気配(6)完結
東方倶楽部51号(10月20日発売号)掲載
降魔一郎の東方異聞録
気配(6)
今回は『気配』というものについて、いろいろとご紹介をさせて頂きました。最後になりますが、おそらく読者の方々がもっとも気にされているお話――結局、気配とは何なのか――についてお話をしなければならないでしょう。先に結論から申しますと、気配とは幽霊や妖怪や精霊や未来からのお告げでも、過去からの警鐘でも、人知を超えた存在でも、なんでもないということです。
"なんだ、気のせいか"とあなたはおっしゃいますが、まさしく『気』こそ、気配の正体なのです。"気のせい"とはすなわち、気と言う概念的な存在を認め、気はあるのだから、気が原因だろうと、そう言っているのです。ではその『気』とはいったい何なのか。一説には気は生態エネルギーのようなもので、東洋では"気功"と呼ばれる民間療法が有名です。私はそういうものの効果や効能を語るべき人間ではありませんが、少なくともそういうものが世界各地に存在し、あるのかないのか、信じる者には効果があり、疑う者にはどこまでの胡散臭い代物。
"それはまるで幽霊がごとく存在"といえるのではないでしょうか
ええ、わかります。読者の皆さんはいまさらそんな話かと、思われたことでしょう。私が"見える"というのであれば、それこそが気配の正体であり、そのような霊的な存在と気功や犬や猫が何かの気配を感じること、或いは急にステレオが鳴り出したり、フィギアが勝手に動いたりしたのも、すべえてそのような"いかがわしい存在"によるものだと、私にはそれが見えるのだと。
私に見えて、あなたに見えない存在。はたしてそんな"あやふやな存在"に犬や猫を警戒させ、電源の入っていないステレを付け、棚の上にあったフィギアを移動させたり、声を出したり、そんなことができるのでしょうか?
"呪詛"というものがあります。もっともシンプルな呪詛とは"名前"だと言います。道端に落ちている石は、石ころと名付けられれば、世の中で極めて存在感の希薄な自然物となりますが、『石つぶて』と名付けられれば、それは特殊な凶器ということになります。気配と呼ばれる何かしらの存在があったとして、それは空気のように存在感の希薄な自然現象――準静電界や磁場や高周波、プラズマもこれに含まれるのでしょか――に対して、超自然現象、霊体験、超能力と言った名をつけることで、それはどこにでもある自然なものではなくなってしまう。つまり人という観測者なしには存在しえない不完全な存在――幽霊となるわけです。
なるほどフィギアをいたずらされた男性は、彼女を許したようで、心の底では許し難いと思っていたのかもしれません。そのような気が彼女に触れ、彼女は無意識のうちにフィギアに対して嫉妬を覚えた。それでも彼女は、一度踏みとどまり、フィギアを踏みつぶすのを辞めたのかもしれない。そして床に置いたままもう一度眠ってしまったのかもしれない。それは雪山で猛吹雪に見舞われ遭難し、友達を死なせてしまった登山者の話に似ています。彼は亡くなった友人の死体を山小屋の外に埋めます。その後小屋で眠りふと目が覚めると、埋めたはずの友人が椅子に座っている。驚いて彼はもう一度死体を埋めるのですが、また同じことが繰り返されます。いったい何が起きたのか。それは彼が眠ったあと、自責の念に駆られ、埋めた友人を自分の手で掘り起し温かい小屋の中に背負って運び、また眠ってしまい、記憶が混同してしまい、あたかも友人が自力で地面から這い上がり、小屋に入ったかのように思い込んでしまったというお話なんですが、ご存じなかったですかね。
スイッチが切ってあったステレオもたとえばリモコン機能があるものなのか、或いは古くてスイッチに遊びができてしまっていたのか。そのような可能性について、検証できるほど記憶というものは確かではない。
犬や猫が見ていたものが、私と同じものであるのかどうかも、犬や猫と会話ができない以上証明のしようがない。
ただ、私には見えてしまうのですけどね。ただこれだけは申しあげておきます。これまでお話をしてきた気配と私が見ているものの因果関係は皆無といっていいでしょう。”彼ら”は原則として気配を消している、或いは石ころと同じようにどこにでもある存在なのです。そういうものが、あからさまな気配をまといながら、あなたの背中にべったりとくっついているようなときは、もう、手遅れだということです。
ほら、読者の皆さんは何も感じなかったでしょう?
もし、心あたりがある人が、読者の皆さんの中にいらっしゃったら、背中がぞくぞくとしたはずです。
それが、気配というものです。
次週はまた、違うお話をしましょう。




