遠ざかる背中
帰らなかった年、魂は体から離れはじめた
咲間健一は、毎年お盆になると、必ず母の実家である山間の古い村へと帰った。
父は彼が幼い頃に病で亡くなり、健一は母・美奈子の手一つで育てられた。美奈子は静かな微笑みを浮かべ、決まり文句のようにこう繰り返した。
「故郷には古いしきたりがあるの。毎年お盆に、村の中心の祠に火が灯る。
それを各家が分け、家族の人数分の火を自分の手で持ち帰り、祀るの。だから、必ず帰ってくるのよ」
健一は五十三歳で母を亡くすまで、その約束を一度も違えたことはなかった。ただ内心では、母が寂しさを隠すための方便に過ぎないと思っていた。
照れくさそうに語る母の横顔を、愛おしくも滑稽に感じていた。
母が逝った翌年、健一は五十四歳になった。彼は帰らなかった。もう母はいない。故郷に未練などなかった。
その夜、初めて奇妙な夢を見た。暗闇の中を、彼は誰かの背中を追っていた。男の後ろ姿はぼんやりとしていて、足音もなかった。
目覚めたとき、胸に薄ら寒い汗が残っていた。次の夜も、同じ夢だった。ただ、男との距離が少し離れていた。
三夜目にはさらに遠くなり、健一はようやく気づいた。あれは、自分の後ろ姿だった。
夢の終わり際、柔らかな手が彼の腕を強く引いた。
「毎年お盆には帰るのよ。約束よ」
母の声だった。
健一は息を呑んで目を覚ました。枕は冷たい汗で濡れ、部屋の空気が重く淀んでいた。
彼はそのまま、荷造りもそこそこに村へ向かった。
村は変わっていなかった。古びた家並みと、湿った土の匂い。実家に着くと、仏壇の前に彼の分のろうそくが一本、立てられていた。火はまだ灯っていない。
隣家の老女が、玄関先で待っていた。皺深い顔に、奇妙なほどの切迫した笑みを浮かべている。
「健一さん、はやく火をつけてきなさい。祠の火が、もうすぐ消える」
老女に急かされるまま、健一は村の中心へ急いだ。苔むした石段を上り、古い祠の前に立つと、確かに今にも消えそうな、一筋の青白い炎が揺らめいていた。
彼は自分のろうそくに火を移した。炎は思ったより冷たく、指先に染み込むような感覚があった。
家に戻り、ろうそくを仏壇に安置すると、隣家の老女がゆっくりと語り始めた。
「この村の血筋は、昔から魂と肉体の結びつきが弱いんじゃ。毎年この火を家に迎え、祀らねばならん。
一年以内に、魂が体から離れてしまう。大病を患い、静かに逝くのじゃよ…お母さんから、聞いてなかったのかえ?」
健一の背筋に、冷たいものが走った。母が繰り返していた言葉は、寂しさを誤魔化すためのものではなかった。
彼女は、息子を死から守るために、必死に訴えかけていたのだ。その夜から、奇妙な夢はぴたりと止んだ。
健一は毎年お盆になると、決して欠かさず村へ帰るようになった。
ろうそくに火を灯し、仏壇に置く。青白い炎が揺れるたび、彼は母の冷たい指の感触を思い出す。
そして、時折、ふと思う。
――もしあの年、帰らなかったら。自分の後ろ姿は、今頃どこまで遠ざかっていただろうか、と。
読んで頂き有り難う御座います。




