『開けて』
仕事から帰ると、一人暮らしの私のアパートから、電気の明かりが漏れていた。
合鍵を渡してあるのは、両親を除けば一人だけだ。こんな風に突然来るのは両親ではあるまい。
「朱美」
ドア越しに声をかけた。
私は当然鍵を持っているので、開けることはできる。しかし、部屋の中にいるのが泥棒ではないと決まったわけではない。
「潤ちゃん?」
泥棒ではなかった。聞きなれた甘ったるい声が返ってきた。
鍵は掛かっていなかった。中に人がいようと、鍵をかけないのは無用心だと思いながら、玄関の扉を開けると、夏らしいこざっぱりとした服を身に着けた同い年の女性が立っていた。とりわけ美人ということもないが、見慣れているせいか安心する顔だ。
狭い玄関に入り、後ろ手に扉を閉める。
「来るなら連絡くらいしたらどうだ。泥棒と間違えて殴りつけるかもしれないぞ」
「ごめんなさい。驚かそうと思って」
幼馴染の朱美は、申し訳ないといった顔つきはしていなかった。
時々私の部屋を訪れては、取り散らかして帰っていく。
本人いわく世話を焼いているのだそうだが、私としては後片付けの手間が増えるだけのような気がしている。
「突然来たからといって、驚きはしないが」
靴を脱いで上がる。
朱美が立ち位置を変えないため、体が至近に迫る。
腰を抱き、口付けをし、カバンを渡す。結婚する約束はしていないが、朱美はこういう夫婦ごっこがお気に入りだ。
「潤ちゃん、汗臭いわよ」
「仕方ないだろう。この炎天下のなか歩き回っていたんだ。専門学校生みたいに、一日中冷房の効いた部屋にいられるわけじゃない」
「私だって働いているわよ」
「知っているよ。ホテルの掃除だろ。べつにそれを否定するわけじゃないが、帰ったばかりで汗臭いなんて言うことないだろう。俺だって気にはしているんだ。それに、今から着替えるんだし」
「そうね。ごめんなさい」
部屋に冷房が効かせてあるのは有り難かった。
私は寝室で着替え、その後ろを付いて歩いた朱美も一緒に部屋に入った。
「着替えてもいいか?」
「あ。やだ、ごめんなさい」
「見ててもいいけどな。今さら」
「そう?」
私は既に、シャツと下着を脱いでいた。
「どうせなら、部屋を出て、隙間から覗いたらどうだ?」
「その方が興奮するの?」
「俺はな」
「ひょっとして、そういうお店に行っている?」
私は答えず、汗をタオルで拭った。あわただしく朱美が出て行く。ドアの隙間から、覗くのがわかった。
「本当にやるとは思わなかった」
朱美の眼球を意識しながら、ゆっくりと着替える。シャツと短パンという、いかにもな部屋着に替える。
「潤ちゃんずるいじゃない」
「なにが?」
「パンツも替えてよ」
「俺の勝手だろう。パンツまでびっしょりになるほど汗を掻いていないし」
「お客さんの期待を裏切るのはよくないわよ」
「どうせ只見だろう」
「そんな言い方ないでしょ。労働に対して対価を支払うべきだわ」
「労働ってのは、なんのことだ?」
「食事もできているし、お風呂も沸いているし、洗濯もしたし」
「へえ。凄いじゃないか」
ドアを開け、覗き見のままの姿勢でいた朱美の頭を撫でる。無邪気に笑う顔は、失笑したくなるほど幸せそうだった。
「じゃあ飯を貰おう」
「あとで」
「なんで?」
「潤ちゃんの言った通りね。興奮してきちゃった」
「だから?」
「ちゃんと責任とってよ」
ドアから出ようとした私を、朱美は意外な力で押し戻す。
ベッドの上に、二人で転がった。さして高くはないベッドが、二人分の重さで軋む。
「シャワーは?」
「汗の臭い、嫌いじゃないから」
折角着替えたというのに、私はまた裸になった。
食事の後、私はテレビを眺めていた。朱美は私の携帯電話をいじっている。
「見るだけにしろよ。仕事の内容が入っているんだから。データが消えていたりしたら、賠償もんだぞ」
「わかっているよぅ。そんなヘマはしないから」
朱美が人の携帯をいじるのは毎回のことなので、それほど心配はしていない。見られて困る内容も入っていない。朱美が産業スパイでなければだが。
世間的には付き合っているというのだろう。私にその感覚はなかった。
朱美に言えば傷つくのはわかっているので、口にしたことはない。
その建前で言えば、私は浮気をしている。
実年齢は知らないが、自称女子高生との援助交際、そして職場の人妻だ。
人妻とは職場で会えば良いし、互いに割り切っている。自称女子高生とも割り切っているつもりだ。
連絡はパソコンのメールに入る。携帯の番号は教えてもいない。
必ずパスワードをかけて、簡単には見られない形で送ってくる手はずになっている。
もし約束を違えたら、その女との付き合いも最後になるだろう。
「もう遅いぞ。帰るなら駅まで送るが、どうする?」
携帯の画面から顔を上げた朱美は、驚いたように大きく目を見開いていた。意外と黒目が大きいのは、ちょっとした発見だった。
「泊まっていけって言ってくれると思っていたのに」
