オーバーリミット 2
悩むと迷うは違う。悩むは答えを探している状態。迷うは答えを得ていながら前に進めていない状態。私の精神は迷いの荒野に取り残されたまま、死んだように立ち尽くしている。私は迷ったまま、優奈の隣にいた。
だけど今の私は以前と同じように見えているはずだ。可愛く明るく元気で前向きな世界最強の妖精。そういう風に自分を操っているからだ。
戦績は上々だった。死んだ精神は怠けることもしない。淡々とトレーニングこなし、トリガーを引き剣を振るう。優奈の機転に救われてもなにも思わなくなった。もう関係ないことだ。
今日も八汰に来ていた。判で押したような日常。戦って、どうせ勝つのだろう。
この辺りは八汰の中でも一等騒がしい地域だ。立ち並ぶ服飾店からは音楽が流れ、食べ物売りの屋台からは種々の香りと客引きの声が絶えない。今日は曇天でかなり蒸し暑い。隣の優奈は、左手でケータイを持ち、右手で自らを扇いでいた。
「暑いわ。私も扇ぎなさい」
「自分ので手一杯なんだけど。そっちこそ魔法でなんとかしてよ」
「水平と垂直、どちらが好みかしら?」
「風向しか選べないんだ!?」
「風力は最大で固定よ。風向を選べるだけ感謝なさい」
「レイシャの場合、二択でも感謝に足りるってのがすごいよね。全然ありがたくないけど」
ふと、出会った妖精と人間に声をかけられる。顔馴染みのRFプレイヤーだ。軽く挨拶をしてまた人の流れに乗る。ずっと八汰に通っているとこういうことも起こるようになってくる。特に今日は、久しぶりの雨上がりとあって街に来ているプレイヤーが多いようだ。他にも数組のプレイヤーと遭遇しつつも、ケータイのナビに従い対戦相手を目指す。
急に優奈が立ち止まった。胸を押さえて顔をしかめている。
「嫌な予感がする……」
通りの向こうから対戦相手がやって来る。あれを見てしまった者は皆一様に陶然となり、桃源郷かティル・ナ・ノーグの住人でも目撃したかのようなあり様だ。往来のただ中なのに棒立ちになって目が離せない様子の人間までいる。
相対した女王は艶然と微笑んだ。
「こんにちは、鏡島さん、レイシャ」
「どうも。藤野先輩。リーゼも」
最強無比のエリアチャンピオン。藤野千鶴とリーゼ。
出会ってしまった。ランダムで対戦相手を決めるシステムの結果に過ぎないけれど、運命という単語が脳裏をよぎる。決断を先延ばしにした私の定めを、運命の女神が裁きに来たのだ。
「順当に勝っているようで嬉しいわ」
「いやぁー藤野先輩の言った通りになっちゃってますね」
「私は予言者なの」
「先輩の場合、占いじゃなくてラプラスの悪魔のほうじゃないんですか」
千鶴の冗談に優奈が軽くやり返している。学校でも会話があるようで、以前に比べればいくぶん苦手意識は軽減されたようだ。
私自身は千鶴への苦手意識はなかった。この女王からは、私と同種のあり様の匂いを嗅ぎ取っていたからだ。優奈から伝え聞く様子や、先日のリーゼの語りは、その思いを強く裏打ちするものだった。
それは役者の匂い。自らにペルソナを課す王にして道化の匂いだ。発するオーラの正体は厳しく自らを躾け細部にまで優美さを追求した所作の賜物だろう。そのあり様に共感し、徹底ぶりに敬意を払うことはあっても畏怖するものではない。
「くすくす。じゃあ私の灰色の未来演算装置の結果を披露しましょうか。あなたたちはRFで私と遊んでくれる。どう?」
あくまで冗談めかした千鶴に対して優奈は少し辛そうな顔になった。
「……それは願望じゃないんですか」
千鶴は微笑んだまま答えない。穏やかな表情からはなにも読み取れない。
「RF始めて日の浅い初心者ですけど、ランダムマッチングで会った人に対戦してくれるか聞くのなんて先輩だけですよ。普通は『こんにちは、よろしくお願いします』で済むんです。なんでそんなことをいちいち尋ねるのか? それは先輩が、日常的に対戦拒否されてるからじゃないんですか?」
「そういうことは多いわね。とても」
「先輩が強すぎるから」
「そう見えるのでしょうね。全然そんなことはないのに。全RFプレイヤーの戦績は開示されているのよ。噂されるような、最強や無敗からはるか遠いのは数字が証明してくれてるわ」
「もう視点が違うんですね……」
