野望の系譜
※残酷な描写があります。
※三人称視点になります。
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帝都ウォレンスは帝国全土に広がるヨハネス教の聖地であり、荘厳な石造りの大聖堂は地上十二階――高さに於いては皇宮さえ凌ぐ建造物である。
その奥まった一室に、当代の総大主教がいた。重厚な黒檀の机に向かい、息つく間も無く次々と書類を処理する彼の姿は、見る者に宗教家というよりも能吏といった印象を与えるだろう。
しかし純白の法衣に紫紺のマントを羽織る姿は、地上に唯一人、彼がヨハネス教における最高権威者であることを示している。
総大主教マヌエル・ロムルス。
四公爵家の一つロサ家に三男として生まれ、幼少期に修道院へと送られる。その当初から大主教となり緋色の衣を纏うことが確定していたこの男は、しかし決してその程度の地位に満足することは無かった。
もとよりマヌエルは野心家だ。出来ればロサ家を継ぎ、皇帝をも凌ぐ権力を手中に収めたいとさえ思っていた。しかし三男であるという事実と二人の兄が頑健であったという現実から、彼は僧籍に入ることを余儀なくされたのだ。
物心ついてより野心家であった彼のこと。もはや、この世の終わりだと言わんばかりの顔をしていたのだろう。彼を哀れんだ実父は、ゆえに惜しみない支援を彼に与えた。
こうして実家であるロサ家の支援を受け、マヌエルは豊富な資金をもって教会の本流を歩み続け、ついに先年、総大主教の座を射止めたのである。
とはいえ彼が総大主教となったのは、異例のこと。常ならばその地位に就く者は、齢六十を超えていなければならないのだ。しかし彼は未だ四十二歳、父であるロサ家の当主も七十歳に至っていない。
また本来、聖職者は未婚であるべき存在だ。しかし彼には子が一人いた。それら全てが暗黙のうちに許されるのも彼がロサ家の出身であり、父である当主が未だ健在だからである。
このマヌエル・ロムルスの子供こそ、クロヴィス・アルビヌス。つまり彼はロサ家当主の孫にして、総大主教の実子である。高貴にして神聖という意味においては、ある意味で皇子達さえ凌いでいた。
もっとも教会の諮問に際しマヌエルは、ぬけぬけと実子の存在を否定している。
「はて、私の過去には一切の過ちなどありませんな。クロヴィスは我が甥であり優秀であればこそ、側近くに置いているのです」
これを認めざるを得なかった教会の無力を、誰も責めることは出来ない。
というより諮問に際しマヌエルは、既に手を打っていた。
ロサ家の財力を頼みに懐柔を試み、或は武力を背景にして凄絶な恫喝を行い、もはや彼に敵対する勢力は教会にいなかったのだ。
しかしながら当然、誰もこの話を信じてはいない。
さらにマヌエルは強かにも、かつて断絶したロサ家の傍流、アルビヌス家を実子に相続させた。しかも潤沢な資金をクロヴィスに与え、本家であるロサ家と比べても遜色ない程の邸に住まわせている。
それ程の恩恵を彼に与えながら、マヌエルの言う「甥」という言葉を信じる者など、誰一人としている訳が無いのだ。
もっとも――これは単純に愛情からくる問題ではない。マヌエルとしては、息子のクロヴィスに自らの果たせなかった野心の完遂を託している。自らをも凌ぐ才能と野心を備えた彼の後押しをすることこそ、自身の宿命だとマヌエルは考えていたのだった。
「叔父上。ディアナ・カミルの論文とは、それほどに大きな問題なのでしょうか?」
西日の差し込む大聖堂の一室で、白いローブの男が机に向かったままの男に問う。灰色の瞳を細めたその顔は、怜悧でありながらも美貌と言って差し障りない。しかし十八歳という年齢に相応しからぬ威厳を、彼は備えていた。
「父と呼んで構わぬぞ、クロヴィス……どうせバレておるのだからな。して――何故そなたが論文なぞ気にする?」