「悪いけど、最近暑いんで疲れ気味なんだ。なるべく睡眠時間をとりたい。もう一回っていうのはなぁ……」
全くの正直な気持ちだった。同時にため息も漏れた。
体力の限界を感じるのは、私も年なのだろうか。
「大丈夫。そんなこと言わないから。実はパパと喧嘩しちゃって、ちょっと帰りづらいのよね。だから、いいでしょ。泊まっていって」
「そうだなぁ。朝飯も、期待していいのか?」
「任せてよ」
携帯電話をパタンとたたむ。いそいそと立ち上がり、寝室に向かった。
私はしばらくテレビを眺めていたが、今度はパソコンをいじっているだろう朱美に呼ばれ、のんびりと立ち上がった。
「どうした? そのパソコンは俺が使いやすいように設定してあるから、あまり触って欲しくはないんだが」
「変なメールがあるのよ」
パソコンは寝室に置いてある。疲れたときにいつでも寝られるように、である。
椅子は無く、ベッドに座って使えるように、台を置いてある。
その前に、朱美は座っていた。
「メールは大抵おかしなものだ」
色々なホームページを暇なときに覗いているので、私のアドレス宛には毎日五十件以上のメールが配信されている。
妖しげな内容も多く、開けた途端に外国人の女性が裸で出てくるものもある。
それをほったらかししてあるのは、援助交際している女子高生からの連絡をカモフラージュするためだ。
私が見ればすぐにそれとわかるが、他人が見てもただのいたずらだと思うだろう。
「でも、見てよ、これ」
私を仰ぎ見る朱美の顔は、浮気を勘ぐったという様子ではない。
「どれだ?」
ベッドの反対側から上がり、朱美の背中に自分の胸を押し付ける。腰に腕を回し、覆い被さるように画面を覗き込んだ。
「重いぃぃぃ」
朱美の苦情は無視する。パソコンの画面には、相変らず凄い数のタイトルが並んでいた。
様々な宣伝文句の中に、一言『開けてくれ』というタイトルがある。
「これか?」
「うん」
「確かにシンプルで目立つが、そんなに気にすることでもないだろう」
「でも、なんか気になるのよね」
「ちょっと気になるくらいで、呼びつけるなよ」
私と朱美の姿勢は変わらない。私は、さらに体重をかけて押し潰すようにした。
「なるほど、添付ファイルつきか……」
「ねっ。気になるでしょ?」
少なくとも、援助交際相手からの連絡ではない。
コンピューターウイルスの感染源として意識されるようになってから、メールに添付ファイルがついているのは珍しくなった。
差出人も不明。宛名は、私のメールアドレスですらない。
「開けてないよな」
「うん。迂闊には触れないでしょ? 私だって学校でパソコン使うから、ウイルスのことは聞いているもん」
「まあ、放っておくのがいいだろうな。どうせ、もともと俺宛じゃないし」
何故私のところに届いたのかが、まず不明だった。
画面をスクロールさせ、全てのタイトルに簡単に目を通す。特に必要なものはなさそうだったので、まとめて指定し、全て削除する。一つ残った。
『開けてくれ』
残したつもりはなかった。
「どういうことだ? 削除したはずだが」
「さあ……」
一つしかないので、自動的に中身が表示される。白い画面に、画面の四分の一ほどの大きさの、扉の絵が中央にある。
「『開けてくれ』って、この扉かしら」
「たぶん、そうだろうな」
「開けてみて、いい?」
「いや。駄目だ。興味本位でウイルスに感染されちゃ堪らない」
「ちょっとだけ」
朱美は、勝手にマウスのカーソルを動かした。扉の絵を通過しても、矢印型のカーソルは矢印のままだった。押して反応するのなら、手の形に変わるはずだった。
「なあんだ」
「多分、添付ファイルに仕掛けがあるんだろう……駄目だ、触るなよ」
すがるような目で見詰めた朱美を、先に制した。
「気にならないの?」
「なるさ」
だから、私はウイルス駆除ソフトを起動させた。
「あっ。なぁるほど」
しかし、ウイルスは捕まらなかった。このメールは安全だという指針ではある。
私は、パソコンを使う者の嗜みとして、常に最新の駆除ソフトを常駐させている。
もっとも、ウイルスは世界のどこかでつねに新型が作られている。明日になったら、世界中で新種について騒動になっているかもしれない。
「ねぇ、もういいでしょ?」
「いや……明日にしよう。明日会社に行って、その話題がでなかったら、とりあえず大規模にばら撒かれたうちの、間抜けな感染者という事態は避けられる」
「じゃあ、明日も来ていいの?」
「……朱美が俺の許可を得たことなど、今までにあったか?」
連日連夜押しかけて来ては、愚痴を聞かされることなど、珍しくもなかった。
「じゃあ、いいや」
いそいそとパソコンの電源を落とす。まだ、私が使いたかったのだが。
「もう寝ましょ」
顔がすぐ近くにあったので、ほんの少し動いただけで、唇が触れた。
「さっきも言ったが、今日はもう寝るだけだぞ」
「元気にならなかったら、諦める」
朱美の手が、私の股間をまさぐりはじめた。残念ながら、生理現象には逆らえなかった。
予定より、睡眠時間が若干短くなった。