千鶴の言には一理あった。全国レベルで見れば、千鶴は下位クラス。自身を強くないと評するのも筋の通らないものではない。ただそれは裏を返して見れば、このエリアのプレイヤーを全く相手にしていないという従来の千鶴像を補強するものでしかなかった。恐竜が虫を踏みつけて最強と誇ることはない。
「あなたはなぜ当てどもなく野良試合をするの? その実力なら大会を回るだけでもエリアチャンピオンシップに出場するだけのポイントはゆうに得られるでしょう」
「大会だけだと間隔が空いてなまるから、と理由はつけられるけど実際は遊びたいだけよ。たまには遊んでくれる人もいるし、鏡島さんのような興味深い新人に出会うこともあるしね」
遊びの輪に入れず途方に暮れる幼子か、同類を求めてさまよう亡者か、千鶴の孤独は深刻だ。
優奈が目を配せてきた。私はうなずき返す。
「対戦を受けます」
「そのふざけた態度も今日までよ」
「ちょ! そういうのやめてってば! すいませーん。あはは……」
「ふん」
「……本当によろしいのですか?」
リーゼの問いかけは重く冷たかった。誰に、なにを、と具体的な問いでない。リーゼ以外の三者に、己の中で問いを補足し答えを促すニュアンスだった。
「私たちの初めてのRF、初めての対戦。あの時のこと忘れてないですよね。あれからどう変わったのか、見てください」
「リーゼは『まだ』だと思っているのね」
「残念ながら。出来るならこのような不用意な遭遇は避けたかったところです」
優奈は答え、私はやはり予想通りの確認を済ませる。自然、千鶴に視線が集まる。
「いいじゃない。『いつか』を待ってたってしょうがないもの。少し味見してもいいでしょ」
「……千鶴様がそうおっしゃるなら」
リーゼは救いがたい愚か者たちを優しく憐れむような目をした。
決めてしまってからの後付けの理解になるけれど、千鶴も私も限界だったのだ。千鶴は実っていく餌に早く喰らいつきたい、私の精神は窒息寸前。ここで勝てば、私は私を許せるかもしれない。今日の邂逅は互いにとって僥倖だ。そして私たちが勝てば、すべてが上手くいく。
距離を取って、対戦の承認を行う。世界がRFのフィールドに切り替わった。
「勝算は?」
「アレを使おう」
「それは作戦。私は勝算を訊いたのよ。頭に加えて耳までおかしくなったのかしら?」
「どっちもおかしくないから! それにね、スルーしたのはレイシャ風に言うなら『愚問だから』よ。前に言ったでしょ、『イケる』ってね」
ふふん、と優奈が挑戦的に笑う。だから私も同じように笑う。
「でも本当にアレを使うつもり? 今日はアレの実戦テストのつもりだったけどリーゼと千鶴を相手にすればぶっつけ本番と変わらないじゃない」
「じゃあ他に案あるの?」
「百と八つはあるけれど、あなたの案を採用してあげるわ」
「それは煩悩、しかもフルコンプとは恐れ入るわ。滝に打たれてくればいいのに」
こういう時、私は怒って睨みつける。今の私はその動作をなぞるだけだ。優奈との間で視線の火花が散る。それもつかの間、優奈ががっくり肩を落とす。
「いや私も他にないんだけどさ。でもアレ当たれば終わるでしょ」
「まあね」
突如、肌が焼かれたようなような間隔に襲われる。来た。一見、優奈は何気ない無表情のように見えるけれど、瞳の深さが段違いに変わった。あの眼球の奥でで多次元方程式が疾走する様を幻視する。
「だったら当てる。それで勝つ」
こうなるともう、私では手がつけられない。簡単に了承を応えて前へ出る。
人気の絶えた繁華街。店先から流れていた音楽は止まり、屋台から漂っていた香りも消えている。ここに在るのはデュエリストだけだ。
「アクセス!」
「アクセス」
リーゼは前回と同じくヘヴィーアーマーにバスタードソードを装備している。攻防に優れる一方、かなりの重さだ。機動力が落ちても良さそうなものだけれど、莫大な行使魔力量で見えないほど速く動く。前回はなにが起こったか分からないまま負けていた。でも今の私はあの時とは違う。
ブザーが鳴った。
リーゼが突進してくる。速い! でも、まとったアーマーの鈍い輝き、翡翠色の髪がなびく様、腰だめにバスタードソードは振り抜けば凄まじい威力を放つだろうけれど初手の剣筋は限られる……見える。見えている!
