噛み痕 Episode3
響子の太ももには、何者かによってつけられた嚙み痕があった。うっ血してその部分だけ青黒くなっている。
「こういうものが、私の体中にあるのです。私には……、いえ、誰にも見えない何者かに、私は毎晩のように噛み付かれているんです」
響子は、目を伏せその容姿にらしくない沈んだ声で、何かのどに物が詰まったようにところどころ言葉を濁しながら話した。
「なるほど。つまりはその嚙み痕の何たるかを調べ、原因を特定し、ことの解決に当たりたいとそういうことか。ふむ。しかしそれにはもっとあれこれ調べる必要がある。俺には見えないものが見える。しかし、その嚙み痕やらがお前のどんなところに、どんな形で残っているかを、服の上から見ることはできない。なに、簡単なことだ。服を脱いで見せてくれればそれで済む話だ。観るだけなら、5分もかからない」
一郎は低い声でゆっくりと、他の誰にでもない、響子にだけ語りかけるような口調で破廉恥なことを言ってのける。人前で服を脱げといわれて「はい、そうですか」とはならない。ましてここは都心のホテルのロビーである。こんな会話を周りの誰かに聞かれたかと思うだけで、まともな神経ではいられない。しかし、響子はすでにまともな神経の状態ではなかった。そうでなければ、知人も敬遠する男に、自らの秘め事を話すなど、到底できないことである。しかもおよそ人知を超えた、祟りごとなどであれば、正気を疑われるのが、世の常である・
「必要とあれば、それもいいでしょう。でも、この話にはもっと厄介な続きがあるのです。お見せするかどうかは、その話を聴いてからのほうがよろしいでしょう。後で「そんな話は聞いていないと、化けて出られても、これ以上の祟りごとはもう沢山」
その表情だけを見れば、並みの男なら掘れずにはいられないだろう、はかなげで、美しく、凛々しくも狂おうしい響子の姿を、まるでよくできた美術品や工芸品を品定めするかのように一郎は眺めている。
ただ眺めている。響子はいたたまれなくなり、話を続けようとしたところを狙い撃ちするかのように一郎がやや、大きな、そして相変わらず低い声で響子の話をさえぎる。
「それは困った。こっちも祟られるような話をこれ以上聴かされてはかなわない。まずはビジネスの話をしようじゃないか。成果に見合った報酬を俺は期待する。あいにくこの手のコンサルタントには相場というものがない。こちらの言い値になるが、ほとんどの場合、ここで話は折り合わず御破算になる。もちろんここまでは無料だ。いや、すでにご婦人のめったに見られない美しい太ももを見せてもらったので、それに応じたアドバイスは少なくともさせていただこうとは思うがね」
「あなたという人は!」
響子は強い口調でそう切り出し、目の前に座る不適な男をにらみつけた。それでも響子のその姿をたとえるのであれば、炎のごとき荒々しさ、氷のごとき冷たさとも違う、手垢によって汚されることを拒む、ガラス細工の人形のように美しかった。そしてそのような有様を見たいがために一郎がわざと卑劣な言葉を投げかけているのだと頭で理解できてしまう響子は、この際、世界で一番不幸であるかはわからないが、不運であるように見えた。
響子は自分の左手の人差し指を口元に持っていき、その小さな口に軽く含み、歯で強く噛んだ。
「結構」
その様子を見て一郎が立ち上がる。
「この話、受けようじゃないか。心配はいらん。もう、解決したも同然だ」
響子はきょとんとした表情で一郎を見上げる。イスに深く腰をかけていたので気づかなかったが、一郎は陰湿で姑息、狡猾で執拗な印象にそぐわない、たくましく、勇ましく、活力に満ちた身体をしている。正面で見ていたときは、何が女を不快にさせているのか、漠然としていたが、太くて愛想のない眉毛、喜怒哀楽どんな感情も素直には表現しないだろう切れ長の眼、すっと伸びた印象のない鼻と大きいが、決して必要以上には大きく開かない口、とがったあご先。どれひとつとっても響子の――望月茜と名乗った女の好みには程遠かったが、背格好を含めて、一郎の容姿は今まで出会ったどんな男よりも悪い意味での異性を感じ、嫌悪した。
「そんな怖い顔で見つめるなよ。これからもっと恐ろしいことや、嫌なことが目白押しだ。もっともそれは、お前さんにとってであって、俺にとっては恐悦至極と言えなくもないがな」
一郎がズボンのポケットからホテルのキーを取り出す。
「部屋は取ってある。安心しろ。スウィートをとってその分を必要経費で請求するようなことはしない。経費は編集者もちだ」
格好良くないことを、それ以上のマイナスの付加価値をつけて言語化する天才。響子が心の中でそんな賛辞を送っていることをまるで見透かしたように、一郎は不適な笑みを浮かべながら、女をエスコートした。
まぁ、いい。いざとなったら、大声を出すか、それもかなわぬなら舌を噛んで死ぬか、下を噛み切って逃げるか。そんな覚悟を見透かされたら、この男はきっと「興ざめをした」と言って、それでもしつこく私責めるのだろう。この件が解決するまで、自分を拘束し続けるに違いない。「私は後悔をしているのか」と響子は自問自答する。私は響子ではない。私は私を否定され、愚弄され、貶められ、それでもこの男にすがるより他に道はないと知っている。
なぜ、そう思えるのか?
