崩壊を抱懐して望むもの
風が耳障りな悲鳴を立てて吹き荒れる春のこの頃、妙に天気が悪いのが鼻に付く。
台風というわけではないが、ここ一週間、厚い雲が太陽を覆い、強風は止むことなく吹き続けていた。ホラー映画をも思わせるこの有様は、本来なら外に出ることすら億劫に感じるところだが、今の僕にとっては都合がいい。なぜならいつもの実験をしようにも、周りの目は少ないほど僕は色々やりやすくなるのだから。
ゴールデンウィークに入り、5日もの休みを手に入れてしまって僕は両親が家にいないのをいいことに、四六時中廃病院の5階の一室に篭り、今日で三日目だ。こんなことができるのは両親が能力の研究者で、政府の研究機関に泊まり込んでいて、滅多なことがない限り戻ってくることはないからである。僕が生活に困らないよう預金手帳すら僕に預けてある。そんな二人が戻ってくるとしたら、それこそ僕が死んだ時ぐらいではないだろうか。とはいえ、両親とは別に関係が悪いわけではない。現に僕が他の人よりずっといろんな能力について詳しいように、子供の頃に色々と必要のないことまで教えてくれたのは他でもない僕の両親である。両親の放任主義には感謝している。なので色々自由にやらせてもらうとしよう。
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絶えず窓越しに聞こえてくる風の耳障りな音が僕の睡眠を妨げる。
硬い床で寝るのは今回で三回目だ。
廃病院というだけあって、どこまでも廃れたこの建物だが、この辺りは生物が多く、昨日から始まった僕のマイブームであるカラスやら野良猫やら虫など複数の生命体を使った実験が楽しすぎて、やめられなくなっていた。
複数の生命を使った実験は通常なら再構築でできるはずがないものまで僕にもたらしてくれた。それをいいことにより一層興味を深めてしまった僕は繰り返し小動物を大自然に返していくうちに、いつの間にかガス欠になり、能力を行使できなくなっていき、脱力感と眠気が同時に寄せてきた頃には糸が切れたかのように自然と深い眠りについていた。
それを今、僕は不自然に目を覚ました。
外の風は音を聞いてわかるように狂ったように勢いを増している。廃病院とはいえコンクリート製の建物が忙しなくそれになびく。多少パニックになりながらも暗やみの中、明かりを確保しようと懐中電灯に手を伸ばし、スイッチをオンに切り替える。まるで地震の主要動のような振動だが、いつまでもたっても治らない。むしろ勢いが増していく様子に僕の本能が警告を立てる。この事象はもはや台風どころの騒ぎではない。
僕は立ち上がって、外の様子を一目見ようと窓に手をかけようとする。転倒しないようにバランスを保ちつつも慎重に窓際に進み、普段のように窓に触れようとして、手を窓にかけた。
急に体がだるくなったと思えば、僕の手が窓に接触した瞬間、音もなく窓は小麦粉のように塵散した。それに留まらず窓に触れた僕の指までも少しずつ塵になっていく感覚がして、慌てて確認すると、指の先から少しずつ僕が零れていく。
思わず後ずさる。
急いで懐中電灯で周りに光をあてると、窓が、壁が、何もかもが分子レベルで分解されていくのが”感じられた”。ここ数日、僕はこれとは真逆のことを山ほどしてきたためすぐに察することができた。
嫌な予感に冷や汗が噴き出る。ばくばくと暴れる心臓の鼓動を抑えて、手遅れになる前に急いで窓に触れた右手を近くの果物ナイフで切り落とす。肘から少し下の部分が果物ナイフによって骨の引っかかりなく難なく切り落とされる。小動物の血で錆びかけているそれで自身の腕を切り落とすのにためらっている場合ではなかった。この感じだともう少し遅ければ手遅れになっていたのかもしれない。
