オーバーリミット 1
アイリスちゃんとサクラとの対戦のあとは、まあ快進撃と言っていいと思う。連戦連勝、修行期間前の連敗を帳消ししてお釣りが来るくらい勝った。勝率にすれば六割強だ。
気になるのはレイシャの様子だった。RFで勝てばレイシャのテンションも上がって、私の気分も良くなって、上手くいくと思っていた。
最近のレイシャは、ぞっとするほど激しいトレーニングをしたかと思うとなにもしないで一日中家でゴロゴロしてたり、可愛らしい部分を多く見せたかと思うと目も合わせずそっけない日もあった。適切な用法か自信がないけど、情緒不安定というものだろうか。
悩みがあるのなら聞く、とそれとなく伝えてはいるけど返ってくるのは生返事ばかりだった。それなりの期間一緒に暮らして、同じ目標を持つ私とレイシャはパートナーだ。
だからって隠しごとはなしで全てを共有すべきだなんて思ってない。私だって、寝顔を眺めてにやにやしたり、レイシャの嫌いなニンジンをペーストにしてハンバーグに混ぜたりしてる。
言いたくないのなら、それはそれで仕方ない。無理に聞き出すものでもないと思う。ただ打ち明けたくなったらいつでも聞くというメッセージを出し続けるのが大事だ。
◆ ◆ ◆
私は川原に沿って飛んでいた。太陽は青空に高く、川面に陽光がきらめいている。川原では小さな子どもが遊んでいた。妖精も一緒だ。腰から生えた馬のような尻尾からしてケルピータイプだろう。水場を得意をする彼女らが一緒なら万が一にも水難事故はない。
トレーニング日和の晴れやかな好天、けれど私の心は曇ったまま……冴えない表現だ。
率直に言って、私たちは強くなっていた。修行期間以前が夢だったかのように勝ち続けた。それでも奇天烈な策やアプリで追い詰められるのがRFの常。優奈の機転で窮地を脱したことは一度や二度ではなかった。勝利を重ねるごとに焦燥が募っていく。
己を騙し、御するのには慣れている。それとは別種の、黒い染みのようなものが心臓を苛んでいた。逃げているのか追っているのか、わからないまま私の心は窒息しかけていた。
この川原は、広く長く続いていて多少速度を出しても問題はなく、お気に入りのトレーニングスポットだ。とりあえずトレーニングウェアを着て出てきたけれど気合が入らず、今は漫然と流し飛びしている。馴染みの顔を見つけたのはそんな時だった。
「リーゼ。久しぶりね」
「ごきげんようレイシャ。貴方がこちらのほうへ来る機会が減ったのではありませんか?」
「……そうかもしれないわね」
リーゼは今日もメイド服を着て、翡翠色の髪をほつれ一つなく結い上げていた。相変わらず隙のない服装と、やはり変わらずエリアランク一位のままだ。
「最近好調だと聞いていますよ」
「まあね」
「次期のエリアチャンピオンシップ出場も噂されているようですね」
「この調子ならね」
「前例のない躍進ですよ。……嬉しそうには見えませんが」
「当然よ。勝って当然なの」
「世界最強だからですか?」
優奈はいずれ本当に世界の頂点に立つだろう。私は……
「わかってるじゃない。世界最強だからよ」
リーゼは目をそらし、川の流れに戯れる子どもたちを眺めてから呟いた。
「まるで、自分に言い聞かせているようですね」
「信じているのよ」
「以前の貴方なら、事実だと胸を張ったはずです。なにがあったのですか」
「あなたには関係ないわ」
「なにかお悩みでも? 話すだけで楽になることもありますよ」
「余計なお世話ね」
「口は固いですし、可能なことならお手伝いしますよ」
「今日はずいぶんと絡むじゃない。三歩下がって奉仕するのがあなたの信条だと思っていたのだけれど?」
「私が仕えているのは千鶴様です」
強い風が吹いた。リーゼはメイド服の裾の乱れが気になるようで、撫でつけて直していた。
「控えめな伝達は確かに、『らしい』わね。私の気分が、千鶴に関わるところまでは察したわ。突き詰めれば、あなたがこだわるのはあのお嬢様のことだけなのでしょう。でも、その意味がわからない」