響子が考えを整理する間もなく、エレベーターは最上階の3つ手前で止まり、「俺は必要ないが、お前は身体を清めるべきだろう」と一郎にシャワーを薦められ、少し暑めのお湯で勢いよく汗を流す。白い湯煙と身体に当たって弾けた水滴が、響子の白い肌とどうかするも、そのところどころに青黒い痣が浮かんでいる。このことが始まってから、響子は湯船に使ってゆっくりしたことはない。おぞましい噛み痕をできるだけ視界に入れるのをさけ、まるで滝に打たれる行者のようにシャワーを浴びるようになった。
シャワーから出ると、一郎は当たり前のようにツインのベッドに横たわっていた。ハンガーに脱いだスーツがまるで売り物のようにきれいにかけてある。
「なるほど。洋服で隠れる場所以外に、噛み痕はないわけか」
バスタオルを巻いたまま、ベッドの脇に立っている響子に視線を合わせずに言った。
「そうなの。でも、この中身を見た男は、必ず不幸に合うわよ。ことによっては命に関わるのだけれども、それでもよかったのかしら」
ここに至っての覚悟なのか。響子は臆することなく、一郎を見下ろしながら話し続ける。
「最初にこれを見せたのは、肉親よ。3つ下の弟がいるの。私は弟が何かのいたずらをしたのかと思って、これを見せたのよ。そのときはまだ二箇所だったのよ。弟は怒って「そんなものは知らない。姉貴の彼氏じゃないのか」なんていうからぴっぱたいてやったわ。でも、その次の朝、弟はアルバイトに行く途中、自転車で転んで軽い怪我をしたの。それでその話を、父にしたわ。そうしたら父も階段を踏み外して足を怪我したわ。気味が悪いってそういう話を、別の男の人にしたことがあるのだけれど、私は、駄目って行ったのに、その人、どうしても見たいっていうから、さっきあなたにやったように見せたのよ」
一郎はまるで話しに興味はないといった顔をしながら、サイドボードに置いてあるタバコに手を伸ばした。
「車にでも引かれたか。その男」
響子はゆっくりとベッドに腰を下ろし、背中越しに一郎に話しかけた。
「そうね。交通事故には違いはないけれど、バイクでハンドルを切り損ねて転倒したの。怪我はたいしたことがなくてよかったのだけど、バイクの修理代を請求されそうになったわ」
一郎がタバコに火をつける。響子の嫌いな臭いが漂ってくる。どうやらどこまでもこの男とは趣味が合わないと、自分のハンドバッグからメンソール系のタバコを取り出した。
「火を借りるわね」
「ああ、火くらいはいつでも貸してやる。タバコはやらんがな」
「こっちからお断りよ。ガラムなんて、さぞかしみんなから煙たがられるでしょうね」
「そうでもないさ。第一、煙たがれるのは、タバコのせいじゃないからな」
面白いことを言っているのだろうが、響子にはそれがまるで笑えなかった。
「ひどいものね。あなたって、いつもこんな感じなの」
「ふむ。それについては否定する気はない。じゃあ、聴くが、お前はどうなんだ?」
「えっ。私は……」
「お前はいつも、男とはこうなのか?」
「そんなわけ、ないじゃない」
「じゃあ、俺は特別なわけか」
「あなたって――」
響子が猛烈な抗議をしようと、一郎に身体を向けなおすと突然視界をふさがれた。一郎の顔が目と鼻の先にあった。
「話の続きは、ベッドの中で聴こうじゃないか」
響子は手にしたライターとタバコを床に落とし、一郎は響子をベッドに押し倒し、響子の視界の外でタバコを灰皿に押し付けて消した。火の消えたタバコの先から、まるで魂が抜けるかのように煙が上り立つ。その向こう側に絡み合う男女の姿が見えていた。