好奇心 Episode3
11月に入って急に冷え込んできた。どうやら今年の冬は厳しいようだ。私は倉田より先に神田のいつもの居酒屋に入り、カウンターで燗をした日本酒を一合注文し、あん肝を肴に倉田が来るのを待っていた。メールには9時半には事務所を出られそうだと連絡があった。すんなり行けばあと5分くらいで倉田は着くだろう。
私は熊谷亮子とのメールのやりとりをスマフォで眺めていた。そこには「心配ない、解決した」ということと「何が合ったかはまだ話せない」ということしか書かれていない。そして田宮一郎に関する質問に対しては「本物かどうかはわからない」ということと「危険であることは確か」ということ。文面からはそう読み取れるが、他の質問に対してレスポンスが早いことに対して、田宮一郎いついては時間がかかっていた。彼女をしてやはり、あの男は只者ではないということなのか。
「どうにか間に合ったな。それにしても外は冷える。俺にも暑いところをくれ」
倉田はコートを着たまま席につき、二回ほど身震いをし、カウンターのテーブルに茶封筒を載せ、鞄を足元に置いた。
「熱燗でいいよな。あと煮込みでも注文するか?」
私はお酒とモツ煮込みを注文し、倉田がそこに肉じゃがを追加した。女将が手早くお通しの筑前煮とおちょこを用意し、熱いおしぼりを手渡す。倉田は眼鏡を外して顔を思いっきり拭くと、やっとコートを脱ぎだし、おちょこを手にした。
「少し冷めているが、まずは一杯」
倉田のおちょこに酒を注ぎ、残りを私のおちょこに注ぐと一合の酒はちょうどなくなった。倉田は一気に酒を飲みほし、お腹がすいているのかすぐに筑前煮に箸を伸ばしながら「おお、あん肝か」と言うので、私は器を倉田に差出し、食べるように勧めた。モツ煮込みが運ばれてきて、一味を手に取り、私にかけてもいいかとジェスチャーで聞いてきた倉田に「好きなだけ」と答え、私は二本目のお酒を倉田のおちょこに注いだ。
「で、話したいことと言うのは、やはりあれか。田宮一郎が彼女に会ったことと関係があるわけか」
終電を考えるとあまりゆっくりもしていられないということもあったが、私は倉田がテーブルに置いた茶封筒の中身がどうしても気になり、ついついせかせてしまった。
「ああ、そうなんだ。実は今回の原稿なんだが――」
倉田は箸を置いて茶封筒を手に取り、中から手書きの原稿を取り出した。
「ほう、この前言っていたとおりだなぁ」
「ああ、そうなんだ」
この前言っていたというのは、倉田が副編集長を務める雑誌『東方倶楽部』に田宮一郎がどういう経緯と条件で原稿を依頼することとなったのかという話の内容のことである。
今年3月に廃刊となった雑誌『怪奇プロファイリング』の編集長鈴川は、最初に田宮一郎を取材した市川記者が精神に異常をきたし、自殺をしたのち、同じように私と同じ大学だった新垣も同じ症状になったことから自ら田宮一郎とコンタクトを取った。田宮一郎は聞かれたことに答えただけだ、もしそれ以上詳しく知りたいというのなら、それ相応の覚悟が必要だと鈴川に対して取り合わなかったという。どうやら田宮一郎は人を選ぶらしく、市川も新垣も共通した性格や性分やものの考え方や、何か田宮一郎の興味を引くような素養を持っていたのではないかと考えた。
"これ以上犠牲者をだすわけにはいかない"
そのことを強く訴える鈴川に田宮一郎はこう答えたという。
「では、証明して見せましょう。何も私の話を聞いたからと言って、それで害をなすなどと言うことがあるのかどうか。どうです。私があなた方の出版している雑誌に、彼らに話したのと同じようなことを書いてみようじゃないですか。もし私の書くことで、読者に同じようなことが起きるというのなら、どうか私を好きなように――まぁ、ここは法治国家ですから、その範囲において、あなたの気の済むようになさればよろしい。もともと私の話しはあの記者たちによって原稿になるはずのものだったわけですから、たとえそんなことになったとしても、あなたになんら責任はないのですから」
通常ではありえないような申し入れを鈴川が倉田に持ちかけ、また通常ではありえないが、倉田がそれをよしとしたのは、結局のところ田宮一郎と言う男に会うことで"いつもとは違う決断を下した"と言うことになる。私も興味を持たずにはいられない。
そして田宮一郎は次のような条件を提示した。
・打ち合わせはメールで行う
・田宮一郎の個人情報に関することは、名前以外はすべて非公開とする
・ペンネームを使う
・原稿は決まった日時までに郵送で送る