翌日残業を強いられたのは、別に朱美に精力を奪われたからではない。
得意先を回った後の残務整理は、退屈なのであまり身が入らず、つい時間を延長してしまったのだ。
酒を飲まない私は、就業後の楽しみがさしてあるわけでもなく、残業が日課となっている。
「熱心ね」
声をかけてくれたのは、上司の平岡主任だった。女である。
美人で仕事もでき、家庭も円満らしい。唯一の欠点は、酒癖の悪いところか。
「不熱心だから、時間内に終わらないんですよ」
主任は声を立てて笑った。
私としては、ごく真面目に答えたつもりだったが、冗談として受け取ったようだ。営業成績の申し分ない私が言っても、仲間には『嫌み』ととられるのかもしれない。
「謙虚なのも、度を越すと損をするわよ」
社会人になって短いわけではない。
その私にこういった忠告をするのは、彼女と私がただならぬ関係だからである。不倫をしているのも欠点に入るのかもしれないが、私にとっては欠点ではない。
「何時ぐらいに終わりそう?」
「お誘いですか?」
広いフロアには、私達以外の人影は無い。声を落とす必要も無かった。
「迷惑でなければいいんだけど」
「まさか。そんなはずないじゃありませんか。もう終わりますよ」
私は、荷物を片付けにとりかかっていた。
「それより、主任はどうなんです? お子さんが待っているのでは?」
「そう。だから、早く済ませたいの」
二人も産んでいるとは思えない、細い腰を私のわき腹に押し付けてきた。
私は横目で一瞥しただけで、片付けを完了する。
「では、ここで?」
「いいわよ」
どうも欲求不満らしい。
旦那が全く相手をしてくれないというのは、毎回のように聞かされていた。それが真実かどうかまでは知らないが、私にはありがたい話だった。
私は荷物を腕に下げ、主任の体を抱き上げる。警備員が来ても目立たないよう、通路から離れ、窓際の夜景が一望できる位置まで移動する。
備え付けの新聞紙を途中で拾い、床に広げた。
「下は冷たいから、私が上でいいわね」
「仰せのままに」
私は、シャツを肌けながら横になった。
「いいえ。そんなメール、家には届いていなかったし、聞いていないわ。もっと早く言ってくれれば、パソコン情報を扱っている友達に聞いてあげたのに」
「そんな大げさなことじゃないんです。ただ、もし大規模にばら撒かれたウイルスだったら、一日あれば誰かが知っているはずだとおもったので」
私はトランクス一枚で、主任の着替えを手伝っていた。私には急いで帰る理由がないので、これくらいは当然である。
「そう。最近はあまり悪質なウィルスの噂は聞かないから……でも安心はできないわよね。何かあったら、教えてね」
「でも、個人的な事柄ですから」
「わかっているわ。だから、個人的なときに話せばいいでしょ。今みたいな」
「……近いうちに、また?」
私は、自分の服を着始めていた。
「約束するわ。一週間以内にね」
主任に唇を奪われる。朱美よりも唾液の量が多いような気がする。
それが年齢的なものかどうかは私にはわからない。
上機嫌で揃って会社を出た。夜の街を二人連れ添って歩いたことはあるが、社内では誰も感づいていないと信じている。
「娘さんと旦那によろしく」
背中に声をかけると、主任はにこにこして振り返り、手を軽く振った。
私は、彼女の家庭を壊すつもりは無い。その点においては、絶対的な信頼を勝ち得ていた。
「さて……帰ったら多分、朱美が待っているんだろうな」
どこかでシャワーでも浴びて、女性の臭いを落としたかった。
だが、あらかじめ来るのを許可した手前、あまり遅く帰るのも気の毒な気がした。
結局、私はジョギングして帰ることにした。汗の臭いで、誤魔化されてくれるようにと。
アパートの明かりはやはり点いていた。
援助交際を止めれば、もう少しいいマンションに移れるのにとも考えていたが、上を見てもきりがない。
私は額の汗を拭いながらドアノブを回した。
朱美の靴があるが、迎えには出てこなかった。奥で、水の流れる音がした。
「無用心だな」
男の一人暮らしに、さしたる用心はいらないかもしれないが、シャワーを浴びながらドアに鍵をしないというのは感心しない。
「潤ちゃん?」
声が響いた。間違いなく、朱美だ。
私は少し腹が立っていたので、私は返事をせず大股で寝室に向かう。
上着とズボンを衣文掛けに揃えると、シャツを脱ぎながら浴室のドアを開けた。
「きゃあ」
水に濡れた、全裸の朱美がいた。私は表情を変えず、その首に手を回す。力をこめた。
「何するの?」
「こういうことになりかねないから、玄関の鍵は常に閉めておくものだ」
手から力を抜く。朱美の濡れた体が、もたれかかってきた。
「びっくりするじゃない」
「無用心すぎるぞ」
タオルを朱美に渡し、私も服を脱ぐ。
今度は彼女が私を刃物で突く真似をした。リアクションする気にもなれなかったので、抱き寄せて唇を吸った。
「早かったんだね」
「朱美が来ることがわかっていたからな」
