迷子の兎
緊急事態発生です。俺、クレア(♀)の兎は迷子になってしまいました。俺は元から方向音痴で、よく迷子になってしまうのです。しかし今回のは酷い。…ここ、どこでしょうか…?
兎は多方面から狙われ易い為、俺は雄のように振る舞うように育てられた。口調も、服装も。
そんなことより、どうしようか。人は沢山居るけど、人見知りな俺にはとても声を掛けるなんて無理。あー、やばい。酔ってきたかも。
「やっべー…死ぬ」
ふらふらした身体は今にも倒れそうだ。とりあえず邪魔にならないように道の隅っこに寄って壁に手を付いて荒い息を整える。
よし、ちょっと頭ん中を整理しよう。えっと、まずここはどこだったか。…どこだよ、ここ。てか俺、何でこんな場所に居るんだっけ。頭くらくらする。目眩か、これ。気分悪い、吐きそう だ。
俺は消えかかる意識を手離して、ドサリと地面に倒れ込んだ。
「…い、おい」
誰だろう、近くで声がする。うっすら目を開けてみると、フードをかぶっていて分かりにくいが黒のような茶髪ようなボサボサ頭の女性が居た。
「やっと起きましたね」
まだはっきりとしない頭で状況を理解しようとしてみる。
「お前、誰?そんでもってここはどこだ」
女だとバレないよう低めの声で言って威嚇した。
「自分が先に名乗りなさい。ここはただの日陰ですよ」
何だコイツ、感じ悪いな。いや、けど日陰に連れて来てくれたんだしいい奴なのかな。
「俺はクレア。あ、っと…日陰に連れて来てくれてありがと」
内心むかつきながらも名乗って礼を言ってみる。相手は顔色一つ変えやしない。
「ん、私はキリマ。君が目を覚ましたことだし私は帰るよ。じゃあ」
そんな感じの言葉を並べて言うとキリマさんは立ち上がり、どこかへ行こうとしている。
そうだ、ついでだしここはどこか聞こう。
「…っおい!」
思わずキリマさんの服を掴んでしまった。彼女はやはり表情を変えず、何?と言いたげに首を傾げて俺を見下ろす。
「え、と。俺、迷子…です。良かったら道案内してくれないか…?」服を掴んだまま自分の今の状況を伝える。少しの間、彼女と視線を交えていた。
「別にいいけど、私は君の家を知らない」
くるりと振り返ると、冷たい声でキリマさんが言った。
確かに今さっき会ったばかりの人が自分の家を知っているはずがない。うーん、どうしようか。そんな風に考え込んでいるとキリマさんが言葉を放った。
「ここから私の家が近い。…来ますか?」
一瞬、呆気に取られてしまう。ぽかんとしていると、キリマさんに腕を引っ張られた。よろよろとキリマさんの腕の中に倒れてしまった。
「あ、悪い」
慌ててキリマさんを押し返す。突然立ったことにより、立ち眩みが生じたのだろう。そんな俺を彼女は抱き留めてくれていた。
「大丈夫?」
ふらふらじゃない、とキリマさんは俺を抱き留めたままで言う。思っていたよりも顔が近くて、その距離に驚き急いでキリマさんから離れた。
「まあ、何とか」
顔を逸らし苦笑して答える。
「とりあえず私の家においで」
そうキリマさんに言われ、二人で歩き出す。時折 俺の様子を心配してか声を掛けてくれたりもした。この人は優しいんだなぁと思いつつ着いて行く。
そしてある場所でキリマさんの足が止まる。彼女の後ろを歩いていたせいで背中に思い切り顔をぶつけてしまう。
「痛…っ。て、ここ?」
額をさすりながらキリマさんに尋ねると彼女は頷いて再び歩き始めた。俺は黙って着いて行く。
彼女の家はアパートの一階で、何だか俺の家に似た感じだ。
「お、お邪魔します」
入るよう促されたので、ゆっくり家に足を踏み入れる。凄く綺麗に整理整頓された部屋。
「適当に座ってて下さい。飲み物でも持って来ますから」
言われるまま椅子に座って待っていると、キリマさんがコップを持って来てくれた。そこにはコーヒーが入れられている。
「ミルクと砂糖、好きに入れて下さいね」
彼女は二つの容器を持って来て俺に言う。そう言われて少しだけ砂糖を入れた。