私は試合開始と同時に、斜め上方へ後退していた。速度だって以前より増している。すぐに追いつかれることはない。あの時とは違う!
デフォルトウェポンのロングソードを投げつける。
「オベロン・ティターニア」
すかさず優奈がアプリを起動した。双剣を掴み、即座に変形。トリガーを引く。雷じみた音を鳴らして弾丸が吐き出されていく。
リーゼはロングソードをたやすくかわし、続く絶え間ない銃撃でも捕まえられることはなかった。外れた弾丸が壁を砕き、路駐車のボンネットを穿ち、屋台を崩落させていく。かなりの数の弾丸がかすめているけれど、あれは自分から当たりに行っているように見える。ヘヴィーアーマーの防御力に任せた強引な接近術というわけだ。
「はああっ!」
私は一声吼えて、前進に転じた。オベロンとティターニアを剣へと変えて斬りかかる。白銀の双剣と漆黒のバスタードソードが激突。重い! これがエリアランク一位の斬撃か。
「たいしたことないわね」
鍔迫りで飛び散る火花の向こう、リーゼへ笑いかける。
「残念です」
腕にかかる重みが増した。リーゼは静かな面持ちのままで、パワーだけが上がっていく。歯を食いしばり押し返すけれど、これはマズい。
「この程度で私の前を飛ぶとは」
均衡が崩れた。かろうじて双剣での防御は残したまま、高速で空へと運ばれる。背に強烈な衝撃。ビルの屋上にある電飾看板を突き破ったのだと理解したのは、崩れ落ちていく看板が一瞬見えたからに過ぎない。噛み合ったままの剣を押し込まれ、強引に位置を入れ替えられる。リーゼが上で私が下だ。
リーゼが、狙いを定めた隼のごとき速度で急降下。下にいる私は逃れようともがくけれど、リーゼの押す力が強すぎる。ビルの屋上に激突、そこを突き破っても勢いが止まらない。叩き付けた私の背中で、次々と床を破壊しながら落ちていく。
一階落ちるごとに全身が砕けるような衝撃が走る。ここは高層ビルだったようで、それを何回も何回も繰り返され地獄の底にまで落とされるような感覚、すらも痛みと衝撃が塗り潰す。
一際強い衝撃で底に着いたのだと知る。間近には無感動なリーゼの顔。その背後に広がる大穴から覗く空はかなり遠く、辺りは薄暗い。地下のようだ。横転してきたワゴン車を、リーゼが片手で殴り飛ばしていた。
バスタードソードにさらなる力が込められる。この体勢なら力押しをする必要はないはずだ。勝つためではなく力を見せつけるためにしているのだ。
ふざけるな。
双剣を双銃へ変形。角度を変えた剣身から、バスタードソードが滑り落ちる。鋭い切っ先が私の胸を刺すより早く、トリガーを引いた。至近距離からの銃撃を受けても、わずかに滞っただけでリーゼは止まらない。
そのわずかの間に私は、足を折り曲げ体をたわめて弾性力のエネルギーを溜めていた。飛行魔法を全開で上へ向けると同時に、渾身の蹴りをリーゼの腹に放つ。バネのように伸び上がった脚が重装備のデュラハンを打ち上げる。すかさず追って縦に回転、かかと蹴りをこめかみに見舞う。今度はこちらが、地に叩きつけてやった。
局所豪雨のように弾丸を浴びせかける。絶対に無視出来ないほどのダメージが入っているはずだ。それなのに、なんなくバスタードソードを手元に寄せて盾のように使って銃撃を防いで見せた。リーゼはそのまま体当たりをかまし、私は弾かれ距離が離れた。
