噛み痕 Episode2
「田宮一郎さんですね」
新宿のとあるホテルのロビー。指定された時間より10分早い。田宮一郎と呼ばれてその男は腕時計を眺め、そして女を見上げた。
「それは昔の名だ。今は降魔一郎と名乗っている。そのほうが箔がつくし、冗談っぽくていいだろう?」
女はむっとした表情で男を見下ろした。一郎はできることならその姿をしばらく眺めていたいと思い、いやらしさをまるで隠さない視線を女に送った。女はその視線にじっと耐えながら、一郎を見下し続けた。
「望月茜と申します」
ゆっくりと低い声で女が名乗る。やや深く頭を下げているその姿は、気弱な男なら立ち上がってより深々と頭を下げて挨拶をするのかもしれないが、一郎は女の肩からゆっくりと前に滑り落ちる長く黒い髪をじっと眺めていた。
「いい女だ。容姿も気立ても申し分ない。そしてどんなに頭を下げても相手に媚びることのないプライドがまたいい」
初対面でこんな言われ方をしたことはない。なぜここまでのことを言われなければならないのか。そう思いながらも女は冷静さを失わず、男の執拗な甚振りに抗った。
「私のこと、お嫌いですか?」
田宮一郎は初めて笑みを見せた。もちろん卑屈ではある。
「よくわかった。あんた、本当にいい女だ。気に入った。話を聴こうじゃないか」
一郎は女にイスを勧めた。
「望月茜……、どこか違和感のある名前だ。あんたの男はアカネと呼ぶのか」
容赦のない質問に女の表情は曇り、疑いの目で一郎を眺めた。
「私のこと、お調べになったのですか?」
一郎は背もたれに深くもたれかかり、少し斜め首をかしげながら答えた。
「いいや。つまらないことを聴くもんじゃないよ、お嬢ちゃん。興がそがれる。あんた、ここに何をしにきた。俺に何を求めてきた。それがわかっているなら、そんな質問は愚直であるか、愚弄であるか、あるいはその両方か。俺を試したいのなら、もっと他に方法があるってものだろう?」
初めて女はたじろいだ。
「あなたには何が見えているの?」
「別に、たいしたものじゃないさ。ただ、俺にはそれが見えているだけで、別に触れることも、会話をすることもできないさ」
男の視線は女の顔よりも少し上に向けられている。それが何を意味するのか。女は想像し、鳥肌を立てた。
「名はどうでもいい。ただ、これからの話に嘘はいけない。そうだな。俺が名をつけてやろう。こう見えても俺はネーミングセンスがあるんだぜ」
顔には出さなかったが、女の脳裏には降魔というとんでもない名前が浮かび、困惑する。
「あれは俺じゃないぞ。雑誌の編集長だか副編集長だかが勝手につけやがったんだが……、まぁ、最近ではすっかり慣れされてしまったし、田宮の性に、俺もあまり愛着はないものでね」
一郎は、どこか遠くを見ているような顔になった。今一郎が見ているもの、それはきっと人にあまり聞かれたくないような過去なのだろう。女はこの男にもいろいろとあるのだと少しだけ安心をした。
「そうだなぁ。キョウコがいい。響く子と書いて響子。俺と会うときはそれでいいだろう。響子」
男が自分の何を見て、響子と名づけたのか。いささか気にはなったが、それを聴いてもこの男はきっとまともには答えないだろう。それにしてもと、響子は思った。この男は『見えないものがみえる』という特殊な能力を持っていることは聴いたし、それ以上に変わった人間で、まともに相手をしてくれるかどうかもわからないと聴いていた。その情報は確かであるのと同時に、間違ってもいる。『見えないものがみえる』はこの男にとって決して特殊な能力ではない。むしろ、会話の中での相手のしぐさ、表情、口調などから、さまざまな情報を引き出し、分析する。おそらく『見える』ということは、そのひとつのファクターに過ぎない。
そして――
「俺は頭の悪い女は嫌いだ。まず話の要点がつかめない。同じところを無限にループする。そんなものにつき合わされるのはごめんこうむりたいものだ。こんな俺でも、苦手なものはあるのさ」
人の心を動かすのがうまい。間違いない。この男は一流の詐欺師とまるで変わらない。
「まず、私が困っている現象についてお話しましょう。それでよろしいかしら」
ペースを相手に握らせないよう、できる限りこちらが主導で話をする。この男を紹介してくれた知人のアドバイスに従って、響子は行動した。
「いいね。しかし、その前にひとつ質問だ。答えたくなければ答えなくてもいい質問だ。響子は誰の紹介で俺を知った?」
「あなたに降魔というペンネームを就けた副編集長、あの方は私の知人……、他の出版社で雑誌の編集をやっている――」
「新垣の知り合いか? その知人っていうのは」
「そうです。亡くなった新垣さんは大学の同期だったそうです」
「面白いな。この件が終わったら、その知人とやらに会ってみたいものだ」
「その知人はきっと合わないと思います。私が会うことも反対でした。新垣さんはあなたに殺されたのだと、その人は言っていました」
そこまで言う必要はなかったか。言い終えて少し後悔した響子であったが、一郎はまるで意に介さずという感じだった。
「だからさ。俺は俺を嫌ってくれる人間が好きなのさ」
響子は覚悟を決めた。この男に小細工は効かない。ありのままを話す。それでどうなるかは、それからの話だ。
「これを観てください」
響子は黒のワンピースのスカートを回りに気づかれないようにたくし上げた。白く決めの細かい肌。左の内側の腿があらわになる。
「ほーう。面白いな。嚙み跡か」
一郎の目はそのとき、響子には見えない何かをすでに捕らえていた。