気配(1)
東方倶楽部46号(9月15日発売号)掲載
降魔一郎の東方異聞録
気配(1)
さて、前回は心霊スポットには不用意に近づくなと言うお話をしましたが、そもそも心霊スポットなどというものはどうしてできるのか。有名なものはホテルや病院の廃墟、いわくつきのトンネル、死者の眠る墓地など、様々ですが、共通して言えることは一つ。『何か出そうだ』という雰囲気、或いは何かいそうだという気配ということになるでしょうか?
気配――そこに誰もいるはずがないのに、まるで誰かに観られているような感覚。部屋の片隅の淀んだ空気が何か意志のようなものをもって、滞留しているかのような雰囲気――と言うことになるでしょうか。読者の皆さんも、多かれ少なかれ、そういう経験をしたことがあるのではないですか。或いはあなたの親しい友人から、或いは学生時代のクラスメイトから、亡くなった祖父母や、冠婚葬祭の時にしか会わない親戚から、そういう話を聞いたことがあるのではないですか?
そうです。それは別に先に述べた『心霊スポット』のような特別な場所に限らないということに、あなたはもっと気を付けなければなりません。これからお話するのは、そういう"気配の存在"、或いはそういう"存在の気配"についてです。
まず、最初に説明しなければならないのは、私はそういう"気配"については、実はそれほど敏感でもなく、どうやったら――たとえば意識を集中させるとか、目を凝らすとか、耳を澄ますとか、そう言うことで何かを感じることは得意ではない、というかできないに近いということを申し上げておきます。私はテレビ画面や映画のスクリーンに映る役者を見るように、そういう存在が見えてしまうのです。つまり、芸能人のオーラを感じるような至近距離でなければ、それが私の普段の生活で観る風景となんら変わりはないということです。
やや、回りくどい言い方ですが、特別な人間と言うのは、やはり特別な気配を持っているもので、街中で芸能人を見れば、あー、普通とは違うと気づくのですが、映画やスクリーンの中と言うのは、基本すべてが特別なので、その人だけ特別ではなくなる。当たり前になるように映像は作られているわけです。もちろん、そうではない演出で、そうではない映像を作ることも多いでしょうが、私にとっては遠目にはまるで一般の人と区別がつかず、間近で見てようやくそれが特別な"気配"を持っている"あいつら"だとわかるのです。
言い換えれば、読者の皆さんも、実はそういうものを、そういう存在を目にし、耳にしているにも関わらず、気づいていないという可能性が、大いにあるということなのです。そして間近で出会って、ようやくそれに気づく。気配を感じるというわけです。
この国にはお盆という風習があります。年に一度、死者の霊――主に先祖の霊を祭る風習は、地域によっての差こそあれ、つまりは死者の霊を迎え、そしてまた送り出すということになるのですが、一度くらいは聞いたことがあるでしょう?
お盆に『死んだおじいちゃんが返ってきた』的なエピソードを。
私は特にそういう逸話を収拾しているわけではないのですが、前回の無礼な若者が非礼な挑戦をしてくる以上に、相談とも愚痴とも、或いは自慢話とも武勇伝ともいえないような、そんな話を持ちかけられることが多い。本当に困った物なのですが、『あれはどういう意味だったのか』とか『御祓いをしたほうがいいのか』とか『何かの暗示ではないのか』とか『供養が足りてないのでは』とか、本当にどうでもいい話に辟易としながらも、私はいつもこう答えるのです。
『死者は語らず、ただ、その存在を示すのみ』とね。
次週はそんなエピソードの数々を紹介しましょう。