噛み痕 Episode5
「別に治療というわけではない。そうだな。壊れたテレビを斜め45度から叩くようなものさ。極めて昭和的で、極めてシンプルだが、極めようと思って極められるかと言えば、そうではない」
望月茜は、信じられないという顔で田宮一郎を眺めている。あの男は壊れた家電を直す要領で、自分の尻を叩いたというのか。なぜ、こんな卑劣な男に辱めを受けなければならないのか。自分は呪われているに違いない。
いつのころからか、望月茜の身体に異常な現象が起きるようになっていた。それは好意を持った男性と性行為の後、時にはその最中に身体に奇妙な痣ができるというものだった。その痣は通常強く噛まれたときにできるような歯型のうっ血であり、もちろんそんなことをされていないのにできるそれは、彼女にとってはショッキングな出来事であった。
自分は呪われている。
そう考えるのも無理はない。目に見えないモノに付けられる噛み痕。だから見えないモノが見えるという男にその解決を委ねたのであった。そしてそのためには、身体も田宮一郎に委ねなければならなかった。そして最初はすぐにその現象は現れなかった。二度目の行為に及ぶときにようやくそれは現れ、2か所噛み痕ができた。しかし――
「お前は最初、仕方がなく、不本意ながら、いやいやに俺に抱かれた。その後、そのいやいやさ、不本意さに対して『仕方がない』というあきらめの感情と、どこか俺を認めるような感情が芽生え、少しばかり女心が揺らいだ。何、別にお前が悪いわけではない。俺がそう仕向けた。その結果、二つの噛み痕が現れた。そしてお前は、響子は俺に犯された。無理やりに犯された。響子は俺を憎みながら抱かれた。その結果はつまり、降りだしに戻った。このことからわかることは一つだ」
田宮一郎は煙草に火をつけた。望月茜はどうにもガラムの香りが好きにはなれない。いや、純粋に嫌いだった。
「お前、やさしくしてくれる男に対して、壊れちまっているんだよ。いや、いかれちまっているという方がいいか。つまりポンコツだな」
散々な嫌味を言われてきたが、望月茜にとって、ポンコツという言葉は、どうしても許し難く、その言葉と、それを発した田宮一郎を絶対に許せないと思った。憎悪と嫌悪と――
「そうだ。その感情だ。それがこの件の答えだ。お前、自分でも気づいていただろうに、面倒なことをしたものだ。俺みたいな男に抱かれる前に、なんとかできそうなものだがな。少なくとも俺は嫌いな女を抱く趣味はない。仕事は別だが、趣味はない」
望月茜は怒った。まるで少女のように怒った。大好きなぬいぐるみを兄に隠されたときのように。楽しみにとっておいた冷蔵庫のプリンを兄に食べられてしまったときのように。日記帳を兄に盗み見られたときのように、望月茜は怒った。
「そう、あのときお前は子供の用に、少女のように、妹として怒ればよかったのだ。大好きなものを隠されたり、奪われたり、盗み見られたりしたときのように怒るべきだった。それができないでいる自分を責めるより前にだ」
「だって、私、だって私、私は兄のことを、お兄ちゃんを……」
大粒の涙がこぼれ落ちる。田宮一郎は不覚にもその涙の粒を美しいと思ってしまっていた。
「あとはきっちりと医者にでも行って治療を受けるんだな。簡単なことだ。どんなに複雑に絡み合っていても紐を解けばそれは一本でしかない。しかし、医者にも見えないモノがある。それについて俺からのアドバイスだ。いや、これが俺の本来の仕事、納品物だ。受け取れ」
言いながら田宮一郎は煙草の火をけし、身支度を始めた。
「今回の依頼、その噛み痕については、俺の乏しい知識に照らし合わせ、俺の豊かな経験から言わせてもらえれば、お前が考えているような幽霊や怨霊の類ではない。まぁ、強いて言えば、自分で自分にかけた呪詛だ。医療の分野では自己暗示ということになるのだろう。これほど激しく症状がでるというのは、はたして世の中に症例がどれだけあるのかは、俺の興味のあるところじゃないが、古いオカルトの書物には腐るほどある話だ。ありふれた話だ。だから俺からはそんなことは説明しない。知りたければ、図書館にでも行って、児童書の怪奇図鑑の類を調べるんだな」
