水の魔女
「初めまして、九條緋真さん。私は九條澪音。あなたの敵よ」
水玉模様のワンピースに身を包んだ女性は、社交界に招かれたかのように優雅な一礼をする。映像として切り取られたなら、男女問わずその魅力の虜になっただろう。
しかし、この場にいる人間は誰ひとりそんな印象を抱かない。濁流のように溢れる彼女の魔力に抗うので精一杯だから。
”魔”に関わる存在の中でも上位の実力者である瑠愛たち。そんな三人ですら、水の中のような緩慢な動きしかできない。
そこにいるだけで世界を塗り替えるような圧倒的存在感。それが九條澪音という魔女の力だった。
「九條、ですって?」
一番最初に敵対姿勢を見せたのは緋真だ。自分と同じ”九條”という姓に反応する。
「ええ、素敵でしょ?」
緋真の言葉を聞いて、たおやかにほほ笑む澪音。その笑顔を見て、緋真の目が細められる。
「偶然……ではないわよね?」
「ええ、もちろん。あなたもよく知るあの方に頂いたの。
存在する価値のないものばかりの世界で、唯一輝きを放つあの方。あの方のために私は生き残ったのよ。
ああ、ああ、あの方と同じ名を名乗ることが許されるなんて、なんて幸せなことでしょう」
澪音は恍惚とした表情で天を仰ぐ。踊るような舞でうっとりと浸っている。
緋真と会話していながら、その目は彼女を一切見ていない。
「……るな」
そんなことをしていたから、澪音は緋真の小さなつぶやきを聞き逃した。緋真は肩を震わせている。
「あら、何か言った?」
それをどうでもよさそうに確かめる澪音。見逃した広告程度の興味しかない。
その態度がさらに緋真の感情に油を注いだ。
「お前みたいなおぞましい魔女が、誇りある九條の名を騙るな!」
緋真は感情のままに叫ぶ。積み重なる愚弄に耐えられなかった。
奇襲を仕掛けて数多の魔術師を殺し、操ることで尊厳すら踏みにじり、あまつさえ”九條”の名を貶める。緋真にとって澪音の行動は絶対に許せぬものだった。
今すぐここで死んでこれ以上この世界を汚すな。それが緋真の紛うことなき本心だ。
「魔女はいつも身勝手で理不尽なのよ!自分の欲望を満たすために、数多の命を平気で奪って!」
緋真は激情のままに魔力を荒げる。彼女の起こした魔力の暴風は、澪音の粘液のような魔力を押しのけた。
そして、溢れ出る魔力の半分をそのまま刀に流し込む。発動する魔術は先ほどの傀儡との戦いでも見せた、纏雷だ。
しかし、その威力は比較にもならない。先ほどの雷が静電気に見えるほどの膨大な電力を持っている。
『神鳴り』という起源に相応しき雷光と轟音。とても人に向けていい技ではない。
「死んで詫びなさい。それ以上、何も期待しないわ」
しかし、緋真は躊躇なく澪音に突進する。常人なら突風と間違えてしまうような圧倒的速度。
その速さを惜しみなく乗せた神速の一閃は魔女の命すら奪う。――当たれば、の話だが。
「うん、強いね。魔術師という低俗な枠組みの中での話だけど」
澪音は致命の刃をろくに見もせず防いだ。それだけ、彼女は自身の魔法に信を置いていた。
彼女を守る水のヴェール。カーテンのような薄さのそれは、緋真の刃の威力を完全に殺していた。
水は刀を絡み取り、動きを止めている。もう一度振り上げることはできない。
「まだよ」
緋真は一瞬で切り替える。これほどの圧倒的実力差を見せられて、悪あがきをするのだろうか?