周囲にすでに嗅ぎ慣れた死体の腐臭に僕の血の匂いが混ざり合う。嘔吐を催すところだが、それに動じることなく、徐々に塵化していくこの辺りから遠ざけようとして、僕は侵食に追われるように走り出す。侵食のスピードはそれほど速くはないが、おそらくこのままじゃすぐにでも建物自体が崩落しそうだ。
そう判断した僕は素早く突き当たりの壁を犠牲に捧げて、飛び降りると同時に空中に絶え間なく足場を作り、なんとか無事に地面についた。
見ると先ほど塵散したところとは反対側に綺麗に歯型をつけられたかのように欠けている廃病院があった。
おそらく先ほどの足場を生成する際に代償に使った壁だけでは足りなかったからであろう。代償が足りないと能力が発動しないのではなく、周囲に無差別に代償をばらまくのも僕の能力の特徴である。途中で男の悲鳴のような声も聞こえたが、もしやほかにも誰かが廃病院の中にいたのか。
だとしたらそいつはとんでもなくついてないようだ。
とはいえ妙な現象が起きるものだ。まさかこんなところで”崩壊”が起きるとは。”崩壊”といえば近代になって起こるようになった自然災害で、唯一大量な死者を出す自然災害でもある。ほぼ全人類が異能を持つこの世紀、地震やら竜巻程度では余裕で逃げ切る人も多い。テレビのニュースでしか見たことがない現象なだけに、いまいち実感がわかない。とはいえずいぶんと緩やかで規模の小さい崩壊だったな。警報すら出ない程度の崩壊など聞いたこともない。急いで抜け出したのはいいものの、あのまま寝ていれば僕は文字通り消えていただろう。
ゆっくり、消えていく建物を片目に、僕は右手を復元していく。
本来あのような貧弱な果物ナイフではとても人の腕を骨ごと切り落とすのは無理だったが、あの時はなぜかいけると感じて実行した。そして実際僕の右腕は、肘から下を少し残してなくなっている。このことから僕はあの時全身がもろくなっていたと推測して全身から血が引く感覚がした。果物ナイフでさえ簡単に両断されるぐらいもろくなっていたのだ。侵食以前にもし転んでしまって、頭でもどこかにぶつかっていても僕はここにいないのかもしれない。本当に脱出はぎりぎりだったのだと実感する。
間違いなく生まれてからの一番の危ない橋を渡った僕は指先から再生される僕の腕を見て吟味する。
感覚として、今回の代償は人か。最近分かったことだが、どうやら僕に関してのみ人体を修復するのに生き物の体が必要とされるらしい。事故で足を修復していた時はたまたま近くを通り過ぎた猫のしっぽが代償となっていたようだ。いつもそのあたりで見かける黒猫だ。そして今回の犠牲者は運悪くもこの近くにいる者のようだ。残念無念また來世。そこまで考えてすぐさま思考を放棄する。死んだほうがましなほどの激痛がやってきたのだ。
崩壊から逃げる際、かろうじて痛みから目をそらせていたが、軍人でも耐えがたい片腕を損なうほどのそれを一介の高校生が耐えられるわけもなく、まして命の危機が去り、アドレナリンが抑制された今、皐月が意識を保っていられるのは単に彼の精神力が常を逸して優れていたからであろう。
ほどなくして腕が元通りに戻る。
感染症の恐れもあるが、今はそれどころではない。
僕は、皐月 夜兎は、消えゆく廃病院の向こうに現れた三人の完全武装した男に囲まれた少女に目を奪われていた。
呼吸の音が聞こえるほどの静寂をもった冷えた漆黒な夜に、一際色彩に富む者がいた。
底なしの黒にさえ打ち勝つ暖かく降り注ぐ日の光を想起させるまばゆく輝く髪。
かすかに光る碧色の瞳がこちらに向けられる。魔性に満ち溢れたであろうそれは今は虚ろに闇を吸い込み、あたりの空気をより一層冷たくしている。僕と目を合わせることもなく、周囲の男たちに促されて彼女は踵をかえすと、何事にも侵食されない彼女の髪はより一層美しく輝き、ことごとく僕の視界を黄金色に染め上げた。
生まれて初めて生まれたこのような感情に困惑はなかった。
果たして僕はこれまで生きてきてここまで感情的になったことはあったのだろうか?
