アイロスの夜
◆
ディアナが揺れながら、二人の女性の前に立っている。
夫を失った二十代の女性も息子を失った四十代の女性も、悪魔的な美貌を誇るディアナを前にして、金魚のように口をパクパクと動かすのみだ。
「返してあげるよ……フヒヒヒヒ。二人の名前を教えてくれたらね」
「な、何を言ってるんだい、この娘はっ!?」
息子を返せと吠えていた四十代の女性が、後ずさった。
二十代の女性は逆に進み出て、ディアナに包丁を突き付ける。
「返すだって? ……嘘を言ったら、ただじゃおかないよ……!」
「フヒヒヒ……名前を教えてくれたら、ここに呼んであげるよ……フヒヒ」
包丁の先端を指で弾き、ディアナが言う。
アイツには刺されるかもしれない、という恐怖感が無いのだろうか?
「あの人は、生きているのかい?」
「名前を教えて貰わないと、わからないねぇ……」
「生きてるかもしれないんだね? 亭主の名前は、ダロスだよ……お願いだから帰しておくれ……生まれたばかりの子供もいるんだよ……うっぐ、ひっぐ」
包丁を床に落とし、両手で顔を覆いながら女は言う。それからしゃくり上げるように泣いた。
年長の女は彼女の肩を抱くようにして慰め、こちらは息子の名前を語る。
「あたしの息子はユーリ。末っ子でね……まだ十八歳なんだ。死ぬには早過ぎるだろ……」
「十八? 死ぬには早い? ふぅん」
ディアナが少しだけ目を細めた。何かを不快に感じた時の、それは“みたび”の癖だった。
「な、何なんだい、あんたは? ああ、そうか、その黒いローブ……! アンタが学院出の医者だね? 魔法や不思議な術でけが人を治したっていう!」
ユーリの母の目に、希望が灯る。ディアナの正体に思い至ったらしく、口元に笑みが浮かんだ。
ディアナは敵味方問わず、船医として負傷者の救護にあたった。その話がすでに広まっているのだろう。
「べつに……縫ってくっつけた後に治癒魔法を使っただけだし。怪我なんて大体はそんなもので治るし……」
若い女の方も顔に生気を取り戻し、ディアナの腕に縋り付く。
「お願いします! ダロスは今どこに居るんですか!? 怪我が酷くて動けないんですか!?」
事実、怪我が酷い者は船の中で安静にしている。だからディアナは名前を聞いたのかもしれない。
例えば内臓が傷ついているような場合、ディアナは開腹手術を行い臓器を縫合した後、治癒魔法を施していた。そのような者達の場合、術後の経過を見る為に帰宅をさせなかったのだ。
なんでも消毒法が確立されていないとかで、いくら魔法による殺菌を行っても感染症を完全に抑えることは難しいのだとか。
また抗生物質も無いため患者が感染症に掛かってしまった場合、そのつど微弱な滅殺魔法を使用する必要がある――とのこと。
しかも顕微鏡さえ無いため、それが何の感染症であるかも特定が出来ないから面倒――と言っていた。その為か、ディアナは綺麗なガラスを見つけては、がんばって研磨している。きっと顕微鏡を作ろうとしているのだろうが、この世界のガラスは不純物が多く分厚い為、上手くいったことはないようだ……。
「幼い息子のいるダロスと、まだ十八歳のユーリ――ね。ああ、わかった」
少し首を捻ったあと、ディアナは奇妙に捻れた三十センチ程度の杖を取り出した。賢者の杖の簡易版だ。ディアナはそれを頭上に掲げると、呪文を唱え始めた。
「アーク・ジル・ジル・バーグ、冥府の門を司りし君に頼む。此方から彼方へと赴きしダロスとユーリの足を止め、こちらに留め置き給え」
ああ……嫌な予感がする。冥府の門とか言ってる時点で、彼女達の家族が生きている可能性は皆無だ。
「……その者ら、還る地はありや……?」
中空から声が響く。野太く低い、恐ろし気な声だ。今まで笑い、騒いでいた男達の喧噪が一瞬で止まる。だが言葉の内容を理解する者は少ない――いや、居ないだろう。これは古代語なのだから。
俺が辛うじて理解できるのも、ディアナが師匠であるからに他ならない。
「マーモスと呼ばれる地、宿にて名を“海竜亭”なり」
「……了承した」
百人以上がいる食堂に響くのは、蝋燭が燃える“ジジ……”という音のみ。そこに加わったのが、“ピチョン”“バチャリ”という水音だった。
ずぶぬれの誰かが、宿に向かって歩いて来る。やがて閉じられた扉が“ドンドンドン”と叩かれ、「おーい」とくぐもった声が響く。
「あんたっ……!」
どうやら声はダロスのものだったらしい。
展開的にはホラーだが、ディアナはきちんと彼等を蘇生させたのだろうか?