否。緋真の行動は破れかぶれではない。
緋真は刀にまとわせていた雷を水に押し流す。ここまで考えての技の選択だ。
水は電気を通す媒体。緋真を守る盾を、逆に電流流れる檻にしてやろうという魂胆だ。
生物に流れたら、感電する前に黒焦げとなる高電流。近くにいる澪音もただでは済まない。
そう思っていた。
「な⁉」
”水”に電流は全く流れなかった。むしろゴムやガラスにでも流しているような大きすぎる抵抗。
九條澪音が作り出した”水”は絶縁体となっていた。
「効くわけないでしょ。私の創り出す水は私の思うまま。電気を通さないなんて造作もないわ」
なんてことないと言いたげに秘密を喋る澪音。それだけ、緋真と澪音には実力の開きがあった。
「しまった⁉」
澪音はそのまま”水”で緋真の腕を絡めとる。あまりの速さと滑らかさに、緋真は一切反応できなかった。
そのまま刀を奪われ、全身を”水”に沈められる。空中に浮かんだ水は、緋真をミノムシのように拘束してしまった。
「あなた……弱いわね。魔術師だから多少甘く見ないといけないけど、技術は稚拙で頭も回らない。本当にあの方の妹?」
澪音は緋真を訝しげな眼で見る。その言葉は煽りではなく、純粋な落胆と失望だった。
「うるさい!あいつのことを話すな!耳が汚れる!」
その言葉に強く反応する緋真。当然、尊敬する人を侮辱された澪音は怒りを露にする。
「うるさいのはあなたよ。頭でも冷やしていなさい」
そう言って緋真の頭も水で覆ってしまう。反論しようとしていた緋真だったが、そのような状態では声を届けることができない。
「ガボッ、ゴボボボッ」
緋真は呼吸で頭がいっぱいになる。最早、緋真は澪音の温情で生かされている捕虜に過ぎない。
「あの方は別にあなたを殺してもいいとおっしゃっていた。だけど、腐っても家族だものね。
あなたは生かしてあの方のもとに連れていく。だから、大人しくしてなさい」
一方的に緋真へ喋りかける澪音。魂魄魔法を使って精神に直接声を送っているから、聞こえないということはない。
肺の空気を”水”に奪われる緋真。彼女にできることなど何一つ残っていなかった。
しかし、これで終わりではない。緋真は一人ではないのだから。
白い柄をした無数のナイフ。それらが一気に澪音を襲う。
緋真の刀同様に”水”を使って簡単に防いでみせる。あっさりと水の中に取り込み無力化してしまった。
そして、やる気なさそうに投げた方向を見やる。
「あら、あなた達まだいたの?私、この子にしか用がないから、もう帰っていいわよ」
澪音の目線の先にいるのは理愛だ。その手元には黄色い魔力光を放つ術式が見える。
物理魔術でナイフを操ったのだろう。しかし、牽制にすらならなかった。
「そういうわけにはいきません。折角掴んだ”魂魄の魔女”への手がかりなんですから」
理愛は新たにナイフを持ち、投げようとしている。それを見て、澪音はあきれた様子を見せる。
「ふ~ん、あなたもあの方に用があるんだ」
澪音もそういう輩は知っている。”魂魄”という属性において”魂魄の魔女”の右に出る者は存在しない。
不遜にもその力を求めて会いに来るのだ。大抵は辿り着く前に傀儡か死体になるが。
「まあ、無駄なことよ。魔術師なんて下等な存在じゃ、私と勝負にならないもの」
理愛を見ながら嘲う澪音。彼女にとって魔術師は見下す対象でしかない。
「だったら、魔女が相手なら勝負になる?」
澪音が言葉を言い終わった瞬間に背後から声がした。こっそり裏に回り込んでいた瑠愛だ。
生命魔法で身体能力を上げて澪音に迫る。手を伸ばし、あと一メートルもないところまで届いた。
しかし、”水”によって防がれる。あと一歩というところで届かない。
魔力のぶつかり合いで瑠愛は弾き飛ばされた。
「ええ、なるわね。というより、あなたたち三人の中で警戒に値するのはあなた一人よ」
澪音は端から緋真も理愛も戦力にカウントしていなかった。魔術師など片手間で殺せてしまう相手だから。
しかし、瑠愛は違う。魔女であり、唯一澪音に届きうる攻撃手段がある。
目先の緋真や理愛よりも、瑠愛の行動に気を配っていた。だから、今の攻撃は不意打ちになっていなかった。
「あなたの魂魄魔法は凄まじい。あの方を除いたら、あれほど上手い魔女なんて見たことないわ」
澪音は瑠愛が傀儡の解除をする瞬間を感じ取っていた。あの傀儡は澪音が遊び半分で作ったものだったから。
緋真の小手調べに遣わしただけだったが、試金石として十分すぎる活躍をした。瑠愛の驚嘆に値する技術を見られたのだから。
あの手から放たれる魔法を絶対に受けてはいけない。魂魄属性を持つ澪音の魂すら、簡単に握りつぶす。
