ガブリエラの涙
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メディアの顔が引き攣っている。どうやらそうとう焦っているらしい。
もっとも俺にしてみれば、こんなことは想定内。仮にも一国の皇太子が戦死するような事態になど、配下の者達が絶対にしないだろう。逆に皇太子がそんな配下達を押しのけて戦うほどの猛将なら、それもそれで生き残りそうだ。
とはいえ、まさか戦場で皇太子と合流するとは考えていなかった。後でだったら命令違反なんて、どうとでも弁明できるのだけど。
俺はマントを広げて座ると、腰に付けた麻袋から干し肉を取り出して口の中へと放り込む。もぐもぐ……
何も食べずに眠ったから、腹が減っていた。もぐもぐ……
「おい! 起きるなり食べるな! こ う た い し で ん か だ! 暢気に食事をしている場合じゃないぞ!」
メディアが必死の形相で訴えてくる。
それにしても、自称戦争の天才である皇太子殿下。あっさりと敵に叩きのめされておきながら、どの面を下げてここに来たのだろう。
だが彼がここに来たということは、敵が軍を退いた証。つまりガイナスは、カプスを放置しなかったということだ。
厄介なのは、こちらの行動が皇太子の命令から外れていた事をガイナスが知っていた場合。
わざと皇太子をこちらの陣営に入れた可能性がある。軍権を巡って皇太子とガブリエラが争えば、それだけでも敵に利があるのだから。
と、考えればこれは十中八九、ガイナスの策略だろう。面倒な置き土産を残してくれたものだ。
「そう言うけど、どうして一介の十人隊長ごときが皇太子殿下の到着に慌てなきゃいけないんだ? 整列でもするのかい?」
俺はのらりくらりとしながら、次の手を考える。
「違う! だってお前、ガブリエラさまは命令を無視してここにいるんだぞ! それもお前の策で! これをどうやって弁明すればいいか分からないから来たんだっ!」
「そんなの、皇太子殿下は敗軍の将。一方でガブリエラさまは戦線の崩壊を止め、あまつさえ限定的ながらも帝国軍に勝利を齎している。
皇太子殿下にしたところで、この勝利が無ければ帰る場所だってなくなっていたはずだろ」
そう。完全なる敗戦を防いだのはガブリエラ。そして今、この場において彼女の手勢は皇太子にまさる。ならば取れる手立てがあるじゃないか。
「そうだとしても、咎められたらどうするんだ!」
メディアが泣きそうな表情で俺に詰め寄る。両肩を掴まれ前後に揺すられたものだから、思わず干し肉が飛んだ。
その拍子に俺はメディアの耳元に口を近づけ、そっと囁く。
「……殿下の手勢は?」
「え、手勢? ええと、騎兵が五百くらい……かな」
「ま、そんなものだろう。だったら最悪の場合、殺せばいい。そしてやるなら、全員を殺す。一切の痕跡を消すんだ」
「お、おい! 大逆だぞ、その発想は!」
「静かに。声が大きい。あくまでも最悪の場合だよ」
「あ、ああ……」
メディアの目が泳いでいる。周囲を見回し、側で誰も聞き耳を立てていないことを探っているようだ。
けれど大丈夫。ここは軽装歩兵団の陣地。だから貴族や王族に心底から忠義を誓う者など、居る訳が無い。
「大丈夫……敵よりも遥かに多い戦力で出征しながら、壊滅的な打撃を被った皇太子だ。帝都に戻った所で皇帝も元老院も市民団も、彼の後継を認めない。その上ここで不満を言うような方なら、あの世に送って差し上げるのが本人の為ってものだ。それに味方が壊滅しているのに、その残った騎兵ってのは何なんだ? どうせお貴族さまなんだろ? 真っ先に逃げ出して助かったような奴等さ、殺されて当然だ」
なんだろう。自分でも意識していなかったが、怒りが沸々と沸き上がる。俺自身も下級貴族の家に生まれながら、貴族に虐げられて育ったからだろうか?