「か……あさ……ん」
声がもう一つ聞こえた。
「ユーリ!」
こちらは十八歳のユーリだったらしい。
二人の女性は勢いよく扉の側へ行き、開けて――固まった。
開かれた扉からは冷たい風が吹き込み、同時にダロスとユーリだったものがゆっくりと足を踏み入れた。
「ひ、ひいいいいいっ! こ、こんなのっ……!」
ダロスであっただろう男は、首の半ばまで切断されて、ぶらぶらと頭が横で揺れている。背中に刺さった矢は二十本以上に及び、両手を前に突き出し「エリーザぁぁぁ」と言っていた。
エリーザとは多分、奥さんの名前だろう。
ユーリの方はもっと酷い。革の鎧が斜めに引き裂かれ、内臓が溢れている。どろりと垂れた内臓を両手に持って「かあさん……」と光の無い目で女を見つめていた。
「魂を肉体に戻し、この地に転移させたよ……フヒヒヒヒ」
ディアナは踵を返し、俺の下へ戻ってドヤ顔だ。
しかし二人の女性は逃げ惑い、兵達も唖然としている。
「あの女ども、ボク達が入港したとき武器を手にしていたんだよ。つまりね、死ぬ覚悟も愛する者を失う覚悟もなく戦う道を選んでさ、負けたあとに自分たちだけが特別悲しいなんて思ってるヤツ等には……当然の報いだよ。大切な人を失いたくなければ、必至で止める。それが出来ないのなら――側にいればいい」
葡萄酒の杯を傾けながら、ディアナが不機嫌そうに言う。
「純粋な女性に――それができるとは思わないけどね」
「純粋……それはさ、アレク、ボクが元男だからできるってこと?」
「ディアナ――いや、みたびは男だろ。今でも」
「そ、そうだけど……」
俺にもの凄く嫌そうな視線を向け、ディアナは席を立った。
「もう寝る」
スタスタと二階に上がるディアナを見つめ、俺は思った。
死体を呼び出して、勝手に寝ないで。一体どうすればいいの、これから――と。
◆◆
二体の動く死体は一時間もすると、動きを止めた。
とはいえ一時はミネルヴァに頼み、炎の魔法で燃やしてもらおうか――と考えた程だ。
そうしなかったのは、二体の死体に知性があったから。
二人の女性がそれぞれ二体の死体と対話し、今後のことを話し合っている姿を見たからである。
「母さん、僕に与えられた時間は少ないんだ。だけどこれだけは伝えたくて……ごめんね、先に死んじゃってさ」
「ユーリ! 何を言ってるんだい! 生きてるじゃないか! お腹の傷を治療して貰えば、きっと大丈夫だから!」
「それは無理なんだ。うまく説明できないけれど、僕はもう死んでいるから……兄さんや姉さんに宜しく伝えて。あと、帝国の人達を恨まないで。僕がもっと強ければ、死んでいたのは彼等だよ。その時は彼等の家族がさ……だから」
「そんなこと……そんなこと……!」
内臓の飛び出た息子を抱きしめる母親の姿は、実に壮絶だった。
出来れば俺も何とかしてやりたいと思ったけれど、アレはいわゆる屍鬼だ。下手に回復魔法を掛ければ浄化されかねない。
ミネルヴァに相談しても、頭を左右に振るばかりだった。
「そもそも私の魔法はディアナ・カミルに及びません。申し訳ありませんが……」
ミネルヴァにこんなことを言わせるディアナの凄さに改めて気付いたが、それでどうなるものでもない。
ダロスの方は幼い子供を残して逝くことに忸怩たる思いがあるらしく、しきりに崩れかけた首を真っ直ぐに直しながら、床を拳で叩いていた。
「あの女に挑んだ俺がバカだった……! 鎧も剣も豪華だったから、奪えばお前達を楽させてやれると思って……!」
彼はテオドラにやられたのだろう。
それが分かったからこそ、俺は声を掛けた。
「ダロス。貴方が挑んだ女は、まだ十六歳だ。貴方はユーリの死を、どう思う?」
千切れかけた首を抑え、光の無い目でダラスが俺を見上げる。
「十六歳……若い……死ぬには早い……」
そう言っている俺も、この世界では十六歳なのだけど。
「貴方は十六歳の少女を殺そうとした。結果――殺されたのだ。もしも後悔するのなら、幼子を残して戦場に出たことだろう」
「ああ、ああ……そうだ。けれど生きて行く為にはそうするしか……俺は家族を残して、このままじゃ死ねない……」
「家族のことは心配しないで欲しい。今後マーモスは私、アレクシオス・セルジューク騎士爵の領地となる。我が民のことは必ず護ると約束しよう。それが武であれ天災であれ……」
偉そうなことを言っているな――と自分でも思う。
けれど家族を残して死ななければならない人に、なんと言えばいいのかなんて分からなかった。
いつの間にかヴェンゼロスが俺の足下に跪き、「ダロス」と声を掛けている。