澪音にはその確信があった。体術がギリギリ二流レベルでなかったらと思うと冷や汗が止まらない。
「あなたも捕らえましょう。いい手土産になるわ」
”水”がうねりを上げて瑠愛に襲い掛かる。澪音からすれば錬度が足りない瑠愛の動きは簡単に捉えられる――はずだった。
「捕まらない?」
おかしい。あれだけ遅い動きなのに捕まる様子が全くない。
既に魔法を食らってしまっている?いや、魂魄属性を持つ澪音が予兆を感じることもなく食らったとは考えにくい。
それよりも変に思うことがある。”水”の動きが何故か遅い。
何かされたかもしれない?そう思い至り、おかしな点がないか見渡した。
そこで気づいた。先ほど理愛が投げたナイフの柄が溶けていることに。
ナイフの柄は大抵プラスチックか金属、あるいは木材。水で溶けるわけがない。
「お前、一体何をした」
ナイフを投げた理愛を見てにらむ。殺意にまみれた視線も理愛は柳に風と言わんばかりだ。
「言うわけないでしょう。戦闘中ですよ」
理愛は冷たく返す。種を明かす気はない。
理愛がナイフの柄だと思わせていたのは増粘剤だ。創造魔術で用意したそれを、柄と見紛うほどべったりと塗っていた。
水溶性の増粘剤は”水”の粘性を高め、動きを鈍くした。それが澪音の思い通りになっていない理由だ。
いくら自由にできてもある程度外部の影響は受けると踏んでの策。幸いなことに理愛の考えは当たっていた。
理愛は魔女相手に真っ向勝負をするつもりなど毛頭ない。自分ができるサポートをして、瑠愛を動きやすくすることこそ自分の役割だと理解している。
「ちっ」
澪音は思い通りにならない現状にイラついてしまう。とはいえ、対処法を思いつかないわけではない。
”水”に変なものを混ぜられたことがわかっている。だから、一旦魔法を解除して再創造すればいい。
しかし、それを悩む理由がある。”水”で緋真を捕えていることだ。
解放したその一瞬で逃げられるかもしれない。魔女との戦闘中に再び捕らえるのは面倒だ。
その贅沢な思考が仇となる。すぐさま解除していれば、難なく緋真を連れ帰ることができただろう。
「はぁっ!」
瑠愛が”水”に向かって突進する。澪音はその意図に困惑しつつも、瑠愛を捕えるため”水”を操る。
しかし、突如澪音を襲う悪寒。その元は瑠愛の触れた部分からだ。
瑠愛は”水”に自身の魔力を流し込んでいる。それが毒のように”水”を巡る。
澪音にとって”水”は身体の一部にも等しい。そこに魔力を流されると免疫反応にも近い拒絶が起こる。
とにかくこの異物を吐き出したくて仕方がない。無意識の内に”水”を消してしまった。
「しまった!」
千載一遇のチャンス。それを逃す愚か者はこの戦場にいない。
理愛と瑠愛が同時に動く。それぞれ全く別の意図で。
理愛は澪音への攻撃。”水”という絶対防御が消えた今なら、攻撃が通るかもしれない。
傀儡の身体に大穴を開けた空弾――【穿】。それを弾幕にして放とうとしている。
一方瑠愛は緋真に向けて全力で走っている。魔力の多い瑠愛は直線の短距離走だけなら緋真に迫る速さだ。
”水”があれば両方対処できただろう。
しかし、今消してしまったばかりの”水”を再展開するまでにわずかなラグが発生する。間に合わない。
どちらも対処するのは不可能。片方を”水”以外の魔法で対処。
そう冷静に判断して澪音は選択をした。理愛の攻撃を防ぐために。
(九條緋真を捕えるチャンスはまだある。今ここでダメージをもらう方が問題)
”水”に頼り切りなように見えるが、決してそんなことはない。一芸だけでやっていけるほど、魂魄の魔女の配下は甘くない。
冷静に物理魔法で空気を固めて障壁を作る。魔術は魔法との次元の差であっさり消えた。
しかし、当然ながら瑠愛はフリーになる。緋真を救い出し、そのまま理愛の隣まで移動した。
「大丈夫、九條さん?」
瑠愛が腕の中に抱いた緋真に声をかける。先ほどまで”水”に沈められていたことを懸念して。
「えほっ、えほっ」
緋真は返事の代わりにせき込んで水を吐き出す。命に別状はなさそうだ。
「ええ、やってくれたわね。正直舐めてたわ」
澪音は煮え湯を飲まされたことで雰囲気を変える。舐め切っていた先ほどの空気は消え去った。
瑠愛と理愛は息を呑む。本来の実力差をよくわかっているから。
先ほどまで戦闘の形になっていたのは、澪音が油断して全力の半分も出していなかったから。本気になった彼女に敵うと到底思えない。
「魔女以外はどうでも……待って、あなた人間じゃないの?」
澪音は魔術師への差別発言を繰り返そうとしたところで、違和感を覚えた。理愛の方を見て。