「じゃあ、結婚したら毎日こんな感じになるのかな」
「それは、朱美の結婚相手によるだろう」
「もう、意地悪」
本気で傷ついた顔をしたので、濡れた頭に手を回して、自分の胸に抱き寄せた。
「心臓の音がする」
「先に行っていてくれ」
「寝室の方?」
瞳を輝かせる彼女に、私は台所を指差した。拗ねたように口をとがらせ、体に大きめのタオルを巻きつけて出て行った。
「ばれなかったな」
私は、自分の体の臭いを嗅いで確かめた。
「どうだったの? 何か噂になってた?」
ベットの上で、全裸でパソコンを立ち上げる朱美が尋ねた。私はトランクスだけをはき、シーツをその白い肌に乗せた。
「いや。どうやら、取り越し苦労だったみたいだな。朱美も専門学校でパソコン使うんだろ? 話題にも出なかったんだろ?」
「うん」
「じゃあ、大丈夫だろう」
朱美の体を抱えながらメールソフトを起動させる。今日も今日で大量のダイレクトメールが届いていた。まとめて削除する。やはり、一つだけ残った。
「やるよ」
添付ファイルをクリックする。インターネットにつながった。スピーカーを通して、音が響く。『ギギギ』といった軋み声。
「これだけ?」
「そうみたいだな」
「なんだ。つまんない」
「どうして、これだけ消えないんだ?」
どんな悪質なメールでも、パソコンの削除キーには逆らえないのだ。
それなのに、風呂場のカビのように擦っても擦っても残っている。
「知らなーい。もう寝よ」
「さっきしたばかりじゃないか……ああ、本当に寝るんだな」
朱美は、シーツを頭から被っていた。明かりを消せと指を振る。
「スケベ。今、違うこと考えたでしょ」
「朱美が一度で満足すると思えなかっただけだよ」
「それ、酷くない?」
「お休み」
真っ暗になった寝室で、私は朱美に寄り添うように横になった。
「ちょっと、まだ話は終わっていないわよ」
「寝るんだろ。また、明日な」
「……本当に明日も来るわよ」
「じゃあ、明後日」
「どうしてぇ」
朱美の抗議を聞いているうちに、私は眠りに落ちていた。
翌日、仕事を終え帰宅すると、なんとなくアパートの部屋が広く感じた。
朱美が来ていないからだと気づく。一人が嫌いではなかったが、二人に慣れると若干寂しくもある。
「別に、朱美でなくてはならないということは、無いんだがな」
あえて、口に出してみた。
自分を誤魔化しているような感覚に襲われたが、錯覚だろうと思い直す。
冷凍庫から弁当を取り出す。朱美がいつ来るのか不明なため、何日か前に買ったまま保存しておいたものだ。
ひどく簡単に食事をすませると、早速やることがなくなった。
パソコンを立ち上げる。見た目では異常はない。
メールを開くと、相変らずの大量の宣伝文句のなかに、例の一通があった。
開封済みになっている。昨日開けたからだ。
もはや警戒心もなくなっていた。無造作に添付ファイルをクリックした。何も起こらないだろうとたかをくくり、削除キーに指をかける。
『ギギギギギ……』
少し、音が違うかなとは思った。
削除キーに反応しない。
しかし、私が驚いたのは、それが原因ではなかった。
「動いたのか?」
画面の中で、扉の絵が、かすかに歪んだ。不気味な音が続いている。眉根を、いつの間にか寄せていた。
開いた。
扉が、外開きに開きかけていた。
昔のパソコンのドット絵の線を、一本ずつずらしていくような微妙な動きで、確実に、開いていく。
私は、恐くなった。
なにか、間違ったことをしてしまったような気がした。
削除キーは通用しない。
パソコンのメールシステムの×ボタンをクリックする。
反応しない。メールそのものを、閉じることができない。
軋むような音が響く。
大分使い込んだパソコンで、フリーズも珍しくはない。
だが、画面の中では動いているのだ。もう、扉が開きつつあるのははっきりしていた。
暗い口を開けている。その中から何が出てくるのか。
私は見届けず、電源スイッチを押した。
(一……二……三……)
心の中で数える。
電源を長押ししたまま、五まで数えたとき、画面が落ちた。
暗転した。
「……何なんだ」
声に出してみた。答える者はなかった。
携帯電話を取った。
番号の一覧を眺め、相談相手が朱美しかいないことに、暗鬱とした気分になる。
事情を知っているのが彼女と職場の不倫相手なのだから、仕方ないのだが。
『はい』
「もしもし、朱美?」
『うん、潤ちゃんね?』
落ち着いた調子から、相手が私だと知った途端に、明らかに一段階跳ね上がった。
「ああ」
『潤ちゃんから電話してくるなんて、珍しーい。でもごめんね。今日友達と遊んでいるから、今晩は行けないよ』
「いや。いい。そんなつもりじゃない」
『ふーん……私の声が聞きたくなったの?』
「まあ、そんなところだ」
『ちょっと、どうしちゃったの? 潤ちゃんらしくないじゃない』
「そんなことはない。いや、別に用もない。じゃあ、また今度」
『また、明日ね』
切れた。
「明日?」
しばらく携帯の画面を眺めてから、画面を消す。
