上着
佐吉の縄張りでの辻斬り騒ぎはそれから当分起こることはなかった。
襤褸稲荷は久兵衛と保市が綺麗に草を刈って壊れた社を直して、毎日お参りができる『お稲荷さん』になったようだ。
女はしばらく久兵衛の家に厄介になりながら差配の沙汰を待っていたが、未だに良い返事は貰えてないようだった。
「佐吉さん。」
昼を過ぎた頃、久兵衛と女が控え所にやってきた。佐吉は足を怪我して動けなかったが、一応監督として控え所の奥に座っていた。入り口で長太がふたりを出迎える。
「おときさん、こんにちは。」
女の名前は朱鷺子といった。今は久兵衛の妻の形見だという着物を着ている。そうするとお稲荷でも仙人でもなくて、ふつうの娘に見える。
「こんにちは、長太さん。いいお天気ですね。」
そう言ってふうわりと笑いかけられて、長太は頬を赤らめてにたにた笑う。何故かその光景にいちいち反応してしまう自分がいる。佐吉は眉間に皺が寄るのを押さえられなかった。
「佐吉さん、足の具合はどうですか?」
久兵衛が畳に上がる。おときも続いて上がってくる。後ろでまだ話したがっている長太が眉を下げる。
「ああ、皮を切られたぐらいだって。もうすぐ当て布も取れますから。」
安心させるように笑うとふたりはほっと胸をなでおろしたようだ。赤の他人のはずなのに親子のようにも見える。
「佐吉さん。」
おときの声が名前を呼ぶ。佐吉は壁にもたれていた背をしゃんと伸ばす。おときは風呂敷に包んでいたものを取り出した。
「長いことお借りしていました…。ほつれた所とか直してみたんですけど、わたし、へたくそで…ごめんなさい。」
辻斬り事件の時におときに着せた上着だった。少し縫い目が見えたり、つぎはぎが妙な形をしていたり、渡された上着とおときを交互に見ると、彼女はみるみる顔を赤くした。
「ほんとに、その、恥ずかしいので…」
「いや、その。すまねえな。」
ふたりの様子を微笑ましく見ていた久兵衛だったが、尋ねてきた本題をと佐吉に向き直る。
「以前行っていた差配の件なんですが、上手く行かなくて…。」
「駄目だったのか?」
久兵衛は差配に頼んでおときの住まいを探してもらっていた。だが、おときの出生が分からないことが判明すると、身元がはっきりしないものに家を貸すのは…と渋られたらしいのだ。
「うちの養子にしてやろうとも考えたんですがね、どうもそれも出生がどうのと言われまして…。」
妻がまだ生きていれば上手くとりなしてあげれたのに…と久兵衛はしょげていた。おときは彼の背中をやさしくさすった。
「ごめんなさい、佐吉さん。おじさんは愚痴を聞いてもらいたかっただけなんです。」
「おときさん、でもそれならどうするんですか?」
後ろで話を盗み聞きしていた長太が聞く。
「仙人になろうかな。と思っています。」
買い物に行ってきますと同じ声色で言われて男三人はまず何を言われたか理解できなかった。
「一度言ってしまったことですから、それも悪くないと思って。此処では人も多いですから、山のほうへ登ってお社かお寺でもあれば其処にお世話になろうかと。」
「おとき、馬鹿をいっちゃいけねえよ。」
「そうですよ、出家なんて、早まっちゃいけません。」
久兵衛と長太は声をあげておときを説得するが、佐吉は黙ったままでおときを見た。視線に気付いておときは微笑む。
「みなさん、気付かないふりをしてくれていますけど、わたし…此処の人じゃないんです」
控え所の誰もが口を噤んだ。
「違う時代の…もしかしたら違う世界から…迷い込んできたんです。」
細かい鎖の飾り。そして光る箱。誰も知らないものをおときは持っていた。
久兵衛の家に厄介になっている間も、生活の些細なことも慣れずにいた。
「これ以上係わってしまうのは、お互いの為にやめたほうがいいんじゃないかと思うんです。」
「でもよ、おとき。」
言い募る久兵衛の手をとっておときは首を横に振った。
「嬉しかったんです。何も分からないわたしを大切にしてくれて。だからこそ、これ以上迷惑をかけたくないんです。」
久兵衛の両目から涙が零れた。
「皆さんに見つけてもらうまでの数日はどうにかお社で生きながらえましたから、山に登ってもどうにか数ヶ月は生きられると思うんです。」
「馬鹿いうな。」
佐吉はやっと声をあげた。
「無駄死にさせる為にあんたを見つけたんじゃねえぞ。」
握り締めたのはおときが直した上着だった。
「辻斬りのときもそうだ。死に急ぐような奴に優しくされて、嬉しい奴がいるかよ。」
あのときも運よく目くらましが効いたからよかったものの、失敗する可能性は多大にあった。それでもおときが怯まなかったのはもとより生きながらえるつもりがない事になる。
「死んでおまえは楽かもしれねえが、残されたもんの気持ちも考えろ。」
佐吉に叱られて目を丸くしていたおときだったが隣で泣く久兵衛を見て、その両目から涙が零れ落ちた。
「女房は先に逝っちまうし、わしは子供もいないし…やっと、やっと見つけたおときは…またすぐにいなくなっちまうなんてよ、…そんなのあんまりじゃないかよぉ、お稲荷さんよう…。」
おじさん、ごめんなさい。とか細くささやくおときの声が、いつもの柔らかい声に戻っていたので、佐吉は安心して上着に袖を通した。
おときの持っていたのは携帯電話とストラップのようなものだと思っていただければ…。