澪音も魂魄属性に適正がある魔女。当然、他人の魂を見ることができる。
敵と認め、まともに観察を始めてようやく気付いた。その異質さに。
「魔術師としての要素はある。でも、人間として要素が……ない。そんな存在、成立するの?」
魔術師というのは本来人間の中のカテゴリだ。魔術師の要素を持つというのは、人間の要素を持つのが前提だ。
なのに、目の前の存在は人間ではない。先ほど魔術を使用していたから、魔術師であるのはほぼ間違いないのに。
「魔女の魂が劣化しすぎて魔術師に見えている?いや、でもまともな思考ができているし……」
人間ではない存在の候補をして、魔女という可能性を考える。悪魔と契約して人間でなくなった魔女ならあり得なくはない。
それにしては魔力が少なすぎるから、澪音は思考から外していた。もし魔術師と見紛うほど魂が劣化していたら、まともな会話が成立していない。
「そうか……創ったのね。限りなく人間に近い存在を」
一つ一つ可能性を潰して、ようやくその可能性にたどり着く。魂魄の魔女の配下としての知見は、彼女を正解へと導いた。
「……初めてですよ。私が何者なのか、当てた方は」
理愛は苦々しい顔をする。当然、正体を言い当てられた現状は歓迎するものではない。
「でしょうね。魂魄属性への適正と深い造詣がないと違和感すら感じないもの。本当、よくそこまで似せたものよ」
澪音は心からの称賛を送る。これほどまでに美しい魔法は見たことがないから。
魔法で魔術師を創る。彼女の知る限り、他に例が存在しない。
そして、今目の前にある魂魄の模倣。”魔”の極致と言われる魂魄を、ほとんど完璧に再現している。
「創ったのは、あなたよね。瑠愛って言ったかしら?」
「……そうだよ。何か、言いたいことでもあるの?」
瑠愛は緊張した面持ちで澪音の顔を見る。一番の秘密がばれてしまった今、何を言われるか怖くて仕方ない。
「私と一緒に魂魄の魔女の配下へ加わりなさい」
澪音はダンスにでも誘うかのように手を差し出す。その言葉に、瑠愛は困惑してしまう。
「えっと?」
「それを創ったのならば、あなたの価値は計り知れない。魔女の中でも上澄み中の上澄み。ほとんどの魔女が至れない領域に立っている」
瑠愛の態度を気にせず、澪音は惜しみない賞賛を送る。希少な宝石でも見つけたかのように。
「あの方に何か頼みたいことがあるのでしょう?便宜を図ってあげるわ。悪い話じゃないと思うけど」
「…………」
瑠愛は澪音の手を見ながら考え込む。割と本気で揺れている。
瑠愛が”魔女の家”に所属したのは魂魄の魔女に近づくためだ。そのチャンスが今目の前に転がっている。
正直、今すぐ手を取りたい。しかし、このまま勢いで話に乗っていいか悩んでいる。
「九條澪音様、でしたか?」
「何、人形ちゃん?あなたには聞いてないんだけど?」
澪音は理愛に冷たい視線を送る。
彼女が今興味を持っているのは、限りなく精巧な魂魄もどきを創った瑠愛。理愛という作品には左程興味がないのだ。
「理愛を人形なんて言わないで。理愛は大事な僕のパートナーなんだから」
瑠愛は澪音の態度に反発をする。自分自身より大事にしている相棒を侮辱されたのだから当然だ。
「失礼。あなたを不快にしたこと、そしてあなたのパートナーに無礼を働いたことは謝るわ」
澪音は丁寧に謝る。瑠愛はそれに不満を覚えながらも、流石に流した。
いまいち状況が掴めないが、敵の態度が軟化しているのだ。これ以上、下手に拘って状況を悪化させたくない。
「それで、一つ提案をよろしいでしょうか?」
「聞いてあげる」
理愛の言葉に澪音はうなずく。理愛も話を聞くべき相手だと判断したのだ。
「ご主人様には冷静になる時間が必要です。少しお待ちいただけないでしょうか?」
あごに手を当てて理愛の言葉を思案する澪音。相手に時間を与えるというのは決してノーリスクではない。彼女たちの所属する”魔女の家”には、無視できない戦力が集まっているのだから。
「どうしても必要なの、瑠愛さん?」
澪音は瑠愛をしっかりと見て問いかける。その視線に委縮しながらも、瑠愛は答えた。
「琴羽さんや朔夜さんにはお世話になってるし。ちょっと覚悟がいるかな」
「……時雨琴羽と時雨朔夜ね」
名前を聞いて、おでこに指をあてる。出てきてほしくない相手の一番と二番だ。
本当なら今すぐ答えさせたい。しかし、憂いのあるままでは、折角の逸材が役に立たなくなるかもしれない。
リスクとメリットを天秤にかけ、熟慮した上で答えを出した。
「二十四時間あげるわ。明日の十八時、ここに来て。良い返事を期待するわ」
そう言って九條澪音は去っていった。瑠愛たちは尾行なんてする気にはなれなかった。