私らしくない。確かに朱美の言う通りなのかもしれない。
パソコンを見る。
だが、もう一度電源を入れる気にはならなかった。
「そういえば、最近あいつに会っていないな」
援助交際相手の、自称女子高生の顔が浮かぶ。
心細くなって、私も人恋しくなっているのだろう。
二週間近く会っていない。
今日も連絡は入っていなかった。小遣いに困ればまた言い寄ってくるだろうが、別の金づるを見つけたとすれば、彼女との縁は完全に切れるかもしれない。
それを、惜しいとも思わなかった。彼女との関係は、その程度だ。
メールのアドレスも、携帯の番号も知っている。私から連絡を取るのは禁じていない。
ただ、彼女が会いたいと意思表示を示し、それに呼応する形で私から連絡を入れるのが慣例だった。
「……寝よう」
ほんの少し考えた後、私が下した結論がそれだった。
『今日は少しゆっくりできるんだけれど』
給湯室で顔を洗っているとき、主任は背後からそう声をかけた。
『わかりました』
事務時にそう返した。
だから、私たちは今ホテルのベッドにいる。
「久しぶりですね。ベッドでは」
「私とは、ね。でしょ?」
主任は、私の隣でタバコをくゆらせていた。
ベッドに腰掛け、半身を壁に預けている。
彼女の体が、少し汗ばんでいるのがわかった。私も同様だ。そのことが、なぜか嬉しかった。
「旦那さんと喧嘩でもしたんですか?」
「まさか。あいつと喧嘩しても、子供達がいるもの。遅く帰っていい理由にはならないわよ」
煙を吐き出しながら言う。白い煙が、機関車のようにたなびいた。
「じゃあ……いえ。いいです。なんでもありません」
脂肪の乗った体が、私の胸に押し付けられた。膝が、内股を擦る。
「また、ですか?」
「嫌なことを思い出したわ。責任とりなさい」
「明日、休んでもいいでしょうか」
「今夜の働きによるわ」
厳しい上司だ。
私の腕の中で、その後、激しい雄叫びを放った。
先日相談した奇怪なメールのことを尋ねると、私の上司は専門家に尋ねてくれていたらしい。
その専門家が、聞いたことがないと明言した。
ただ、昨晩の妙な現象が、ウイルスの類で無いとすれば、私のパソコンもそろそろ代えどきなのかもしれない。
なんとなく、部屋に帰るのが恐かった。
上司と分かれた後、喫茶店で時間を潰してから帰途についた。
道路から、二階の私の部屋を見上げ、嘆息した。明かりが点いていた。
私は、自分の体の臭いをかいだ。
シャワーを浴びてきているので、勘ぐられることはあるまい。部屋に戻りたくない理由が、一つ増えた。
「遅かったね」
玄関に入るなり、新婚の夫婦のような抱擁を交わす。
「ずっと待っていたのか。電話してくれれば、もう少し早く帰れたんだが」
「電源切りっぱなしだったくせに」
「そうだったかな……」
確認すると、どうやらその通りだったようだ。上司と一緒にホテルに入ったときに、電源を切り、そのままにしていたらしい。
朱美に詫びる。
「じゃあ、お休み」
体を入れ替え、玄関方向に押しやった私を、朱美はにらみつけた。
「このまま帰すつもり?」
「だって、終電がなくなるぞ」
「泊まっていけって言わないの?」
「まだお父さんと仲直りしていないのか?」
「そうじゃないけど……潤ちゃんのとこに泊まったていうと、パパもママも喜ぶのよ」
あまり、ありがたくない情報だった。
朱美と別れる時のことを想像してしまう私は、罪深い人間だろうか。
「それより、あれはどうなったの?」
朱美が私の背中を押して、奥に押しやる。そのまま台所に行こうとした私の背を、今度は引っ張った。
その位置が、寝室の前だと見て取る。
「あまり見たくない。気味の悪いことになっている。昨日朱美に電話したのも、そのためだ」
「心細かったの?」
「ああ」
「潤ちゃんがそんなこと言うなんて、よっほどなのね」
私は、幽霊を見たこともないし信じていない。
恐がりでもない。そのはずだった。
不安そうな目を向ける朱美に、上着を渡すと、私は台所へ向かった。
今日は、着替えて部屋でくつろぐような時間はない。
食事をして、風呂に入って、寝るつもりだった。
「今日も何か作ってくれてあるのか?」
「うん……」
元気がないようだ。振り返ると、寝室の前から動いていない。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
かぶりを振り、ぱたぱたと駆け寄ってくる。本当に、なんでもなければいいのだが。
朱美は速度を落とさなかったので、私が胸で止めることになった。
そのまま抱き寄せ、少し落ち着かせてから、食事の用意を促した。
朱美とだけは、一緒に風呂に入ったことはなかった。
妙な話だが、私の意識の問題だ。もっとも近しい存在だけに、少しでも距離を空けておきたかったのだ。
結果的に長い付き合いになったが、それはそれで満足している。
私が浴室から出て、あちこちの電気を消してまわり、寝室に入ると、既にタオル一枚の朱美が、ベッドの上に座っていた。