息子と同色、灰色の目を僅かに上げて、マヌエル・ロムルスが答える。
こちらも端正な顔立ちだ。四十二歳という年齢の割に、顔の皺が少ない。微笑をたたえたその顔は、まさに聖人の如く。しかも、二十代の後半にしか見えなかった。
「たかが一講師の書いた論文です。それを父上が、自ら秘匿する理由がわかりませぬゆえ」
「ならば理由を、たかが学生に過ぎぬお前に告げる訳にはゆかぬな」
「……親子で腹の探り合いは止めましょう、父上。ディアナの論文は、真実なのですね?」
ようやく動かしていた手を止め、マヌエルが深い溜め息を吐いた。
「魔術の発展が、神を殺し人を生かす。それがいつか訪れる時代であったとしても、断じて今ではない。さればこそ、ディアナ・カミルには狂人でいるか死んでもらうほか、道が無いのだ」
「それはご自身の権勢を守るためですか、父上?」
「お前の野望を守る為でもあるぞ、クロヴィス」
「彼女を味方に引き入れることができるなら、如何です?」
「さよう……自らの考えに封をし、我らの為だけにあの者が動くのであれば――されど」
「されど悪魔に魅入られし身の上――すなわちアレは魔女だと?」
「うむ。異端を狩らねば、教会の寄って立つ処は無い……」
「ははは、いまさら異端などと。教会に歯向かった魔術師どもは皆、百五十年も前に頭を垂れたではありませんか。だからこそ、こうして賢者の学院に押し込められている」
クロヴィスは楽しそうに笑い、窓辺に寄った。地上を行く人や馬車に手を翳し、覆い隠してみる。これこそが上位者の視線であり力なのだと、彼はいつも思う。
地上の彼等など、拳を振り下ろせば簡単に潰せそうだ。そして実際、権力者にとってそれは雑作も無い事なのである。
「ディアナ・カミルが我が妻とならば、如何です?」
「ふむ――お前には皇室の姫君を、と思っておる。たしか今年十五歳になる、丁度良い姫君がいるはずだ」
「テオドラ様ですね。たしか、アルカディウス美女図鑑の筆頭を飾っておられるとか。しかし、魔法の腕はからっきしと聞いております」
「魔法の腕など、どうでもよい。ま、確かに、お転婆だと言われているが。しかしそれでも、皇帝の娘だ。ゆえに彼女の婿となれば、皇位継承権も転がり込むのだぞ?」
皇帝の名を呼び捨てにして、総大主教が伸びをする。ポキポキと小さな音が鳴った。
「ご冗談を。権力など、己の才覚で奪うもの。女のお陰で手に入れたなどと揶揄されては、いささか不愉快になりまする」
「わかった、わかった。ディアナ・カミルを見事手に入れたなら、好きにするがよい。だが――あまりやりすぎるなよ、クロヴィス」
「もちろんです、分かっておりますとも、父上」
ゆっくりと腰を折り、父に礼をするクロヴィス。それは冷笑を浮かべた口元を、隠す為でもあった。
このとき、天井裏には一人の暗殺者がいる。彼女の名は、リナ・ハーベスト。彼女は既に論文の在処を見つけ出し、大聖堂を脱出する為に夜を待っているところだった。
「とんだ生臭坊主どもですわ、この方達は。しかもディアナを妻にしたいなんて、ご主人の更に先を行くド変態に違いありません。まったく、なんて国なのでしょう、ここは! あ、そうか! 顔が良い男というのはきっと、みんな変態なのです。ご主人だって、この男と同じくらい綺麗な顔をしていますからね! 間違いありませんわ!」
◆◆
クロヴィスは父の部屋を退室すると、早足に自身の邸へ戻った。父からの潤沢な資金援助を受け、当代のアルビヌス家は隆盛を極めている。
といっても、クロヴィスは未だ十八歳の独身。学友という名の取り巻きと、従者、奴隷達が家族の代わりだが。
クロヴィスが自邸の応接室に入ると、中では木製の椅子に縛り付けられたペトルス・イーラが喚いている。広い部屋の隅で言いたい事を言う彼からは、状況に対する悲壮感が感じられない。