答えは否だ。
今、ここにいる彼女の前では僕についてのすべてが無味乾燥な何かに見えた。
すぐさま僕はこれを運命だと結び付ける。
これこそ僕が求めていたものだ、と。
両親を、平和な日常を、敷かれた成りあがりのレールも何もかもすべてを捨てたのにかかった時間は一瞬にも満たなかった。
僕は今どんな顔をしているのだろうか。
抑えきれない顔に走る筋肉の暴走をそのままに、はやる心臓の心地よい鼓動を感じながら
僕は動き出した。
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「現場に到着しました。ただいまより任務を開始します。」
隣の男が無機質な声を吐き出す。
吐き気を催す濃密な死のにおいが鼻に纏わりつき、腐った鉄分が空気中を舞う。
久々の外出で少女が最も多く吸った空気はそんなものであった。
既に嗅ぎ慣れた匂いだが、このたびの血の匂いはどうも人間のものではないらしい。それを指摘することなく少女黙々と次の指令を待った。
勝手な行動や言動は認められない現状に異論を申すような行為はとうの昔にやめた。それでもなお、こうした任務のたびに王子様が助けに来てくれると思い込んでしまうのはなぜだろうか。
隣では筋骨隆々な人たちが慣れた手つきで目の前の病院に睡眠ガスを送り込んでいる。ここはこれから戦場と化す。今夜、麻薬の密売組織はここで取引をするということをここに来る途中軍人たちの会話から分かっている。よっぽど強敵なのか、この任務に私が使われるらしい。
「崩壊」
今では自然災害の一つとされているんだったか。
その歯牙に害されたものは塵も残さず文字通り消える。
しかし、「崩壊」の能力にある本質は破壊ではなく、還元である。
なにもかもなかったことにしてしまうのだ。
5年前、まだ中学校に入ったばかりの私はとある能力を目覚めさせた。始まりはあまりにも唐突だったし、過程は覚えていない。ただあの頃の私に崩壊の能力など制御できるはずもなく、そもそもまわりのものが消えた原因が自分自身にあるとは微塵にも思えなかった。
能力が覚醒した一日目。両親が行方不明になった。家とその周辺の建築物が元から更地だったかのように消え失せた。行き場を失い、学校に救助を求めて歩く道、急に意識が途切れたと思えば次の瞬間には周囲は暗闇に覆われていた。気が狂いそうになるほど濃密な土のにおい。何も見えない。何も感じない。また意識が落ちる。再び人の話す声が聞こえたかと思うと私は強制収容施設にいた。その瞬間、私の自由は殺された。
後から聞かされた話だと、私のせいでたったの3日で地図上から街の一個が消え失せたという。半径80km深さ4000mの空洞から救出された私は「崩壊」の唯一の生存者だとマスメディアにとりあげられた。しかしもちろん内部の人間は私がやったとわかっているため、私を殺人犯のように扱った。そして軍の連中が私の価値に気付き、利用しやすいように私を実験体のように使った。そしてこれが「崩壊」という”自然災害”の誕生であり、始まりでもあった。
今こそ鎮静剤などのせいでうまく力が使えないが、私は何度も収容施設から脱走を企ててそして何度も成功している。強力な能力のため、ある程度能力をコントロールできたころには、こっそり束縛を解き脱出するのに大して苦労はなかった。それでも、一つ問題があった。逃走したはいいものの、逃走先で能力の暴走を抑えきれず、どうしても「崩壊」を起こしては回収されていった。そのすべてが自然災害と公的にはされているが、もちろん内部の人間は私がしでかしたことだとわかっているため、今まで以上に私の扱いをひどくした。そうして私は逃げることを放棄した。
睡眠ガスという下準備が終わったようで私は目の前の廃病院に向けて力を込める。周りの軍人もまとめて標的にしてもいいのだが、その行動の先はどうせまた同じことの繰り返しなのでやめた。
するといきなり周囲から強風が吹き荒れる。どうも今日の天気は風が強いようだ。このままでは壁に穴が開きまくっている廃病院において、中の睡眠ガスが外に漏れだして、効果が薄くなってしまう。だがこちらにも対策があるようだ。後ろに控えていた複数の優れた風の能力者が一斉に力を発揮する。もし予想が当たっていれば...
巨大な竜巻が廃病院全体を囲む。竜巻のあまりの激しさに老朽化した廃病院がその巨体を揺らして悲鳴を上げる。
「ガキ、やれ」
短く刻まれる命令。それに従い私は無感傷にまんべんなく標的に崩壊の災禍を飛ばした。
薬のせいで能力が抑えられているようで崩壊のスピード非常には緩やかだ。だが敵は睡眠ガスで寝かされているため問題ないように思えた。下の階は睡眠ガスで満たされているはずだし、上の階は人影なしと話したのを聞いたから、起きている者はいないだろう。
建物が半分近く消えたところで、悲鳴が聞こえた。おそらくは睡眠ガスが効きにくい能力者でもいたのだろう、自身が消えていくのが怖くて悲鳴を上げたのだろうか。とはいえもう手遅れだ。私は一気に崩壊を加速させた...
今回も実にあっさりと任務は完了した。
かかった時間は数の数分間。死体の確認さえ必要ない。そもそも死体すら残らないが。
どうやら今回も私の王子さまはやってこなかったらしい。
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久しく、少し心が痛んだような気がした。




