噛み痕 Episode4
「そんな目で見ないで頂戴」
女はベッドに深く身を沈めながら屈辱と痛みに耐えていた。
「そんな目……、俺の目が嫌いか」
男は女の細いウエストあたりに両腕を立てて覆いかぶさるようにして女を見下ろしている。
「そんなに嫌うこともあるまい。なんせお前は俺の目に惹かれたんだろう」
女は眉間にしわを寄せながら激しく抗議をする。
「勘違いしないで。あなたの目に惹かれたんじゃないわ。あなたの目が持つ力に関心があるだけ。私、あなたが嫌いよ」
男はにやける。
「ほう。で、お前は嫌いな男に抱かれるのが趣味なのか」
薄暗い部屋にパチンと言う大きな音が響く。
「馬鹿にしないでよ!」
女は男の左頬を引っ叩いていた。
「言い直そう。お前は好きな男に抱かれるのが怖いのだろう」
女は言葉を失った。何か言い返さなければと必死に言葉を探したが、何も思い浮かばない。思い浮かぶのは、思い出したくないようなことばかりだった。
「哀れな女だ。やさしくされたいのに、やさしくされるのを恐れている。愛されたいのに、愛されることを拒んでいる。心と身体がばらばらだ。支離滅裂、木っ端微塵だな。よくも今まで生きていられたものだ。俺は本気で尊敬する。そんな生き方はとうてい俺にはできないし、悪いがしたいとも思わない」
女は気がふれたように両手で頭をかきむしり、男が何かを言うたびに耳をふさいで必死に抵抗した。だが、男の声を掻き消すことはできなかった。
「ひどい女だ。本当はわかっているくせに、気づいていない演技をしている。だが脚本はともかく、演技は褒められたものじゃない。役者の交代を要求したいところだが、しかし、この役はお前さんにしか務まらない。芸としては面白いが、全うな評価が欲しいのなら、もっとまじめにやるべきだ。糞まじめにやるべきだったのだ。何も俺みたいな男に抱かれる必要もなかっただろうに」
「憐れみは……、憐れみはたくさん!」
女の顔は恐怖に満ちていた。身体は振るえ鳥肌が立っている。
「そうだ。恐怖だ。大事なことは恐れているもの、怖くて怖くて逃げたいものと向き合うことさ」
女の顔が苦痛にゆがむ。
「痛い……、痛いからやめて、もうやめて、お兄ちゃん……」
どれだけの時間そうしていたのだろう。望月茜は子供のように泣きじゃくり、田宮一郎はそれを慰めるわけでもなく、憐れむわけでもなく、ただ、じっと見ていた。
「私が中学生になって最初の夏休みのときのことよ」
望月茜は、シーツに身を包み、ベッドに腰掛けながら目の前の壁に向かって話し始めた。
「部活の帰り……、当時テニス部に入っていたのよ。途中で夕立になって、びしょ濡れで家に帰ったの。両親は共働きで、家には受験を控えた兄しかいなかったわ。とてもやさしい兄でね。スポーツもできて、勉強もできて、自慢の兄だった。小さい頃、運動が苦手で、引っ込み思案だった私の面倒をよく見てくれたわ。テニスを始めたのだって、兄の勧めだった。あの日も『風邪を引くぞ』って言って、タオルを出してくれて、雨に濡れた私を拭いてくれたの」
田宮一郎はうんざりだという顔をしながら、その話を聴いていたが、望月茜には見えていなかった。
「そしたら、兄が私に抱きついてきて……、最初はふざけているだけだと思ったのに、そしたら、そしたら――痛いっ、痛いよ」
先ほどできた歯型のすぐ横に、新しい歯形がついている。
「あんなことになるなんて、あんなことに」
女はまた泣き崩れ、男はそれを横目で見ながら、女のいる場所とは違うところに視点をあわせていた。
「それを自分のせいだと思うのは、もういい加減にしろって、そういう顔でお前さんをみているぜ。こういうことは言いたくないんだが、身内の問題に赤の他人を巻き込むのは、本当にやめて欲しいものだ。悪いが俺にアドバイスできることはまるでない。俺には優しい兄も、かわいい妹もいなかったんだからな」
田宮一郎に兄弟はいないという話は、望月茜の耳にまるではいっていなかった。
「見えるの、あなたには兄が見えるの。どこ、どこにいるの!」
望月茜は、ベッドから立ち上がりあたりを見回した。田宮一郎はベッドに横たわったまま、天井を見つめている。望月茜も天井を見上げた。
「そんなところにはいないさ。考えても見ろ。俺とお前がこうしてベッドをともにしているんだぜ。天井からその様子をながめるなんていうそんな悪趣味なことをするような人じゃなかったんだろう。やさしいお兄さんは」
「あなたに……、あなたなんかに、いったい何がわかるというの!」
望月茜は、自分が使っていた枕を手に取ると、それを思いっきり、さっきまで自分を抱いていた男の顔めがけて二度、三度と叩きつけながら叫んだ。
「あの日以来、兄はすっかり人が代わってしまって、勉強も手がつかなくなって、受験も失敗して……、兄の人生をめちゃくちゃにしたのは私なのよ。私さえいなければ、兄があんなことに巻き込まれることはなかったんだわ。兄が死んだのは私のせいなのよ」
そのあと田宮一郎は望月茜の兄が、その後、どのように人生を転落し、やさぐれ、つまらないいざこざに巻き込まれて死んだのかを語り始めたが、表情一つ変えず、しばらく黙ってその話を聞いていた。ときどき目線をあらぬ方向に向け、何かの様子を伺うようなしぐさをした。望月茜もそれに気づき、必死でこの場にいるだろう兄の姿を探したが、気配さえつかめなかった。
「で、お前はそれをどう思っているんだ。まさか『全部自分のせいだ』とでも言うのか。そしてその兄が、お前のやさしい兄が死後もお前にまとわりつき、他の男に嫉妬して噛み痕をつけているとでも思っているのか」
望月茜は、意外そうな顔で田宮一郎の顔を眺めた。
「そんなことあるはずがないけど、そうとしか、考えられないわ。だってこんなことって……」
望月茜は自分の身体に着いた噛み痕を指先でなぞった。
「この際、言っておく。そんな超常現象みたいなこと、起きやしないぞ響子」
「何をいまさら、そんな名前で――」
「お前は響子だ。なにがし響子だ。なにがしはなんでもいい。朝比奈でも伊集院でも神宮司でもだ。響子――」
田宮一郎は女をベッドに倒し、何度も名前を呼んだ。
「お前は俺の女だ。響子、ずっと前から俺の女だし、これからも俺の女だ」
「ちがうわ。私は――」
女がどんなに抵抗しようとも、男は止めなかった。
「お前はいい女だ。響子、そして悪い女だ。響子」
「私は……、私は……」
女の意識が遠のく。自我すら崩壊していく。自分がどこの誰なのか。その自分を抱く男がどこの誰なのかも忘れて欲情に身を任せた。そこには一組のオスとメスしかいなかった。