「私にこんな事をして、父上が黙っていないぞ! いくらクロヴィスどのでも、道理が通らない!」
部屋の隅で唾を飛ばし叫ぶペトルスに、灰色のローブを着たクロヴィスの取り巻きが苦笑している。
クロヴィスは秀麗な顔を僅かに顰め、白いローブのフードを背中に下ろした。
「随分と元気だな、ペトルス」
「元気な訳があるかっ! これはどういうことだ、クロヴィスどの! 私がアレクシオスを殺し損なったからといって、これはないぞっ!」
「そうでもないさ、ペトルス。君がアレクシオスを殺そうが殺すまいが――遅かれ早かれ、決まっていたことだ。残念ながら君は、勝手過ぎたんだ。誰がディアナを口説いていいと言った? アレは私の女だ。狂っているところも含めてね……くくく……くははは!」
赤い絨毯の上を、クロヴィスはゆっくりと歩く。歪な笑声を上げて。
「なんだって?」
ペトルスは椅子に縛られたまま後ずさりをして、倒れてしまった。「うぐっ!」
「神よ」
敬虔な祈りを捧げつつ、クロヴィスは賢者の杖を前方に翳す。「哀れなる子羊に、安らかな眠りを……」
ペトルスはもがき、ガタガタと揺れた。しかしがっちりとした縄で縛られている為、抜け出すことが出来ない。やがて顔色が赤くなり、青くなり――灰色になった。口からは泡を吹き、全身が痙攣している。
「ディアナ……逃げて……くれ……こんな……おと……こ……の……」
「ディアナこそ、この魔導王・クロヴィス・アルビヌスの妻に相応しいのだ。それを貴様ごときがっ!」
倒れ伏したペトルスの横面を踏み、クロヴィスが舌打ちをした。
「だが、まあいい……ペトルス・イーラ。お前は最後に私の役に立つのだ。何しろアントニア・カルスに殴られた傷が元で、お前は死んでしまったのだからな。ゆえに、せめて天に還れるよう、私が心を込めて祈ってやるぞ。くはははは!」
跪き、祈りを捧げようとするクロヴィス。しかしそのとき灰色のローブを着た彼の腹心の一人が、そっとペトルスに近づいた。
彼の名は、リー・シェロン。遠く東の大国――いわゆる金の国――から海を渡り、賢者の学院に留学した俊英だ。といっても東の大国は彼が留学してすぐに滅び、今は戦国の世となっている。ゆえに彼は故郷に帰れず、クロヴィスに仕えることとなったのだ。
黒髪黒目の彼は、武道の達人でもある。そして同時に、東方医術にも通じていた。いわゆる“仙術”とも呼ばれている。
今年十七歳の彼は、目下のところクロヴィス陣営のナンバーツーだった。もっとも、奇妙な言葉遣いと短身なのに丸い身体のせいで、世間的には“ゆるキャラ”扱い。加えて少し尖った耳も、彼の愛らしさを際立たせていた。
リーはペトルスの目を開き、瞳孔の開き具合を確認する。
「まだ、死んでないアル」
「ほう……魔法の腕は未熟なくせに、体力はあるのだな。始末を任せてもよいか、リー?」
「いいアルよ」
ローブの袖を捲ると、短いが太い腕が現れた。それがペトルスの首に掛けられ、絞められる。
「う、うう……ディ……アナ……」
「お前も変な女に惚れたアルな。美人だけど、あれじゃ愛嬌が無いアル!」
「ないある? どっちなんだ、リー」
怪訝そうな顔で、顎に指を当てるクロヴィス。それを糸のような眼で睨むリー。
「バカにしてるアルか?」
「いや、分からぬから……」
「だ・か・ら! 無い、アル!」
「ん? 愛嬌、あるだろう?」
「無いアル!」
「ん? んん?」
「ああ、もう! 分からん人アルね!」
「では、私が魔導王になる可能性は?」
「あるアル!」
「ならば、ディアナの愛嬌は?」
「無いアル!」
「んっ?」
「もういいアルね!? こっちは忙しいアルよっ!」
プンプンしながらもペトルスの首に手をかけ続けたリー。いつの間にか椅子ごと、彼の身体は宙に浮いていた。
