消えた電話ボックス(5)完結
『降魔一郎の東方異聞録』 消えた電話ボックス(5)完結
私がそれをどのようにして見るのか、どのように見えるのかという話の前に、あなたはもっと根本的なことを考えなければいけない。それは15年前には全国に70万台以上あった公衆電話が今では17万程度しか無くなっているというのに、撤去している現場を見たことがない、或いは見た記憶がないことを。
それはさながら一年ぶりに訪れた街にかつてコーヒーを飲んだ昔ながらの喫茶店がコンビニエンスストアに変わっていても、まるでそのことに気付かないような、ごくありふれたできごと。人は変化について、実はそれほど敏感ではないということについて、考えなければいけない。
私には見える。
かつてそこにどのようなものがあったのか、鮮明に覚えている。だからこそ別のものも見えてくる。人は見るということにつて、もっと真剣に考えるべきなのだ。そして、今自分が目にしている出来事について、或いは風景について、気を配るべきなのだ。気を付けるべきなのだと私は思うのです。
あなたの街の電話ボックスが今、どこにあるのか。そしてそれを利用している人がどんな人物であるかについて、注意深く、そして注意を払って見るべきなのだ。そうすれば、あなたにも今まで見えていなかったもの、見過ごしていたもの、見逃していたものに気づくかもしれない。そして理解するはずです。何も私が特別なものが見えているわけではないということを。そして私を見る目も変化するかもしれない。そういうこともあるものだと。そういう人もいるものだということを。
私は、かつて電話ボックスがあったその場所に呆然と立ち尽くす一人の男を見た。そして気づいた。その男のそばを通り過ぎて行く他の誰とも違う存在だということに。もしあなたが私と同じようにその男の存在に気づき、見たとしよう。それは私が見えているものと、まったく同じものであるとは限らない。私には私が見ているものと、あなたが見えているものの違いを知ることができない。例えばそれは、私の見ている葉っぱとあなたの見ている葉っぱは緑色をしているという点では一致をするが、私の緑と、あなたの緑が果たして同じものであるかどうか、確かめる術がないのと似ている。
見え方などどうでもいいのです。
薄く透けて見えようとも、青白く光って見えようとも、それこそ足が見えなかろうと、顔が見えなかろうと、そこにそれがいることには、変わりはないのですから。あなたが今日、街の中で、或いは駅のフォームですれ違った人の足元がどう見えていたかなど、あなたはこれまで、まるで関心がなかったことでしょう。案外と不思議なものというのは、そこらへんに転がっているのかもしれません。私はこれからそういうお話を――そう。今回、電話ボックスを取り上げたように、身近なところにある、異形なもの、異質なもの、或いは異端なものをこの場を借りてご紹介していこうと思います。
しかし、このお話は、私が見聞きした"事実"ではありますが、必ずしも"実際に起きたこと"とは限らないということを最後に申し上げておきましょう。私には見える、そしてもうひとつ私には聞こえるのです。私が見たものが語る物語を。人は当たり前なことですが言いたいことを言い、言いたくない事はいいません。嘘もつくし、勘違いもする。間違いもする。私は見ることも聞くこともできますが、そうでないもの――つまりそこにないものから情報を得ることはできません。電話ボックスとともに消えたその彼が私に聞かせた話を、ここでご紹介しているに過ぎません。彼が語らない事実は知らず、彼がついた嘘を見破ることはできません。
さて、果たして私が見たものは、幻だったのでしょうか?
聴いたと思ったものは幻聴だったのでしょうか?
信じるも信じないも、あなたしだい。
次回はまた、違う"異なるお話"をご紹介したいと思います。それまでどうか、あなたがおかしなものを見聞きしないことを、影ながら、影に潜みながら、お祈りしております。
消えた電話ボックス おわり
『週刊東方倶楽部』38号~42号掲載 『降魔一郎の東方異聞録』より)