パソコンを立ち上げているらしい。
「そんな恰好をしていると風邪ひくぞ」
「うん」
「今日は、パソコンは見たくない気分なんだ」
「でも、一日置いておくと、メールがすぐ溜まっちゃうんでしょ」
「まとめて削除すればいいさ」
見たくはなかったが、朱美の肩越しに、画面が視界の隅に入った。
メールのタイトルがずらりと並んでいる。その中の、一つに目が止まった。
『新商品のお知らせですってば』
自称女高生からのものだ。タイトルを決めてあるのだ。私と送信相手しか知らないことだ。
朱美の操るカーソルが、その上で止まったとき、私は心臓の高鳴るのを自覚した。
「これも添付ファイルつきね。本文には何にも書いてないじゃない」
私は、自分の胸に手を当てていた。
「今日は疲れているんだ……俺、寝るぞ」
「寝ちゃうの?」
寂しそうな横顔が見える。
「明日も、早いし」
「待ってよ。すぐ終わるから……あれっ? 閉じないや」
目を瞑ったら、そのまま意識が遠のいた。
朱美の頓狂な声を聞かなければ、眠りに落ちたかもしれない。
ようやく目を開けると、見知ったパソコンの画面があった。見知っていた。昨日、同じ場所で。
『ギギギギギギ……』
「潤ちゃん、これなんなの?」
扉は、開けかけていた。私が、昨日無理に電源を落とした、その位置まで。
「ウイルスじゃない。なら、俺を個人的に狙っているのかもな」
「誰が?」
「さあな。ただの偶然だろう。たちの悪いいたずらだ」
「ねぇ……開いてる」
「わかってる」
「ずっと、動いているよ」
「昨日は電源を切った。気味が悪かったからな」
そうしている間に、ただ暗かった扉の向こう側に、別の色が混ざることに気づく。
黄色い。
「目?」
見解は一致した。同時に口にしていた。
扉に収まりきれないような、大きな瞳が、まるで私を覗いているようだった。
「気持ち悪い」
全くの同感だ。昼間の猫のように、縦に細長い瞳だった。
白目が、黄疸よりも遥かに黄色い。
『ギギギギギギ……』
まだ開く。奥から、手が伸びた。
扉の、枠を掴んだ。
「ひっ……」
朱美が、私に体をぶつけた。
「潤ちゃん」
何を求められているのか、すぐにわかった。
私も、同じことを考えていた。
電源を押す。
押したままの五秒間が、こんなに長く感じたことはなった。
扉の枠にかかった指が、力がこもるように盛り上がる。一度放し、握り直そうとした時に、画面が消えた。
「何? 今の」
「俺が聞きたいよ……もう、寝るぞ」
汗をびっしょりと掻いていた。
パジャマを脱ぎ、汗を拭う。私の背中に、朱美が腕を巻きつけた。
背中の感触から、胸が肌けていることを知る。
「今日は寝るんだ」
決然と言った。
「わかってる。けど、恐かったんだもん」
朱美の体の上から、パジャマを着直す。慌てて朱美が離れる。
振り返ると、完全に全裸だった。
抱きしめられた。唇を塞がれた。
「恐かったんだよ。本当に」
「わかったよ」
「本当に?」
「いいか。一度だけだぞ」
「うん」
「こういうことって、重なるんだな」
最後の台詞は、口には出さなかった。会社の主任と、自称女子高生の顔が浮かぶ。
折角着たパジャマは、朱美によって手際よく脱がされていた。
「残念だったわね。休みに出来なくて」
朝、私の上司はしれっと言った。同僚達の面前である。
「なかなか仕事が拙くて、申し訳ありません」
「そんなことはなかったわよ。自信持ちなさい。だけど、休みはあげられないわ」
一般的には、主任は部下の中で、私に特に厳しいと思われていた。
私が外回りの支度をしていると、目の前にお茶が置かれた。
「大変ですね」
普段はお茶汲みなどしない、採用二年目の事務職員だった。
可愛くなくもないが、黒ぶちの眼鏡が表情を暗くしている。
人当たりも柔らかくはないので、若い割には男子社員の人気はいまいちだ。
「仕方ないさ。仕事が未熟だからね」
「そんなことありません。先輩はよくやっていますよ。あの小母さんが、ちょっとおかしいんです」
私に向けて、大きな笑顔を作った。そして立ち去る。
会話は聞かれなかっただろう。私に落ち度はない。
だが、問題なのはその光景を主任がどう判断するかなのだ。支度を済ませ、外に出る前に、私は主任の前に立った。
「行ってまいります」
深々と頭を下げた。
返事が無い。
私は顔を上げた。主任は明後日を向いていた。
書類に目を落としている。私は、仕方なくきびすを返した。
近いうちに仕返しされることは、覚悟しなくてはなるまい。
私にお茶を入れた職員の顔を思い出す。
これ以上近づかないように気をつけなければ。
悩みの種というものは、尽きないものだ。
手帳を開く。お得意先の女性は、苦手な相手だった。
(占いに行けば、女難の相が出ているに違いないな)
私は、会社を出る前に深く息を吐いた。
よくないことというのは、続くもののようだ。
外回りから昼休みに戻ってきたとき、会社の前で座り込むブレザーの女の子と目があった。