「少し千鶴様の話をしてもよろしいでしょうか」
藤野千鶴について私が知っているのは、あらゆる面で圧倒的強者だということ。千鶴・リーゼはクイーンなどと呼ばれているけれど、真の意味でのクイーンは千鶴一人を指すだろう。強さと美貌、存在感、千鶴でなければ、あんな字名がつくこともなかったに違いない。
ふと思ったのは私のパートナーだ。優奈と千鶴は共に、RFにおいてはバケモノじみた能力の持ち主だ。リーゼは、あんな規格外の存在の傍にいて平気なのだろうか。
「興味があるわ」
「順を追ってお話しましょう」
リーゼは目を細め、どこか遠いところを見つめ始めた。
「私たちデュラハンタイプは騎士の妖精。仕えるべき主を求めてこちらの世界に来ましたが、思うような巡り合わせがなく怠惰な日々を過ごしていました。
そんなある日、私は樹上でうとうとしている内に恥ずかしながら頭を落としてしまったのです。それを拾ってくださったのが、当時六歳の千鶴様でした。『お父様のお仕事についてきたけど、あんまりにも退屈だから抜けだしてしまいました』と笑っていました。千鶴様といえども、当時はまだ子ども。私でも笑顔の裏の寂しさを見透かすのは容易でした。
千鶴様の散策に付き添そいながらお話をしている内、蝶が蜘蛛の巣にかかりもがいているのを見つけたのです。千鶴様はためらわず蝶を開放してやりました。
私が『自然界の食物連鎖に関わるべきではないのではないでしょうか』と問うと、千鶴様はまず、優しいだのと褒めそやさないことに好感を持っていただいたようでした。そして『私は蜘蛛よりも蝶のほうが好きなので助けました。食物連鎖のルール違反ではないと思います』と答えられました。
自らが自然界のシステムに組み込まれており、かつその頂点に君臨する生物であるという認識がなければこのような言葉は出てこないでしょう。私は淀みなく話す小さな女の子に興味を持ちました。
他に好きなものを尋ねると、花や鳥など歳相応に可愛らしい答えが返ってきました。では自身を例えるとしたらなにか、と重ねて尋ねました。すると千鶴様は恐竜だと答えたのです」
「恐竜?」
さすがに聞き返してしまった。多少の知識はあっても、私たち妖精には馴染みのない単語だ。
「この世界で太古に繁栄した生物ですね。その後はあまり多くは語らず、他愛もない話をして過ごしましたが、私はこの女の子に強く惹かれていました。 後に、藤野家で人員募集がありそこで初めてあの女の子が藤野家の令嬢だと知ったのです。私は一も二もなく飛びつき、千鶴様も私を覚えておられて話はすぐにまとまりました。
藤野家の力は強大でした。幼い千鶴様はその力に戸惑い、持て余しているようでした。『自身を恐竜に例えたのは、大きな体で虫や花を踏み潰さないよう気を配らなければでしょうか?』私の質問に、千鶴様は半分正解だと、また寂しそうに微笑まれました。
旦那様と奥様は仕事が忙しく、年の離れた兄君二人もあまり家にいませんでした。家族の愛はありましたが、やはり千鶴様は寂しい思いをなされていたようです。しかし千鶴様が長じるにつれあの方のなんと申しますか……カリスマを恐れるようになっていったのです。
旦那様は、兄君二人に施されたような英才教育ではなく、様々な稽古ごとをさせ始めました。幸いなのかは判断しかねますが、千鶴様は芸能、芸術の分野で才を示しました。家の方たちも千鶴様もそれで満足されているようでした。旦那様などは、私と組んで漫才をしてはどうか、なんて仰ったこともありました」
「想像出来ないわね。いえ、意外とアリなのかしら……?」
デュラハンの「首落ち」はお笑いの定番ネタだ。セイレーンやローレライは音楽業界で活躍している。ピクシーは、人間の思い描く可愛らしい妖精像に合致するらしく芸能全般で幅広い人気を得ている。妖精には向き不向きがある。確実に。
