短編集『シングル父親と双子が気付いたのは、歌のお姉さんでした――秘密の交際0日婚』
短編版です。
夕方のリビングに、いつもの歌が流れていた。
「♪てをつないで、ジャンプジャンプ〜!」
テレビの中で笑顔を振りまく“歌のお姉さん”に向かって、妹の日菜が全力で手を振る。
「みーちゃん、がんばれー!!」
「……毎日飽きないな」
隣で宿題をしながら、兄の梨紅は淡々と呟いた。
「だって可愛いもん!それにね、ひな、将来ああなるの!」
「はいはい」
その様子をキッチンから見守るのが、父・神谷蒼真だった。
35歳、シングルファーザー。
穏やかで優しいが、不器用で——そして何より、“父親”であることを最優先にしてきた男。
恋愛なんて、もう何年もしていない。
(……今日も元気だな)
少しだけ口元を緩めながら、夕食の準備を続ける。
それが、彼の日常だった。
⸻
そんな日常が、ほんの少しだけ変わったのは——
「地域イベントのお知らせ?」
学校から持ち帰ったプリントを、梨紅が机に置いた。
「週末、児童館でイベント。……“特別ゲストあり”だって」
「特別ゲスト!?」
日菜の目が一瞬で輝く。
「……歌のお姉さん、来るかな!?」
「どうだろうな」
蒼真は苦笑した。
けれどその時、胸の奥にほんのわずかな違和感があった。
(……行ってみるか)
そう思った理由は、自分でもよく分からなかった。
⸻
そして、当日。
児童館は子どもたちの笑顔で溢れていた。
ステージの幕が上がる。
「みんなー!こんにちはー!」
その声が響いた瞬間——
日菜が固まった。
「……え」
梨紅も、わずかに目を見開く。
そこに立っていたのは。
テレビの中と同じ、明るい笑顔の——
白石美咲。
“歌のお姉さん”その人だった。
「みーちゃん……?」
日菜の声は、震えていた。
夢の存在が、目の前にいる。
それだけで、世界が変わったようだった。
⸻
イベントは大盛況で終わった。
帰り際。
偶然、いや——必然のように。
蒼真は彼女と出会う。
裏口で、誰もいない場所。
そこで見たのは、ステージの上とは違う顔だった。
「……はぁ」
深く息を吐き、壁に寄りかかる美咲。
その表情は、どこか疲れていて。
けれど、どこか——“普通の女性”だった。
「あの、大丈夫ですか?」
思わず声をかけた蒼真に、彼女は驚いて振り向く。
「えっ……あ、はい!だ、大丈夫です!」
慌てて笑顔を作る。
その“無理な笑顔”を、蒼真は見逃さなかった。
「無理、してますよね」
「……え」
一瞬、時間が止まる。
誰にも言われたことのない言葉だった。
「……やっぱり、分かりますか」
彼女は、ふっと力を抜いた。
「“歌のお姉さん”って、ずっと笑ってないといけないんです」
「でも、本当は……」
そこで言葉を止める。
蒼真は何も言わなかった。
ただ、静かに聞いていた。
それが——彼の優しさだった。
⸻
「……ありがとうございました」
少しだけ、楽になったような顔で美咲は言った。
「こんなふうに話せたの、初めてで」
「いえ」
「でも、困りましたね」
彼女は少しだけ困ったように笑う。
「こんな顔、見られちゃったら……」
その時だった。
「パパー!」
日菜と梨紅が駆け寄ってくる。
「さっきの歌のお姉さん、すごかったね!」
「……あ」
美咲と、子どもたちの視線が重なる。
一瞬の沈黙。
そして——
日菜が、ぽつりと呟いた。
「……みーちゃん?」
バレた。
完全に。
「……あー……えっと」
美咲は固まる。
けれど次の瞬間。
「大丈夫」
梨紅が一歩前に出た。
「僕たち、言わないから」
「え?」
「その代わり」
真っ直ぐに、美咲を見つめる。
「ちゃんと笑っててほしい」
その言葉は、子どもとは思えないほど真剣だった。
美咲の目が、わずかに揺れる。
「……ありがとう」
小さく、そう答えた。
⸻
その日の帰り道。
なぜか——
三人と一人で歩いていた。
「えっと……どうしてこうなったんでしょう」
苦笑する美咲。
「流れで、ですかね」
蒼真も苦笑する。
「みーちゃん、一緒にご飯食べよ!」
「え!?」
「うちのパパ、料理上手なんだよ!」
「お、お世辞はいいから」
そんな会話の中で。
不思議と、距離は縮まっていった。
⸻
食卓。
笑い声。
そして——
「……いいなぁ」
美咲がぽつりと呟いた。
「こういうの」
「家族みたいで」
その言葉に、蒼真の手が止まる。
子どもたちも、静かになる。
しばらくの沈黙。
そして——
「じゃあ、なればいいんじゃないですか」
蒼真は、あまりにも自然に言った。
「……え?」
「家族に」
空気が、止まる。
「俺でよければ」
真っ直ぐな目だった。
不器用で。
でも、嘘のない言葉。
「結婚、しますか」
交際0日。
普通なら、あり得ない言葉。
けれど——
「……いいんですか?」
美咲の声は、震えていた。
「こんな私で」
「“こんな”じゃないです」
蒼真は静かに言う。
「子どもたちが笑ってる」
「それが、答えです」
日菜が笑う。
梨紅も、静かに頷く。
その光景を見て——
美咲は、涙を浮かべた。
「……お願いします」
その一言で。
彼らは、“家族”になった。
⸻
それから数日後。
テレビの中で、今日も彼女は笑っている。
「みんなー!元気ー!?」
けれど——
その笑顔は、少しだけ違っていた。
無理じゃない笑顔。
本当の笑顔。
リビングでは。
日菜が手を振り、梨紅が静かに見守り。
そして——
蒼真が、穏やかに微笑んでいた。
「……おかえり、美咲」
画面越しではなく。
ちゃんと届く場所で。
彼らの“秘密の結婚生活”は、静かに始まった。
⸻
――これは、交際0日から始まった、小さくて温かい家族の物語。
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