それとは真逆に、頭は冷静だった。まるで雪解けを待っていた大河の水が流れるように、音を立てて冷たい思考が脳内を走る。
俺がガイナスに付けば……帝国を今裏切れば、もしかしたら民主国家で平和な百合を鑑賞できる立場になれるかもしれない。それこそがガイナスの策略なら、乗ってやるのも面白いだろう。ふふふ……
「……お前、何を笑ってるんだ? もしかして本当は、もの凄く怖いヤツなのか……?」
メディアに顔を覗き込まれ、俺は我に返った。彼女は両腕で自分の身体を抱きしめ、怯えた目つきで俺を見ている。どうやら言い過ぎたらしい。
「いや、別に……ただね、俺は無謀な作戦で二万もの犠牲を出した皇太子に対して、腹を立てている。だから暖かく迎える気にはならない。そういうことだよ、本音じゃあない」
「本当に、そうか? ……まあいい」
一瞬の沈黙。
それからメディアは立ち上がり、頭を左右に振ってから走り出す。
「と、とにかくだ、ガブリエラさまがお前の知恵を借りたがってる。早く来てくれ! それから、なるべく穏便に頼む!」
◆◆
俺は仕方なく、ガブリエラの天幕へと向かった。
このまま帝国に居るべきか共和国へ走るべきか、我が身の保身と百合百合した未来を考えれば、後者の方が良いとしか思えないのが辛いところだ。
「こんちはー」
司令官用の大きな天幕に入ると、三十キロ程痩せたらイケメンになるだろうな……と思えるような男が、ガブリエラの肩をポンポンと叩いていた。
「いやはや、万が一に備えて、そなたに指示を出しておいて良かった。まったくもって余の名采配であるぞ! わは、わは、わははは! ガブリエラよ、よくぞ我が策略によってガイナスを撃退した!」
男は茶色い髪の上に月桂樹を乗せている。これは彼が皇太子――即ち副帝であることの証だ。
彼がユリアヌス殿下だろう。軍装は赤地に金の刺繍が入ったもの。鎖帷子にも金があしらわれ、剣に至っては宝石をちりばめた儀礼用としか思えないものを持っていた。
彼の華美な衣服は、とても敵と戦って命からがら逃げてきた人のものとは思えない。
そんな相手にガブリエラは当然、辟易としている。
「は、はあ? 殿下の指示……でしたっけ?」
「そうである! かの名将ガイナスに一矢報いる為の、余の深慮遠謀であろうが!」
「はあ? いつ頂いたご指示か、ちょっと解りませんが」
「む? それはあれだ。そなたの夢の中に余が入り込み、伝えたのである!」
ガブリエラが俺をチラチラみて、首を傾げている。どうすればいいか、聞きたいようだ。
俺は鷹揚に頷き、皇太子の意見を肯定するよう伝えた。
「夢の中、夢の中……なんだか、そんな気がしてきました。では今回の軍事行動に関して、特に咎めは無しということでしょうか?」
「当然だ! そもそもそなた程の美姫をいかな罪に問えというのかっ! おお、そなたは天空に輝くどの星々よりも美しい!」
三歩下がるガブリエラ。元男なのに美姫と言われても、ガッカリしかしない。しかも脂ぎった皇太子が顔を近づけた為、後退を余儀なくされたのだろう。哀れなガブリエラだ。
「あ、ありがとうございます。ですが今はまだ昼で、天空に星は出ておりませんね……出てもいない星々と私を比べましても……ああ、そうか、でしたら私の美しさなど、大した事がないということで。なるほど、なるほど」
徐々に後退するガブリエラの両手を握り、皇太子が力説する。
「何を言う! 太陽があるではないか! あれも天空に瞬く星の一つなるぞ! つまり、そなたは太陽よりも美しく輝いておるのだ! どうだ、この際である、余の妃にならぬか?」
もはや涙目になったガブリエラが、俺の方をじっと見ている。助けを求めているのだろうが、どうしようもない。
何なら男に口説かれる元男という構図は、俺にとって少し面白い。ぷくく……。
「お、お断りします(笑うな、恭弥!)」
小声で、しかも日本語でガブリエラが文句を言ってきた。けれど皇太子は聞き取れなかったらしい。ていうか、彼は人の話を聞いていないらしい。
「うむ、そうか、余の妃になるか!」
「……お断りします!」
あ、ガブリエラの目が座った。キレたかもしれないな。