ふとキリマさんを見ると、大量の砂糖とミルクをコーヒーに注ぎ込んでいた。
「…そんなに入れて大丈夫なのかよ…」
苦笑いしつつ尋ねるも、不機嫌そうに眉間に皺を寄せてムッとした表情のキリマさんに睨まれてしまう。
「別に構わないでしょう」
甘い物とか好きなんです、と言っていかにも甘ったるそうなコーヒーを平然と飲むキリマさん。
俺も自分のコーヒーを口に含む。本当に大丈夫なのかと思い彼女を見据える。糖尿病とかにならないのかな…。
「…飲みます?」
俺の視線に気付いたのか、キリマさんにそう尋ねられた。飲んでみたい気もするけど…どうしよう。
正直 甘い物はそこまで好きじゃないんだよなあ。…と、そんなことを考えながらも好奇心に負けて彼女のコーヒーを一口だけ飲んでみる。
「………」
あまりの甘さに無言になってしまう。想像以上に甘過ぎる、このコーヒー。
「もうほとんど砂糖とミルクの味しかしねぇんだけど」
そう言った後に自分のコーヒーで口直しする。駄目だこれ、マジで甘過ぎるぞ。この人どれだけ砂糖とミルク入れたんだろう。
「ソレは苦くないんですか?」
キリマさんは俺がコーヒーを飲むのを見て尋ねてくる。
「別に苦くねぇけど…」
俺がコップをテーブルに置くと、キリマさんは俺のコーヒーを一口だけ飲む。様子を見ていると、彼女は苦々しい顔をしていた。
「君…よくこんな苦いものが飲めますね」そう言いながらキリマさんは冷蔵庫からショートケーキを出して食べ始めていた。
ケーキを食べる彼女の顔は、どことなく幸せそうな顔をしているように見えた。そんなにこれが苦いのかなぁ、とか考えつつも再びコーヒーを口に含む。
ていうか、ちょっと待てよ。普通にコーヒー飲んだけど、これって間接キスってやつなんじゃ…!!
そういえばずっとキリマさんはフードをかぶっている。何故だろう。
「家なのに、フード取らねぇの?」
彼女の頭を指差しながら聞いてみた。
「ああ、これ。……取ってもいいんですか?」
頭を押さえながら彼女はふふ、と笑う。
「と、取ればいいじゃん…」
意味が分からず言ってみる。
――――パサリ。キリマさんのフードが取られる。そこには耳が生えていた。犬でも猫でも兎でもない。
「お、おま…」
目を見開き思わず立ち上がる。
「はい、私は狼ですよ」
にっこり笑んだその口元に悪意さえ感じる。
「…っ雌狼なんて怖くないぞ!」
そう叫びながらも内心は恐怖でいっぱいだ。
「大丈夫です。君のような可愛い女の子は食べたりしません」
更ににこやかに言ってのけるキリマさん。
「俺は女じゃな…っ!!」
叫ぼうとするとキリマさんに口元を手で塞がれてしまった。
「女の子ですよ。…その証拠に芳しく甘い香りがする」
気付けば直ぐ傍に彼女が居て俺の髪の束を取り品定めするように匂いを嗅いでいる。
「……やめろ!」
彼女の手を振り払い睨み付けた。
不意に頭がぐらぐらする。立っていられない。キリマさんが俺の身体を抱き寄せ微笑んでいる。
「薬が効いてきましたね…」
そんな感じで笑ったキリマさんの口元が見えて俺の意識は失われた。
―――――…ジャラ…
目を覚ますと全く知らない場所に居た。花が沢山置いてある部屋。俺はそんな場所に一つだけあるふかふかなソファに座らされていた。身体を見ると手錠と足枷がされていた。
そうだ、俺は狼女の家に行ってコーヒー飲んで倒れたんだ。コーヒーに何か入れてたのかな。
あいつのこと信用しかけてたのに。いい奴だと思ったのに。そんなことを考えると何だか涙が浮かんでくる。
「どうして泣いているんです?」
部屋に入って来たキリマさんは首を傾げ不思議そうに言う。
「泣いてなんかない」
ぱっと顔を背けると、彼女は傍に来て頬にキスが落とされた。
「目元が赤いですよ」
妖艶に含んだ笑みが俺に向けられる。
「煩い!それより早くこれ外せよ」