「レイシャ。どう?」
傍にいた優奈が尋ねる。優奈と千鶴は、上から下への妖精の高機動戦闘にしっかりついてきていた。にも関わらず二人ともアプリを使わなかった。まだ勝負どころではないのだ。
「想定の範囲内ね」
「めちゃくちゃ強いってことね」
「……ふん。まだこんなものじゃないでしょう?」
リーゼは黙して語らず。千鶴は嬉しそうに楽しそうに口を開いた。
「もちろん。こちらは手の内を一つ、開帳するわ」
「千鶴様っ?」
「コシュタバワー」
驚くリーゼを意に介さず、千鶴はアプリの起動を宣言した。
リーゼの隣の空間が揺らめく。揺らぎは寒々とした沼に石を投げ込んだようにうねりながら広がり、そこから青白い馬が現れ出た。薄暗い地下に浮かび上がる、ツヤのない青白い毛並みはかなり不気味だ。
だけれど、「首がない」ことに比べればそんなのは些細なことだろう。首なし騎士の固有アプリにふさわしい首なし馬の異貌だった。
たくましい巨躯を落ち着きなくと震わせ、威嚇するように蹄で空中を引っかく様は悍馬のそれだ。リーゼは粛々と青白い大馬にまたがり手綱を引いた。
コシュタバワーは体を高く反らせ、亡者の慟哭を数百も集めたようなおぞましいいななきを上げた。大馬は下ろした太い脚の勢いをそのままに突撃を開始した。
……速い! 騎乗していないリーゼの速度も相当なものだったけれど、コシュタバワーの突撃はまた一つ次元が違う。
避けるという意識が表層に出るより先に本能で動いていた。水平の突撃を垂直上昇でかわす。振り向く間も惜しく勘だけで弾丸をばら撒く。手応えも、追撃の気配もない。
向き直ると、大破したビルのフロアへと突っ込んでいく騎士の後ろ姿が見えた。激烈な破砕音と衝撃が、瀕死のビルを揺るがす。しまった! これは……
頭上から歪んだロッカーが落下してきた。続いて穴の開いたドアや大破したデスクが、粉々になったガラスをまとって雨あられと降り注ぐ。
「上、か……」
「呑気につぶやいてる場合じゃないでしょう。脱出するわよ!」
落下物に、ねじ切れたパイプや巨大なコンクリートのかたまりも混じってきた。ビルが断末魔を叫び、内蔵をぶち撒けているかのようだ。
私は瓦礫を避けてかわして撃ち落として、唯一の脱出口である上を目指す。リーゼは戻って来ない。止まない激震は破壊を続行している証拠だ。千鶴はとっくに姿を消していた。つまりこれは手慣れた作戦なのだ。もちろん私も知っている。
「急ぎなさい。リーゼは瓦礫の雨で時間を稼いで、ビルを倒壊させるつもりよ」
「さっきの攻撃でビルの真ん中に穴が空いてるから中にいる私たちを上手く巻き込もうとしたら、根本を崩してから上のほうを蹴るとかしてビルを倒す。私たちは巨大な質量に押し潰されるか、上に逃げるしかない。脱出出来たとしても、リーゼが待ち構えている」
「過去、壁を抜いて道を作ったプレイヤーもいたわ。それでも短時間での大火力を要求されるから攻撃アプリを使わざるを得なかった。そのプレイヤーは結局決め手を欠いて負けたわ」
続いていた破砕音が止み、すぐ後に一際大きな、爆音とも言えるものが上から聞こえた。影が落ちる。ビルが傾ぎ出した!