ここは、渋谷や原宿とは違う。会社が立ち並ぶ丸の内のビル街だ。
極めて浮いた存在だった。本人はそんなこと、気にもしないのだろうが。
「久しぶり。メールしたけど連絡くれないんだもん。来ちゃった」
笑顔で手を振ってくる。私は会社に入らずに、近くのコンビニに行く振りをした。
案の定、ついてくる。
「メールよこしたのは昨日だろう。昨日の今日で連絡できないことは、珍しくないじゃないか。約束を守れないなら、金輪際俺の前に出てくるな」
実際にコンビニに入ってから、雑誌類の前で立ち止まる。早口にそう言った。
「ごめん。でも、お金なくて」
「親元にいるんだろう。金がないからって、すぐ困るわけじゃあるまいに」
私は、彼女の顔は見なかった。
それとは気づかないのか、彼女は私を覗き込むようにしている。
周囲からは、知り合いだとすらわからないように、という私の配慮が台無しである。
「だって……友達と旅行に行こうって決めちゃったから」
「まだ高校生、だよな?」
「そうだよ。周りの子はみんなお金持ちだから、私だけ仲間はずれにされちゃうよ」
知ったことか。
私は唾棄したくなった。風俗店で働くことを勧めようかとも思ったが、短気を起こすことはいつでもできる。
私はかなり我慢した。
「あそこに『かわず』っていう食堂が見えるだろう?」
「うん」
「一度会社に戻らないといけない。先に入っていてくれ。注文してくれていていいから」
「奢ってくれるの? あたし、持ち合わせないよ」
「ああ。高い店じゃないからいいよ」
「ラッキー」
去り行く尻を蹴飛ばしたくなったが、我ながら素晴らしい自制心だと思った。
この日、私は二度と同じような真似はしないよう強く釘を刺した。
帰るのは、就業時間より多少遅くなった。
アパートでは、当たり前のような顔をして、朱美が待っていた。
何も問われなかった。
それが有りがたく、上着を脱ぐなり、長い抱擁を交わした。
パソコンの前に座り、私と朱美は顔を見合わせた。
「つけないの?」
「……そうだなぁ」
腕を組む。どうも、気乗りがしない。
「じゃあ、私が」
電源に手を伸ばし、触れる直前で、私の顔を振り返る。かといって、止める気にもならない。
「……気味が悪いメールが入っているからって、パソコン自体が悪いわけじゃないしなぁ」
「じゃあ、いい?」
「うーん」
ベッドの上に横になった。朱美の指が上下した。朱美も、私と同じように横になった。横になりながら、パソコンの画面を注視した。
勝手に起動するメールソフトに、白い画面が表示され、片開きの扉が現れる。
『ギギギギギ……』
「いきなりこれかあ」
隙間から覗く、黄色い大きな瞳があった。枠を掴む指は、よく見れば節くれ立ち、爪は黒く長い。
ただパソコンを立ち上げただけで、全自動で昨日の続きが始まった。
強引に電源を落として終了したので、昨日のログが残っていただけ、だと思いたい。
「これをなんとか止めないと、このパソコン使えないね」
「全くだ。悪質なハッカーに狙われたのかもな……」
「心当たりでもあるの?」
「……いや」
一瞬、上司の顔が浮かんだ。パソコン関係に知り合いが多いはずだった。だが、そんなはずはあるまい。
案外朱美との中を嫉妬して……考えすぎか。
「どうしたの?」
「いや」
考え込んでいたらしい。とにかく、このパソコンは仕事にも使っているのだ。
閉じるボタンは利かないので、画面を縮小してみる。まったく無視された。
『ギギギギギ……』
嫌な音だ。さて、どうしたものか。キーボードを見詰める。
考え事をする時の癖で、額に人差し指を当てる。
「潤ちゃん」
「ん?」
振り向くと、朱美は青い顔で画面を指さしていた。
「どうした……」
視線を戻そうとして、私も固まった。
黒く太い指が、画面から突き出ていた。
立体映像? いや。あり得ない。
私は、キーボードを闇雲に叩いた。
「潤ちゃん、電源」
「ああ」
できれば避けたかった。問題の解決にならないからだ。
どうも、そうは言ってられないらしい。
指が、手が、画面から伸びてきた。
扉はほぼ開け放たれ、黄色い目の持ち主の容貌が、うっすらと見て取れる。
多分、悪魔とはこういう顔をしているだろう。
電源を押す。
長い五秒間だった。
黄色い目が隠れた。黒い腕が遮ったのだ。
ゆっくり、ではない。
私は、身を伏せてかわさなければならなかった。
髪をつかまれた。
「潤ちゃん!」
私は、画面から突き出た腕を掴んだ。
つかめた。だが、逆に引き摺られた。
すさまじい力だ。
目の前に、開け放たれた扉が迫った。
五秒。
画面が、落ちた。私の髪が、数本落ちた。
全身が汗ばんでいた。
朱美が、私の体に巻きついてきた。黒い画面から、目を離すことができなかった。
「なに? 今の」
「知るか」
肩で息をついた。
「……寝よう」
どれぐらいの時間が経ったか、覚えてもいない。それだけの間、動けなかった。
汗が冷え、寒いと感じ、朱美の体温を有りがたく感じ始めた頃だった。
「……うん」
