忘れ物番の名前を、6年間誰も呼びませんでした
「——えーと」
婚約者のアルベルトが、私の顔を見て首を傾げた。
「メルツ家の……」
「リーネです」
6年間、同じ訂正を11回繰り返した。数えている自分が少し嫌だ。
「ああ、リーネ。そうだ」
アルベルトは安堵したように頷いた。
「——婚約を解消したい。エーデルシュタイン侯爵令嬢と新たな縁談が整った」
宮廷の応接室は静かだった。窓の外で3時の鐘が鳴っている。当番まであと1時間。間に合う。
「承知しました」
「……それだけか?」
「はい」
「泣いたり、しないのか」
「忘れ物番は、受け取りを拒否された品物に泣きません」
アルベルトが何か言いかけた拍子に、カフスボタンが袖口から外れて床を転がった。銀の小さな光が絨毯の上を滑る。
私の手は、考えるより先に動いていた。
しゃがみ、拾い上げ、差し出す。
「忘れ物です」
アルベルトが固まった。婚約を解消する相手に「忘れ物です」と差し出したのは、おそらく宮廷遺留品管理の歴史上、私が初めてだろう。
——記録には残さないでおきます。
◇
宮廷忘れ物番。正式名称は宮廷遺留品管理官。
6年間で忘れ物台帳を93冊書き、返却した品は4271件。覚えている。仕事だから。
帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。
「あら、今日は早かったのね」
「婚約が解消されました」
母はお茶の葉を量る手を止めなかった。
「……そう。お茶、淹れましょうか」
「結構です。明日も当番ですので」
◇
翌日の午後4時。忘れ物窓口の硝子の向こうに、見慣れない男が立っていた。
黒髪、灰色の目。仕立ての良い外套。宮廷でこの品質の仕立てを着る人間は、両手の指で数えられる。
「宮廷監査局の依頼で来た。忘れ物保管庫の現況確認を行いたい。担当官は」
「私です。宮廷遺留品管理官リーネ・フォン・メルツと申します」
「ルーカス・フォン・ヴァイセンベルク」
公爵家の当主だった。公爵が直接保管庫の監査を——と思ったが、口には出さない。上が動くからには、相応の理由があるのだろう。
「かしこまりました。保管庫へのご案内は、品名申告の手続きを経てからとなります。紛失届の書式に——」
「手袋を。中庭の東棟階段に」
台帳をめくる。該当なし。
「申し訳ございません。該当する届出が見当たりません」
そこで、私の視線が止まった。
彼の両手に、手袋があった。左手にも。右手にも。
「ルーカス様」
「なんだ」
「手袋を紛失された、とのことですが」
「ああ」
「——現在、両手に手袋をお持ちです」
公爵は自分の両手を見下ろした。それからまっすぐこちらを見た。耳の先だけが赤い。
「……そうだな」
「忘れ物番の経験則を申し上げますと、手袋の紛失は片方のみが92パーセントです。両方揃えた状態でお届け出いただいたのは、台帳4271件中——初めてです」
「記録しておけ」
「何をでしょうか」
「前例がないということを」
短い。無駄がない。そして——返答になっていない。
監査のためにいらしたのだから、手袋の件は何かの手違いだろう。偉い方には偉い方の事情がある。
番号札を差し出した。
「見つかり次第ご連絡いたします」
◇
翌日も来た。
「忘れ物がある」
「品名をお願いいたします」
「懐炉のカバーを。西棟の回廊に」
該当品なし。そして公爵の外套のポケットには、カバー付きの懐炉。
3日目。
「書類挟みを。図書室に」
「ルーカス様。書類挟みが、お手元の鞄の外ポケットから見えております」
公爵は鞄を見下ろした。確かにある。
「……善処する」
「品名申告は保管庫へのアクセスに必要な手続きですが、実在する品物でお願いいたします」
「了解した。——保管庫の巡回は明日でいいか」