必死に上を目指す。リーゼが待ち構えているとしてもこのままビルの下敷きになるよりマシだ。優奈は少し離れたところを飛んでいる。体の大きい人間には、この瓦礫の豪雨をくぐり抜けるのは相当困難だと思う。けれど優奈はすべてを見切り、的確に回避している。
いや、実際はそんなもの見てもいないのだろう。あれの目に映っているのは、己の中の作戦司令室のコンソールだ。こうなるともう近づけないし、こっちからは声もかけられない。
「レイシャ、リーゼをどう思う?」
「……過去の試合運びを鑑みて、攻守に堅実。無理はしない。それらは、強い自負と激情に裏打ちされたものであるということを最近知ったわ」
「オーケー。じゃあまず、バーストショットで上に穴を開ける。よっぽど運がいいか悪いかしない限りリーゼには当たらないから狙いは適当でいいよ。で。見通しよくして瓦礫を撤去して、アプリをもう一つ使ったと分からせる。リーゼの見てるところでアレを使う。アプリを三つ使い切った知ればリーゼは安心してとどめを刺そうとする。そこを斬る。藤野先輩はなにもしてこないと思う。あの人は段階的にレベルを引き上げて戦いをじっくり味わおうとしてる。こっちが一発で勝負を決めるようなアプリがあるなんて考えてない」
「……大技連発ね。魔力の充填に時間がかかるわ」
「リーゼは上で待ってるよ。崩落現場に飛び込むようなリスクは冒さない」
「そうじゃないわよ。アレは発動が魔力が充填されたら自動的に発動するもので、その時々によってタイミングが変わるのよ? もともと、接近戦を想定して作ったものなのだし。双方が突進して交錯する一瞬に発動を合わせるなんて、それこそリスクが高すぎるわ」
「ん? やるよ。レイシャのことなら体で覚えてるしコシュタバワーも速いけど見えてるし。あ! 体で覚えてるってそういうのじゃないからねっ!?」
「うるさい! 戯言を抜かしてる暇があったら仕掛けるわよ! 崩落がひどい!」
こういう時の優奈がやると言ったならやってしまう。あれがやると言ったらそれはもう確定された現象に等しい。
「はいはい! じゃ……バーストショット」
私は腕を上へと突き出す。アプリによって行使魔力量の限界を超えて徴収された魔力が、オベロンとティターニアに注ぎ込まれた。プログラム通りにトリガーを引く。集束した魔力が一気に解き放たれる。輝く光の柱は射線上の一切を消し飛ばし、蒼穹へと消えていった。
大穴の傍では、馬上のリーゼが無感動な視線を落としていた。当たればさすがに無事では済まなかったはずなのに、欠片も動じた様子を見せない。百戦錬磨で備えた不動心か、本当になんとも思っていないのか。きっと両方だろう。だが、それもここまでだ。
私は双銃を双剣へと変え、飛翔する。
リーゼはコシュタバワーを転回させ天高く駆け上った。助走をつけて、崩落する奈落の底へ叩き返す算段か。
「オーバーリミットブレイド」
優奈がアプリの起動を宣言した。
どん、と心臓が強く脈打ち血流が加速した。体は熱くなっているけれど、感じるのは寒気だ。一瞬ごとに疲労が溜まり、魔力を込めた分だけ力が抜けていく。リークの時の感じに近いけれど漏れているのではなく、急速に双剣に蓄積しているのだ。
バーストショットが行使魔力量の限界を超える技なら、オーバーリミットブレイドは総魔力量のたがを外して意図的に暴発を起こす捨て身の一撃だ。前者がプールからバケツで汲み出した水を浴びせるものなら、後者はプールの栓を外して噴き出した水流を叩きつけるぐらいの違いがある。
このアプリは私から提案したものだった。優奈はかなり渋ったけれど説き伏せた。自爆するつもりはないし、そのためには精密に魔力をコントロールするプログラムが必要だ。それを用意出来ないのかと挑発すればあっさり乗ってきた。ちょろいものだ。
それも私がまだ悩んでいた頃の話だ。この先、格上と渡り合うために切り札が必要だと思った。そして勝てたなら私にもまだ価値があると信じられると。だけれど、アプリが完成する前に、川原でリーゼと話し私は答えを得た。私は優奈の隣にいたい。そして、いてはいけない。
今日、リーゼと千鶴に会う前はすべてが終わったと思っていた。でも、これで勝てばいいのだ。この一撃が決まればいいのだ。そうすれば、私はまだギリギリで私を許せる。
私はバーストショットで開けた穴から飛び出した。オベロンとティターニアはけいれんを起こしたように震える。抑え込む。
リーゼとコシュタバワーは高空で大きな弧を描いて高高速で舞い降りてきた。
双剣に溜め込まれた魔力は暴発の一歩手前だった。優奈のタイミングはやはり完璧だ。完璧すぎて連撃は不可能。一方を振っている間にもう一方が暴発する。私はオベロンとティターニアを重ねるように構え直す。一撃必殺に賭ける……祈る……いや、今だけは信じさせて!