田宮一郎は無駄のない動きで服を着ながら、髪を整え、鏡越しに女に語りかける。
「確かにお前さんにはずっと、男が一人付きまとっている。それが誰なのか俺にはわからない。知らない顔だし、知りたいとも思わない。俺は見ることはできるが、別にコミュニケーションがとれるわけじゃない。ただ、見えるだけだ。そこからわかることは、悪意でもない、憐みでもない、恨みでもない、ただただ、申し訳なさげにお前を影から見ている。己を恥じ、謝りたくてもごめんなさいと言えない、不器用な男がそこにいるだけだ。自分の愚かさを悔い、決して人を責めるようなことはしないような、そんな男が、時々俺を睨みながら、心配そうに見ているだけだ」
田宮一郎は鏡に映る自分から視線を部屋の隅の方に向けた。田宮一郎には見えて、他の誰にも見えないモノが、そこに佇んでいる。
「見えないモノを見ようとするな。見えないモノを見ようとすれば、見てもいない物を見たと思い込み、見たいと思っているものに見間違えてしまうのが人の脳だ。考えてもみろ、その噛み痕はなぜ、服に隠れるところにしかついていないのか。それはつまり他人への警告ではない。自分への警告さ。見えていることから状況を判断すればわかることだ。お前が思っているように、何かに祟られているのなら、そういうものは、むしろ人目に付く場所にできるものさ。もし、歯型の主が男だったとしたら、それはお前さんを傷つけるのではなく、お前を抱こうとした男にこそ、着くべきものだろう」
「でも、本当に私にかかわった人は、そのあと不吉なことが起きているのよ。それってやっぱり――」
「いいや。関係ない。人生にはいろんなことが起きる。いいことも、悪いこともだ。いいことだけをあげつらえば、それはよい占いが当たったことになる。その逆もしかりだ。悪いことばかり見ようとするから、やれ呪いだ、祟りだと思うようになる。俺が思うに、因果律の公平性はもともと不公平にできている。簡単に言えば、ポジティブなやつにはつねに因果律はプラスになり、ネガティブなやつにはマイナスになる。ポジティブな素因は成功体験であり、ネガティブな素因は失敗体験だ。どちらもより大きいほど、根強く残るものだ。お前、自分を不幸な女だとは思っていないが、誰かを不幸にさせた女だと思い込んでいる。思いあがるな。お前ごときが人を不幸にも幸せにもできるものか。なぜなら望月茜など、この世に存在しない。自分の名を持たない物に、他人に影響を与える力なんかありやしないのさ。まったく、何が降魔一郎だ……」
女は、はっとして自分の姿を鏡で見た。そこには望月茜の姿はなかった。実の兄に辱めを受ける前の一人の少女の姿がそこにあった。
「少女漫画の登場人物の名前よ。なんて作品だったかは覚えていないけど、とにかく嫌いなキャラクターだったわ。いつもお高く留まっていて、鼻もちのならない女だったわ」
「それは龍崎真知子の『ハッピー☆ガール』に出てくる主人公『福富幸子』のライバル、望月財閥の一人娘の名だな。名前が幸福に満ち溢れているのに貧乏な家で生まれ育った少女のサクセスストーリーだったか。いや、最後はくだらん男をとって、金持ちの家に嫁ぐのをやめた愚かな女の話しだったか。くだらん」
それは決して人気のある漫画ではなかっただけに、女はあっけにとられるしかなかった。
「たまたまだ。たまたま暇つぶしに読んだ本の中に、そういうものがあったというだけの話だ。珍しくもない」
「あなた、最初から――、私の名前のこと、知っていたの?」
「いや。そんなことはない。ただ、違和感を覚えただけだ。知っているわけがないだろう」
田宮一郎は振り返らずにドアに向かう。
「医者に診てもらえ。そのうえでまだ、気になることがあるのなら、そのときは連絡をくれればいい。アフターサービスは一度だけだ。有効に使え」
ドアを開けて廊下に出ようとする男の背中に女が声を掛ける。
「降魔一郎さん……、ありがとうございました」
「知らないな。俺は響子という女を抱いただけだ。もう、ここにはいない。だから帰る。それだけだ」
降魔一郎は、振り返らずにドアを締め、廊下を大股開きで音を立てずに歩いて行く。廊下に、かすかにガラムの香りが残った。それは人を選ぶ香りだった。
おわり