「なんだと? 余の耳がおかしくなったのか? 余の誘いを断る女が、よもや居るとは……もう一度聞くぞ……余の妃に……」
「だ か ら、断るって言ってんだ!」
「な、何故か? 理由を聞かせてほしい」
両手で頭を抱え、狼狽する皇太子。対してガブリエラは俺をチラリと見て唇の片端を上げた。嫌な予感がする。
「おれ……いえ、わたくしには、心に決めた者がおりますゆえ」
「な、なんだと? それはどこの馬の骨だ!?」
「馬の骨ではありません。……それは彼。そちらに控えております、アレクシオス・セルジュークにございます」
「アレクシオス? 誰だ? そのような貴族、余は聞いた事がない」
「まだ貴族ではございません、殿下。そちらに控えております、この男でございます。ですがわたくし、彼に運命を感じておりますゆえ」
俺を指差し、三角関係に巻き込むガブリエラ。ふざけんな。
「なんだと、ただの雑兵ではないか! そなたとは明らかに釣り合わぬ! 誰ぞ、ヤツを斬れ! ガブリエラどのを惑わす邪悪な魔法使いであるぞっ!」
いや、邪悪って……眠らせちゃおうかな……この皇太子。
「……恭弥……アレクシオスを斬れだと? てめぇ、言っていいことと悪いことがあるぞ。おれ達は、こいつの策で助かったんだ。もしもアレクシオスが居なきゃな、皆ここで死んでいたかもしれないんだ。アンタ自慢の采配とやらでな……!」
あ、ガブリエラが完全にキレた。剣の柄に手をかけ、目を細めてユリアヌスを睨んでいる。
メディアが俺を見つめていた。「殺る? 殺るの?」と目で訴えている。
「な、なに? こやつの策だと? ……お前はまさか、父上の? い、いや、これは余の策であろう。そ、そうだな、そうであろう……?」
ユリアヌスも俺を見ている。俺の正体を訝しんでいるのだろう。
ただの雑兵が司令官の天幕に出入りする時点で、考えてみれば不思議だ。俺が皇帝直属の密偵だとでも勘違いしたらしい。
というよりガブリエラの発言を考慮するなら、俺にその程度の地位ぐらい無ければ納得しようも無い。その上で、どうやら俺に助力を求めているようだ。
どうやらユリアヌスには、ガブリエラを咎める気が無いようだ。むしろ彼は今回の勝利――とは言えないが――を自分の手柄にしたがっているらしい。ついでにガブリエラを妃にしたいと言うのも、それなりに本気かもしれない。
確かに全軍の壊滅を免れ、一定の損害を敵に与えた。敗北とは云えない戦果だ。これを名将ガイナスから得たのだから、これを自分の手柄にしてしまえればユリアヌス皇子の軍事的評価は上がる。たぶん自称軍事の天才から、ガイナスに対抗出来る帝国の良将――くらいには。
その上で軍を指揮した美貌の将軍と婚約を発表すれば、帝国内の人気は急上昇。政治的にも他の皇位継承権者を、大きく抜きん出る結果を得られる。となれば皇太子の地位は安泰だ。
ユリアヌス皇子――肉団子みたいな体型をしているクセに、わりと頭は切れるのかもしれないな。
もっとも、軍事的には凡才もいいところ。何しろ自らの考案した包囲作戦を散々に打ち破られて、さっさと逃げ出したのだ。もしも次にガイナスと当たったなら、完膚なきまでに叩き潰されるだけだろう。
だが、そんなことは俺の知ったことじゃない。ここは一つ、メディアの言う通り穏便に収めることにした。
「これはこれは、失礼致しました、殿下。ガブリエラさまも、お察し下さい。私が殿下の密命を受けて、閣下に策をお伝えしたのでございます。殿下もこの件は内密になさりたかったようでございますが……」
「そ、そうなの……か?」
「そ、そうである。アレク……なにがしは余の配下なのである!」
「は、はあ……そうだったので……すか?」
やばい、ガブリエラが本当に信じそうだ。どう考えても、そんな訳ないだろ!
「然様でございます(そんなわけないけど、いいから話を合わせろ。演技だ)」
言いながら、俺は頭を左右に振った。それから日本語を呪文のような調子で喋る。皇太子には何を言っているか分からないはずだ。けれど俺が魔法でガブリエラを操ったと思えるように……。
「な、なるほど、そうでございましたか。流石は殿下にござる!」
ガブリエラは剣に掛けた手を緩め、片膝を付いた。
てゆーか、なんでここでござる口調?