天を衝く双剣と地を穿つバスタードソードが激突。その寸前、貯めに貯めた魔力が解き放たれていた。荒れ狂い暴虐の限りを尽くすはずの力はしかし、優奈のプログラムによって音や衝撃の拡散のようなエネルギーロスすらほぼ起こらず、ただただ超威力の斬撃を成さしめた。
「……どうして」
受け止められた。デフォルトの装備でも扱う者の魔力によってその強度は変わる。リーゼのバスタードソードにはヒビ一つ入っていなかった。
「あなたの敗因は焦ったことです。今日、私の前を飛ぶべきではなかった」
バスタードソードをひねりながら振り抜かれ、私は高空へ投げ出された。
「この程度の力で」
即座に距離を詰められていた。右から来ると思った時には斬られていた。腕が追いつかない。ちっとも間に合わない。と思考した時には返す刃が左からの疾走を終えていた。
「この程度の速さで」
防御に掲げた双剣にバスタードソードが絡みつき、引っ張られる。やめて。これは私と優奈で作ったものなの。奪わないで。リーゼの手首が翻り、私の手から離れたオベロンとティターニアが空高く跳ねて逆光の中に消えた。
「この程度の技量で。挑むべきではなかった」
私は呆然と空を見上げている。からっぽの青しかない。ふと心に浮かんだのは「ごめんなさい」だった。
「また戦う機会があるといいですね。あなたが再び飛べるのならですが」
コシュタバワーが、脚を振り上げた。黒々とした蹄が脳裏に焼き付いた。
◆ ◆ ◆
蹄にかけられたレイシャが落ちていった。小さな体が崩落中のビルに突っ込んで粉塵を巻き上げる。そこでブザーが鳴った。
「くっ……!」
空中に控えていた私はすかさず降下してレイシャを追う。試合が終わると妖精にかかっているシールドの質が変わって人間のそれと同じようにダメージと、痛みも受けなくなる。でもだからって、むざむざビルの下敷きにさせるつもりはない。
瓦礫が滝のように降り注ぐただ中に飛び込んでレイシャを探す。さっきビルから脱出する時は、瓦礫を避けていたけど、ダメージを受けないのだから本当はそんなことする必要はない。
ただ巨大なコンクリートのかたまりや歪んだシャッターなど、見るからに危険な物体に衝突すると思うと、ダメージや痛みとは関係なく恐怖を覚える。その恐怖に抗うぐらいなら回避に精神のリソースを割いたほうが合理的だと判断しただけだ。
でも今は違う。レイシャを救い出すのに比べれば私の恐怖なんか石ころほどの価値もない、いや怖いけどすごく怖いけど。降り注ぐ瓦礫に無防備に背中を向けたままレイシャを探す。
「レイシャ! どこ……!?」
ただよう埃のせいで灰色がかった光景の中、輝きを失わないピンク色があった。いた! 発見と同時に、巨人の拳のような瓦礫がレイシャの頭上にあるのに気づいた。私はレイシャに覆いかぶさっていた。
「うぅ……」
衝撃はない。すぐ横で地響きと共に瓦礫が転がっていく様子で守ったと確認した。
レイシャはまだ目を覚まさない。パートナーを両手で拾い上げた。小さくて、軽い。胸がきゅうっとなる。その体を抱き込んで飛び立つ。私が脱出した直後、ビルは完全に倒壊。その余波で周りの建物が連鎖的に倒れていく。生物の気配のない空間で、淡々と街が崩れていく様子は世界の終わりのようだった。
「鏡島さん」
大破壊の轟音の中でも、藤野先輩の声はクリアに聞こえる。
私はレイシャを抱えたまま上昇して、空中で藤野先輩と向かい合った。女王の傍には、メイド姿に戻ったリーゼもいる。藤野先輩の穏やかな微笑みは変わらずだ。やっぱりなにを考えているのかわからない。
「今日は、がっかりしたわ」
「えっ」
「鏡島さんの判断は申し分なかったわ。アプリの完成度から見て、プログラミングのスキルも魔法への理解もかなりのものね。でもレイシャは弱いわね。あなたの枷になっている」
