃあさ、もう将軍には、なりたくないのかな?」
「いえ、逆です。なるべく人を殺さない将軍になりたい――そう思う様になりました」
「ははは……理想は立派だけど、それは無理だよ。将軍なんて勝てば敵を殺すし、負ければ味方を殺す――どっちに転んだところで、両手は血まみれになるだけさ」
「いいえ――そんな風になさらない人を、俺は知りました」
「ガイナス・シグマ……かい?」
「……ガイナス――ラヴェンナ共和国の名将ですか。子供の頃は漠然と、いつか彼を倒すのは俺だって、そう考えていました」
「いつか――倒せばいいじゃないか」
「そうですね、いつか。だけど、そのいつかが来る前に、彼は倒されていると思いますよ」
「へぇ。彼がそう簡単に負けるとは、思えないけれどね」
「はは……ご謙遜を」
ランス君が俺を見て、ニコッと笑った。闇の中でも輝く白い歯が、とても美しい。
「……提督は、やっぱり凄いです」
足音に気を付けながら、ランス君が身体の向きを変えた。少し離れた場所で、がさり――と音がしたからだ。
俺達の間に緊張が走り、彼は音の方向へ弓を向けた。
しばらくしてランス君はニコリと微笑み――「鹿ですね」と言って弓を下ろす。
この暗がりでも、彼は先が見えているらしい。俺には正直、さっぱりだ。
もしかして俺は、見張りと言う名の役立たずなのだろうか? ちゃんと暗視の魔法を使うべきだろうか?
だけどランス君は、この役立たずな俺を凄いと褒めてくれる。
何て優しい子。後ろからそっと、抱きしめてあげたい。
こんなことを思う俺は、きっともうダメなのだろう。百合神よ、許し給え。俺、BLの気もありました。
「私はちっとも凄くないよ……今だって……百合神を裏切りそうに……くっ……」
ランス君の肩に触れた手を、そっと戻す。踏み越えてはならない一線は、ここだ。
観葉植物のプライドを持って、BLには踏み込まぬ。断じてアントニアの同志にはならない。
決意を込めた拳を握る俺に、ランス君が再び笑顔を向けている。
「いえ、凄いです。俺と同い年で、百年以上誰も為し得なかったマーモス諸島の制圧を、目前にしているんですから。それに軍団長とも対等に話して、帝国の剣と盾を従えて……何より、敵も味方も殺さない戦い方が出来るなんて、俺――本当に尊敬してます!」
真剣な眼差しが辛い。
彼は本当に、軍人や武人というものに憧れを抱いているのだろう。
一方で俺は、なるべくならこんな仕事、やりたくはない。
敵を殺すのも、殺される覚悟をするのも嫌だ。何より、軍人は女性が少ない。つまり――百合っぷるがいないのだ。
魚は水無しでは生きられず、俺もまた、百合無しでは生きられぬ。だから俺は首を振り、ランス君の敬意をやんわりと否定した。
「ランス君。私はそんな偉そうな者じゃない。今回だって結局は敵を殺すし、殺さざるを得ない。確かになるべく人が死なない策を考えてきたが――ここに至ればこんなものだ。何より私は、将軍じゃないしね」
「提督なら、将軍にだってすぐになれますっ!」
「はは……」
曖昧に笑って、ランス君の憧れビームを回避する。
だけど、この性格ならランス君って、けっこう良い将軍になるかも。物怖じしないし、どんな時も割と冷静でいられるし。
もっとも平民だと言っていたから、現行の体制じゃ軍団長までは登れないだろう。俺のように皇族やら四公爵家に、特別なツテでもあれば別だけど……。
とはいえ、まずは戦功だ。彼がこの戦いで功績を立てたら、百人長に抜擢してみよう。
上手く兵を扱えるようなら、ドムトと並んでウチの連隊で経験を積んでもらえば良い。その程度なら、俺にも応援してあげられる。
そんな訳で、さっそく先輩面して講釈を垂れることにした。
「ランス君。軍を率いるに当たって、非常に大切なことが二つある。何だか分かるかい?」
俺の問いにランス君は悩み、真剣に答えた。
「勇気と気合い、ですか?」
うん――まあ、脳筋だろうなとは思っていたよ。だから俺は苦笑して、首を左右に振った。
「いいや。補給の計画と、退き際を間違えないことだよ」
「……え?」
「軍隊は武器や食料が無くては、そもそも戦えない。退く際を間違えれば無駄に兵を死なせるし、次に繋がらないからね。どんな将軍も、百戦して百勝とはいかないものさ」
ランス君は目をパチパチと瞬き、大きく頷いた。
と――そこでガイナスを思い出し、「あ、彼は不敗だった……」と、俺は深い溜め息を吐く。
◆◆
イラペトラ島に入って二日目も無難に過ぎ、三日目の夜を迎えている。昨日、今日と野宿が続き、ガブリエラとナナが文句を言っていた。
昼間は敵が伏せるであろう渓谷に行ったが、そこは実に見晴らしが良かった。眼下を流れる渓流を一望出来るし、下からは草木が邪魔でこちらが見えない。となれば、まず間違い無く敵はここに兵を伏せるだろう。
これを見た俺は作戦に対して、より一層自信を深めることができた。
「なあ、あそこに敵が兵を置かなかったら、どうするんだよ」
ガブリエラが背中を掻きながら、顔を顰めて言う。
三日も身体を洗わなければ、痒くなって当然だ。髪もボサボサになっているし、少し可愛そうな気がする。
「その時は狼煙でも上げて――」
「上げて?」
「尻尾を巻いて逃げる」
「おいっ!」
ガブリエラが立ち上がって、拳を振り上げた。それをセルティウスさんが制し、「姫、お静かに……」と口元に人差し指を置く。