「ふ、ふはは! す、全ては余の思惑通りである! ええと、アレクシオスとやら、ご苦労だった。うむ……それにしてもガブリエラどのは気が強いな! 余は嫌いではないぞ! どうだ、やはり妃にならぬか?」
ユリアヌスは引き攣った笑みを浮かべつつも、ガブリエラのうなじを見つめていた。ポニーテールにしている髪が流れて、彼女の白い首筋が僅かに見えるのだ。
「ええと、お断りいたします」
だが即答だった。ガブリエラはすぐに立ち上がり、皇太子から離れる。
「なぜだ? そなたとアレクシオスは決して結ばれぬ! 皇帝の影は影なのだ! 対して余の妃になれば、いずれは皇妃であるぞ!」
更に食い下がる皇太子。おそらく百キロを超えるであろう巨体を揺すって、不思議そうな顔をしていた。
確かに未来の皇妃になれるなら、たとえ太っていても、普通の女性であれば間違いなく彼は優良物件だろう。それを知って自らを売り込む辺り、この皇太子は本当にゲスい。
「そもそも、私は武に生きております。ゆえに、たとえアレクシオスと結ばれずとも、生涯独身を貫くつもりでございます。どうかお許しを」
なるほど、ガブリエラも考えていたようだ。
俺と結ばれたくても結ばれない、だから独り身を貫く、と。ガバガバ理論だが、ヤツとしては頑張ったといえるだろう。
「武に生きておっても、恋は別もの。余はそなたに惚れたぞ」
しかしめげない皇太子。もはやコイツは、俺の百合帝国を邪魔する悪だと思えてきた。ここは強引に話題を変えさせてもらう。
「ところで殿下、ガイナスを追撃なさいますか? それとも、今回は帝都にご帰還なさいますか?」
皇太子が俺を自身の配下だと明言したことを利用して、俺は彼に話しかける。所詮、コイツに状況の判断など出来るはずも無いのだが、思考を混乱させることでガブリエラを自由にしてやりたかった。
「う、うむ? どちらが良いかな?」
顎に指を当てて考える皇太子。俺をチラチラ見ているのは、父の影だと思っているからだろう。
「では、ご帰還なさるがよろしいでしょう。ガイナスが何の備えもなく撤退するはずもございません。カプスの件はレオ公爵にお任せあって、こちらは一つ、今回の勝利をもって帝都に凱旋なさるがよろしいでしょう」
凱旋を強調し、皇太子の自尊心を煽る。これで自身の安全も確保できるし、軍が無駄な血を流すことも無い。
あとはレオ公爵がさっさとカプスから軍を退いてくれれば、これ以上は誰も死なずにすむだろう。
「お、おお! おお! 余は凱旋将軍であるな! うむ! 完璧な案である! さあ、帝都に帰るぞっ!」
意気揚々と天幕の外へ出た皇太子。
俺は両手を広げて見せ、ガブリエラの肩に手を置く。すると何故がガブリエラが俺に抱きついてきた。
「ひっく、ひっぐ……男となんか、結婚したくない……だけど相手は皇太子だ。これから先、もっと迫られたら……おれは、おれはどうすればいい……?」
男の頃であれば、コイツが泣くことなんて無かっただろう。
だけど今は、本当に女になってしまったのだろうか? いや――それなら男と結婚したくない、なんて言わないか。
「大丈夫だ、槐。お前は男で、女の子が好きなんだろ? そんなの、俺が誰よりも知ってるから」
「うん」
「だから、もしも逃げ切れなくなったら、俺が必ず守るよ」
俺は拳を固く握りしめ、神に誓う。百合っぷるを成立させる為にも、ガブリエラは素晴らしい逸材だからな。
「う、うん。だけど――」
「だけど?」
「ん……なんでもない。その言葉、信じるからな、親友……頼りにしてるぞ」
言うと、俺の頬に軽いキスをしたガブリエラ。おい、なんだそれ。気持ち悪いんですけど……俺じゃなく、メディアにキスをしてくれないかな、馬鹿者め。