「俺はこの方を信じる。だからお前は安心して逝け」
ダロスも跪き、落ちそうな首を抑えながらも俺に頭を垂れた。
こうして二つの動く死体は、機能を止めたのである。
――――
翌日、日の出と共に島内の視察に行こうとしたら、案の定ディアナが起きなかった。
寝台の上でお腹を出し、ポリポリと尻を爪で掻く姿は紛れもなくおっさんだ。しかも起こしたとたん、嘔吐いていた。
「う、う、おえぇぇ」
小卓の上にあった木製の洗面器を差し出し、ディアナの背中をさする。
「だ、大丈夫、ちょっと気持ち悪いだけだから。葡萄酒があれば治るから……フヒ、フヒヒ」
それは俗にいう迎え酒というヤツだろうか。
しかし面倒なので俺はディアナの掛け布を剥がし、肌着姿の彼女を完全に露にした。
「ちょっと、流石にそれは……」
後ろに控えていたミネルヴァが、脱げかけていたディアナのパンツを慌てて上げる。
お? 美女が美女のお世話をしている……デュフフ。ではなく――
「起きてくれ、ディアナ。今日は島の農地を調査したい。可能なら土地に対する魔術的な干渉を取り払いたいんだ」
「……ボクをこき使い過ぎでしょ。本来は船医なんだから、そんなの仕事に含まれないよ」
枕を抱え、ゴロゴロと動き回るディアナだ。そうこうしている間に、どんどん太陽が昇ってくる。
この世界の住人は日の出と共に起き出し、日が沈むとなるべく早く眠るのが習慣。つまり民と交流をもとうと思ったら、太陽が出ている時間を有効に使うしか無い。
「仕方ない、ミネルヴァ。二人で行こう」
ディアナ程ではないが、ミネルヴァも魔法に関する造詣は深い。土地が魔術的な干渉で痩せているのか、そうではないのか――といった違いくらいは分かるだろう。
むしろ精霊魔法にも詳しい彼女の方が、ディアナよりも場合によっては適任かもしれない。
それにミネルヴァは、俺に服従してくれている奴隷だ。二日酔いの親友よりも、扱い易さは数段上だろう。
そう考えたら、もう二人で行けばいいような気がしてくる。
そのとき、寝癖のついた髪をボリボリと掻きながら、右目――緑色の瞳――だけを開いたディアナがむくりと起き上がった。
「何それ、デェト?」
寝台の中に虫でもいたのか、ディアナはしきりに体中を掻いている。
けれど小さな声で「浄化」の呪文を唱えると、目に見えて彼女の体は整えられた。
「ディアナが行かないっていうなら、二人で行くしかないだろ」
「ヴェンゼロスに案内して貰った方がいいんじゃないの?」
「彼には街を纏めていて貰いたい。今ここで誤解が生じれば、戦いになるだろう」
「信用しすぎだよ、アレク……ミネルヴァにしたってさ」
黒いローブを身に纏いながら、ディアナはブツブツと文句を言っている。
「疑わば用いるなかれ,用いて疑うなかれ」
「ん?」
俺の言葉に反応して、ディアナが首を傾げている。
「中国の五代十国時代、後蜀という国で書かれた通俗編に載っている言葉だよ。だから用いた人に滅ぼされるなら、それは自業自得というものだね、諦めもつくさ」
「はいはい――相変わらず歴史オタクで哲学趣味だ。ボクには理解できないね。そんなボクとしては、少し破滅思考のあるアレクを守ってあげようと思う訳で……フヒヒ、仕方がないから一緒に行ってあげるよ」
ミネルヴァは小さく溜め息をつき、腕組みをしている。
「べつに土地の魔術干渉程度なら、私だけで十分だわ。アレクシオスさまの護衛だとしたら、貴女は弱過ぎるし、むしろ邪魔になるもの」
「ミネルヴァはボクに喧嘩を売っているのかな?」
「べつに……本当のことを言ったまでよ。それが分かっているから貴女だって、さっきまで気持ち悪いフリをしていたんでしょう? それなのに、どうして急に付いてくる気になったのかしら?」
「そ、そんなの、お前とアレクが二人きりだったら、何をするか分からないだろう……ガ、ガブリエラの為にも、ボクはアレクに変な虫を付ける訳にはいかないのさ」
「ふうん……じゃ、そういうことにしておいてあげるわ」
顎に指を当て、ニヤリと笑みを浮かべてミネルヴァが言った。
なるほどね……ディアナ――いや、みたびはミネルヴァが好きなんだな。
それで俺と彼女が二人きりになるのを邪魔する訳か。
当然ミネルヴァもそれに気付き、ディアナにカマをかけている。イケナイ女だ……デュフフ。
ならば……!
なるべく彼女達を二人きりにして、くっつけちゃうぞ!
マーモス再興と百合っぷる誕生! 我が策に落ち度なしでござる!
デュフフフ――楽しい視察になりそうだ。
アレク……(違っ