「冗談ですよ。旦那様は陽気に振る舞う方ですので。家にあまりおられない方々は千鶴様が才媛へと成長していく様を喜んでおられたようですが、私はなにかおかしいと感じ始めていました。
そして私たちはRFに出会います。千鶴様の才がここにおいて爆発したと言えるでしょう。私もまた千鶴様のためと思い、技を磨きました。千鶴様はなによりもRFを気に入られ、それは私も同様でした。私たちは瞬きの間にランクを駆け上がっていきました。そして、前代のエリアランク一位を倒した時の千鶴様のお顔を見た時、おかしいと感じていたものの正体を知りました。
その時のお顔は……私に千鶴様のような詩才があればよかったのですが……あの時の千鶴様は端的に言って孤独を感じていたのだと思います。道を極めるということは、道を外れるということです。私がおかしいと感じていたのは、千鶴様の周囲の人についてです。
芸術でもRFでも、最初は仲良く学ばれていた友がおりました。ですが千鶴様の速度に、歩幅に、ついて来られなくなり、みな離れていきました。私はようやく、千鶴様が自らを恐竜に例えた意味を理解しました。恐竜は太古に繁栄し、そして滅亡した生物です。現在の地上に仲間はいません」
リーゼはほぅっと息を吐いた。袖まできっちりボタンを止めた腕で、バッグから水筒を取り出した。カップに注がれた紅茶が、リーゼの手の中でルビーのようにきらめく。話し続けて喉が渇いているに違いないのに、一気に飲むようなまねはせず、上品にゆっくりと飲んだ。勧められたので、私もいただくとする。一口飲んで、
「お口に合いませんでしたか? 完璧な真顔ですが」
「藤野家ではこれを常飲しているの?」
「藤野家というより千鶴様ですね」
「千鶴を下僕にすれば毎日これを飲めるのかしら……」
「大変好評のようですが、その野望は全力で阻止します」
「少し錯乱してしまったわね。ごちそうさま。それで話はもう終わり?」
カップを返す。リーゼは水筒をしまって、目で肯定を示した。
「貴方なら察していただけたと思いますが」
「千鶴の孤独はあなたが癒せばいいでしょう」
「そう出来るならどれだけよかったかっ……!」
リーゼの口から、血反吐を吐いたかと思うような激情がこぼれた。終始落ち着いていたリーゼの、これが本音なのだろう。だが一瞬前が嘘だったかのように平然と語りを続ける。
「私は従者です。影となり支える者です。千鶴様に並び立つ格を備えていません」
「だから私たちに恐竜になれと?」
「お察しの通りです。ですが、あえて私の口から申し上げます。貴方がたには、より一層の奮起をお願いします。千鶴様に並ぶほどに強く、強く、そして強くなってください」
「……言われなくてもそうするわよ」
「そうは思えないから、このような話をしたのです。『並ぶ』ではなく、『追い抜く』ではないのですか? 世界最強?」
明らかに挑発されているけれど、こんなに違和感のある話に乗る気にはならない。
「RFはひたすら上を目指す競技よ。私じゃなくても倒すべき相手はいくらでもいるでしょう。後輩を焚きつける理由がない」
「まず、RFはアマチュアで楽しんでいる方も大勢いらっしゃいます。プリセットアプリだけでも遊べるからこれだけの人気競技になったのです」
「一般論は不要よ。私たちはやはり上を目指す者。あなたのいうことは温く聞こえるわ」
「我々はある種の極道であり外道でしょう。ですが修羅の道を歩む者ではありません。身近にいて切磋琢磨し合えるような存在を求めるのはおかしくないはずです」
「それでも」
「あなたにはまだわからないかもしれませんね」
リーゼは誤解している。千鶴とは質が違うにせよ、私もまた上に進むほどに悩みを深める同類だった。
しばしの沈黙のあと、口を開いた従者は辛そうに目を伏せていた。
「認めたくはありませんが、千鶴様はRFへの情熱を失い始めていると思います」