「お待ちしております」
監査の依頼は本物らしい。手袋と懐炉は——まあ、公爵にも手違いはあるのだろう。
◇
「リーネ様、あの方また来ましたよね?」
事務室の奥からテレーゼが顔を出した。忘れ物番見習い。3か月前に配属された、よく笑う子だ。
「はい。保管庫の監査です」
「監査なのに、忘れ物の届出してませんでした?」
「手続き上必要です」
「手続きで手袋を失くすんですか?」
「……台帳に記録しておきます。『見習い、業務外の推測を行う。指導済み』」
「ひどい! でもリーネ様、週に3度届く品物って、もう忘れ物じゃなくて配達ですよね」
「テレーゼ」
「はい」
「配達物の管理は忘れ物番の管轄外です」
「管轄!? 恋の管轄ってあるんですか!?」
「恋という単語は使っておりません」
翌日、ルーカス公爵が保管庫の巡回に来た。
窓口の硝子越しではなく、初めて通用口から中に入る。背が高い。窓口からは分からなかった。
「第1保管庫からご案内します。こちらは直近3か月の届出品です。分類は品目別・日付別・届出者別の3軸で——」
「合理的だ」
「ありがとうございます。ただし、品名申告が不正確な方への対応マニュアルは、いまだ整備できておりません」
「……それは誰のことだ」
「一般論です」
公爵の耳がまた赤くなった。
第3保管庫を巡る。ルーカスは棚の1つ1つを確認しながら、時折台帳と照合する。手つきは意外と丁寧で、ページの角を折らない。
「この棚の品、半年以上引き取りがない」
「はい。持ち主が忘れたまま帰国された外交官の品です」
「帰国先は」
「ルーストヴァルト。書簡で通知済みですが返答がありません。3度送りました」
「3度」
「忘れ物番は、届くまで届けます」
ルーカスが足を止めた。こちらを見ている。灰色の目に、何かの色が混ざった。
「……続けてくれ」
第5、第7と巡った。第7保管庫に入った時、ルーカスの足が止まった。棚の奥を見ている。
「何かございましたか」
「……古い保管品が多いな」
「はい。1年以上引き取り手のない品の終点です」
公爵は何も言わず、棚の奥から視線を外した。
巡回の最後、出口でルーカスが手袋を外した。片方を外套のポケットに入れようとして、落とした。
「ルーカス様」
私は拾い上げて差し出した。
「忘れ物です。——本物の」
「……今のは本当に落とした」
「連日の前科がございますので、真偽の判定が困難です」
「信じろ」
「受取番号をお渡ししましょうか」
「いらない」
少しだけ、口の端が上がった。笑ったのを初めて見た。
「保管庫の管理は問題ない。報告書にはそう書く」
「ありがとうございます」
「だが、週に1度は現況確認に来る」
「かしこまりました」
監査期間がどのくらいなのかは、聞かなかった。
◇
ルーカス公爵の来訪は、その後も週に2度、3度と増えた。
品名申告は相変わらず全て不発だが、保管庫の確認は毎回行う。台帳の照合を手伝うこともあった。
テレーゼが事務室から声をかけた。
「リーネ様」
「何ですか」
「公爵様の品名申告、全部温かいものですよね。手袋、懐炉カバー、ショール、マフラー、膝掛け——」
「偶然です」
「この窓口、北側で寒いですよね」
「6年間、修繕申請を6回却下されています」
「公爵様は知ってるんじゃないですか。窓口が寒いこと」
「……台帳に記録しておきます。『偶然の可能性。結論保留』」
「保留って書いた回数、もう3回目ですよ」
私は台帳を閉じた。
◇
ある日の業務終了後、第7保管庫の棚卸しをしていた。
棚の最奥に、小さな包みがあった。紙は黄ばみ、紐はほどけかけている。台帳番号を確認する。6年前の日付。
品名:子供用の手編みの手袋
届け人:匿名(メルツ家の使用人が預けたと記録あり)
届け先:記載なし
包みを開いた。小さな手袋。薄い水色。指先に、たどたどしい刺繍。
