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冷たい蛍光灯の下で

俺はずっと、薄暗いオフィスの隅で毎日を過ごしてきた。

両親は離婚し、父はどこか遠くへ消えた。

残ったのは、母と妹。俺は高校を卒業してすぐ、彼女たちを支えるために働き始めた。


朝の満員電車は息がつまるほど暑くて、汗が全身を包んだ。

終わらない仕事の書類、終わらない上司の怒鳴り声、そして「成果を出せ」という繰り返しの命令。

毎日が重い鉄の扉を押し開くように、苦しくてたまらなかった。


お金が必要だった。家賃、食費、妹の学校代、母の病院代。

手は傷だらけじゃないけど、心はすり減っていった。

誰にも頼れなかったし、頼る余裕もなかった。


「また遅いぞ、拓也。昨日の資料はどうした?」


冷たい声が耳に刺さる。謝りたいけど、言葉はのどで消えた。

数字だけが大切で、俺はただの歯車の一つだった。


朝から夜遅くまで、休憩もままならず、手が震えて止まらない。

誰にも理解されない孤独の中で、自分がわからなくなっていった。


「もうやめたい」


何度も思った。

でも、母と妹の笑顔を思い出すと、ふんばった。

彼女たちのために、壊れるわけにはいかなかった。


体は限界なのに、何も感じなくなっていた。

俺の人生は、いつのまにか矛盾だらけになっていた。


母は昔から強かった。離婚のあと、妹を抱えて必死に働いていた。

だから俺は、負けられなかった。

でも会社の冷たい言葉は、そんな家族の絆を簡単に引き裂いた。


「お前は家族のために働いてるんだろ?」


上司は吐き捨てるように言った。

俺は黙ってうなずいたけど、その言葉の裏にあったのは「お前が犠牲になれ」という命令だった。

いつもそうだ。俺はただの道具。心なんていらない、体だけ動け。

そんな無機質な命令に、疲れた体が震えた。


妹の学校の行事にも、母の誕生日にも、病院の付き添いにも一度も行けなかった。

全部、仕事のせいで犠牲になった。

それでも、帰る場所は家族だけだった。

あの笑顔だけが、俺を支えてくれた。けど、もう限界だった。


「逃げたい」


何度も心の中で叫んだ。

でも逃げる場所はなかった。誰も助けてくれない。

終わらない仕事、責め立てる声に心が押しつぶされそうだった。


ある夜、眠れなくてスマホを見た。

妹の寝顔の写真。母からの励ましのメッセージ。

その温かさに涙がこぼれた。


俺はその涙で、疲れた体を拭った。


明日もまた、この地獄が続く。

だけど、俺はこの家族のために生きなければならない。


蛍光灯の冷たい光が目にチカチカと刺さる。

午前4時13分。ビルの最上階、誰もいない狭いオフィスで、俺は机にうずくまっていた。

目の奥は痛み、指先はひび割れて血がにじんでいるのに気づかなかった。

何度もパソコンのキーを震える手で叩きながら、止まれなかった。

冷たい蛍光灯の光が俺を照らし、空調の音と遠くの車の走る音が静けさを壊していた。


「納期は今日だって言っただろ……」


声にならない声を、俺は小さく漏らした。

誰かに文句を言いたかったけど、ここには俺しかいなかった。

だから自分に言い聞かせるしかなかった。


「どうやってこんな量をやれってんだよ!」


背後の空席に向かって叫んだけど、返事はなかった。

深夜のオフィスの静けさが重くのしかかった。

あの上司の冷たい顔が頭に浮かぶ。俺のことなんて何も考えてない、そんな顔。


「もっと効率的にやれ。言い訳は聞かねぇ。お前の人生なんて関係ねぇ」


その言葉は胸に冷たい刃のように刺さった。


俺の人生はずっとそうだった。


父は消え、母と妹を支えるために何でもやった。

夢は捨てて、ブラック企業の底なし沼に沈んだ。

残業は100時間、120時間、160時間と増え続けた。

時間も心も体も全部、会社に吸い取られていった。

気づけば体の芯が壊れていた。


「……お前のせいだよ、父さん」


つぶやいた。


「いなくなったせいで、全部俺が背負うことになった」


母が泣いた夜、妹が震えた夜。

全部、あの男のせいだと呪いながら、手は止まらなかった。


時計は午前4時57分。納期まであと3時間。

吐き気と頭痛が波のように押し寄せ、胃が痛んでいる。

空腹なんて忘れていた。食べる時間も寝る時間もなかった。

命を削る音だけが深夜のオフィスに響いている。


「納品だけは……終わらせなきゃ……」


汗と涙が混じり、手のひらを伝った。

肩を震わせながら、また仕事に向き合った。


「終わらせなきゃ……」


視界が揺れ、胸が痛み、息が荒くなる。

体は限界を超えても動き続けることを強いられた。

背中が冷たくなり、血の気が引いていく。

それでも止まれない。止められない。

指は震え、パソコンの文字はぼやけて溶けていく。


「……もう、死んでるみたいだ……」


笑った。笑うしかなかった。

締め切りに追われ、生きてる実感もない。

感情も夢も希望も、全部燃え尽きた。


「次に生まれ変わったら……」


空っぽの想いが頭をよぎる。


「誰にも壊されない、そんな自由な人生を送りたい……」


それは死の淵で最後に呟いた、切実な願いだった。


心臓が激しく跳ねた。

冷たい汗が額から流れ、視界は白く霞んだ。

足元がふらつき、机につかまって何とか体を支えた。


「やばい……これ、死ぬかもしれない……」


心の奥で叫びながらも、声は出せなかった。

立ち上がる力も気力も残っていなかった。

蛍光灯の光がにじみ、視界は闇と白に溶けていく。

俺はゆっくり意識を失い、床に倒れ込んだ。


深夜のオフィス。消えゆく意識の中、

ただ蛍光灯の光だけが虚しく揺れていた。

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