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真夏のリハビリ企画

ひまわり畑は涙色

作者: XI

       ※※※


 妻はガンを患っている。


 元は肺だったのだが、各器官に飛び火してしまったようで、見つかった時には手遅れだった。年に一度、健康診断は受けていたのだ。なのになぜ、発見された際には取り返しのつかない状態だったのか。医者を呪いたくもなる。現代の発達した医学をもってしても先は見通せないということなのだろうか。今となってはそう考え、諦めるしかない。


 だが、胸に張り付いた無念さは消えることがない。どうして妻がこんな目に遭わなければならないのだろう。人間なんて他にいくらでもいる。なのになぜ我が妻が癌に魅入られてしまったのか。


 唇を噛む。それがここ最近の癖であることはわかっている。自身の無力さがそうさせる。


「まぁたそうやって浮かない顔をするんだから、じゅん君は」


 妻に言われた、悪戯っぽい口調で。共に三十五歳を迎えた妻との間に子はない。妻は体が弱く、出産には耐えられないと言われたからだ。「私は石女うまずめだね。ごめんね?」と言って、その昔、彼女は泣き顔で笑った。そんなことなどうだって良かった。二人で一緒にいることさえできれば、それだけで良かった。


 癌の予兆がまるっきりなかったのかというとそうでもないように思う。健診を受けるずっと前から、妻は「最近、疲れやすくなっちゃったみたい」と、こぼしていたからだ。どうしてその時、病院に行くよう勧めなかったのか。悔いる気持ちは消しようがない。


「しんどくないか?」電車の中で立ちっぱなしの妻に訊いた。「席を譲ってくれるように頼んでもいいんだぞ?」

「いいの、いいの。こうして立ったまま窓の外を眺めているのが素敵なんだから」

「何もないだろ。札幌までの道中になんて」

「それでもいいの。思い出をたどってるの。私、高校の時はこの千歳線を使って学校に通ってたんだよ?」

「それは知ってるけど、思い出だなんて言うなよ…」

「そうだね。ごめん」

「街歩きなんて、だいじょうぶなのか?」

「平気平気。なんだったら小樽まで行って観光しようか。ガラス館とか見て回っちゃったりして」

「無茶言うな。体に障ったらどうするんだ」

「怖い顔しないの。明るく行こうよ。ほら、元気出して」


 元気を出せと言われても無理だ。

 無理があるのだ、どうしたって。


「これからの治療、しんどいらしいな」

「うん。体がバラバラになっちゃうくらい痛いみたいだね」

「俺が悪いのかもしれない」

「どうして?」

「俺と夫婦になったから、癌なんかにかかっちゃったのかもしれないだろ?」

「そんなの関係ないよ」

「…昼は何が食べたい?」

「パスタ」

「じゃあ、夜は?」

「麻婆豆腐っ」


 妻は明日からまた入院する。

 きっともう、外に出られることはないだろう。




       ※※※


 一週間後、腎機能が著しく低下し、妻は重態に見舞われた。だけど一命を取り止め、それから二日目の朝、ベッドに横たわっている彼女は「死にかけちゃった」と笑って見せた。


「癌は近々、脳にまで転移するでしょう」


 医者から無慈悲な宣告をされたその日、私は失意の底で帰宅した。


 コンビニで買った弁当を食べて風呂に入った。上がったらビールを飲んだ、ウイスキーをあおった、…途方もなく悲しくなった。サイドボードの上に飾ってあった写真立てを壁にぶつけて割った。私達がほおを寄せ合いスマートフォンで撮影した写真だ。背後にはひまわり畑。富良野で撮った。妻は子供の頃からひまわりが好きだったらしい。枯れてしまうたびに毎年泣いたのだと聞かされた。