「は?」
なに言ってるんだこの人は。
「……えっとレイシャは弱くないです。今の段階だとリーゼには敵わないかもしれないけど、それはレイシャだけの問題じゃありません。それにレイシャは枷じゃなくて支えです。レイシャがいるからここまで来れた。私を認めるなら、レイシャも同じように認めないと論理破綻になります」
「精神論じゃないの。純粋に実力の問題。彼女は鏡島さんには不釣り合いよ。パートナーを解消して、他に妖精を見つけてちょうだい」
目の奥で火花が散った。血の流れがどうにかなったのか、頭が痛い。
「ふっ……ふざけるな! 先輩はレイシャのなにを知ってるんですか? わかってるんですか? 勝手なこと言うなっ!」
いつも穏やかな笑みを崩さない先輩が目を丸くしていた。
「……驚いたわ。怒鳴られるなんていつ以来かしら」
「だったらなんだって言うんですか! 強さはレイシャを侮辱していい理由にはならない!」
「侮辱だなんてそんな。客観的な判断と助言。あなたのためを思って言ってるのよ」
「余計なお世話です! 先輩の指図なんかなくても、きっちり叩きつぶしてあげますよ!」
「それが無理だから……」
「黙れ黙れ、黙れ! だいたい私のためじゃないでしょ? 自分のためでしょ? 私のパートナーをバカにしておいて自分の本音は隠す卑怯者め!」
「そんなつもりじゃなかったのだけど、鏡島さんが強くなってくれると嬉しいわ。そうね……でもあえて私のためにと言いましょうか」
「いいですよ。でも全ては私のためであって、レイシャのためでしかありません。その途中で先輩を楽しませるに過ぎません」
「無理、と言っても堂々巡りになるだけね。仕方ないわ。一つ、賭けをしましょう」
「乗りました。ぶちのめします」
「まだ何も言ってないのだけど、その心がけはいいわね。来週末、八汰のRFセンター、ブレイズで大会があるの。その決勝で、もう一度対戦しましょう」
「わかりました」
「こっちが勝ったら、鏡島さんとレイシャにはパートナーを解消してもらうわ。負けたら……なんでするわ。土下座でも切腹でも」
「その程度は当然してもらいますよ。でも……なにも思いつきませんね」
「なんでもいいのよ」
「じゃあ決めないことも罰にしておきます。せいぜい大会まで退屈に苦しんでください」
「あら。ひどいのね」
そう言う先輩は微笑んだままだ。むしろ楽しそうにも見える。
「……もしかしてマゾの人ですか?」
「そう思う?」
「……いえ」
先輩はいつも楽しそうだ。あれだけの暴言を吐いても敵意も悪意も感じなかったし、私がやり返しても喜ぶだけだ。先輩の身の上話はレイシャから又聞きしている。この人は、なにもかもを貪欲に楽しまないとやってられないのだろう。いや、貪欲になっても楽しめない。足りないのだろう。
「獣ですね。畑を耕し、獲物を肥え太らせる知能を持ったとてもタチの悪い獣」
聞いた話だと、先輩は自身を恐竜にたとえたらしい。リーゼからは口止めされているので、それに近い表現を使った。それにしても、恐竜とは。本当に自分をよく理解している人だ。そこまでの自己洞察力を持ちながら止まらないのだから、なおさらにタチが悪い。
「知能を持った獣を人間と呼ぶんじゃないの?」
「尊厳がありません。レイシャをバカにした先輩は人間以下です」
「だってレイシャは獲物じゃなかったもの」
「なっ……!」
いつの間にか私は拳を硬く握りしめていた。
「賭けとは別で、とりあえず一発殴っていいですか」
リーゼが藤野先輩を守るように進み出た。藤野先輩は、それを軽く制する。
「溜めて、制御してね。怒りや悔しさを力に変えるのも技術の内よ」