振り向くと、唇を吸われた。そういう意味で言ったつもりはなかったが、朱美はまだ震えていた。
今の不可解な出来事を忘れるには、丁度いいと思った。
朱美にも忘れさせたかった。
二人とも、夢中で互いを求め合った。
朝、私は朱美を起こさなかった。
学校は休みだと言っていた。
私は仕事がある。幸せそうな寝顔だった。
それを眺めながら着替え、頬を緩ませながら、寝室を出た。
一歩踏み出した時、電子音を聞いた気がした。
私の頭に、昨晩の腕が浮かんだ。全身が汗ばむ。きびすを返し、ドアを開ける。
パソコンは、ただ黒い画面を湛えていた。
ため息が出る。それでも気になったため、画面に新聞紙をかけた。
アパートを出て、会社に向かう。
電車に揺られる途中で、携帯電話が胸元で震えた。
電車を降りてから確認すると、朱美からだった。
途中で留守番電話に切り替わったはずなので、確認する。
何もメッセージは残されていない。
嫌な感じがして、こちらからかけてみる。
出ない。
アパートに戻ろうか。とも思ったが、そんなに大げさなことでもないだろう。
自分に言い聞かせながら、出社する。
この日一日、真面目に仕事をしていたはずだが、正直に言って、覚えていない。
就業時間が終わると、ほぼ同時に席を立った。
「あら、早いじゃない。こんなに早く仕事が片付いたの?」
上司に嫌みを言われた。
下心があることは見え透いていたが、この日だけは真っ直ぐ帰ることにした。
「ちょっと、親戚に不幸が」
我ながら、嘘が上手くなったと思う。
上司は、さも心配そうに私を帰途につかせた。
アパートに戻るまでの間に、私は何度か朱美にかけたが、一度もつながらなかった。
自然と、足が早くなっていた。
アパートの部屋を見上げると、暗かった。
朱美だって、毎日私の部屋に来ているわけではない。今日は家にいるのだろう。
自分自身に言い聞かせながら、部屋に入る。
玄関で、もう一度朱美にかけた。寝室で、着信音が鳴るのがわかった。
その部屋に、電話は無い。
そのまま、寝室のドアを開ける。
ベッドの真ん中で、ただ携帯が鳴っていた。開かれ、明滅している。
息を飲み、それを取り上げた。私の携帯を切ると、電子音が止まった。
「朱美……」
パソコンを見る。黒い画面が、ただ虚ろだった。
唇を噛みながら、電源を入れる。
立ち上がるまでの時間を我慢できず、私は浴槽や台所を回り、『朱美』の名前を連呼した。
答えは得られず、寝室に戻る。
モニターが、青く瞬いていた。
通常の画面だった。昨日までの、異常な現象は終焉していた。
そのことが、私に一層不安を募らせた。
メールソフトを起動させる。
二日間ほど整理していなかったので、メールマガジンが百を越えていた。
謳い文句を斜め読みする。
『開けて』
指が止まった。同じ台詞で、朱美の声が聞こえたような気がした。
唇が震えた。その一文に、カーソルを当てる。
本文はない。
ただ、添付ファイルが付属している。
『開けてくれ』以前もそう書かれていた。
私は、全てのメールを削除した。
一つ残った。
『開けて』
私は、パソコンの電源を落とした。
この日以来、私は朱美を見ていない。
急に、生活の密度が薄くなったような気がした。
原因ははっきりしている。
朱美の携帯は、ずっと玄関に置いてある。
毎日帰ってきては、それがあることに失望する。
いつか取りに来るのでは。そう思っていた。
パソコンには、消せないメールが一通、まだ残っていた。
それ以外には支障はなく、あの奇怪な現象を恐れて、そのまま放置しておいた。
私の生活は、大きく変わったわけではなかった。
ただ、なにかが抜け落ちたような気がしていた。それをはっきり自覚したのは、ホテルの一室で上司が私に囁いたからだった。
「家の人、浮気しているみたいなのよね」
「お互い様でしょう」
まだ日の高い午後のことだった。
珍しく主任が外出し、なぜかお供を命ぜられた。
用件を済ませ、会社へ戻る前にホテルへ連れ込まれた。私の胸に顔を埋め、まどろみながら上司は言った。
「別れたいって言ったら、どうする?」
「俺とですか?」
「違うわ、家の人とよ」
「子供はどうするんです?」
「どちらかが引き取るわね。仮に、の話よ……深刻にとらないで」
私には、そうは思えなかった。
「あまり実感がなくて……どうするって言われても……」
「そうよね。今の話、忘れて」
垂れかけた豊かな胸を私の胸に押し付け、唇を吸う。このとき、私は自覚した。
私は、どうやら朱美を愛していたらしい。
自宅のパソコンの前に座る。一通のメールが残っている。
一月以上経つだろうか。
添付ファイルに、私の手が伸びた。
「朱美、そこにいるんだな」
『開けて』
ただそれだれが書かれたメールを、私は開けた。
見たことのある扉の絵が映し出された。
蝶番の軋むような音が響く。
『潤ちゃん』
空耳かもしれない。
だが、軋む音が私にはそう聞こえた。
扉が、ゆっくりと開く。隙間から覗く目が黄色くはなかったことに、私は会心の笑みを漏らした。