・原稿料は1回の掲載につき二千円とし雑誌に記事が実際に掲載された日に指定の口座に振り込む
・編集はいつでも連載を休止、廃止でき、不適切だと判断した物は掲載を自由に見送ることができる
これまでのところ、田宮一郎の原稿は1回入稿すると約4回に分割して掲載されるという。原稿は表現力もその内容も7月から初めて一度も大きく手直しをしたり、ボツにしたりしたことはなく、もともとライターの仕事をしていたのではないかと倉田は言う。実際私も雑誌に掲載された『降魔一郎の東方異聞録』を読んでみたが、確かにプロの手によるものと思われる。
原稿にはタイトルに『噛み痕』と記してあり、それが時枝亮子のことであることはすぐにわかった。ただその内容は私がもっとも想像したくないようなことが書かれていた。
「正直に言うよ。この原稿はいい。読者の関心を引くこと間違いない。ここに掲載されている内容は事実である必要はないし、仮に事実だったとして、それが誰のことかと言うことが特定されなければいい。その条件は満たしていると言える。おそらくこれを見て誰のことかわかるのは、君と本人くらいじゃないか。俺は実際に何が起きたかは知らない。君もそうなのだろうけれど、はたして"本人しかわからない事実"ということになるわけだが――」
私は目の前にいるのがもし田宮一郎という男であればそのままぶん殴っていたかもしれないというほどに興奮している自分に驚いた。嫉妬にも似た感情が身体の中でくすぶり、ゆすぶり、そしてどんどん大きくなっていくのを感じ嫌悪した。
「で、俺にどうしろというんだ。こんなもの、ダメに決まっているじゃないか」
やや大きな声を出してしまった私を倉田はたしなめるように私のおちょこに酒を注ぐ。
「まぁ、そうかっかしなさんな。こんなことで腹を立てていたら、この後のことはもっと話しづらいじゃないか」
私は柄にもなく倉田を睨みつけ、つがれた酒を一気に飲み干し、少し大きな音を立てておちょこをテーブルに置いた。店内に流れる演歌が酷く疎ましく感じた。
「実は原稿はもう一つあって、こっちのほうはまったく問題がない。つまり今回田宮一郎は二つの原稿を送りつけてきたわけだ。それはもう、校正にまわしてある。次の掲載はそっちの記事で決まりだ。これ、どういう意味かわかるか」
私は倉田の言っていることがまるで理解できずにいた。遅れて出された肉じゃがが湯気を上げながらカウンターの上から倉田の食欲をそそう。相変わらず倉田はなんでもうまそうに食べる。この田宮一郎という男はどうなのだろう。私はよく、何を食べさせてもつまらない男だと言われるが、今まで聞いた田宮一郎の人物像から想像するに私に近いに違いない。
「なるほど、そういうことか」
私はやっと合点がいった。これはつまり、田宮一郎から私に対するメッセージなのだ。
「ああ、だから私は今日、お前さんに忠告をするためにここに呼んだ。鈴川が言うようにあいつは危険な男だ。近寄ってはいけない。お前を誘い出し、なにかよからぬことを企んでいるに違いない。いや、そうじゃなかったとしても、お前さんはあの男に会うべきじゃない。お前さんが三人目の犠牲者となり、俺が二人目の鈴川になるなんていうのは、御免こうむりたいものだ。私はできれば年内か、遅くとも3月でこの連載を終わらせようと思っている。もっとも、このコーナーは読者に受けがよくてね。編集長が素直に首を縦にふってくれるかどうか、わからんし、もしも他の出版社に奴が鞍替えしたら、俺の出世も、またまた遠のくというものだ」
倉田に迷惑はかけたくない。しかしそれでもなお、私は田宮一郎の非礼な挑戦を受けなければ気が済まなかった。
「本当にそう思うのなら、こんな話は俺に聞かせるべきじゃなかったんじゃないか。倉田」
私は思ったことをそのまま口にしてすねて見せた。
「ああ確かにそうなんだが、お前さん、俺が黙っていたとして、結局のところ宮田一郎とどうにかして接触しようとしたんじゃないのか。俺には分かる。記者と言うやつは会社の為、読者の為じゃなく、自分が知りたいことを書きたい人種なんだ。いわば好奇心の塊のようなものさ。俺が思うに、鈴川や俺が田宮一郎に相手にされていないのはそのせいだと思っている。俺たちにはそこまでの好奇心はない。この原稿の中の女性も好奇心で動いているわけじゃない。だから無事でいられているのだと、俺は思うがね」
「あれが無事なものか!」
私は腕を組んでそっぽを向いた。まったくもって大人げないが、まともに倉田の顔を見ることができないでいた。
そう、私はそうなのだ。好奇心の塊なのだ。