「すっかりやり過ぎたアルよ、もうっ!」
ペトルスの身体を下ろすと、リーはもう一度、瞳孔を確認した。開いている。それから首筋の脈も診た。当然ながら無い。
「これでペトルスの命は無いアル!」
「ないある……だからどっちだ?」
首を傾げ、クロヴィスが悩む。リーは白目を剥いて、後ろに倒れ込んだ。「もう嫌アル」
「すまんな、リー、冗談だ。ペトルスの死体を病院へ持って行け。死因は、頭部打撲だと医者に伝えろ。それから学院へ行き、アントニア・カルスを捕らえ、牢に入れるよう手続きも忘れるな」
流石に冗談が過ぎたと思ったらしく、クロヴィスはリーの腕を引いて助け起こした。
「御意アル、最初からそう言って欲しいアル。つまり、外堀を埋める作戦アルね?」
「ああ……」
死体の始末が終るとクロヴィスは別室のソファーに身を預け、果実酒を求めた。丁度、客人が来たのだ。客の名は、ユリアヌス。テーブルを挟んで彼の向かいに座ったのは、この国の第一皇子である。
「今日は、どのようなご用件で?」
「うむ……気になることがあってな。なんでも賢者の学院にて、アレクシオス・セルジュークが襲われた、というではないか」
「ははあ、もうお耳に?」
薄茶色の髪を掻きながら、クロヴィスは苦笑している。その間に二つのグラスが運ばれ、二人の前に置かれた。給仕が壷から乳白色の液体を注ぎ、「柘榴酒で御座います」と告げた。
「ま、まあ、余にとっては、どうでも良いことなのだがな。もしもヤツに万が一のことあらば、ガブリエラどのが悲しむであろうと思えば、気になってのう」
「なるほど、そういうことでしたか。では、ご安心を。今回の件、アレクシオスは無事でしたぞ」
グラスの中で揺れる乳白色の液体を飲み干し、クロヴィスは口元を歪める。貴様の望む答えとは、違っていよう――そう思うと、可笑しいのだ。
一方ユリアヌスは、目に見えて落胆している。
「そうか、無事であったか。それは良かった……」
「本当に、そうお思いで?」
ちびりと柘榴酒を飲み、肩を落とすユリアヌス。
「……そんな訳があるか。ヤツさえいなければ、ガブリエラどのとて余の舞踏会や晩餐会に出席もしよう。軍務とて、今はそれほど無いのだからな。それよりクロヴィス。余とお前の仲だ、堅苦しい喋り方はやめよ」
「はは……すまん、すまん、ユリアヌス。ではこちらも正直に話そう。ヤツを襲った男がヤツの友人に殴られ、大怪我をおってな。もしもこれが死ぬようなこととならば――まあ、アレクシオスの責とは言わぬまでも、ヤツに味方する者が投獄されることとなる」
「ほう? ではその者、死んだ方が良いではないか」
「うむ、その様に手配済みだ」
「いいぞ、いいぞ。ならばヤツの味方が減るのだな?」
「ああ、そうだ。まずは、外堀から埋める。そうすればアレクシオスを殺すも軍門に下らせるも、こちらの思うままだろう。そうすればガブリエラどのも殿下をこそ頼り、心を寄せるだろうさ」
二人は笑い合い、共に立ち上がった。
今日は満月で、中庭の草花が青白く照らされている。先程の惨劇が嘘の様な静けさだ。
(ディアナ……お前も同じだ)
内廊下を歩きながら、クロヴィスは月を見上げた。
「未来の我が筆頭宮廷魔術師殿は、策士でもある。余も安心だ」
上機嫌なユリアヌスが、大きな腹を揺らしながら前を歩いていた。
背後で冷笑を浮かべるクロヴィスの心は、もっと別の高みにある。
筆頭宮廷魔術師になるとしても、それは単なる通過点に過ぎない。クロヴィス・アルビヌス伯爵の心は今、激しく燃え盛る“野心”という名の炎で満たされているのだった。
このとき、一陣の風がふく。風の中では緑色をした、小さな小さな小人が舞っていた。
「たいへん、たいへん、ルナに知らせなきゃ」
「たいへん、たいへん、おうちはどっち?」