「……ここまでの会話、まさか全部そのために?」
「いいえ?」
以前、智子が『先輩は正直な人』と言っていたのを思い出した。これは……正直というか天然だ。それに最強とお嬢様という要素を掛け合わせたせいで、こんなに厄介な生物になってしまったのか。
怒りも度を越すと呆れに変わるらしい。
「あ~~う~。もういいです! お先、失礼します」
「ええ。またね」
「ごきげんよう」
先輩は相変わらず。リーゼが軽く礼をしてくれたので、私は手を振って返した。ケータイを操作してRFのフィールドから出る。今日はまだ一試合しかしてないけどレイシャは目を覚まさないし、疲れた。もういいだろうと、私は雑踏に乗って駅へと向かった。
目が覚めてからのレイシャは口数少なかった。それに様子がおかしい。落ち込んでいるというよりも……悲しんでいるようだ。取り返しのつかないこと、たとえば枯れてしまった花を悼んでいるような感じだ。
私は元気付けようと調子いいこと吹いたり、からかってみたりもしたけど、とにかく反応が薄い。私も、さっき藤野先輩の挑発に乗ってしまったことをどう切り出すかと思うとテンションが下がってきてしまった。重い雰囲気のまま家に着く。
セキュリティを解除して振り返ると、レイシャは家の屋根にあたると推測される部分を見上げていた。異様にくねった家の頂上箇所からはさらに羽のようなものがくっついて、わざわざ見たくなるものではない。でもレイシャは、顔を上げてそれを見ていた。
「優奈」
「ん?」
「あなたはクビよ。私の下僕にふさわしくないわ」
「いやだから下僕じゃないってば」
「パートナーもよ。あなたとでは、世界最強になれないわ」
「え? 意味がわからないんだけど」
「愚かね。弱いと言ったのよ。さっきの対戦、勝てたはずだった。敗因はあなたの作戦ミスよ。あなたは私を活かせない」
「……もしかしてさっき、起きてた?」
レイシャが訝しげな顔になる。失言だった。
「なるほど。余所から見ても不似合いだったようね」
「ヨソはヨソ。ウチはウチでしょ。今までだってやってこれたし、これかもいけるって! ミスがあったらなら謝る。だからなにが悪かったか、ちゃんと言って」
「あなたはもう関係ない存在よ。これ以上話すこともない」
「なにそれ! いい加減にしないと……!」
詰め寄る私に、レイシャが指を差し出した。瞬間、強烈な風が吹いて私は門に叩きつけられていた。背中がめちゃくちゃ痛い。全身しびれて動けない。ずるずると背中で滑って道路に座り込むしかなかった。
「……い、たぁ……レイシャ、本気?」
「本気だったら生きてるはずないでしょ。でも、力加減をしくじったかしら。まだ意識があるなんて」
「ちがう! 話した……こと、本気……なの?」
「ここまでしてそれを疑うの? 本当に阿呆ね」
レイシャが手を振り上げた。また魔法を使うつもりだ。これはよくない。とにかく制圧して話し合いに持っていく。彼我の距離は約一・五メートル。手が振り下ろされるまでに、こちらが打てる手は……
「やめておくわ。意味がなさそうだもの」
レイシャは疲れたようにつぶやいて手を下ろした。今だ、とにかく動くんだ。
「っつ、いたっ!」
無理に立ち上がろうとしてバランスを崩してしまった。かなり嫌な感じに足首をひねって倒れる。コンクリートで、思いっ切り腕を擦りむいていた。痛いって。
地に伏した私を、空中のレイシャが見下ろす。その目は見たことないほど冷たく、視線だけでなにもかもを凍らせてしまうかのようだった。レイシャがくるりと背を向ける。
「さようなら。追いかけて来たら殺すわよ」
「レイシャ、の言う……ことなんか……聞くわけないでしょ!」
私の絶叫を無視して、パートナーは空へと飛び去って行った。