——リーネへ
6年間、ここにあった。忘れ物番のすぐそばにあったのに、忘れ物番にだけ届かなかった忘れ物。
届け先は、私だった。
手袋を包み直した。台帳に1行だけ書く。
「受取人確認済。保管継続」
持って帰る勇気は、まだなかった。
翌日、ルーカスが窓口に来た。品名申告はなし。保管庫の確認もなし。
「メルツ家の使用人に、フリーダという者はいるか」
「台所の下働きにおります。……なぜ」
「監査に必要だ」
それだけ言って、去った。
フリーダ。実家の台所で働く老女だ。私が子供の頃、よく焼き菓子をくれた。監査と何の関係があるのだろう。
◇
次の週、ルーカスは来なかった。
翌週も。
「リーネ様、公爵様いらっしゃいませんね」
「監査期間が終了したのでしょう」
「寂しくないですか」
「窓口は北側ですので」
テレーゼが何か言いかけて、やめた。
窓口は北側にある。冬が近づいていた。隙間風が、前より冷たかった。
◇
第3保管庫の定期棚卸し中に、台帳と実物が合わない棚を見つけた。
台帳上の品名は「骨董花瓶(破損品)」。実物は新品の宝飾品の箱。箱の底に刻印——「ツェラー商会」。先月、宮廷で贈賄疑惑が取り沙汰された商会だ。
搬入記録を遡ると、持ち込んだのは——メルツ伯爵家。
忘れ物保管庫を、贈賄品の隠し場所にしていた。忘れ物番のことは誰も覚えていないから安全だと。
その夜、保管庫で証拠を整理していた。台帳と宝飾品の箱を並べ、搬入日と取引日を照合する。手が止まらなかった。止めたら、考えてしまう。報告すれば、父の爵位は——。
足音がした。
「灯りが見えた」
ルーカスが立っていた。2週間ぶりだった。
「……なぜこちらに」
「保管庫の灯りが消えていない日が続いていると、警備から報告があった」
私は何も言わず、台帳を差し出した。
ルーカスは読んだ。長い沈黙。
「知っていたのですか」
「いや。だが、保管庫に不正使用の形跡がある可能性は——以前から懸念していた」
「それが、監査の理由ですか」
「……理由の1つだ」
私は台帳に目を落とした。
「報告するか」
「忘れ物番の仕事は、届けるべきものを届けることです。事実も——同じです」
「家族より台帳を選ぶのか」
「台帳ではありません」
声が震えそうになった。台帳を握る指に力を込める。
「93冊分の、信用です」
ルーカスの灰色の目が見開かれた。それからゆっくり頷いて——台帳の上に、自分の手袋を片方置いた。
「寒いだろう。使え」
何も言えなかった。手袋は温かかった。
◇
翌朝、監査報告書にありのままを記載した。
報告書が宰相府に届いた日、テレーゼが事務室に飛び込んできた。
「リーネ様! 公爵様の来訪データ、6か月分集計しました!」
「……なぜ集計を」
「気になったからです!」
「それは業務では——」
「いいから聞いてください!」
テレーゼが紙を広げた。
「来訪回数、62回」
「はい」
「該当品の発見数、ゼロ」
「……はい」
「リーネ様の当番日との一致率——100パーセント」
62回中62回。
「偶然の確率はおよそ280万分の1です」
「……言わなくていいです」
「監査だけなら当番日は関係ないですよね?」
その通りだった。保管庫の鍵は当番以外の日でも開く。監査なら誰の当番でも構わない。なのに62回全て、私の当番日。
「280万分の1の偶然で温かいものだけ届ける監査官がいますか?」
台帳を閉じた。左手が震えていた。
◇
ルーカスが窓口に来た。
「報告書を読んだ」
「はい」
「立派な仕事だ」
短い。
「ルーカス様」
「なんだ」
「今日は忘れ物はございませんか」
「……ない」
3歩目で振り返った。
「覚えている」
何を覚えているのかは、言わなかった。
◇
メルツ伯爵の贈賄が確定した。社交界での地位は凍結された。