セルティウスさんは、この状況をむしろ楽しんでいるらしい。聞けば若い頃は、暗殺などにも携わったという。
なんでも標的を殺した後、逃亡時に相当苦労したらしい。それに比べれば、一週間や十日くらい森の中にいたところで、どうという事も無い――と言っていた。
まあ、正直に言えば、俺も辛い。けれど自分が考えたことなので、文句を言う訳にはかなかった。
今夜も三交代での見張りに立つ。もちろんランス君と一緒だ。
彼は特に文句も言わず、だいたいの状況で黙々と仕事をこなしている。
ガブリエラやナナからの評判も上々で、セルティウスさんからも可愛がられていた。
もちろん俺も彼を可愛がっている――まあ、可愛がり過ぎてガブリエラからは、かなり変な目で見られているが……。
「この辺りからは、敵も見張りを立てているかもしれない。何か変わったことがあれば、すぐに知らせてくれ」
そう言って、野営をしている洞穴から二手に分かれた。
暫く歩いて、俺はふとある事に気付く。
深夜、虫の鳴き声と川音が静かに響く中、目だけを頼りに何かを見つけるのは大変だ。
もちろんランス君は、俺よりも夜目が利く。しかし俺には魔法がある。というか、魔法によって俺は今、視力を強化していた。いわゆる暗視である。
そして重要な事は、自分に魔法を掛けても、なお魔力が余っているという事実だ。
もともと夜目の利くランス君に魔法を掛けてあげれば、効果は倍増。昼間と同様に見えるだろう。
「……よし、ランス君にも魔法のお裾分けだ」
そう思っても、当然ではないか。
だいたい俺とランス君は、ガブリエラのように動物的な勘に優れている訳でもない。かといってナナのように、闇の精霊の囁きも聞こえず、セルティウスさんのように、気配を読む事に関して、達人の域に達してもいないのだ。彼にもきっと、俺の魔法は役立つだろう。
だから俺は来た道を戻り、ランス君の守備範囲へと足を向けた。
魔法によって視力を強化した俺だ。たとえ暗闇の中といえども、ランス君を見つけるのは容易かった。
彼は茂みに腰を落とし、しゃがんでいる。
なんだ――サボりか? ま、彼もまだ若い。やってらんねぇ、と思うこともあるだろう。
だが、今はダメだ。しっかり見張りをしないと、全員の命を危険に晒す可能性だってある。ここは心を鬼にして、注意をしなければ――そう思って近づくと、“しゃぁぁ”と激しい水音が聞こえた。
「むむ?」
さらに近づくと、ランス君の股の間から水が溢れている。
ああ、おしっこか……そう思って俺はふと首を傾げた。
なぜ男が、しゃがんでおしっこをするのか?
あ、いや――これは大きい方をするついでなのかな?
しかし重要な問題は、そこでは無い気がした。何故ならランス君の股間には、本来あるべき男の武器が無いのだ。これは、おかしい。
確かに彼のメインウェポンは弓だが、男なら誰でも夜の大砲を股間に備えているはず……。
俺はこちらを見上げながらワナワナと口を震えさせるランス君と、正面から対峙していた。
ランス君は顔を真っ赤にして、「あっ、あっ、どうして、どうして?」と声を漏らしている。
動揺しているのだろうか? でも男同士じゃないか――まあ、そりゃ恥ずかしいと思うけど、そんなに狼狽え無くとも……。
だけどホント、ち○こはどこだ?
顎に指を当て、俺は必至で考えた。そしておもむろにランス君へと近づく。
やっぱりランス君の真ん中から、水が流れている。ち○こは何処に行ったのだろう。じっくり見ても、見当たらない。
ち○ことは時折、脱走などするものだっただろうか? ち○こを失ったイケメンって、生きるの辛そうだな……。
俺は同情と憐憫を込めてランス君を見つめ、彼の肩にそっと手を乗せた。
「て、てて、て、ててて」
「てて? 敵は見当たらないが……ああ、私は今、暗視魔法を使って視力を強化しているから、敵が来てもすぐ分かるよ」
「てい、てい、提督……! あ、暗視って! み、見えているんですか、お、俺の姿もっ!」
ようやく立ち上がったランス君は、青い瞳いっぱいに涙をためていた。
「ランス君……その……ち○こは何処に落としたんだい?」
俺は疑問に思っていたことを聞く。もしも紛失したなら、この暗視を使って探してあげよう。なに、大丈夫。ち○こに足は無い。そんなに遠くに行かないさ。
「お、落としたって……ちょっと……言ってる意味が分かりませんし……その……俺……いえ……わたしっ!」
「うん……実は私も、自分の言っている意味がよく分からないんだ。だってち○こは、簡単に落ちたりしないからね……もしかしたら、隠れているのかも知れない……」
俺はズボンを落としたまま立っているランス君の股間に手を当て、触ってみた。
毛が……ある。棒が……無い。タマも……無い。意味が……分からない。
「あっ……んっ」
ランス君から、何だかエッチな声が聞こえたような気がする。
「だ……めっ……」
「ランス君って、もしかして、おん――ゴンッ!」
俺の記憶は、そこで途切れた。
翌日目が覚めると側頭部に鈍痛があったものの、俺はしっかりと昨夜の見張りを果たしたという。
ランス君は爽やかに笑って、俺に固いパンを切って渡してくれた。
いやぁ、ランス君って、何日お風呂に入らなくってもイケメンだなぁ。
だけど変な夢を見た気がする。
なんか――ランス君が女の子だったような……。