 妻が死んだら私も死のう。

 そう考え、皿やカップを手当たり次第に割った。


 何もしてやれなくて、ごめん…。


 頭を抱えて泣いた。

 とにかく苦しいだけだった。




       ※※※


 対症療法が追い付かないくらい、癌の進行は深刻らしい。いよいよ脳にまで達しようとしている。

 妻の手を握っていた、来る日も来る日も。徐々にだけれど確実に手の甲が骨ばってゆくのがわかった。


「ねぇ、純君」

「ん?」

「キスをセックスも、たくさんしたよね」

「ああ」

「もうできないんだよね」

「キスならできるだろ?」

「そうだね。…して?」


 私は迷うことなく口づけをした。彼女の柔らかかった唇は、もうかさかさだった。それでも舌は潤いに満ちていて…。


「旦那様の味がした」彼女は満足そうに笑った。「純君」

「なんだ?」

「後追い自殺なんてイヤだからね?」

「無理言うなよ」

「弱気なこと言わないの」

「でも…」

「生きて。しっかり生きて。約束だよ?」

おり…」

「富良野のひまわり畑、覚えてる?」

「忘れるわけないだろ」

「今になって思うんだ。毎年、見ておけば良かったなあ、って」

「行ったことのないところに行こう。毎度そう言ったのはおまえだぞ」


 鼻の奥がツンとする。

 ともすればまた泣いてしまいそうだ。


「ひと月はもたないって」

「そう言われたよ」

「痛みを和らげるために、今夜から注射を打って意識レベルを下げるって」

「注射を打ったら、まともにはしゃべれなくなるんだってな」

「だからね? 最後になんて言おうか考えたの。ありきたりな言葉だけど聞いてもらえる?」

「ああ。聞こう」

「純君、ありがとう。今までお世話になりました」


 鼻をすすった。

 まばたきするたびに涙があふれてきた。


 妻の左手を、ことさら強く両手で包んだ。


「純君。本当にありがとう。私は幸せ者でした」

「俺にも言わせてくれ。香織、本当にありがとう。俺だって幸せだった」

「ありがとう」

「うん、うん…」


 夜、妻はナースステーションに隣接する個室に移された。麻酔が投与された。それでも当然、日々、病院に通い、手を握った。鼻に酸素吸入のチューブを差し入れられている妻はうっすらと目を開けることもあった。その時には彼女は決まってほおを緩め、「あ・り・が・と・う」と口を動かした。頑張ったと思う。疼痛がひどかったであろうに、私の前では弱音一つ漏らさなかった。ぶざまに取り乱すこともなかった。強い女性なのだ、本当に。


 当初の見込み通り、ひと月と経たないうちに、いよいよ延命措置の話をされた。医者のその問いに対し、「続けてください」とは言えなかった。もう楽にしてやりたい。そう考えた。そしてもはや植物状態と化した妻の命を断ち切る処置が取られた。私が望んだことだ。その望みを彼女も受け入れてくれる。そう信じるよりほかなかった。


「純君、ありがとう、バイバイ…」


 最期の瞬間にそう聞こえたのは、きっと錯覚ではない。




       ※※※


 妻の納骨法要を終えた翌日、車を走らせ富良野に足を運んだ。広大な畑にはひまわりが所狭しと並んでいる。いずれものっぽで太陽のほうばかりを向いている。前向きな連中だ。少しはこっちの悲しみを汲んでもらいたい。


 ひまわりを両脇に従える格好で続く迷路を歩いた。前にはまだ若い親子。鮮やかに咲き誇った花をバックに写真撮影をしている。うらやましいだなんて思ったりしない。二人きりの生活でも本当に幸せだったのだから。


 香織。

 ありがとう。

 生き抜いてくれてありがとう。

 君は最期まで本当に立派だった。


 立ち並ぶひまわりを一枚だけ撮った。


 黄色い迷路に立ち尽くす。

 見上げると真っ青な空。

 じんわりと涙が浮かんできた。

 ひまわりに目を戻す。

 黄色い花が、にじんで見える。


「純君、こっちこっち」


 弾んだ声でそう言いながら、彼女は私のことを前へ前へと促したっけ…。


 香織へ。

 ちゃんと言っておく。

 俺は再婚なんてしない、しないからな。


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