アルベルトが忘れ物窓口に来た。半年ぶりだった。
「リーネ、婚約を元に戻せないかと——」
「リーネです」
「今リーネと言った」
「はい。6年間で12回目の正解です」
「……婚約を——」
「エーデルシュタイン侯爵令嬢との婚約はいかがなさいましたか」
「先方から……」
「申し訳ございません。一度放棄された届け物の再受付は、規定により承っておりません」
「規定? 何の規定だ」
「忘れ物番の規定です」
アルベルトは何も言えずに去った。
テレーゼが廊下から戻ってきた。
「リーネ様。アルベルト様、廊下の掲示板の前で立ち止まってましたよ」
「掲示板?」
「監査報告書の掲載欄です。リーネ様のお名前が載っているところで、ずっと」
私は窓口の硝子を拭いた。6年間、一度も正しく呼ばれなかった名前が、公文書に残っている。忘れたくても消えない。
◇
ルーカスは、また来なくなった。
監査は終わった。報告書は提出した。不正は摘発された。忘れ物番に用がある人間は、もういない。
辞職届を書いた。
「宮廷遺留品管理官リーネ・フォン・メルツ。本日をもちまして、業務を終了いたします」
理由の欄にはこう書いた。
「届けるべきものは、すべて届けました」
最後の当番日。窓口の硝子を磨き、台帳を整え、保管庫の鍵を揃えた。6年分の忘れ物が棚に並んでいる。引き取り手のない品々。
夕暮れの窓口に、足音が響いた。
「忘れ物を取りに来た」
ルーカスが立っていた。
「……業務は終了いたしましたが」
「業務ではない」
公爵が窓口の台に置いたのは——色褪せた小さな手袋だった。薄い水色。指先に「リーネへ」。
第7保管庫の、あの手袋。
「なぜ——これを」
「監査は、3回目で終わっていた」
短い。いつもと同じだ。
「……では、残りの59回は」
「君だ」
台帳が、手から滑り落ちた。
6年間、一度も落としたことがなかった。4271件の忘れ物を届けてきた手が、初めて自分の持ち物を落とした。
ルーカスが台帳を拾った。窓口の台に、手袋と一緒に置いた。
「第7保管庫の棚で立ち止まったのは、これを見つけたからだ。フリーダに辿り着くのに2か月かかった」
——あの日。棚の奥を見ていた。フリーダの名前を聞いた。
「孤児院の世話役が編んで、メルツ家に届けた。母親が、届けるなと言った」
声は短い。でも、手袋を台に置く指先がかすかに震えていた。この人が震えるのを、初めて見た。
「届けたかった。6年前に届くべきだったものを」
「窓口が寒い」
それだけだった。たった一言で、62回の全部だった。
「辞めると聞いた」
「……はい」
「なら、もう届けなくていい」
公爵の手が、窓口の硝子越しではなく、通用口から直接差し出された。
「隣にいろ」
ルーカスの手は温かかった。手袋の上からでも分かった。
◇
翌日、宰相府から通達が届いた。
「メルツ伯爵家贈賄事件について、端緒となる証拠の発見は宮廷遺留品管理官リーネ・フォン・メルツの定期監査に基づく」
宮廷の公文書に、私の名前が正しく記載されていた。6年間で初めてのことだった。
◇
忘れ物台帳の最終ページ。93冊目の、いちばん最後に、1件だけ書き足した。
品名:リーネ・フォン・メルツ
届け先:確認済
届け人:ルーカス・フォン・ヴァイセンベルク
備考:届け先は、最初から決まっていたようです
台帳を閉じた。窓口の鍵を、後任のテレーゼに渡す。
「リーネ様。公爵様が次に忘れ物をなさったら、どこに届ければいいですか」
少しだけ考えた。
「——もう、忘れません」
外套の内ポケットに、小さな手袋がある。6年遅れの届け物。指先が、温かかった。
【作者から読者様へお願いがあります】
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