じたばたと暴れるものの手錠も足枷も外れない。足枷は片足にしか付いてない為、簡単に外せそうなのに外れなかった。
「外したらクレアは逃げるでしょう?」
一瞬だけ凄く悲しそうな面持ちが俺に向けられた。
そんな顔をされてしまっては何も言い返せなくなってしまう。目を逸らしながらどうしてこんなことになっているのか聞いてみる。
「本当は食べるつもりだったのですが…少々気に入ってしまいましてね。傍に置くことにしました」
あまりに可愛いので、とキリマさん。
「何だよそれ!キリマさん勝手過ぎる」
つい声を荒げてしまう。彼女を睨み訴えた。
「一目惚れです」
そう言った彼女の尻尾はご機嫌なのかゆらゆら揺れている。
「は?惚れ…!?」
呆気に取られ間抜けな声が出てしまう。
キリマさんが俺に惚れた…?惚れる要素なんてあるか?俺は一応女だぞ。可愛らしい訳でもないし。でもこいつに女だってバレてるし。
頭の中でもやもや考えていると、キリマさんが尋ねてきた。
「…逃げませんか?」
逃げないなら手錠だけ外してあげます、とキリマさん。
「に、逃げない」
俯いて小さく答えた。
「嘘つかないで下さい」
俺の顔を両手で掴み上を向かせる。彼女は切なげな瞳で俺を見ていた。綺麗な銀色の瞳。
簡単な嘘なんてすぐに感づかれてしまう。この目に見られたら嘘なんてつけない。逃げ出そうと思っていた意志が揺らぐ。
「…私の前からは皆居なくなってしまうんです」
伏せがちな目で彼女は言う。寂しそうに。彼女は尚も続ける。
「もう…独りは嫌です」
キリマさんは押し殺したような声でそう呟き俺を抱き寄せた。
ふと今居る部屋を見回している。よく見ると植木鉢の花は枯れかけていて、手入れもされていないようだ。
「……手錠、外して」
そう言うと彼女は悲しそうに俺を見ていた。けれど手錠をゆっくりと外してくれる。
そんなキリマさんをぎゅっと抱き締めた。彼女は驚いた様子で動きが止まってしまう。
「手錠外さなきゃ抱き締めらんないだろ」
そう言っておきながら少し恥ずかしくなる。
「…逃げないんですか…?」
震える声で彼女は尋ねる。
「一緒に居てやる」
キツく抱き寄せてみた。どうやらキリマさんは泣いているようだ。
「私、狼ですよ。食べられちゃうかもしれませんよ」
俺の肩に頭を埋めながら彼女は言った。
「そうなったら全力で逃げてやるよ。兎の脚力を侮るな」
ふん、と鼻で笑ってやる。
俺はどうかしてしまったんだろうか。こいつは狼で、いつ食われるか分からないのに。
多分逃げないのは さっきの悲しい顔を見たせい。独りは寂しいもんな。俺も独りは嫌だ。寂し過ぎて耐えられない。
そんな孤独感をキリマさんはずっと抱え込んできたのだろうか。そんなの、悲し過ぎる。周りに誰も居なかったのかな。
「でも逃げない保証は無いので…足枷は付けたままにしておきますね」
にっこりと笑むキリマさん。
「え」
苦笑いして彼女を見る。
「だって放っておいたらクレアは逃げてしまうでしょ?」
足枷に触れながら彼女は言う。
「…俺、家に帰らないと。家族に心配される」
しゃがみ込む彼女を見下ろしながら呟いた。
「でも帰り道が分からないのでしょう?」
キリマさんに図星を突かれる。
「う…」
苦々しい表情をしていると彼女は言った。
「ずっとここに居ればいいのに…」
彼女は俺の足をぐっと掴む。少し痛い。
こんな寂しそうな顔をされては帰る気が失せてしまいそうだ。でも彼女を放っておけない。帰るにも自分の家路が分からない。何で方向音痴なんだ、俺は。
「帰り道が分かるまで一緒に居てやるよ」
ふいと顔を背けながら言ってやる。
「いいんですか…!?」
目を輝かせてキリマさんが尋ねてきた。
帰り道が今分からない以上、どこにも行けない。外に出ても人混みに酔ってしまう。だから少し ほんの少しだけ ここに居させてもらおう。
キリマさんが言ったからじゃない。ただ置いてくれるから居るだけだ。
こうして俺はキリマさんの家でお世話になることになった。