「自ら手を伸ばす気力すらないほど重症なのね」
「……ええ。対戦中もただ見守っているといった風で……もちろん適宜アプリの発動は宣言なさるのですが、以前なら声をかけていただいたり応援していただくこともあったのに」
過去の千鶴の声を反芻でもしたのだろうか、リーゼは身をよじらせた。
「より認めがたいのは、それでもRFを続ける理由が私だからです。私がRFを好きだから、私のために、千鶴様は続けておられる。私は千鶴様が苦しむより辛いことなどないのに……そして私は、かつて活き活きとRFを楽しんでおられた千鶴様を忘れられず、あの日々がいつか戻ってくると願ったまま今に至るというわけです」
はっとしてリーゼは唇を硬く結んだ。口が滑った、とその表情が物語っていた。
不毛な間柄だ。相手への想念が鎖となって互いを縛っている。
「十位は? 大橋智子なら学校も同じだし適任ではないの?」
「残念ながら。決して弱くはありませんが、私どもに万に一つも負けはありません」
ぞっとした。なにごとも上に行くほどに差は微細になっていくものだ。人間たちのするオリンピックだってコンマ秒以下を争うものが多いし、RF世界最強を決めるアヴァロントーナメントでも下馬評が当てになった試しがない。絶対の王者などは成立しないはずなのだ。
「それで、私たちに白羽の矢が立ったのね。いえ、あれはなんと言ったかしら……赤紙?」
「物騒なこと言わないでください。ただ強くなるようお願いしているだけです」
「よく言うわよ。焚き付けて、挑発して、同情を引くような真似までして。そういうのはお願いに分類されないのよ」
「そんなつもりは……そうかもしれませんね。では最後に忠告を」
「もうなんでもいいわ。言ってみなさい」
「精神を強く持ってください。正直に申し上げて、私たちが『潰して』しまったプレイヤーもいます。心苦しくはありますが、それは仕方のないこと。千鶴様の益にも害にもならない存在には、私も関心を持ちません。二位以下のランカーは私たちに相対し、なお立っていた者たちです。こちらが見限った時に、二位を目指す心身を備えるとよいかと思います」
「……呆れた。それで忠告のつもり? クイーンなんて呼ばれてるけれど、本当はタイラントではないの?」
「心外です。善意からの忠告だったのに」
憤っている様子のリーゼに苦笑するしかない。
「いいわ。あなたが千鶴のことを大切に想っているのはよくわかった」
「しゃべりすぎましたか。そろそろお暇するとしましょう」
「今の話は優奈に聞かせてもいいのかしら?」
「構いません。ですが千鶴様には内密に願います」
川上へ去っていくメイド姿を見送りながら頭の中を整理する。
身の上話はたいして重要とは思えなかった。悪いけれど、リーゼの思惑など知ったことではない。私が知りたかったのは、リーゼと千鶴の関係。リーゼが千鶴を、あのバケモノをどう思っているのかだった。バケモノではなく恐竜だったか。
リーゼは千鶴を深く想っていた。恐れなど一片もなかった。そう成らしめているのはリーゼの強い自負だろう。あの巨大な存在を支えるとあっさり言っていたが並大抵のことではない。
私は優奈を支えたいとも、支えられたいとも思っていない。私はただ……対等でありたいだけだ。でも、それはとてつもなく困難だ。あれは将来、RF界に燦然と輝く星になる。私は……私は世界最強だから……急に色んなことがどうでもいいと気づいた。
優奈を手放したくない! 食事中の幸せそうな顔を、椅子に座ってなにか思いついた時の少し悪そうな顔も、私がベッドにしてあげると言っているのに一向に許可しない胸の感触も誰にも渡したくない。夜中にふと目が覚めた時、飽かず寝顔を眺めているのを優奈は知らないだろう。あれは本当に見た目だけはいいのだ。性格のほうは、ヘタレだしビビリだし抜けてるところもあるし、私がいないとダメなのだ。
私がしたいことは。私がすべきことは……




